デジタル大辞泉
「毘沙門堂」の意味・読み・例文・類語
びしゃもん‐どう〔‐ダウ〕【毘沙門堂】
京都市山科区にある天台宗の寺。正しくは出雲寺。山号は護法山。院号は安国院。開創は、寺伝によれば大宝3年(703)、開山は行基。また、延暦年間(782~806)に、最澄が自作の毘沙門天像を草庵に安置したのが始まりともいう。寛文5年(1665)に公海が復興、以後、代々法親王が入寺する門跡寺院となる。山科毘沙門天。
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びしゃもん‐どう‥ダウ【毘沙門堂】
- [ 1 ] 〘 名詞 〙 毘沙門天をまつる堂。
- [ 2 ]
- [ 一 ] 岩手県和賀郡東和町にある単立宗教法人。嘉祥三年(八五〇)円仁の開創と伝えられる。安置する木造毘沙門天立像は五メートル近い一木造りの巨像で、国重要文化財に指定されている。成島毘沙門堂。
- [ 二 ] 京都市山科区安朱稲荷山町にある天台宗の門跡寺院、護法山安国院出雲寺の通称。大宝三年(七〇三)文武天皇の勅願によって創建。はじめ出雲路(上京区)にあったが、織田信長の兵火によって焼失した。寛文五年(一六六五)公海によって現在地に中興され、代々法親王が入山した。本尊の鎮将夜叉毘沙門天像は最澄作と伝えられる。天台宗五門跡の一つ。山科毘沙門天。
- [ 三 ] 抹茶茶碗。楽焼。本阿彌光悦作。素地は赤色の聚楽土。釉(うわぐすり)はやや光沢を消した赤色。口・高台(こうだい)は鋭いへら使いで作られ、口辺から底にかけて三本の火割れがある。京都毘沙門堂門跡に献上されたので呼ばれる。光悦五種の一つ。
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毘沙門堂
びしやもんどう
[現在地名]山科区安朱稲荷山町
安祥寺山と柳山に挟まれた谷奥に位置。天台宗の門跡寺院。護法山出雲寺と号する。本尊毘沙門天。
〈京都・山城寺院神社大事典〉
〔平氏の氏寺〕
文武天皇の御願により大宝三年(七〇三)四月二一日創建と伝え(宇治郡名勝誌)、はじめ出雲路(現京都市上京区)の地にあった。さらに古くは平等寺・尊重寺・護法寺の三寺であったが、平親範が鎌倉時代の初めに統合し一堂となした。その経緯については建保二年(一二一四)二月一七日の平親範置文(洞院部類記)に詳しい。
<資料は省略されています>
平等寺は桓武天皇皇子の葛原親王(桓武平氏の祖)が創立、太秦広隆寺(現京都市右京区)の近辺にあったが焼失して廃寺となっていた。尊重寺は参議平親信が五辻(現上京区)辺に建立したが、廃絶して本尊のみが大原(現左京区)に移されていた。護法寺は親範の父の範家が紀伊郡伏見里(現京都市伏見区)に創建、平治の乱後の応保元年(一一六一)に北石蔵(現左京区)に移建したが、天台宗寺門派であったため長寛元年(一一六三)に山門衆徒に焼かれ、残った多聞天像を奉じて永万元年(一一六五)に大原来迎院近くに一堂を建て、建久六年(一一九五)に出雲路の地に移された。
毘沙門堂
びしやもんどう
[現在地名]鳥取市田島
千代川右岸、田島のほぼ中央にある。法人名は神宮寺で、多聞山と号し、高野山真言宗。現在の堂は昭和二年(一九二七)の火災後、同七年に建立されたものである。「雪窓夜話」によれば、山名布施屋形の時代、「田ノ島千軒」とよばれるほどの邑美一郡大邑の地に多聞山今滝寺があり、田島村八幡宮の神宮寺であった。永禄年間(一五五八―七〇)の戦乱で神宮寺は廃絶したが、慶長元年(一五九六)密宗僧の頼賢が当地に止宿した折、井の中より神宮寺の本尊であった安阿弥作の一寸八分の多聞天像(毘沙門天像)が出現、頼賢を開基として草堂の毘沙門堂が建てられた。
