聖徳寺(読み)しようとくじ

日本歴史地名大系 「聖徳寺」の解説

聖徳寺
しようとくじ

[現在地名]中区錦三丁目

七宝山と号し、真宗大谷派。本尊は木造阿弥陀如来。山号は開基閑善が師親鸞から七種の宝物を受けたことに基づく。もと美濃国大浦おおうら(現羽島市)にあったが、木曾川洪水のため寺宇流失、中島郡苅安賀かりやすか(現一宮市)へ移り、いったん大浦へ帰ったのち、永正年中(一五〇四―二一)中島郡冨田とみだ(現尾西市)に転じた(羽島市史)。天文一八年(一五四九)四月、織田信長が当寺で斎藤道三と会った。以後、信長は出陣の際、当寺で軍立ちをしたという(尾張志)


聖徳寺
しようとくじ

[現在地名]長崎市銭座町

天王山法輪院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。慶長年間(一五九六―一六一五)稲佐坊いなさぼう山に念蓮社専誉玄蹟(悟真寺の開基聖誉の法弟)が堂宇を建立したのが前身とされ、山里やまざと村・ふち村で布教、寛永三年(一六二六)帰依する者が増えたので寺基を移転、これを聖徳寺の創建とし、筑後善導ぜんどう(現福岡県久留米市)末となったという。寛文一〇年(一六七〇)三世の一誉が本堂を再建、住持の隠居所称名しようみよう庵など三ヵ庵を建立した。同一二年当寺下の浜辺で「かぶき芝居」を興行、見物人多数であったという(寛宝日記)


聖徳寺
しようとくじ

[現在地名]美山町河内

河内こうちの東部の谷奥にある。真宗高田派。上宮山と号し、本尊阿弥陀如来。「帰鴈記」によれば、相模国の人土屋義則が西妙と号して開基になったという。「朝倉始末記」では土屋義清の子義則が越前に流浪し、その子義種が加戸かど(現福井県三国町)円福えんぷく道場(現本流院)で顕智に帰依して西妙と号し、現在の地に一寺を建立したとする。寺伝によれば、村国むらくに(現同県武生市)に創建され、まつたに(現同県池田町)に移り、さらに現在地に寺基を移したともいう。太子信仰を物語る等身大の聖徳太子立像(県指定文化財)を蔵し、近年この立像を解体修理したところ、胎内から「嘉暦四年三月十三日、願主西妙、大仏師法橋成恵作」の銘文が発見された。


聖徳寺
しようとくじ

[現在地名]加須市上樋遣川

菅垂山唱名院と号し、旧来は浄土宗で上野館林善導ぜんどう寺の末寺であった。現在は単立。本尊は阿弥陀如来。開山は唱名といい、浄土宗藤田派三世持名に師事した僧で、正和四年(一三一五)草創と伝える。三俣龍蔵みつまたりゆうぞう寺の開山教蔵は唱名の弟子である。聖徳寺は創建時にはてら谷戸やどにあったが、文禄年間(一五九二―九六)樋遣川ひやりかわに移り、慶長元年(一五九六)現在の地に定まったと伝えられる。慶安二年(一六四九)一〇月一七日徳川家光より寺領三一石四斗を寄進され(「徳川家光朱印状」聖徳寺文書)、代々安堵された(同文書)。文化八年(一八一一)・明治一九年(一八八六)二度の火災にあい往時の姿をとどめてはいない。


聖徳寺
しようとくじ

[現在地名]北区福徳町二丁目

普門山と号し、天台宗。本尊聖徳太子。もとは円光寺吉祥院といったが、近世、現寺号に改めたという(尾張名所図会)改称の年代は、「寛文覚書」に「円光寺」とあり、「塩尻」に「近世聖徳寺ト改号セシ」とあるので、寛文末年より元禄期(一六八八―一七〇四)頃までの間であろう。改号の理由は、聖徳太子像を祀るからであるという(西春日井郡誌)


聖徳寺
しようとくじ

[現在地名]河内町大多尾

さんノ岳の東麓山腹にある。三嶽山安楽院と号し、天台宗、本尊は聖観音。「国誌」によると寺領は三石。寺伝によれば、推古天皇二年に、聖徳太子が三ノ岳に登山し、供奉した開元坊に命じて寺院を建立させ、開元坊を住持としたという。代々の住職は皆妻帯し、寺領は飽田あきた山本やまもと玉名たまなの三郡にまたがり、菊池家の全盛期には三郡のうち七五町を寄付されたという。


聖徳寺
しようとくじ

[現在地名]熱田区大瀬子町

亀腹山と号し、浄土宗西山派。本尊阿弥陀如来。所在を「尾張名所図会」は須賀すが浦の太子町とする。永禄七年(一五六四)得然了益の創建と伝える。二世等誉が太子堂を造営し、文禄四年(一五九五)に漁師助太夫が海浜で獲得という聖徳太子像を安置し、今の寺号に改めた(旧号不詳)という(徇行記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「聖徳寺」の意味・わかりやすい解説

聖徳寺 (しょうとくじ)

名古屋市中区にある真宗大谷派の寺。七宝山と号する。本尊は阿弥陀如来。親鸞の弟子閑善が,師から七種の宝物を授かって開創したという。最初の寺地は美濃国大浦郷(現,岐阜県羽島市)だったが,そののち尾張中島郡内などを転々として,1638年(寛永15)現在地に移った。また1549年(天文18)織田信長が妻濃姫の父斎藤道三と当寺で最初の会見をして,道三のどぎもをぬいた逸話は有名。以後信長は,出陣の際には当寺で軍立ちをしたという。近世の朱印寺領200石。尾張国の大谷派触頭(ふれがしら)寺院だったこともある。什宝には開基閑善木像,宗祖絵伝など秀品が多い。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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