価値とは,〈主体の欲求をみたす,客体の性能〉である。すなわち価値とは,第1に,人々の欲求に最終的な基礎をおくものであって,なんらかの神秘的なもの,超経験的なもののうちに基礎をもつものではない。ただし〈欲求〉とは,道徳的,芸術的,宗教的,社会的欲求をふくむあらゆる分野において,あるものを“のぞましい”とする傾向のすべてである。第2に価値とは,このように主体の欲求の相関概念であって,対象自体に内在しているものではない。〈猫に小判〉というように,小判を欲求する主体が世界から消滅すれば,小判自体に価値はない。オリュンポスの神々を信仰する主体が1人も存在しなくなれば,その神々の宗教的な価値もまた存在しえない。第3に,にもかかわらず価値は主体の属性ではなく,“客体の側の”属性である。メロンの価値は少年の食欲や画家の絵心等々に起因しているが,価値自体は人間たちでなくメロンの側の属性として付着する。第4に,けれども価値とは客体それ自体でなく,客体の〈属性〉(性能,性質)である。メロンは“価値である”わけではない。“価値をもつ”のである。すなわち価値とは〈のぞましきもの〉ではなく,〈のぞましさ〉(その程度)である。
ある主体がある客体の価値を判断する場合,その主体が〈価値主体〉,その客体が〈価値客体〉,その判断が〈価値判断〉であることはいうまでもない。個々の価値主体は,世界の中の数多くの価値客体について,それぞれの価値判断を下す。また逆に,個々の価値客体は,数多くの価値主体によって,それぞれの価値判断を下される。個々の主体の,多くの客体に対する価値判断の総体が,その主体の〈価値意識〉である。また逆に,個々の客体が,多くの主体によって下される価値判断の総体が,その客体の〈社会的価値social value〉である。価値判断の根拠となるのは〈価値の基準〉および〈価値の準拠〉である。〈価値の基準〉とは,個々の価値判断の底にある,一般的な尺度(ものさし)である。ある人は快楽を基準として(快・苦の尺度で)ものごとを判断する。ある人は利益を基準に(利・害の尺度で)判断し,ある人は正義を基準に(正・邪の尺度で)ものごとを判断するだろう。このときの〈快・苦〉や〈利・害〉や〈正・邪〉が,〈価値の基準〉の例である。〈価値の準拠〉とは,価値判断のよりどころである。ある人は伝統や慣例をもとに,ある人は自己の内部の信念をもとに,ある人は他者の評判や流行などをもとに価値判断をおこなうだろう。このときの〈伝統や慣例〉〈内部の信念〉〈他者の評判〉などが,〈価値の準拠〉の例である。
→価値哲学
執筆者:見田 宗介
経済学の歴史において〈価値〉の概念はきわめて重要な意味を担ってきた。そうなった理由のうちで最も大きなものは,経済学が自然法という規範的思考とふかくかかわっていたという点にある。価値とは“あるべきought to be”状態を示すための一つの指標なのである。実際,価値の概念はスコラ哲学や功利主義哲学における自然法的な思想を背景にして発展してきたのである。経済的価値の概念もまた,G.ミュルダールが《経済学説の発展における政治的要素》(1953)において綿密に検討したように,自然法の影響のもとに彫琢されてきたものである。しかし自然法的な思想は,事実判断と価値判断とを混同させているという意味で,後者から自由であろうとする科学にとって,障害になりやすい。自然法的な思想を否定してかかる場合には,経済学にとって価値の概念が必要かどうか,大いに疑わしいところである。あるいは,価値概念を維持しつづけようとするならば,その根拠を自然法以外のところに求めなければならない。このような事由のために,少なくとも近代経済学の正統派にあっては,価値の概念は理論体系からしだいに排除される傾向にある。
