共同通信ニュース用語解説 「バングラデシュ」の解説
バングラデシュ
ベンガル湾に面した南アジアの国。人口約1億7300万人。英国統治を経て、1971年にパキスタンから独立した。元首は大統領。イスラム教が国教で、人口の約90%が同教徒。豊富で安い労働力を武器に繊維産業が盛んなことで知られる一方、貧困や低開発の問題も抱える。財政は慢性的な赤字で、外国からの援助などで
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翻訳|Bangladesh
ベンガル湾に面した南アジアの国。人口約1億7300万人。英国統治を経て、1971年にパキスタンから独立した。元首は大統領。イスラム教が国教で、人口の約90%が同教徒。豊富で安い労働力を武器に繊維産業が盛んなことで知られる一方、貧困や低開発の問題も抱える。財政は慢性的な赤字で、外国からの援助などで
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基本情報
正式名称=バングラデシュ人民共和国Gaṇa Prajātantrī Bānglādés/People's Republic of Bangladesh
面積=14万7570km2
人口(2011)=1億4232万人
首都=ダッカDacca(ダカDhaka. 日本との時差=-3時間)
主要言語=ベンガル語
通貨=タカTaka
インド亜大陸の東端に位置する〈水と緑の国〉である。ガンガー(ガンジス),ブラフマプトラ,メグナといった大河川の形成するデルタ地帯に広がるバングラデシュは,雨季にはその国土の大部分が水没する。しかし同時に洪水が運んでくる肥沃な土壌は農産物の豊かな産出を約束し,収穫時には国歌(R.タゴール作詞・作曲)に歌われるように〈黄金のベンガル〉が出現する。ムガル帝国時代にはインドの穀倉と称せられた緑豊かな国柄である。ところが,現在バングラデシュは1人当り国内生産高は224ドル(1993年度)で,世界の最貧国の一つに数えられている。1971年多くの犠牲を払って独立を達成してから20年余り,経済状況は多くの困難を抱え,政治的にも安定しているとはいいがたい。国民は狭い国土(北海道の約2倍)にひしめきあいながら,困難な生活を送ることを強いられている。
バングラデシュの地形は洪積台地,新しい沖積平野,東部丘陵に分類される。洪積台地と沖積平野は平野部と総称され,東部丘陵と鋭い対照をなす。国土の90%以上は,いくつかの大河とその支流・分流の沖積作用によって形成された低平地である。
洪積台地は30m以下の緩やかな台地であり,海面の高かった間氷期に形成されたと推定されている古い沖積地である。ヤムナー(ブラフマプトラ)川を挟んで西側に位置するバリンドと東側に位置するマドゥプル地域が洪積台地である。その他の低平地の大部分は新しい沖積層で,現在でも毎年洪水によって肥沃な土壌を供給されている。バングラデシュの農業生産がおもに展開される新しい沖積平野は,水系によってティスタ川流域平野,ガンガー流域平野,メグナ川流域平野,カルナフリ,サングなどの河川がつくるチッタゴン海岸平野に分類される。北ベンガルの山麓平野はティスタ川の沖積地であるが,現在ティスタ川はこの地域を流れていない。ティスタ川流域平野は80kmにつき30mの勾配をもつ点が特色である。ガンガー流域平野は北部の氾濫平野と南部の潮の影響を受ける平野に二分できる。前者のうちクシュティア,ジェッソール地域は,ガンガーの分流に水が流れなくなったため〈瀕死のデルタ〉と呼ばれる。後者は成熟期・活動期のデルタであるが,乾季には海水の流入による塩害が問題になる。海岸線はスンダルバンというジャングル地帯であるが,19世紀以来開墾され,現在ではクルナ県の南部に6000km2にわたって存在するにすぎない。バングラデシュの平野には所々に大陥没地がみられ,農業景観に特色を与えている。東部丘陵は第三紀に形成された褶曲山地で,ほぼ南北に並走する丘陵からなり,ミャンマーのアラカン地方からチッタゴン丘陵地区とチッタゴン県の東部を経て,インドのトリプラ州に至り,その北端はシルヘット県南部に突出している。標高はチッタゴン丘陵地区北部で約500~700mであるが,南部にいくほど高くなり,ミャンマー国境にバングラデシュの最高峰モウドク・ムアルMowdok Mual(1003m)が位置する。
バングラデシュの気候は,東側が湿潤で西側は比較的に乾燥している。地形,気候とも地域的差異が全国的平均値よりも重要である。季節は暦上では6季だが,実際には小雨季(4~5月),雨季(6~10月),乾季(11~3月)の3季に分けられる。気温は小雨季が最も高く,雨季も平均最高気温30℃以上でむし暑く,乾季は温暖で快適である。年間降雨量の約4分の3が雨季に降る。農業生産には総雨量より,3~5月と9~10月の降雨量が重要である。3~5月のカルボイシャキと呼ばれる北西の突風雨と10~11月の巨大熱帯性低気圧(サイクロン)によって,大きな災害がもたらされることがある。
