デジタル大辞泉
「石井」の意味・読み・例文・類語
いし‐い〔‐ゐ〕【石井】
岩の間のたまり水。まわりを石で囲んだ泉。また、岩石をうがって掘った井戸。
「―に寄りて、手にむすびつつ飲みて」〈更級〉
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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いし‐い‥ゐ【石井】
- 〘 名詞 〙
- ① 岩間からわく水。また、岩石をうがって、水をためてある所。あるいは石で囲って造った井。
- [初出の実例]「志賀の山越えにて、いしゐのもとにて」(出典:古今和歌集(905‐914)離別・四〇四・詞書)
- ② 「いしいりゅう(石井流)」の略。〔東京風俗志(1899‐1902)〕
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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石井
いしいび
[現在地名]大和町大字尼寺字駄市川原
嘉瀬川の洪水防止と多布施川への取水のために、元和年間(一六一五―二四)から寛永年間(一六二四―四四)にかけて一二年間をかけて作った分水施設である。多布施川はそれ以前から城下の用水・下流の灌漑用水・舟運など、城下町経営と農業用水確保に欠かせなかったが、洪水による井関の破損等で用水の確保が困難であった。
明治一三年(一八八〇)の「長崎県より河上川筋等についての問答書」には次の旨が記されている。
石井
いしい
[現在地名]更埴市倉科
倉科村の中央にある。三滝川の水脈の末端に清水が湧出し、小池をなす。村の伝承ではこれが「万葉集」の石井であるという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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石井(町)
いしい
徳島県北東部、名西(みょうざい)郡にある町。吉野川南岸に位置する。1907年(明治40)町制施行。1955年(昭和30)浦庄(うらしょう)、高原(たかはら)、高川原(たかがわら)、藍畑(あいはた)の4村を合併。町の北部は吉野川の沖積地。JR徳島線と国道192号が並行して東西に走る。1971年市街化調整区域に指定され、徳島市のベッドタウン化している。藩政時代からアイの栽培地帯であったが、近年、桑園から水田へと変わり、近郊農業地帯として、ダイコン、ニンニクの産も多い。高川原地区は畜産が盛んで食料品工場も立地する。野鳥の森、地震観測所(京都大学防災研究所地震予知徳島観測所)、徳島県立農業大学校があり、2003年(平成15)には運動施設の充実した飯尾川公園いしいドームが完成した。石井廃寺跡は出土瓦(かわら)などから奈良時代前期の建立とされ、阿波(あわ)国分尼寺跡は国指定史跡、藍商の全盛期がしのばれる田中家住宅は国指定重要文化財となっている。面積28.85平方キロメートル、人口2万4833(2020)。
[高木秀樹]
『『石井町史』(1991・石井町)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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石井[町] (いしい)
徳島県北東部,名西(みようざい)郡の町。人口2万5954(2010)。吉野川下流南岸の氾濫原に位置し,町域のほとんどが沖積低地である。江戸時代から明治前期にかけてアイ作が盛んであったが,のち桑園化され,明治末期の浅名用水の開通とともに水田化が進んだ。近年は稲作,野菜,酪農などを中心とした多角的農業地帯となっている。周辺の酪農地帯を背景に森永乳業,日本ハムなどの工場が立地する。工業は食料品製造業のほか,繊維製品,家具製造業も盛ん。徳島市に隣接し,JR徳島線が通じ,ベッドタウン化が進んでいる。阿波国分尼寺跡(史),童学寺,フジの地福寺,桜間の池,石井廃寺跡などがある。
執筆者:赤池 享一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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石井[町]【いしい】
徳島県北東部,吉野川南岸の低地を占める名西(みょうざい)郡の町。主集落は伊予街道(国道192号線)と徳島線に沿う交通要地。江戸時代から明治前期にかけてアイ栽培の一中心で,のち桑園化と麻名(あさな)用水による水田化が行われた。米作,野菜栽培,酪農・畜産が盛ん。28.85km2。2万5954人(2010)。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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普及版 字通
「石井」の読み・字形・画数・意味
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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