あたかも神の摂理のごとくにはたらく自然の法という想念を経済学は受け入れてきたのであるが,このことは二つの重要な帰結を経済学にもたらした。一つは,経済過程が基本的には人為の及ばぬ法則的過程であるとみなすこと,二つに,財産などの経済的分配に関する権原が人間の恣意をはなれて定められているとみなすことである。つまり,経済的価値によって律せられる経済法則という想定のうちには,自然科学的な意味における規則性と道徳論的な意味における正統性とが含意されていたのである。このようなものとしての経済法則が経済過程において完全なかたちで現象すると考えられていたのではない。経済法則は顕在せる経済現象を潜在的あるいは本質的に貫徹するものだとみなされていた。したがって経済的価値もまた,厳密には観察可能なものではなく,むしろ観察された現象を論理的および規範的に秩序づけるための理念というべきものである。容易に推測しうるように,このような理念は,しばしば,形而上的さらには神秘主義的な思念にまで高められてしまう。経済学の正統派が価値概念を遠ざけるよう努力してきたのは,科学であろうとするかぎり,当然といえよう。
経済現象に即していうと,価値は価格変動を統御するいわば重心のようなものだとみなされてきた。時々刻々に変化する価格の世界が,つまり市場機構が,なんらか安定した制度として社会の中枢に存続しうるのは何故か,という疑問に答えるために,価格変動を究極において従わせるものとしての価値法則の存在を想定したということである。価値は価格にとって内面的inherentもしくは内在的intrinsicであるとされたのである。このいわゆる真実価値real valueの根拠を定めるのが,A.スミスからA.マーシャルにいたる古典派および新古典派の価値論における一つの重要な仕事であった。注意しなければならないのは,このような価値と価格との密接な連関のために,両者がしばしば混同されるということである。とくに近代経済学においては,価格決定の理論をもって価値論と呼ぶことがまれではない。この場合,たとえば市場均衡におけるように理想的に決定された価格がとりもなおさず価値だとみなされているわけである。
このことを端的に示すのがA.スミスの自然価格natural priceの概念である。これは自然状態にある価格をもって価値とみなす仕方であり,価値と価格とは概念的に同次元にある。A.マーシャルらによる正常価格normal priceの概念はこのことをよりはっきりと示しており,その場合,正常価格に等置される価値はたとえば長期平均価格とほとんど区別しえぬものである。このような傾向の対極にあって,D.リカードを経てK.マルクスにいたる系譜の経済学は価値論を価格論とは異なった概念の次元に組み立てようとする。したがって,今日,価値論が独特の重要性をもって議論されているのはマルクス派においてだといってよい。
価値には,財・サービスの使用者にとっての価値つまり使用価値value in use(Gebrauchswert)と,それらの取引者にとっての価値つまり交換価値value in exchange(Tauschwert)との二面性がある。このことはすでにアリストテレスによって明らかにされていたことであるが,スミスやリカードはそれをより明示的にとらえた。マルクスはそれに一層の哲学的吟味を加えて,使用価値は人間労働の具体的・有用的労働の側面によってうみだされ,そして交換価値はその抽象的・人間的労働の側面によってうみだされるとしたのである。要するに,使用価値の面では互いに異化されている別種の諸商品が取引されるのは,しかも等価交換という認識のもとにすすんで取引されるのは,それらが交換価値の面で同化されているからだとみなされたのである。いうまでもなく,経済学の関心は交換価値のほうにおかれている。つまり,諸商品のあいだの相対価格を潜在的あるいは本質的に規定するものとしての交換価値を分析するのが経済学の価値論である。
価値の源泉は労働にありという論点を経済学的に明白にしたのはスミスである。彼の以前にもたとえばJ.ロックが労働価値説を提示していたが,それはまだ社会哲学的な仮説にとどまっていたのであり,経済学的な仮説として労働価値説を明らかにしたのはスミスだといえる。しかしスミスにあっても,価値の源泉についていくつか異なった解釈が混ざりあったままである。その第1のものはいわゆる価値の生産費説といわれ,賃金,利潤および地代をもって価値の源泉とみなすものである。すでにのべた自然価格なる概念はこの生産費説の延長にあって,いわば自然な状態にある生産費が価値にあたるとするわけである。これは,いうまでもなく,労働価値説とは別種の価値論である。スミスにおける第2の価値論はいわゆる支配労働説といわれるもので,ある商品が支配することのできる労働,つまり労働者の生活必需品に換算することによってその商品が支配するとみなされる労働量によって,価値を規定するものである。この価値論はR.マルサスによって受け継がれたものであるが,支配労働を計算するためには諸商品の価格を知らなければならないという点からすぐうかがわれるように,その基本的性格は労働価値説とはいいにくい。むしろ第1の価値論と同じく,価格によって価値を規定する仕方というべきであろう。