〈ベンガルの国〉を意味するバングラデシュは南アジア諸国のなかでは例外的に〈単一民族・単一言語〉の性格が強い国家である。住民の98%がベンガル人で,その母語であるベンガル語(インド・アーリヤ語族)が国語に定められている。しかし,ベンガル民族の統一国家がバングラデシュというわけではない。インドの西ベンガル州(人口6798万。1991)もベンガル人が圧倒的多数を占める地域だからである(ベンガル)。少数者集団としては,ウルドゥー語を母語とするビハーリー・ムスリムが約40万人と推定され,この他に総数89万7828(1981)を数える諸部族が,チッタゴン丘陵地区やマイメンシンフ県を中心に居住する。宗教別人口(1981)では,ムスリム(イスラム教徒)が7649万で総人口の86.6%を占めて卓越し,これに続くのがヒンドゥー教徒の1057万で12.1%を占める。このほか少数の仏教徒(0.6%),キリスト教徒(0.3%)が存在する。
1947年のインド・パキスタン分離独立により,イスラム教徒が人口の3分の2強を占める東ベンガルは,パキスタンの東翼を形成した。パキスタンの国家的統一の唯一のつながりはイスラムであった。インド・ムスリム文化圏では,東ベンガルは辺境にすぎず,パキスタンの国家運営は西翼,具体的には官僚層を握るパンジャービー・ムスリムを主軸に展開した。48年,中央政府はウルドゥー語を国語にすると言明。同語を解さず,ベンガル語を使用する東ベンガルの住民は,学生を中心にベンガル語国語化運動を展開した。この要求が憲法に明文化された56年まで,ベンガル語国語化運動は東ベンガルの政治運動の焦点であった。58年から69年まで,パキスタンはアユーブ・ハーン大統領の軍政下にあった。この間に,東・西パキスタンの社会経済的格差は拡大,東パキスタンは西の植民地的存在といわれるようになった。東パキスタンの民族運動は,厳しい弾圧と闘いながらパキスタンの民主化を追求する一方,州自治要求を強化していった。民主化運動の高揚のなかで,69年3月アユーブ政権は崩壊。全権はヤヒヤー・ハーン戒厳令総司令官が掌握したが,情勢は総選挙を実施する以外に収拾の道はなかった。70年12月の総選挙で,1949年結党以来東パキスタン自治要求運動の先頭に立ってきたアワミ連盟が,66年3月の〈6項目要求〉を綱領に掲げ,ムジブル・ラーマンの指導下に勝利,国民議会の過半数を制した。ヤヒヤー政権はアワミ連盟内閣の成立を認めるか,従来のパキスタン体制を武力で維持するかの岐路に立たされた。ヤヒヤー政権は71年3月武力弾圧を選択。ただちにアワミ連盟を中心にバングラデシュの独立が宣言され,ゲリラ戦による独立戦争が始まった。臨時政府にはゲリラ戦を長期にわたって支える基盤も力量も欠けていたが,71年12月インドが大量難民の流入を理由に介入,第3次インド・パキスタン戦争が始まり,パキスタン軍の無条件降伏によって,バングラデシュは〈解放〉された。
こうして1971年12月16日,バングラデシュ人民共和国が独立国として発足した。翌年1月,抑留中のパキスタンから帰還し初代首相に就任したムジブル・ラーマンは国家4原則として〈社会主義,民族主義,非宗教主義,民主主義〉を宣言,同年末に発布された憲法に明記された。73年3月には国会議員選挙が行われ,ラーマンの率いるアワミ連盟が圧勝したが,戦争の痛手は深く,インフレ,失業,食糧不足をはじめとする経済的困難は深刻を極めた。ラーマン政権は74年12月に非常事態宣言を公布,75年1月には大統領制をとるなどラーマンに権力を集中して強権的に事態に対処しようとしたが,国際的にはオイル・ショック,国内的には大洪水の影響を受けて物価は急騰した。政府は信頼を失い,加えて汚職やラーマンの身内びいきが命取りとなり,75年8月の軍人によるクーデタでラーマンは殺害された。
その後の流動的な情勢は,75年11月の連続クーデタの結果,陸軍総参謀長ジアウル・ラーマンZiaur Rahman(ジヤウル・ラーマンとも)少将によって収拾された。ジアウル・ラーマンは76年11月には自ら戒厳令総司令官に就任,軍政が定着した。その背景には,密輸,汚職が厳しく摘発され,気候にも恵まれ食糧生産が順調で米価を軸に物価が大幅に下がり,社会生活が安定した事情があった。軍政の登場によって,国家基本原理には重大な変更が加えられた。ジアウル将軍は〈自力更生〉を唱えたが,その方策として社会主義型経済政策から民間資本育成を促進する経済自由化政策への転換を図った。
77年4月,大統領に就任したジアウル・ラーマンは憲法改正を行い,社会主義の原則の名目化を完了するとともに,イスラム色を盛り込み非宗教主義の原則も骨抜きにした。国家4原則のうち2項目はジアウル軍政下で事実上放棄されたが,残る2項目のうち民族主義は否定するわけにはいかない。民主主義は戒厳令下では当然制限を受けたが,長期安定政権を目ざすかぎり,軍政から民政への移行は必要であった。77年12月,ジアウル・ラーマンは政党結成を発表,まず78年6月に大統領選挙を行い,〈安定か混乱か〉のスローガンを掲げて〈民主主義か独裁か〉を問う野党統一候補に圧勝した。78年9月にはバングラデシュ民族党Bangladesh Nationalist Party(BNP)を結成,翌年2月の国民議会選挙に臨み,総議席の3分の2を獲得した。続いて4月には戒厳令が,11月には非常事態が撤廃され,民政への移管が完了した。
