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イタリアの物理学者。ローマの生れ。当地の公立学校で伝統的な教育をうける一方,独学によって数学や物理学を学び始める。高等学校卒業後は,給費生となってピサ大学付属の高等師範学校で物理学を修め,1922年にピサ大学で学位を取得後,ローマに戻った。奨学金をうけて,ゲッティンゲンのM.ボルンやライデンのP.エーレンフェストのもとで短期間研究し,帰国後はフィレンツェで講師となった。26年には,パウリの原理に従う粒子,すなわちスピンが半整数の粒子に適用できる統計(フェルミ統計)を提出して理論物理学者として認められる一方,27年にO.M.コルビーノの尽力によってローマ大学に設置されたイタリア最初の理論物理学教授の職についた。また勃興しはじめた原子核物理学にも関心を寄せ,最初はスペクトルの超微細構造の研究や核磁気モーメントの理論的研究を行い,29年ころからは実験的研究も開始した。
33年に,ソルベー会議に参加した後,中性微子(ニュートリノ)の存在を仮定したβ崩壊の理論を提出し,弱い相互作用の理論からフェルミ演算子を第2量子化する研究を行った。また同時に,フランスのジョリオ・キュリー夫妻の人工放射能の発見を契機として,中性子源としてベリリウム金属とラドンガスを封入した小瓶を用い,一方の検出装置としては旧式のガイガー=ミュラー計数管を用いるという簡素な実験装置によって,利用可能な元素の系統的な中性子照射実験を開始した。その結果,原子核が中性子nを吸収し,α粒子を放出して別の原子核に変わる核反応(n,α)をはじめ,(n,p),(n,γ)の核反応(pは陽子,γはγ線)を生成したほかに,35年には人工放射能の生成に,減速された中性子がより有効であることを発見,その理論的解明も試みた。またウランへの中性子照射によって超ウラン元素が生成されたと考えられてもいた。こうした一連の研究によって,38年にノーベル物理学賞を受賞。中性子を照射されたウランの複雑な挙動は,フランスのI.ジョリオ・キュリーやドイツのO.ハーンらの研究を刺激し,ついには原子核分裂の発見に導いた。ノーベル賞受賞の後,ムッソリーニのファシズムによる圧迫を逃れて,一家でニューヨークに移住し,コロンビア大学教授となった。ハーンらのウラン核分裂発見の後,直ちに,核分裂の連鎖反応についての研究を開始,この研究はその後アメリカの原爆製造計画に組み込まれ,42年12月2日,シカゴにおいて天然ウランと黒鉛のパイルが臨界に達し,その実験的実証がなされた。44年9月から46年初期まで,ロス・アラモスの原爆製造研究所で働くなど,原爆製造計画に多大な影響を与えた。戦後は46年にシカゴ大学に原子核研究所が設立されると,そこの教授となり,素粒子論の研究を行う一方で,多数の若い研究者を養成した。
執筆者:日野川 静枝
長さの単位の一つで10⁻15mに等しい。すなわち,10⁻15を表す接頭語フェムト(記号f)を用いて表すと,1フェルミ=1fmである。この単位は,素粒子,原子核に関連した長さを表すのに用いられるもので,E.フェルミにちなんで名付けられた。湯川秀樹の名にちなんでユカワとも呼ばれる。
執筆者:山下 幹雄
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イタリアの物理学者.ピサ大学で学位を取得.1926年パウリの排他原理にもとづく“フェルミ統計”とよばれる量子力学の統計理論を提出し,ローマ大学の理論物理学教授のポストを得た.やがて新分野である原子核物理学の研究に関心をもち,1934年パウリの仮説を発展させ,中性子が陽子にかわるとき,ニュートリノとともに電子を放出するというβ崩壊の現象を説明する“弱い相互作用”に関する理論を提起し,湯川秀樹の核力を説明する中間子理論の基礎をつくった.また,M. and P. Curie(キュリー)夫妻のα線照射による人工放射能の発見に触発され,パラフィンや水で減速させた中性子をさまざまな元素に照射し,人工放射性元素をつくる実験を行った.これらの研究により,1938年ノーベル物理学賞を受賞.授賞式後,ファシズム政権の圧迫を避けるためそのままアメリカに移り,コロンビア大学教授となる.第二次世界大戦中,原爆計画に参加し,黒鉛炉によるウランの核分裂連鎖反応の臨界に成功した(1942年).また,ロスアラモス研究所で原爆の製造に携わった.戦後は,シカゴ大学原子核研究所教授として活躍した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1901~54
イタリア生まれの物理学者。中性子の各種原子核衝撃による原子核反応を実験して,1938年ノーベル賞を受けた。その年アメリカに亡命し,原爆製造を進言,指導して,42年ウラニウム連鎖反応に成功した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…33年ジョリオ・キュリー夫妻は,α粒子を用いた核反応によって,放射能をもつ同位体(放射性同位体)を初めて人工的につくり出し,これにより,当時入手しにくく高価でもあった,ラジウムに代わることのできる放射性物質を人工的な方法で得る道が開かれた。続いて34年,E.フェルミはα粒子よりも中性子のほうが核反応を起こさせるのに有効であることを予見し,あらゆる元素に中性子を照射して,非常に多くの新しい人工放射性元素をつくり出すのに成功した。この方法は人工放射性同位体の実用的な製法としても優れており,事実,原子炉の中でおおいに利用されている。…
…しかし実際に動力としての利用が可能になったのは,核分裂の際に1個以上の中性子が放出されるためである。E.フェルミは1個のウラン核の分裂で平均2.5個の中性子が放出されることを確かめ,それらの中性子がまわりのウランを核分裂させれば連鎖的に反応が持続しうることを指摘した。そしてフェルミの指導のもとにシカゴ大学につくられた最初の原子炉で,42年12月核分裂の連鎖反応が初めて成功し,原子力利用の第1歩が踏み出された。…
…しかし,同時に,ウランが中性子を吸収すると,これとはまったく異なる反応も起きることが発見された。1934年,E.フェルミはウランの原子核に中性子を当てると新しく放射性物質が生成されることに気づいた。1939年,O.ハーンらは,新しくできる放射性物質の元素を詳しく分析し,この現象はウランの原子核が分裂したと考えざるをえないことを発表した。…
…原子炉のうち,その核分裂の連鎖反応が主として高速中性子により引き起こされるものであって,連鎖反応により消滅する核分裂性物質よりもその過程で転換により生成する核分裂性物質のほうが多いものをいう。高速増殖炉の可能性は,マンハッタン計画のなかでE.フェルミやジンWalter H.Zinnらにより指摘され,1946年ころからジンによって計画された増殖実験炉EBR‐Iは51年に完成した。この原子炉は235U燃料を238Uのブランケットで囲んだ炉心を液体金属NaK(ナク)(ナトリウムとカリウムの合金)で冷却しているもので,世界で初めての高速増殖炉であると同時に世界で初めて原子力発電を行った炉でもある。…
…しかし彼らはスピンを考慮しなかったので電子には適用できず,後にπ中間子の理論に用いられることになった。 34年E.フェルミはβ崩壊の理論で,電子,中性微子(ニュートリノ)の場を導入し,それらが生成,放出される機構を明らかにした。ここに用いられた相互作用はフェルミ型相互作用と呼ばれるもので,場の相互作用を初めて実際問題に適用したものである。…
※「フェルミ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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