スミスにおける第3の価値論はいわゆる投入労働説といわれるもので,諸商品の生産に投入された労働時間をもって価値の実体だとする見方である。これはリカードによって引き継がれ,つづいてマルクスによって概念的な精練を受けることになった。いうまでもなく,投入労働説が有効であるためには,複雑労働を単純労働に還元し,異質労働を同質労働に還元できなければならない。さらに,生産に貢献する資本財などの他の生産要素についても,それらに投入された過去の労働を現在の労働に還元しなければならない。このようなことはおそらく不可能であろうから,投入労働に価値の源泉を見いだそうとする労働価値説は実証命題として無効に近いというべきであろう。また,かりに投入労働の計算が可能だとしても,もし価値の源泉をなんらか他の要因に求めることが可能ならば,必ずしも労働のみが価値をもつとするわけにはいかない。実際,次にみる効用価値説は労働価値説に論理的に代替しうる,しかも形式的により精緻(せいち)なかたちで代替しうる仮説なのである。結局,労働価値説を擁護しぬくためには,事実命題というよりも価値命題として,たとえば“労働の尊厳”というような観念を前提するような非科学的な態度が必要になると考えられる。
労働価値説は,労働時間という客観的基準によって測られるという意味で,客観価値説の代表であるが,それに対して主観価値説の代表は効用価値説である。これは,労働価値説が生産の側から価値を規定しようとするのに対し,逆に消費の側から価値を規定する。つまり,諸商品はそれぞれ異なった有用性をもつという意味で異化されているが,消費者に効用もしくは満足をもたらすという点では同化されているのであり,この同化性のうえに交換価値が成り立つとみるのである。効用価値説を採用したのは,H.ゴッセンのような先駆者はいるものの,学説史的な区分としてはW.S.ジェボンズ,L.ワルラスそしてC.メンガーによってはじめられた新古典派経済学である。そして効用価値説は,消費者というまぎれもない個人のもつ主観に価値の源泉を見いだすことを通じて,新古典派に特有の個人主義的な市場観の支柱にもなった。新古典派は,たとえば,水という有用性の高いものの価格がダイヤモンドという有用性の低いものの価格より低いのは何故かといういわゆる価値のパラドックスを,限界効用(効用)という概念にもとづくことによって解決し,きわめて体系的な価値論と価格論とを構成することに成功した。
しかし効用という概念については,その量的な測定が困難であるばかりでなく,その個人間比較も困難であるという功利主義一般につきまとう問題がある。つまり,なんらか心理学的な実体をもったものとして効用をとらえることは難しいのである。したがって効用価値説をそのままのかたちで受け入れるわけにはいかないということがしだいに明らかになっていった。その結果,効用の概念はその実体的内容を薄められて,選択に関する形式的な議論のみが精密化され,その過程で,限界効用という価値的な概念は限界代替率という技術的な概念にとって代わられた。要するに,効用価値は捨てられて均衡価格の理論が盛んになったわけである。
価値の実体を規定するのが困難になる一方で,価値の形態に関する議論が,とくにマルクス派の一部において,推しすすめられた。たとえば宇野弘蔵によって率いられたいわゆる宇野派の経済学者たちは,商品,貨幣そして資本といった価値形態の論理的構造とそれらのあいだの論理的展開の様相を解明しようとしてきた。そこでおもに用いられたのは,ヘーゲル論理学を思わせる思弁哲学の方法である。また近代経済学においても,数学的な方法を用いながら,市場の一般均衡論というかたちにおける一種の価値形態論を発展させてきた。両者の試みは,それぞれ別様の方法に立ちつつ,形式的厳密化の頂点に近づいているといってよい。そしてその分だけ,長きにわたった価値の実体に関する意味内容があいまいになりつつあるのである。