民政を実現したジアウル・ラーマン政権が次に取り組まなければならない課題は,物価の安定と経済成長であった。そのため同大統領は景気拡大策を選択し,〈民主平和革命〉を唱導,生産社会基盤のレベルアップを図った。79年12月には食糧生産倍増を目標に〈全国灌漑網建設運動〉,80年2月には〈文盲追放全国運動〉など意欲的な国民動員を試みた。その法制的裏づけとして村落政府(グラム・ショルカル)を設置した。80年7月には第2次五ヵ年計画(1980-85)に着手,食糧自給,人口増加率低下,高い経済成長率の達成を目標に据えた。しかし,政権の支持基盤の一つである軍隊の結束の乱れから,81年5月チッタゴンでクーデタが起こり,ジアウル・ラーマン大統領は暗殺された。反乱軍はすぐ鎮圧され,大統領代行となったサッタルAbdus Sattarが11月の大統領選挙でも勝利したが,82年3月,再び軍がクーデタを起こし,陸軍参謀長エルシャドHossain Mohammad Ershad(1930- )中将が実権を掌握した。
エルシャド政権は基本的にはジアウル・ラーマン路線の焼直しであった。すなわち,軍政から民政への移管がその最大の課題であった。しかし,前政権と比較すると,政府党(ジャティヤ党Jatiya Parti)を主軸に据える民政への移管はスムーズには展開しなかった。農村部に支持基盤をもつアワミ連盟,都市と農村のなかでも農業の商業化が顕著である先進地域(クミッラを中間に二大都市ダッカとチッタゴンを結ぶ地域)に支持層をもつBNPの抵抗が強かったからである。この2党が,政府の干渉を排した公正選挙を要求する学生主体の民主化運動に押されて手を結んだとき,エルシャドは退陣に追い込まれたのである(1991年12月6日)。
エルシャド政権の特徴としては,(1)軍優先の政治,(2)民間部門重視・経済開放政策,(3)開発過程への住民参加(政治的には政権への支持の取りつけを目的とした利権の分配)を促すための地方行政の再編,(4)イスラム国教化,が挙げられよう。軍優先の政治は,学生,インテリ,企業家層の反発を招き,エルシャド政権の命取りとなった。
バングラデシュは人民共和国を名乗るが,その実態は議院内閣制,大統領制,軍独裁制,軍人大統領制の間を激しく揺れ動き,1991年からふたたび議院内閣制に復帰した。民主政治は徐々に定着化へ向っているように思われる。総選挙に際して選挙管理内閣を置く制度に特色がある。国家元首は大統領であり,大統領府を置くが,その存在は儀礼的である。一院制の国民議会(330議席)の選挙で第一党となった政党の党首が,国民議会の指名を受けて首相に就任する。立法府,行政府と並んで,首都ダッカ(ダカ)に設置された最高裁判所を頂点とする司法府が存在する。中央政府の機構は細分化された多数の省からなり,閣内相と閣外相によって担当されるが,有力な閣僚が兼任する場合が多い。
地方行政は政権交替のたびに大きな揺れを示してきた。他の南アジア諸国と同じく,バングラデシュの地方行政は,イギリス植民地時代の地税徴収と治安維持を目的とした機構から,開発を重視した機構へと移行しつつある。問題はこの開発行政の受皿を地方行政のどのレベルに求めるかである。エルシャド政権が推進した準県(ウポジラ)の設置は興味ある試みであったが,カレダ・ジヤ政権によって廃止されてしまった。現在はユニオン(人口は平均2万5000人ほど,20~30村からなる)評議会が末端議決機関を構成するが,ユニオンには事務組織がない。ユニオンを村(集落)と有機的に結びつけ,さらに郡レベルの行政機構とどう連携させるかが課題である。
独立戦争がインドの介入で勝利したため,独立直後はインド・ソ連寄りの外交を取らざるをえなかったが,インド亜大陸の小国バングラデシュが選択すべき方針は中立・全方位外交であろう。インドに対する警戒感の強いバングラデシュの社会は,インド寄りの外交スタンスを好まないが,インドとはガンガーの水量の分配,国境をめぐる人口・物資の移動など,良好な関係を維持することも重要な課題である。シェイク・ハシナ政権は,ファラッカ堰におけるガンガー河水配分協定をインドと結び(1996年12月),外交面では好調な滑り出しをみせている。ミャンマーからの難民の流入や,中東諸国への出稼ぎなど,人口の国際移動が外交を規定している面が多分にある。経済自由化に伴って,経済外交のウェートも高まってきている。
バングラデシュの国軍は,建国以来,国政に介入するケースが多かった。軍が国政に関与した年数は13年に及ぶ。しかし,1991年にエルシャド政権が民主化運動で倒壊して以来,軍は国政への介入をしていない。国軍の構成は陸軍が総兵力10万1000人(1995),歩兵師団7,歩兵旅団14,機甲旅団2,機甲連隊2,砲兵旅団2,工兵旅団1,防空旅団1からなる。海軍はイギリス製フリゲート4隻を主力とし総兵力8000人。空軍は作戦機57機からなり総兵力6500人。ほかにバングラデシュ狙撃部隊など5万5000人からなる準軍隊がある。
バングラデシュの経済は大きく農業部門に依存している。1981/82年の国内総生産(市場価格)の構成は,第1次産業が45.9%,第2次産業は16.1%,第3次産業が38.0%である。農業は第1次産業の主力であり,国内総生産の35.8%を占め,国の経済活動の中心である。米価を中心とする物価の動向が政権の安定と密接に連動してきたこの国では,生活水準の向上も,まず農業生産性の上昇にかかっており,食糧自給態勢確立が最優先課題である。80年7月に着手された第2次五ヵ年計画では,85年までに食糧自給を達成することを目標に掲げたが,実情は1983年に至る過去5年間の食糧輸入は年平均60万tに及び,目標達成にはほど遠い。