毘沙門堂
びしやもんどう
[現在地名]大宮町字善王寺 不断堂
三要寺の近く小字不断堂にあり、本尊毘沙門天。かつて集落の南方山手にあった善王寺の一堂であったとされる。現在地での建立経過や年代は不詳。
「丹哥府志」はかつての毘沙門堂について、
<資料は省略されています>
と記す。また「丹後旧事記」は「永井増補府志」を引用して、細川興元により無道の祈りをしたことを理由に寺領を取り上げられ、僧は追放されたと記し、慶長七年(一六〇二)二月、旧毘沙門堂を含む善王寺伽藍跡や寺中屋敷跡が田地とされたと述べる。
毘沙門堂
びしやもんどう
[現在地名]安佐南区佐東町緑井
権現山の南中腹にあり、真言宗系の単立寺院で、本尊毘沙門天。「芸藩通志」に「廃元成寺、址に毘沙門堂あり、武田家鬼門守護堂といふ。今田間の字に今光寺・東用寺・三京寺・現堂寺の数名あり、並に末寺なりしといふ」とある。正安元年(一二九九)頃武田氏の銀山城築城の時、北方の守護神として勧請したと伝える。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
毘沙門堂
びしゃもんどう
京都市山科(やましな)区安朱稲荷山(あんしゅいなりやま)町にある天台宗(延暦寺(えんりゃくじ)派)の門跡(もんぜき)寺院。護法山安国院出雲(いずも)寺と号する。本尊毘沙門天。文武(もんむ)天皇の御願(ごがん)で、703年(大宝3)創建とか、伝教大師(でんぎょうだいし)(最澄(さいちょう))開基などと伝える。初め出雲路(現上京(かみぎょう)区)の地にあった。鎌倉初期、円智(平親範)が、廃絶した平等寺(葛原(くずはら)親王創建)、尊重(そんじゅう)寺(平親信建立)、護法寺(平範家創建)の平家ゆかりの3寺を統合した。出雲路の旧堂は桜の名所として著名であった。たびたび兵火にかかり、1611年(慶長16)後陽成(ごようぜい)天皇が天海に修興を命じ、1665年(寛文5)公海僧正が現在の地に堂宇をつくり、輪王寺の公弁法親王が入寺してから門跡寺院となり、江戸時代には輪王寺宮法親王が兼務する寺となった。寺領1070石。紙本墨書『洞院公定(とういんきんさだ)日記』(南北朝時代)、注大般涅槃(だいはつねはん)経巻(奈良時代)、紙本墨書篆隷(てんれい)文体(鎌倉時代)は国の重要文化財。正月の初寅詣(はつとらもう)では参詣(さんけい)人でにぎわう。
[田村晃祐]
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毘沙門堂 (びしゃもんどう)
京都市山科区にある天台宗の門跡寺院。護法山出雲寺と号する。703年(大宝3)の創建と伝えるが,不詳。1195年(建久6)平親範が京都洛北の出雲路(いずもじ)に仏堂を建て,ここに平氏ゆかりの平等寺,尊重(そんじゆう)寺,護法寺の3寺を統合したのが起りと考えられる。中世には桜の名所で聞こえ,〈毘沙門堂の花盛り〉といわれたが,応仁の乱などで焼け,一時廃絶した。1665年(寛文5)公海が現在地に再興,次いで1682年(天和2)後西天皇の皇子公弁法親王が入寺して以来,門跡の寺格を得た。
執筆者:中井 真孝
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毘沙門堂
びしゃもんどう
京都市山科区にある天台宗の寺。伝教大師最澄の開基と伝える。自作の毘沙門天像を安置。出雲路の宿坊として栄えたが,織田信長によって焼かれた。江戸幕府によって再興され,現在地に移された。『洞院公定日記』『篆隷文体』などを所蔵。
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