価値は社会学の方面における最も重要な概念の一つであり,一般に社会的価値と呼ばれる。それは人々の態度に対して社会的に共通の枠組みを与えるものであり,人々のあいだで間主観的もしくは共同主観的に保有されるものである。つまり,この意味における価値は,人々の主観が慣習や道徳やイデオロギーというかたちで,社会のなかに客観的に存在するものと考えられる。この種の主観的であると同時に客観的でもある社会的価値が経済過程を根本において支えているとみることも可能である。たとえば,いわゆる公正価格justum pretiumの観念が一個の社会的価値となって市場価格の変動を統御しているという可能性がそれである。人々があるべき価格水準についての価値観を共有しているならば,それが人々の需給行動に対し影響を与えないはずはない。J.R.ヒックスは,公正賃金fair wageという概念にもとづくことによって,市場価格が人々の“価格に関する価値観”によっていかに左右されるかを論じている。
マルクスは,労働価値説という大いに疑わしい仮説に依拠して資本家の獲得する剰余価値や労働者の被る搾取を説明したのであったが,社会的価値の考え方にもとづけば,剰余価値や搾取に対して別様の解釈を下すことができる。すなわち,市場賃金と社会的価値としての公正賃金との乖離(かいり)としてそれらを説明することができるであろう。たとえばこのように経済学の内部だけの議論にとどまっているかぎり,価値論は時代遅れの無用の長物と化す傾向にあるが,社会学その他の社会諸科学における価値の概念を参照することによって,経済過程を解釈するに当たって有益な寄与をなしうる余地が残されているのである。
→価格 →労働価値説
執筆者:西部 邁
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
われわれが生活していくうえでの必要や欲望を満たし、われわれに満足を与えるものは、いずれも価値あるものとされるが、その代表は商品であり、その場合の価値は経済的価値である。だが、こうした経済的価値とは別に、さまざまな価値がある。商品ではなくても、ある人にとって快適なものは、その人にとって快適価値をもつし、健康といったものも生命にとって価値あるものであり、生命価値を備えている。さらには、人間の精神的活動に満足を与えるものとして、論理的価値(真)、道徳的価値(善)、美的価値(美)、宗教的価値(聖)などがあげられる。
精神的価値の場合にとくに明らかであるが、価値はそれ自体としては、さまざまな事物のように、人間を離れて実在しているわけではない。価値は、価値を感得する人間の存在をまって初めて存在する。またある人にとって価値あるものでも、他の人にとってそうではない場合もある。とはいえ、各人が何に価値をみいだすかに関して相違があるにしても、真善美といった価値そのものは、各人がそれを認めると認めないとにかかわらず、客観的に存立するとみることができ、そこから新カント学派のリッケルトは、価値の客観性を「妥当性」Gültigkeitという語で表現し、妥当する価値を中心とする価値哲学を樹立した。
また、現象学派に属し実質的価値倫理学を展開したシェラーは、さまざまな価値の間に高低の序列があるとし、(1)永続的な価値ほど高い、(2)分割できない価値ほど高い、(3)ほかの価値によって基礎づけられない価値ほど高い、(4)感得する際に与えられる満足の深い価値ほど高い、(5)人間の感性面に局限されない価値ほど高い、という序列決定の基準を示した。つまり快適価値よりも生命価値が、生命価値よりも精神的価値が高く、精神的価値のうちでは宗教的価値が最高であるとした。
なお、カントによると、人間の欲求を満たすものは市場価格をもち、趣味を満足させるものは感情価格をもつが、これらはいずれも外的で相対的な価値であり、等価物の存在を許すが、これに反して、道徳的でありうる限りでの各人の人間性は、何にも置き換えられない内的にして絶対的な価値をもつ。この価値が「尊厳」Würdeであって、人格の尊厳を強調するカントは、道徳的価値を最高の価値とみていることになる。