バングラデシュの農業生産は3季に分けて行われる。3月から8月,つまり小雨季から雨季にかけては雨季作のアウス(イネの早生種)とジュート栽培が中心である。6月から12月の雨季から乾季にかけては秋作季で,作物はほぼアマン(イネの晩生種)に限られる。10月末から3~4月の乾季は冬作季でありボロ(イネの冬季栽培種)をはじめ栽培される作物の種類は多い。そのほか,おもにシルヘット県の丘陵部のプランテーションで栽培される茶が,輸出品目中5位を占め重要である。ジュートはバングラデシュ地域の代表的な商品作物であり、独立直後にはジュートとジュート製品で総輸出の90%近くを占めていたが,80年代に入って国際需要の低迷と水不足から作付面積,生産量はともに減退し,総輸出額に占める割合も62~63%に低下している。米作は伝統的には栽培期間が長く良質米を産するアマン作が主力であり,早場米のアウス作はアマンと二毛作できることから全面的不作に対する予防の意味で植えられることが多く,ボロ作は乾季でも水の得られる低湿地という特定地域でのみ栽培されている。
パキスタン独立後の米の増産はまず作付面積の拡大によって推進された。作付面積の1940年代の平均は790万ha,50年代には790~890万ha,60年代には850~1030万haに拡大した。68年には高収量品種が導入され〈緑の革命〉が始まった。高収量品種は大量の肥料投入を前提とするものであり,国土の半分あまりが1m以上の冠水をみる雨季よりも,水の確保さえできれば乾季に導入しやすい。事実,揚水ポンプと管井戸tube wellという簡単な灌漑施設の設置に伴い,乾季のボロ作への高収量品種の導入率が圧倒的に高い(1981/82年度70%)。しかし,アマン作とアウス作への導入率は同年度それぞれ16%,15%と低く,在来種も含めたアマン作,アウス作の生産量は停滞ないし微減の傾向を示している。アマン作への高収量改良品種の導入が,米作革新の焦眉の課題である。しかし,雨季に成長するアマン作の場合は,多すぎる水の排水が問題であり,大河川の大規模な治水事業が必要とされ,短期的な解決の見込みはない。当分は井戸灌漑の促進を中心に,高収量品種の導入が試みられよう。乾季作の小麦は食糧自給の一翼を担うことを期待されている。小麦食はもともとベンガルでは一般的でなく,その栽培も無視しうるほどであったが,高収量品種の導入とともに飛躍的に生産を伸ばし,70年代に4倍近い増産を示したが,80年代は年産100万tほどで停滞している。なお81/82年度の米の生産高は1363万tであった。
バングラデシュの工業の国内総生産への寄与率は10%強であるが,80年代に入ってからは停滞ぎみである。この国の主力工業であるジュート製品は,生産レベルが独立前からほとんど変わらず(1969/70年56.1万t,81/82年57.7万t)停滞ぎみである。ことに80年代に入ってからの不振が目だつ。ジュート製品に次いで重要な綿紡織も同様に落込みを示している。1975/76年に独立前の水準を回復した工業は,国内原料を比較的簡単な方法で加工する軽工業を中心に発展してきたが,80年代に入って曲り角を迎えている。国内市場向けの多様な小製品を製造する小規模工業は,生産性は低いが,製造業就業人口の3分の2以上を吸収しており重要である。資源の乏しいバングラデシュであるが,天然ガスの埋蔵量は豊富で順調に増産が続いている。天然ガスは電力,尿素肥料製造にも利用され,前者は総発電量の51%を占め,後者も不況下にもかかわらず着実に生産を伸ばしている。バングラデシュの輸出はジュート製品,原ジュートを主力に,魚,魚加工品,皮革,革製品,茶の順に多く,81/82年の総額は124億タカ,食糧,完成品を中心とする輸入は同年の総額355億タカ,貿易は231億タカと大幅の入超である。バングラデシュの国際収支のバランスは多額の外国援助によって支えられている。第2次五ヵ年計画においても総投資額の41.2%が外国援助をあてにしている。政府は外国援助の抑制を試みているが,当分の間援助依存の状況が続くと思われる。日本はアメリカに次いで多額の援助(累積約10億ドル)を供与し,投入分野は肥料工場,発電施設,港湾,通信,農業にわたっている。
バングラデシュの社会は,おもに農民から構成され,人口の圧倒的多数がムスリムで,開発が進行中の社会といえる。この国の社会をムスリム農民社会と特徴づけたとき,ただちに問題になるのは,ムスリム農民が先祖代々の土地に固執する定着型の農民ではなく,容易に他の職種に移る傾向が強いということである。ヒンドゥー農民とは際だった対照を見せるムスリム農民のこの能動性は,過去には開拓事業に積極的に参画するといったプラスの作用をしたが,農業の持続的展開のためにはマイナスの要因である。こうしたムスリム農民の心性の形成には,少なからずイスラムの教義,ものの考え方,イスラム法(シャリーア)の規定が作用している。唯一・至高の神から個人の運命,能力が個別に付与されると考えるバングラデシュの農民は,個々人が強烈に自己を主張する。そのため,ヒンドゥー教の場合のように家長の権威で家族が統合されにくく,財産の分配や扶養の義務などをめぐって争いが起こりやすい。