領域としての南海道は、本州南端の紀伊国、島としての淡路国、阿波・讃岐・伊予・土佐の四つの国からなる四国により構成され、海や山地により他と分断された国々を貫いて官道である南海道の駅路が走る。南海道は小路と規定されており(厩牧令)、阿波国内の二駅には駅馬は各五匹が置かれることになっていた(「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条)。七世紀後半から一〇世紀初頭に至る間、都から延びる駅路の経路には、四国内部に限ってみても変動がしばしば起こっている。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条によれば、淡路国
「続日本紀」養老二年(七一八)五月七日条に「土左国言、公私使直指土左、而其道経伊予国、行程迂遠、山谷険難、但阿波国境、境土相接、往還甚易、請就此国、以為通路、許之」とあり、それまでの讃岐・伊予を経由して土佐へ向かう道に加え、阿波から土佐へ直接向かう経路が土佐国からの訴えにより新設された。この新設経路は紀伊水道沿いに土佐に達したとみなされている。なおこの際それまでの讃岐・伊予経由の道は廃止されず、引続き利用されたと考えられており、
古代における中央の都京と紀伊・淡路・四国を連絡した駅路。七道の一つで、大路の山陽道、中路の東海道・東山道に対して、南海道は小路となっていた。飛鳥京・藤原京・平城京など奈良盆地に都京が置かれていた時期の南海道は、
古代、五畿七道の一として行政上紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐六ヵ国の地域をいうが、また延暦一三年(七九四)の遷都以前は平城京、以後は平安京と前記の国国をつなぐ官道の呼称でもある。「日本書紀」仲哀天皇二年三月一五日条に「天皇、南国を巡狩す」とみえ、南国は南海道をさしていると考えられる。これを初見とし、同書天武天皇一四年九月一五日条は「直広参路真人迹見を南海使者とす」と記す。
官道としての南海道は、はじめ都から土佐の国衙(現南国市)に至るには紀伊の国衙を経て同国
南海道は古代には五畿七道の一つとして行政上の地域を称し、紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐の六国をさした。「日本書紀」天武一四年九月一五日条に「直広参路真人迹見を南海使者とす」とみえる。その範囲は、大化二年(六四六)正月一日の改新の詔により畿内の四至が定められた時、畿内の南限は紀伊
古南海道は南大和から国境の
大宝元年(七〇一)の大宝律令制定で全国交通路は急速に整備されたと考えられる。「続日本紀」同二年正月一〇日条に「始置紀伊国賀駅家」とあって古南海道に
畿内から四国方面に向かう交通路。南海道は古代の行政区画としては五畿七道の一つであり、紀伊国・淡路国と四国諸国(阿波・讃岐・伊予・土佐)の六ヵ国よりなっていた。淡路島は瀬戸内海に浮ぶ最大の島であり、東は大阪湾に面し、西は播磨灘に面している。古来より難波と西海道を結ぶ海上交通の要衝の地であり、風待ち・潮待ちのため大いに利用された。南海道諸国と淡路国の関係をみるに、紀伊国との間には
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
古代の地方行政区画の七道(五畿七道)の一つ。《西宮記》では〈ミナミノミチ〉〈ミナミノウミノミチ〉と読んでいる。畿内の南西に位置し所属国の大部分が瀬戸内海に臨む地域であるため,内海交通の活発とあいまって大和朝廷の時代から重要な地域であった。685年(天武14)に南海使者として路迹見(みちのとみ)派遣のことがみえるので,この道の成立時期は天武朝末年とみられる。《延喜式》では紀伊,淡路,阿波,讃岐,伊予,土佐の6国が所属するが,阿波以下のいわゆる四国と,紀伊,淡路はそれぞれ異なる性格を持っていたようで,719年(養老3)の按察使(あぜち)管国のさい,阿波,讃岐,土佐の3国は伊予守の管轄下に置かれたが,淡路は播磨守の管理下に属し,また721年紀伊は大倭(やまと)守の管理となっている。これは,畿内また山陽道に結びつけにくい紀伊と淡路を,地理上の近接から,もと伊予総領の支配管理していた四国に結びつけたのによろう。なお駅制の官道は小路とされ,各駅に5匹の駅馬をおく規定があるが,水路については規定をみない。
執筆者:亀田 隆之
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古く京畿(けいき)の南方、太平洋に臨む行政区域で、紀伊、淡路、阿波(あわ)、讃岐(さぬき)、伊予、土佐の六か国をさし、その道筋をもいう。『日本書紀』は、仲哀(ちゅうあい)天皇の2年、天皇が「南国」を巡狩(じゅんしゅ)し、紀伊国に到り徳靭津(ところつ)宮(和歌山市新在家(しんざいけ))に居たとし、さらに685年(天武天皇14)六道への使節派遣に際して、路真人迹見(みちのまひととみ)を「南海」への使者にしたと記している。この南国・南海が南海道を意味するか否かは判然としないが、700年(文武天皇4)ごろ七道の制が定まって以降、前記六か国が管轄されるようになった。『延喜式(えんぎしき)』は、紀伊・淡路を近国、阿波・讃岐を中国、伊予・土佐を遠国(おんごく)としている。なお、南海道の道筋は小路(しょうろ)で、各駅には馬五疋(ひき)を定置した。
[丸山雍成]
『『古事類苑 地部一』(1970・吉川弘文館)』
(1)古代の七道の一つ。現在の近畿地方南西部から四国地方にかけての地域で,紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐の各国が所属する行政区分。(2)これらの諸国を結ぶ交通路も南海道と称した。畿内から各国府を順に結ぶ陸路を基本に官道が整備され,紀伊国から淡路国,淡路国から阿波国へは海路で連絡した。駅路としては小路で各駅に5頭の駅馬がおかれる原則であり,「延喜式」では総計22駅に110頭の駅馬をおく規定であった。地方官として731年(天平3)に南海道鎮撫使(ちんぶし),746年にも南海道鎮撫使,761~763年(天平宝字5~7)に南海道節度使を設置した。
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…中央から辺境にのびる道路にそい,適当な間隔で人・馬・車などを常備した施設すなわち駅を置き,駅を伝わって往来する交通・通信の制度。世界史上,前近代に広大な地域を支配する中央集権国家が成立すると,外敵の侵入や国内の反乱に直ちに対処するばあいを含め,支配維持のために中央と地方とを常時連絡する手段が必要となり,さまざまな形態の駅伝が制度として定められるのが一般であった。このように駅伝制はもともと前近代における支配手段の一種であったから,国家の管理下に置かれて民間の自由な利用は許さないのが原則であり,また国家権力の解体とともに衰退していった。…
※「南海道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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