女帝。第33代とされる天皇(在位592~628)。名は額田部(ぬかたべ)。和風諡号(しごう)は豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)天皇。わが国で最初の女帝。欽明(きんめい)天皇の第3皇女。母は蘇我堅塩姫(そがのきたしひめ)。18歳で敏達(びだつ)天皇の妃となり、皇后広姫が死んだあと、皇后にたったという。敏達天皇のあと推古の同母兄の用明(ようめい)天皇がたったが、治政は2年で終わり、ついでたった崇峻(すしゅん)天皇は大臣蘇我馬子(うまこ)の命を受けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に殺された。このあと諸臣に推されて、豊浦宮(とゆらのみや)で即位したという。ときに39歳であった。以後、推古女帝は、厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)を摂政(せっしょう)として、治政は36年間に及んだという。大臣は蘇我馬子、その死後は蘇我毛人(えみし)(蝦夷)であった。
しかし、こうした通説に対して、当時の天皇(大王)は厩戸皇子で、推古女帝は厩戸皇子の没後の622~623年ごろに即位したのではないかとの説もある。その論拠は、日本からの遣隋使(けんずいし)がその大王を男帝といったこと、当時女帝の際にはなかった伊勢斎王(いせさいおう)に622年まで酢香手姫(すかてひめ)皇女が在任したことなどである。推古女帝は死の病床で、次の天皇(大王)位をめぐって、田村(たむら)(後の舒明(じょめい)天皇)、山背(やましろ)(聖徳太子の子)両皇子に行動を自重するように遺言したといわれる。陵墓は大阪府南河内(みなみかわち)郡の磯長(しなが)山田陵。
[門脇禎二]
6世紀末~7世紀初の天皇。第33代に数えられる日本最初の女帝。在位592-628年。幼名を額田部(ぬかたべ)皇女といい,和風諡号(しごう)は豊御食炊屋姫(とよみけかしぎやひめ)天皇。小治田(おはりだ)大宮治天下天皇などともいう。欽明天皇の皇女で母は大臣(おおおみ)蘇我稲目の女の堅塩媛(きたしひめ)。《日本書紀》によれば576年(敏達5)敏達天皇の皇后となり,菟道貝鮹(うじのかいだこ)皇女,竹田皇子など2男5女を生んだ。天皇の死後も,用明・崇峻両朝にかけて政治的にきわめて重要な地位を占めていたらしい。大臣蘇我馬子が587年(用明2)に大連(おおむらじ)物部守屋を攻め滅ぼしてその権力を確立し,さらに592年(崇峻5)自分が立てた崇峻天皇を暗殺すると,その年の末に推古天皇を即位させて,女帝の例を開いた。天皇は初め飛鳥の豊浦宮(とゆらのみや)におり,のち小治田宮に移ったが,即位の翌593年(推古1)4月に甥の聖徳太子(用明天皇皇子)を摂政として,これに万機をゆだねた。この太子の執政をもって,蘇我氏に対抗して皇室の主導権を回復するためにとられた方策とする見方が広く行われているが,この時点はまさに蘇我氏権力がその最盛期に達したときであり,推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって,天皇も太子もその蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。天皇の治世は,大陸では隋帝国が南北朝を統一して,東アジアに重大な脅威を与えるようになり,朝鮮半島では新羅が国力を強化して,日本のいわゆる任那復興の政策をますます困難にしつつあったが,国内では冠位十二階の制定,十七条憲法の作成,遣隋使の派遣,天皇記,国記以下の国史の編纂などの注目すべき政策が行われ,また飛鳥文化と呼ばれる仏教的色彩の濃い高度な貴族文化が,この時期から大和の飛鳥地方を中心に展開しはじめたことが特徴的である。622年に太子が世を去ると,その後は天皇がみずから政治をみたと思われるが,やがて626年に馬子が死んで子の蝦夷(えみし)が大臣となり,ついで628年3月に天皇が後継者を明確に定めることなく,75歳で世を去った。竹田皇子の大野岡上陵(大和国高市郡)に合葬されたが,のち河内の磯長山田(しながのやまだ)陵に移された。
執筆者:関 晃
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(西野悠紀子)
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554~628.3.7
在位592.12.8~628.3.7
記紀系譜上の第33代天皇。額田部皇女・豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)天皇と称する。欽明天皇の皇女。母は蘇我稲目(いなめ)の女堅塩媛(きたしひめ)。用明天皇の同母妹。異母兄の敏達(びだつ)天皇の皇后となり,竹田皇子らをうんだ。592年異母弟の崇峻(すしゅん)天皇が蘇我馬子(うまこ)に殺された後をうけ,最初の女帝として即位。甥の聖徳太子や馬子を政治の中枢にすえ,中国の隋との国交を開くとともに,冠位十二階や憲法十七条を制定,それに対応する宮廷の制度・儀礼の整備につとめた。この時期に「天皇記」「国記(こっき)」などの史書の編修も行われ,飛鳥寺(法興寺)・斑鳩(いかるが)寺(法隆寺)なども造営されて,仏教を中心とする飛鳥文化が開花した。また法隆寺の建設にも関与した。
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…603年(推古11)10月,推古天皇は,豊浦宮より小墾田宮に移る。そして,628年(推古36)3月に没するまでの間,この小墾田宮が推古朝政治の舞台となった。…
…女性の帝王をいう。日本では592年(崇峻5)に即位したと伝えられる推古天皇が,存在確実な最初である。それ以前では,《三国志》魏志倭人伝に,2世紀末から3世紀後半まで女王卑弥呼(ひみこ)と台(壱)与(とよ)とが倭の邪馬台国を支配したとある。…
※「推古天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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