その結果,青少年が都市に出て,非農業職種に就くことが少なくない。また成人農民も利があれば自分の運を試すべく農業から転出する傾向が強い。したがって,個人史を検討すると非農業職種に就いた経験をもつ農民はかなり多数になる。この国の社会では,農村と都市,農業と非農業が固定的なカテゴリーを形成せず,ダイナミックに連関していることになる。なお女性は男女隔離の原則(パルダ)によって生産活動と対社会的交渉から隔離され,男性によって扶養される権利をもち,独自の生活空間に生きてきた。しかし,最近は縫製産業への女性労働の大量雇用,また村落女性が協同して経済的自立を試みる努力が国際的に注目されるなど,内気で受け身なバングラ女性というイメージでは捉えられない動きが顕著になっている。
農業生産におけるイスラム法の影響をみると,有力父系家族を核とする部落(パラ)の土地は先買権によって拡散が防がれるが,一方,均分相続によって所有地は分散する。この相反するベクトルの危うい均衡のうちにバングラデシュの土地制度が維持されてきたが,現在は加速度をつけた社会変動のもたらす種々の要因によって,均衡は危機に瀕している。限られた土地に膨大な人口圧力がかかっていることから,農家の経営規模は小さい。地域的には西部に比較的規模の大きな農家が存在し,土地の少数者への集中がみられるのに対し,東部では群小の農家が不十分な土地を所有する傾向が強い。こうした状況下では土地の貸借関係が階層を貫いて複雑に結ばれ,単純な貸借契約にとどまらず担保関係をとる場合も多い。いずれにせよ,土地保有の絶対的格差は小さくても,そのわずかな差が大きく問題となるのであって,全体としてみれば農家の5分の1に相当する部分が全農地の4分の3を所有していることになる。この富農層は親族結合や高い教育水準を背景にして派閥の指導者層を形成する。村内には普通いくつかの派閥が存在しているが,それらは富農の政治・社会的実力を軸に,村内の階級関係を貫いて垂直的な構成を示す。国の開発努力が末端に及ぶとき,政権が掌握を試みるのはこの派閥の指導者層である。村に開発資金が投入され,その受皿として協同組合などが結成されると,その資金の分配をめぐって派閥間の争いが激化する傾向がある。開発が及ぶ程度が強い所ほど伝統的な社会秩序の分解が促進され,教育水準が指導者の重要な要件となる。
そこで最後に教育について一瞥することにする。まず非識字率は1995年の推計で61.9%,内訳は男50.6%,女73.9%であって,女性の4分の3が字を知らないことになる。しかし,これを1981年の非識字率70.9%(男60.3%,女82.0%)と比較すれば,かなりの改善がなされたことがわかる。在学率は初等教育段階で79%(1991。男84%,女73%),中等教育段階で19%(男25%,女13%),高等教育段階で3.8%(男3.8%,女1.2%)であり,教育レベルが高くなるほど,女子の在学率が低下するのが認められる。近代的教育体系のほかに,モクトブ,マドラサなどのイスラム学校があり,バングラデシュ社会に影響力を及ぼしている。
→パキスタン
執筆者:臼田 雅之
現在のバングラデシュすなわち東ベンガル地方の美術は,インド東部(西ベンガル地方)のそれと密接な関係のもとに展開し,12世紀までは仏教およびヒンドゥー教美術,それ以後はイスラム美術が主流を占める。仏教の造形活動はグプタ朝時代に始まり,熱心な仏教徒であったパーラ朝(8世紀中期~12世紀中期)の諸王の保護を得て活発化し,インド亜大陸では最も遅くまで続いた。この時期に大乗仏教は民間信仰の影響をうけて密教化し,仏教とヒンドゥー教との習合現象も認められる。ジャイナ教美術も少数ながら行われた。石よりも煉瓦,粘土,木を多用し,沖積層という軟弱な土質のうえに高温多湿で,人工的な破壊もあって,遺構・遺品ともに少ない。北西部のラージシャーヒ県のパハールプルで発掘されたソーマプラ寺はパーラ朝最盛期のダルマパーラ(在位770ころ-810ころ)の創建になり,最末期の仏寺の伽藍配置の典型である。そのストゥーパ基壇を飾っていたテラコッタ製浮彫板はパーラ彫刻の代表作の一つ。その北東方のマハースターンMahāsthānはかつてのプンドラバルダナ国の都であったとされ,その城壁の内外にはグプタ朝時代にさかのぼる遺構が散在し,出土品にはグプタ朝時代の石彫も含まれている。南東部のコミラー市に近いマイナーマティーMaināmatī周辺ではいくつかの仏教寺院址が発掘され,そのうちシャールバン僧院と呼ばれる遺構は,パハールプルのそれよりやや小規模であるが同様の配置になり,やはりテラコッタ板で飾られていた。首都ダッカはかつてはジャハーンギールナガルと呼ばれ,ムガル帝国時代の遺構が多い。それらのうちとくに重要なものは,煉瓦造のバラー・カトラー王宮(1644),1678年に工事が始まったラール・バーグ要塞である。要塞のなかにある1684年に亡くなったパリー・ビービーの廟墓はベンガル地方の石材を用いず,ビハールの黒色玄武岩,チュナール(ワーラーナシー南方)の砂岩,ラージャスターンの白色大理石を用いている。
執筆者:肥塚 隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
