翻訳|Hull
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
イギリス,イングランド北東部,ハンバーサイド州中部(旧ヨークシャーのイースト・ライディング地区)にある港湾・工業都市で州都。正式にはキングストン・アポン・ハルKingston upon Hull(〈ハル河畔の王室荘園〉の意)と呼ぶ。人口24万7900(2003)。ハンバー川のエスチュアリー(三角江)にハル川が流入する地点に位置し,古くから北海のトロール漁業や捕鯨の基地として重要であったが,産業革命以後はヨークシャー工業地域を後背地とする貿易港として発展した。ハル自体も造船,油脂をはじめ,化学,精油,製材などの工業を有する。1160年ごろにはワイク・アポン・ハルという市場町であったが,エドワード1世が13世紀末に新しい都市を建設し,現地名に改めた。大規模な埠頭は18世紀後半から開設され,ハンバー川沿いに拡張されていった。市街はビクトリア女王広場からのびる放射状道路を中心に発達し,イングランド最大級の教区教会であるホーリー・トリニティ教会や,奴隷解放論者のW.ウィルバーフォースが学んだグラマー・スクール,1954年に総合大学となったハル大学などがある。
執筆者:長谷川 孝治
日本音楽の用語。〈張〉とも書く。音高が高くなることに関連して用いられるほか,音量の増大を意味する場合もある。まず謡(うたい)では,中音から上音に上行することをいう。ただし,謡本によっては〈ハル〉ではなく〈上〉と記すものがあり,〈ハル〉を用いる謡本でも,冒頭だけは〈上〉と書く。サシ上音から下行した中音が,普通の上音に上行するときは,とくに本バリと称する。また,クリ音や中音に移行せず,上音を中心に推移する旋律をハリ節と称する立場がある。
三味線音楽では,音高がやや高めである,あるいは高めにすることをハルという。能楽囃子や歌舞伎・長唄囃子の鼓や太鼓でも,空気が乾燥して音が高くなった結果,深味のない音色として感じとられたときに,ハッているという。これらの楽器のハルはメルに対する。三味線音楽でも浄瑠璃には,それとは別にフシの名称としてのハルがある。その概念はかならずしも明確ではないが,三味線の第3弦の開放弦から始まるフシをしばしばハルというほか,ハルウ,ハルフシ,フシハルなどが区別されている。
雅楽では,音高を高くすることをカルといい,ハルの語を音量の増加に対して用いている。
執筆者:蒲生 郷昭
アメリカの政治家。テネシー州オーバートン生れ。1891年カンバーランド大学卒業と同時に弁護士の資格を取得。州議会議員を経て,1907年から連邦下院議員,31年からは連邦上院議員の職にあった。とくに税制問題に手腕を発揮し,1913年に所得税法を立案。33年F.D.ローズベルト大統領から国務長官に任命され,44年病気で辞任するまでその職を務めた。1933年から40年にかけてモンテビデオ,ハバナなどで開催された米州会議に臨み,ラテン・アメリカ諸国との善隣友好政策(善隣政策)を実施し,また関税引下げや互恵通商関係の確立に努力した。日本軍部のアジア侵略に厳しい態度を示したが,日米開戦直前には両国の衝突回避のため野村吉三郎大使と交渉を重ね,ハル・ノートと呼ばれる提案を行った。第2次大戦中は国際連合の実現に尽力し,44年のダンバートン・オークス会議などに出席。〈国際連合の父〉と呼ばれ,45年ノーベル平和賞を受賞した。
執筆者:藤本 博
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1871~1955
アメリカの政治家。民主党員。連邦下院・上院議員をへて,1933年F.D.ローズヴェルト政権の国務長官に就任。同年ロンドン世界経済会議のアメリカ代表,モンテビデオ汎米会議で内政干渉権を否認して中南米に対し善隣外交を推進,互恵通商協定の実現に努めた。第二次世界大戦に際し国際連合の設立に尽力,「国際連合の父」と呼ばれる。45年ノーベル平和賞受賞。
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…彼は40歳のとき,2度目のイタリア旅行でイタリア・ルネサンスの建築家A.パラディオの作品に感激し,イギリスにおけるパラディオ主義の最初の大建築家となった。18世紀前半に,イギリス有数のパトロンで同時に建築家でもあったバーリントン伯が出るに及んで,パラディオ風の古典様式はイギリスに完全に根を下ろした。1666年のロンドン大火は,ジョーンズの晩年に生まれたC.レンの才能を発揮するうえでの大きなチャンスとなり,このとき新築されたセント・ポール大聖堂は彼の代表作となった。…
…グランド・ツアーは,イギリスにおいて,パラディオ主義の流行を促し,また16~18世紀イタリア美術のコレクションの形成に寄与した。たとえば,第3代バーリントン伯爵は,1710年代のグランド・ツアーからの帰国後,建築家のパトロンとして,また自らも設計者としてパラディオ風建築の普及につとめたことが知られる。【鈴木 杜幾子】。…
…イギリスの古典主義建築家,画家,家具デザイナー,造園家。ローマで絵画の修業中出会ったパラディオ主義者バーリントン伯に連れられ,1719年帰国,以後協同して室内装飾と建築設計を始める。対称と比例,重厚な装飾を追求した独自の作風をホーカム・ホール(ノーフォーク,1734着工)やホース・ガーズ(ロンドン,1758)で展開。…
…すなわち古代ローマ建築の構造を重視する簡素なパラディオ主義が復活し,その信奉者イニゴ・ジョーンズへの回帰が企てられた。バーリントン伯の庇護下にコリン・キャンベルは《ウィトルウィウス・ブリタニクス》(1715)第1巻を,W.ケントは《イニゴ・ジョーンズのデザイン》(1727)と銘打った室内デザイン図集を刊行し,これらはイギリスにおけるパラディオ主義の住宅様式の指針となった。しかしこの間,壮麗なイギリス・バロックの頂点ともいうべきブレニム宮殿が完成し,ここに,フランス風の幾何学的庭園術に対して自然の景観を生かしたイギリス式造園法が確立された(庭園)。…
…なかでも,パラディオ没後ベネト地方の建築界に君臨したスカモッツィ,イギリス近世建築の祖イニゴ・ジョーンズらは有名。特殊な例として,1720‐60年ころにかけて,イギリスのバーリントン伯爵の企てた建築界全体のパラディオ化があり,この結果,有産階級がこぞってパラディオ風のカントリー・ハウスを建てた。新古典主義期以後,パラディオ主義はロシアや新大陸にも及び,アメリカ大統領ジェファソン(みずからバージニア大学を設計)のような例もみられる。…
※「ハル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...
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