[宇都宮芳明]
人は物(商品)になんらかの経済価値を認めなければ、金を払って買おうとはしない。この場合、実際に支払うのは、その物の価格額だけの貨幣であるが、その価格は絶えず変動している。それに対して、価値は、その物に根本的な変化がない限り変化しないもの、現象的な価格の背後にあってそれを規制している本質的なもの、であると考えられる。経済学においては、まず第一に、この価格の形成機構の本質的ないし統一的説明原理として価値論または価値理論が展開された。
物(商品)といっても、消費財もあれば生産財もあり、さらにそれらに無数の種類があり、その用途も質もすべて異なる。にもかかわらずすべてが同質の貨幣価格によって表現され、売買される。この異質なものの根底に、なにか同質な共通なものがあるからこそ、同質な貨幣価格によって表現されるのではないか。この同質な共通なものとして価値をとらえたい。これが価値論の第二の要請であった。
この二つの要請を満たすものとしての価値を、労働、生産費など広義の費用に求めるのが客観価値説であり、それを人間の欲望を満たす性質つまり効用に求めるのが主観価値説である。
[一杉哲也]
イギリス古典派経済学の創始者アダム・スミスは、価値ということばに二つの違った意味があり、ときには、その物の使用が人間に与える効用を表し、ときには、その物の所有が他の財貨を購買する力を表す、とする。そして、前者を使用価値、後者を交換価値とよんだ。スミスは、水とダイヤモンドの例をあげて両者の区別と関連を指摘したにとどまり、価値をもっぱら交換価値のことだとして、結局それを労働量によって説明した。もっとも、その労働量も、投下労働量(ある財の生産のために投下された労働量)であるとも、支配労働量(ある財が交換によって支配し購買しうる労働量)であるともいっており、明確ではなかった。ともかく、スミスは、単に需要供給の関係によって説明するのではなく、現象的な市場価格の変動の基礎になんらかの原因を追求し、それを労働に求め、内面的、統一的に説明しようとしたのである。これが労働価値説であり、古典学派においてはリカードによってとくに体系的に展開された。しかし、リカードの労働価値説もかならずしも首尾一貫していたわけではなく、その理論的弱点の解決と克服は、マルクスまでまたなければならなかった。
他方、同じくスミスを出発点として、生産要素の価格によって説明するいわゆる生産費説が、J・S・ミルらによって展開された。しかし生産費そのものがいかなる統一的価値原理によって説明されるのか、という点を考えると、この価値説も一貫性を欠くことになる。
[一杉哲也]
1870年代には、欲望ないし効用の側から価値を説明しようとする限界効用学説あるいは主観価値説とよばれる学説が、C・メンガー、W・S・ジェボンズ、L・ワルラスらによって展開された。彼らは、財の価値は、財に固有の属性ではなく、人間が下す判断であり、ある財の一単位の主観的価値はその財の限界効用によって決定され、その財に対する人間の欲望が大きければ大きいほど、また財の数量が少なければ少ないほど、大きいとした。すなわち、財の価値は、その財に対する欲望の強さとその供給量によって定まるとしたのである。
この理論の第一の問題点は、消費財の価値は説明できるにしても、それ自体に人間が効用を感じないはずの生産財の価値を、どう説明するかという点にある。これに対しては、生産財が消費財を生産するのだから、後者に与えられる主観価値が前者に反映・帰属するという説明がなされる。
第二は、欲望したがって効用の測定は不可能であること、財の限界効用はその価格によって規定されるため、限界効用から価格を説明するのは循環論ではないか、などの批判である。これに対しては、ワルラスの流れをくむV・F・D・パレートによって、効用測定を迂回(うかい)して理論をつくる選択理論が展開され、さらに価値論そのものを必要としないとする理論体系が成立するようになる。
かくして今日では、マルクス経済学を除くと、価値の問題は、経済理論としてあまり問題にされなくなっている。