インド亜大陸の東端にある国。正称はバングラデシュ人民共和国Gono Projatantri Bangladesh、英語ではPeople's Republic of Bangladesh。東、北、西をインドに囲まれ、南東でミャンマー(ビルマ)に接し、南はベンガル湾に面する。バングラデシュとはベンガル語で「ベンガルの国」を意味し、1971年3月パキスタンから分離、独立した。面積14万3998平方キロメートル、人口1億5850万(2014)。首都はダッカ(ダーカ)。
[桐生 稔]
国土の大半はガンジス川とブラマプトラ川の形成する沖積地帯である。この二大河川は国のほぼ中央で合流して、その南方は大小無数の河川網となってベンガル湾に注ぐ。南東部のチッタゴン丘陵地帯を除いてほとんどが低い平地で、雨期には河川の自然氾濫(はんらん)によって、国土のおよそ5分の2が水没する。全土が亜熱帯性気候で、高温多雨、年平均気温は25~26℃、年降水量は全地域で1600ミリメートルを超え、雨期(5~10月)と乾期(11~4月)に分かれる。
[桐生 稔]
地理的区分は南西部、北部、中央部、南東部の4地域にほぼ大別できる。ブラマプトラ川以西の南西部は低地デルタ地帯で、河口付近はスンダルバンとよばれる低湿地、低木林が広がる。中心都市はクールナで、ほかに鉄道、航空の要衝ジェッソール、港湾都市のチャルナがある。北部は高地乾燥地帯が主で、稲作のほか高地では小麦、タバコなどが栽培される。北東部のシレット付近は、インドのアッサム地方に続く茶の産地である。ほかにラジシャヒ、パブナ、ディナジプールなどの都市がある。中央部はおもに稲作とジュート(黄麻(こうま))の産地で、首都ダッカを中心に、マイメンシン、タンガイル、バリサルなどの都市がある。またダッカ近郊にはナラヤンガンジ、トゥンギなどこの国最大の工業地帯が広がる。南東部は稲作地帯と丘陵で、チッタゴンを中心にコミラ、ノアカリなどの都市がある。チッタゴンには、この国最大の海外貿易港があり、外資企業誘致のために貿易促進工業団地があり、数社の日系企業も進出している。チッタゴン丘陵には唯一の水力発電所があり、チッタゴン以南の沿岸部では漁業が盛んである。
[桐生 稔]
バングラデシュは、もともとインドの西ベンガル州およびアッサム州の平野とともに、ベンガル人の居住する一つの社会・文化圏を構成していた。この地方には、インドがイギリスの植民地となる以前は封建的藩王が割拠し、チッタゴン付近はビルマのアラカン王朝に併合されていた時代もある。1905年にイギリスの分轄統治により、東ベンガル(現、バングラデシュ)、西ベンガルおよびアッサムが行政的に分離され、それ以後、東ベンガルは独自の経済・社会圏を形成するようになった。1947年のインドとパキスタンの分離独立に際して、東ベンガルはイスラム国家パキスタンの東パキスタン州となった。これは、東ベンガルではイスラム教徒とヒンドゥー教徒の割合が6対4(印・パ分離独立時の両教徒の大量移動によって7対3に拡大)であったことによる。
しかし、インドを挟んで1600キロメートルも離れた西パキスタンとは宗教のほかに共通なものはなく、民族、言語、自然条件、生活習慣もまったく異質なものであった。そのうえ、独立後、西パキスタンが政治、軍事、行政、経済のあらゆる面で優位にたち、東パキスタンは西パキスタンの植民地的性格を強いられた。ことに東パキスタンの経済の大半は西パキスタン財閥資本が牛耳(ぎゅうじ)り、主産物で最大の輸出産業であるジュートの加工や貿易も西パキスタン系企業で占められていた。こうした状況に対し、東パキスタンは格差の是正を要求し、やがて自治を要求するようになった。
1966年、東パキスタン最大の政党アワミ連盟は、東パキスタンの民族主義を集大成して自治権拡大を盛り込んだ「6項目要求」を発表、以後アワミ連盟を中心に東パキスタンの民族運動が展開された。1970年12月の総選挙でアワミ連盟が中央議会の過半数を制したが、これを恐れた西パキスタン人の軍事政権(大統領ヤヒヤー・ハーンAgha Muhammad Yahya Khan(1917―1980))は中央議会開会の無期延期を宣言したため、東パキスタンの民族主義運動は一気に独立運動へと発展した。1971年3月アワミ連盟総裁のムジブル・ラーマンは東パキスタンの独立を宣言した。彼はその直後逮捕されたが、地下政府を樹立し、同年12月、インド軍の援助を得て東パキスタン全土を解放し、バングラデシュ人民共和国が発足した。1972年1月、ムジブル・ラーマンがパキスタンから釈放されて初代首相となり、同年12月新憲法を発布、翌1973年3月に新議会が成立した。独立記念日は3月26日。
独立後は、8000万を超える国民の食糧確保と自立への経済建設が重要課題となった。しかし、ジュートのほかには有力な輸出品や産業はなく、年間10億ドルを超える海外からの援助によって国家建設が進められた。それでも年間200万トンの食糧が不足し、物価は上昇するという経済困難が続いた。1974年12月、首相のムジブル・ラーマンは非常事態宣言を発し、翌1975年1月には憲法を改正して議院内閣制を廃止、自ら大統領に就任して独裁体制を敷いた。しかし、政局は安定せず、1975年8月反インド派による軍事クーデターが起こり大統領ムジブル・ラーマンは暗殺された。以後、再三のクーデターにより激動の時期が続いたが、軍参謀総長ジアウル・ラーマンが混乱の収拾に成功した。彼は1977年4月大統領に就任、行政機構の改革、民間投資の奨励などによって経済の回復を図り、食糧自給達成のための農民の集団自助努力政策などを推進した。この結果、経済は安定し、1979年4月には民政移管も実現した。しかし、1981年5月、地方司令官によるクーデター未遂で、大統領ジアウル・ラーマンは暗殺された。さらに、1982年3月には陸軍参謀長エルシャドHussain Muhammad Ershad(1930―2019)によるクーデターが起こった。