[一杉哲也]
マルクス経済学においては、価値は次のように考えられている。
社会的分業と生産手段の私的所有に基づく商品生産社会(商品生産は資本主義社会において最高度の発展を遂げる)においては、労働生産物は商品として交換される。独立して営まれる個々人の私的労働は、この商品交換を媒介として社会的連関を取り結ぶのである。ところでこの商品は使用価値と価値という2要因をもつ。この2要因を統一したものが商品である。このうち使用価値は、それぞれの属性によって人間のなんらかの種類の欲望を満たすという商品自体に備わった有用性であるのに対して、商品の価値は、他の商品との交換関係のうちでしか現れえない。いま、米と綿布という任意の商品を取り上げ、これらが、「米5キログラム=綿布1反」という比率で交換されるものとしよう。米と綿布という使用価値のまったく異なったものが一定の比率で交換されるのはなぜか。交換は同等性なしにはありえないのであり、交換が行われる以上、両者は共通の第三者に還元されうるものでなければならない。この交換を成立させている第三の共通物が価値である。
では、商品の価値の実体はなにか。米と綿布とは使用価値としてはまったく異なったものであるから、使用価値が両者に共通なものでないことは明らかである。したがって、両者に共通なものを導き出すためには、使用価値を捨象してみればよい。そうすれば、そこに残るのは、両者に共通な労働生産物という性質である。米は農業労働、そして綿布は織物労働という相異なる具体的・有用的労働によって生産されたのであるが、商品の使用価値を捨象しているので、これらの労働の相異なる具体的・有用的形態はすでに消失し、そこには、労働の支出の形態にかかわりのない無差別な人間的労働、すなわち抽象的・人間的労働の結晶が、両者に共通なものとして残っている。この抽象的・人間的労働こそが価値の実体であり、商品は、その生産においてこのような人間的労働が支出され、それが堆積(たいせき)されているがゆえに価値をもつのである。
では、商品の価値の大きさはいかにして度量されるのか。抽象的・人間的労働の対象化が商品価値の実体であるがゆえに、その大きさは労働の分量すなわち労働時間によって度量される。商品生産社会においては無数の商品生産者が同一の使用価値の生産に携わっており、それらの個別的労働時間は異なるが、商品価値の大きさを規定するものは、そうした個別的労働時間ではなく、その商品を生産するのに社会的・平均的に必要な労働時間である。この社会的に必要な労働時間だけが価値を形成するものとして計算されるのである。この社会的必要労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と労働の熟練および強度の社会的な平均度とをもって、なんらかの使用価値を生産するために必要とされる労働時間であり、それは労働生産力の変動につれて変動する。労働生産力が上昇した場合、同じ時間内に以前よりもより多くの使用価値が生み出されるので、商品1単位当りの価値は低下する。さらに単純労働と複雑労働の相違も考慮しなければならない。前者は、平均的にだれでも普通の人間が特別の発達なしにその肉体のうちにもっている単純な労働力の支出であり、後者は、熟練を要する労働である。複雑労働は倍加された単純労働としてのみ意義をもち、同じ時間内に単純労働よりもより大きな価値を生み出す。このように一商品の価値の大きさは、労働の分量に正比例し、労働生産力に逆比例して変動する。
以上の価値規定から明らかなように、商品価値は純粋に社会的なものである。したがって、商品は人間的労働が対象化されている限り内在的な価値をもち、労働時間がその内在的価値尺度となるのであるが、それを自分では表現することができず、他の商品の使用価値によってしか表現されえない。このような諸商品の価値表現の材料としての地位を最終的に独占するようになった商品が金であり、このような一般的等価物の役割を果たすものとして金は貨幣となる。商品価値を貨幣商品=金の一定量で表現したものが価格である。商品の価値の大きさの指標としての価格は、その商品の貨幣との交換関係の指標であるとしても、そのことが必然的にその商品の価値の大きさの指標だとはかならずしもいえない。