エルシャド政権は、その後1986年に戒厳令下で総選挙を実施、新たに政権を樹立した。同年11月には憲法を改正して、軍政を合法化したが、1990年に汚職で摘発されたのを機会に崩壊した。1991年2月に中立的な暫定政権下で総選挙が行われ、バングラデシュ民族主義党(BNP:Bangladesh Nationalist Party)が第一党となり、同党総裁ジアBegum Khaleda Zia(1945― 、ジアウル・ラーマンの妻)が政権についた。
1996年2月、任期満了に伴う第6回総選挙を実施したが、野党アワミ連盟(AL:Bangladesh Awami League)が選挙をボイコットし、選挙の無効を訴え、国内は騒乱状態となった。このため首相ジアは同年3月退陣、4月に選挙管理内閣が発足、6月に第7回総選挙が行われた。その結果アワミ連盟がBNPを30議席上回って政権を奪取、同党総裁ハシナSheikh Hasina(1947― 、初代首相ムジブル・ラーマンの娘)が首相となった。若干親インド的外交路線が強まったが、政策的にはほとんど変わらず、経済自由化については従来の政策を堅持した。しかし、2001年10月に行われた第8回総選挙ではBNPを中心とした四党連合が300議席中214議席を獲得して圧勝、ジアがふたたび首相に返り咲き、両党の対立は深刻さを増していった。BNP政権はその後、イスラム協会(JI:Bangladesh Jamaat-e-Islami)などとの四党連立で、2006年10月の任期満了まで政権を担当した。
その後、憲法に基づき選挙管理内閣が設置され、90日以内の総選挙が実施される予定であったが、選挙をめぐって両党の対立が激しくなり、暴動やテロが各地で起こり、さらには両党党首が汚職や選挙違反を摘発されて逮捕されるなど混乱が続いた。その間選挙管理内閣の主席顧問ファカルッデインFakhruddin Ahmed(1940― )が政権を担当、全国に非常事態宣言を布告し、混乱の収拾に努めた。その結果2008年12月にようやく総選挙が実施され、アワミ連盟が圧勝し、2009年1月にハシナ政権が再組閣された。2014年1月の第10回総選挙では、ハシナ政権が選挙管理内閣を撤廃したことから、BNPをはじめとする野党が選挙をボイコット。結果、アワミ連盟が圧勝し、ハシナが3期目の首相に就任した。
議会は一院制で総議席数は350。軍隊の兵役は志願制で、兵力数は陸軍12万6200、海軍1万6900、空軍1万4000(2014)である。
[桐生 稔]
バングラデシュとして独立後の1970年代の経済構造は稲作を中心とする農業が主体で、就業人口の多数(約80%)が農・漁業に従事し、農業は国内総生産(GDP)の40%近くを占めていた。農業生産の対GDP比が4分の1以下になった現在でも農業・漁業従事数は就業人口の約50%(2010)を占めている。農産物は、米、ジュート、サトウキビ、タバコ、小麦、野菜などである。稲作は作付期が年に3期あり、乾期作のボロ(12~4月)、雨期作のアウス(4~8月)、アモン(8~12月)に分かれ、一般的には二期作、地形によっては三期作も可能である。作付面積比は前記の順序で2対4対7でアモン作がもっとも多い。
ジュート栽培は19世紀前半にイギリスが普及したもので、それまでのこの地域のおもな商品作物は藍(あい)染料の原料となるインジゴであった。しかしヨーロッパでのジュートの需要の増加とともにジュート栽培が増加し、1910年代には東西ベンガルあわせてのジュートの生産量は世界の80%を占めるに至った。しかし、ジュートの世界需要の減少は、とくに1980年代に加速化、それに伴ってジュートの生産・輸出は急減した。市場経済化と対外開放の進展によって、産業・輸出構造は変化し、1990年代に飛躍的に発展した縫製産業が、主要産業になっている。
輸出では1980年代初頭まで60%を占めていたジュートおよびジュート製品は2012年には2.9%に減少、かわって、縫製品(全体の78.6%)、冷凍エビ、皮革製品、天然ガス製品などが増加している。工業では日本の援助による製鋼、化学肥料、化学繊維工業などのほか、1983年以降チッタゴンとダッカ郊外に設立された輸出加工区に、外資系企業が進出、機械部品、縫製品、釣具、靴などが生産されている。労働集約的な工業が発展しつつあり、相対的に農業生産の比率が2007年対GDP比で21.1%と年々低下している。
大小無数の河川があるため陸上交通は未発達で、とくに道路網は主要都市間を結んでいるにすぎず、交通・運輸は今日でも内陸水運に大きく依存している。鉄道は東部と西部で軌道幅が異なり輸送能力は弱い。