生産が無政府性的に行われている商品生産のもとでは、需給が一致することはまれであるがゆえに、需要が供給を超過している場合には価格は価値以上に騰貴し、逆の場合には価格は価値以下に低下するというように、需給関係の変動によって価格は絶えず価値から乖離(かいり)しているからである。しかし長期的・平均的にみると、価格は価値に引き付けられ、それに収斂(しゅうれん)する傾向をもっている。したがって、価値が社会的必要労働時間によって規定されるという法則=価値法則は、価格の不断の変動を通して長期的・平均的に貫徹するのである。
[二瓶 敏]
『C・メンガー著、安井琢磨訳『国民経済学原理』(1937・日本評論社)』▽『カール・マルクス著、長谷部文雄訳『資本論』第1巻第1篇(1954・青木書店)』▽『カール・マルクス著、武田隆夫他訳『経済学批判』(岩波文庫)』▽『飯島宗享・小倉志祥・吉沢伝三郎編『シェーラー著作集第1~3巻 倫理学における形式主義と実質的価値倫理学』(1976~80・白水社)』▽『カント著、篠田英雄訳『道徳形而上学原論』(岩波文庫)』▽『E・v・ボェーム・バベルク著、長守善訳『経済的財価値の基礎理論』(岩波文庫)』
出典 最新 心理学事典最新 心理学事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…間は1,2,……のような数字がつき,これが明るさを表す記号である。物体色の明るさはとくに明度と呼ぶが,マンセル表色系ではこれをバリューvalueといいVで表す。あざやかさは彩度,あるいはクロマchromaと呼び,簡略名はCであるが,その値は中心の無彩色を0とし,それから外にいくに従って2,4,……と数字を増やしていく。…
…価値とはなにか,それはどのようにして認識されるのか,価値と事実との関係,価値の体系や上下関係などについて研究する哲学で,ロッツェによって準備され,新カント学派の一つである西南ドイツ学派のウィンデルバントやリッケルトらによって樹立されたものである。19世紀後半以降第1次世界大戦の時期にかけて,ドイツで栄えた価値哲学は,そのころ顕著であった伝統的な価値観の崩壊現象や自然科学的唯物論,実証主義に対決しようとしていたこともあって,われわれが体験する現実の生と価値とを徹底的に対立させる二元論を根本原理とするものであった。…
…一つの国民社会,あるいは特定の集団や組織の中で,その成員が自己あるいは他者の行為に関し,ある一定状況のもとに何をなすべきか,何をなすことを期待されているか,あるいは逆に何をしてはいけないか,何をなすことを禁じられているか,ということについて共有している(共同)主観的な意識,あるいはそれの客観化された表現としての行為基準をいう。社会学の術語として,〈価値と規範〉というように価値という語と関連づけて説明されるのが通例であるが,その場合には,価値が一般的な望ましさの基準といった抽象度の高い,その意味で超越的,究極的なものを現すのに対し,規範はもっと具体的に特定状況のもとでの行為を指示するような基準にかかわる。規範は,(1)その違反に対して行使される処罰の性質がインフォーマルinformal(私的個人によって行使される処罰)か,フォーマルformal(国家権力によって行使される処罰)かの区分軸によって,慣習と法とに分けられ,(2)慣習はさらに,当該規範の拘束に対してこめられた集団感情が弱いか強いかによって,習俗(W.G.サムナーのいう〈フォークウェーズfolkways〉)と習律(サムナーのいう〈モーレスmores〉)とに分けられる。…
…これらが商品化を禁じられているのは,社会の公序良俗を乱して社会生活の基盤をゆるがすことになるからである。しかし,ある社会の公序良俗の基準がどこにあるかは,その社会の伝統,慣習,道徳,価値意識,政治・経済状況などに依存する。したがって,種々の財・サービスのどこまでが実際に商品として売買されるかは,それぞれの社会によって異なるのである。…
※「価値」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加