2014年の名目GDPは1738億ドル、1人当り国民総所得(GNI)は1080ドルと低いが、2005年以降の経済成長率は6%台を達成している。貿易は輸出額266億ドル、輸入額336億ドル(2013)で、おもな輸出品目は衣料品(縫製品)、魚貝類、ジュート製品、皮革品など、輸入品目は石油製品、繊維製品、機械機器、鉄鋼製品、綿花、穀物類などとなっている。おもな輸出相手国はアメリカ、ドイツ、イギリス、フランス、スペイン、イタリアなど、輸入相手国は中国、インド、シンガポール、日本、韓国などである。
[桐生 稔]
主要民族はベンガル人で全体の98%を占める。ベンガル人は南インドからの北上民族であるドラビダ系とチベット系との混血といわれているが、インド・アーリアンの系統を引く者も少なくない。公用語はベンガル語で、文字はサンスクリット系である。成人の識字率は56.8%(2011)、児童の就学率は72%(2005)と低い。宗教はイスラム教徒が88%を占め、ヒンドゥー教徒は10.5%である。両者の対立関係は根強く、社会不安の要因の一つとなり続けている。また、仏教徒がチッタゴン付近に居住している。この国の最大の社会問題として人口問題がある。人口増加率は年1.98%(2001~2005平均)で、人口の抑制は食糧問題の解決にもつながるとして、積極的に取り組んでいる。2011年には年1.37%にまで低下した。
[桐生 稔]
日本は東パキスタン時代からきわめて友好的な関係をもっており、経済、文化交流もむしろ西パキスタン(現、パキスタン)に比べ密接な関係であった。したがって日本政府は、独立直後に承認し、復興・救済援助を中心に多額の政府開発援助を供与、その後も年平均2億ドルの援助を継続している。
この国には東パキスタン時代から日本の援助は大きな役割を果たしており、独立以前にも化学肥料工場、火力・水力発電所、橋梁(きょうりょう)建設、レーヨン工場、農業灌漑(かんがい)施設などを建設した。独立後も、食糧援助、農業関連施設、インフラ施設など多くの援助を行い、1980、1990年代には日本の援助供与国別の金額ではつねにトップ10に入っていた。また、多くの非政府組織(NGO)の活動もあり、農業改善、人口計画、生活改善などに役割を果たしている。両国の貿易関係は、日本の輸出超過が続いているが、バングラデシュからの日本への輸出は縫製品、ニット製品、冷凍エビなどに限られ、日本からは自動車、各種機械、化学製品など工業製品が多い。民間企業の進出は、徐々に増えているが、1990年代に本格化した輸出加工区を中心に労働集約型中小企業に限られており、東南アジア諸国への進出に比べ緩慢である。地理的・自然条件に優位性が低いこともあるが、とくに2000年以降の政治的混乱が影響している。
外交関係には特別な課題はないが、基本的には友好関係が続いており両国の閣僚級訪問も随時行われている。なお、経済関係では「日本・バングラデシュ経済協力委員会」が設置されており、定期的に合同会議をもち、経済協力関係促進について協議されている。
[桐生 稔]
『桐生稔著『バングラデシュ――インド亜大陸の夜明け』(1972・時事通信社)』▽『松井透・佐藤宏著『バングラデシュ米作の地域構造』(1986・アジア経済研究所)』▽『佐藤宏著『バングラデシュ――低開発の政治構造』(1990・アジア経済研究所)』▽『辛島昇他監修『南アジアを知る事典 新訂増補』(2002・平凡社)』▽『日下部達哉著『バングラデシュ農村の初等教育制度受容』(2007・東信堂)』▽『外川昌彦著『聖者たちの国へ――ベンガルの宗教文化誌』(2008・日本放送協会)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ガンジス,ブラフマプトラ川などが形成するデルタ地域の国。首都ダカ(ダッカ)。ベンガル人が98%,ムスリムが85%を占める(1997年)。1971年に旧東パキスタンが独立しバングラデシュとなる。90年代に至るまで政情は安定せず,アワミ連盟総裁で独立の父ムジブル・ラフマン首相(75年に大統領)は75年のクーデタで殺害され,事態を収拾して77年に大統領になったジヤウル・ラフマンも81年に軍の一部の反乱で殺害された。82年にもクーデタがありエルシャド陸軍参謀長が実権を握ったが,民主化運動に押されて90年には退陣し,議会制が実質的に復活した。91年の選挙ではバングラデシュ民族主義党が,96年の選挙ではアワミ連盟が政権についた。農業が主要産業であるが,毎年洪水に悩まされる世界の最貧国の一つ。外国経済援助への依存度が大きい。輸出品目としてはジュートなどが伝統的に有名だが,近年既製服の輸出がめざましい。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…12月16日,パキスタン軍は無条件降伏し,互角で戦った西部戦線でもパキスタンは停戦を認めた。第3次印パ戦争は,前2回の戦争と異なり,東パキスタンを焦点とするもので,東パキスタンが西パキスタンから分離しバングラデシュとして独立する契機となった。【清水 学】。…
※「バングラデシュ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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