神社の中心施設である本殿はさまざまの形式に分類されるが,ほぼ全体に共通する特色として,屋根を寄棟造にしないこと,瓦や土壁を用いないこと,床を高く張ること,の3点が挙げられる。もちろん例外もあるが,多くの神社でこの原則は古代から近世までよく守られてきたといえよう。そしてこの特色はいずれも寺院建築のそれと鋭く対立する内容で,一見して神社と識別される建築上の標識が,たとえば鳥居の存在などによるだけでなく,本殿の形式においてもよく維持されてきたことを示している。すなわち寺院の主要な建築が寄棟造あるいは入母屋造につくるのに対して神社は原則として切妻造であり,寺院の瓦葺き(かわらぶき),土壁に対するに神社は植物性の屋根材料と板壁を用い,古代の寺院建築が土間床であったのに対して神社本殿は必ず高い板敷きの床にするという具合であった。
この事実は神社建築の源流が仏教建築渡来以前の構造に依拠することを示すと同時に,多くの本殿形式の成立が実はそれほど古くはなく,仏教建築の隆盛後,その存在を強く意識した結果生まれた可能性をも示唆することになるであろう。仏教渡来以前の建築を示す図が土器,銅鐸,埴輪,鏡などにあって,そのなかには切妻造,高床の,神社の祖形を思わせるものがいくつかある。しかしそれらの図の存在がただちに神社建築の発生を物語っているわけではない。日本の農耕にかかわる信仰は古い歴史をもつが,信仰の対象を物的に明示する方法は,長い間自然の一部をそのまま神聖視する素朴な段階にとどまっており,それが建築という形態をとるのはかなりのちのことと考えられる。奈良県の大神(おおみわ)神社,埼玉県の金鑽(かなさな)神社などが現在でもそうであるように,祭神をまつるべき本殿がなく背後の山を神体としたものがあり,また社すなわち杜(もり)が神域を示すという理解は古代以来きわめて普遍的であった。人工的な工作物をもって神の宿るところとしたもっとも単純なものは,一本の独立した柱を地上に立てることであって,この場合一本の柱はそのまま杜の象徴にほかならない。古代の人々は地域社会のなかの一定の祭場に,春あるいは秋の一定の日に集まって,農耕を支配する自然の力に祈りあるいは感謝する気持ちをこめて祭りをくり返したのであろうが,その過程で,おのずから祭りの中心にあるべき神が山,杜,柱などの形で姿を現すようになったと解すべきであろう。したがってやがて神の象徴が建築の形をとるようになるとしても,最初はきわめて素朴なものであった可能性が強い。
現存する本殿形式のうち,最初に姿を現した建築を示唆するのは,流(ながれ)造系ならびに春日造系の社殿である。現在,国宝あるいは重要文化財に指定されている本殿を分類すると,流造に属するものが総数の55%を超え,春日造がそれに次ぐ(表)。春日大社本殿に代表される春日造は春日大社を中心とする近畿地方の一部にのみ限られ,また春日造を改良したいわゆる隅木入り春日造は,熊野信仰の浸透したやや広い範囲に分布する。しかし流造はこのような特定の神社や信仰と結びついている痕跡がなく,その分布は全国的に行きわたっている。流造は平入り,春日造は妻入りであるが,両者に共通する特色は,正面側面ともに1間しかないいわゆる一間社と称する極小のものが多いこと。柱を掘立柱とせずに土台を組んだ上に立てることである。柱下に土台をもつのは,その建築を移動させることを前提とした構法であるから,規模の小ささを併せ考えるならば,祭りのとき祭場の中心にこの可動の小神殿を置くというのが,神社における建築の発生の姿だったのではないかと推定することができる。すなわち一つの杜,一本の柱のなかに神を見いだしたのと同じ観念と感覚とに支えられて,極小の神殿をもって神の宿るところの象徴としたのであったろう。
神社建築がそのような原初的形態から出発したとするならば,それがのちに寺院建築と並ぶ記念的建築として完成するためには大きな転機が必要であった。それはおそらく伊勢神宮の整備と関係があろう。伊勢神宮は他の多くの地域的,土着的な神社と異なって特別な起源説話をもち,また7世紀にはとくに皇室の祖神をまつる神社として特別な扱いを受けるようになっていた。古代の伊勢神宮の建築については,同時代の史料にもとづく福山敏男の復原的研究がある。それによると,神域の中心的施設である大宮院は四重の垣をもち,もっとも内側の瑞垣(みずがき)のなかに正殿と東宝殿,西宝殿があった。正殿は正面3間,側面2間,掘立柱,板壁,切妻造,茅葺きで,四周にめぐらした高欄つきの縁,破風を延長してつくった千木(ちぎ),棟上に置く堅魚木(かつおぎ),両妻に壁から独立して立つ棟持柱(むなもちばしら)などをもち,総じて今日の正殿の姿と大差ないこの形式を一般に神明(しんめい)造という。一方,現在の二つの宝殿は正殿を小規模にし簡略化した形であるが,中世以前の形式はこれと異なり,板倉の構法によってつくられていた。すなわち現状のように柱が梁や桁を受けるのではなく,柱は床の高さまででその上に床をつくり,床桁の上に板を組み合わせて壁をつくる形式であった。いま内宮,外宮を通じて,この板倉形式を残すのは外宮御饌殿(みけでん)だけであるが,中世以前においては宝殿のほか幣殿,御倉,別宮正殿など,つまり内宮・外宮正殿に次ぐ主要社殿の多くが板倉であった可能性が大きい。この板倉形式の社殿こそ内宮・外宮正殿の形式が生まれる前の姿を示すものであり,かつそれが前述した土器や銅鐸などに描かれた高床の建物とつながることになる。千木,堅魚木,棟持柱などの部材は,神社以前の原始的な高床建物においては,それぞれ構造上の必要から生まれた部分であったであろう。しかし伊勢神宮が成立したころにはすでに本来の構法上の理由は見失われ,かわって形式化と象徴化が進行していた。たとえば,古代の神宮においては千木,堅魚木をもつ建築は厳重に限定されており,それは神の専有する建築にしか許されていなかった。すなわち,祖形のもつ構造上の部材に,信仰上の意味が付加されることによって,高床建物は神社本殿として再生したのである。
伊勢において見逃すことのできない制度に式年遷宮がある。平安時代に撰述された神宮の史料によると,朱鳥3年(持統2・688)に20年に一度遷宮を実施する制度をつくり,このとき殿舎,垣などを整備したという。そして内宮は690年,外宮は692年の遷宮を第1回とし,その後中絶や年数の乱れはあったが,この制度は今日まで存続し,1973年に第60回の式年遷宮を実施した。式年遷宮は大宮院をはじめとする主要殿舎をすべて建て替え,神宝もすべてを新しくし,遷宮の年の神嘗祭(かんなめさい)の日に旧殿から新殿に遷(うつ)る儀式をいう。主要殿舎は二つの同形同大の敷地が隣り合って用意されており,一方から他方に交互に遷る。この儀礼は大規模な神嘗祭であって,20年ごとに神が新しく蘇るのを制度化したものとみなすことができる。これによって神の蘇生を建築の更新によって表現する方法が確立し,同時に古い社殿形式を形式として保存する方法も完成したのである。この伊勢神宮の7,8世紀における発展が他の神社の制度や運営に大きな影響を与えたのであって,いくつかの本殿形式の成立もまた,神宮正殿の影響を考えずには理解できないのである。
→式年造替
先に掲げた分類表が示すように,流造,春日造を除く本殿形式として大社造,住吉造,八幡造,日吉造などがあるが,これらの数はきわめて少ない。これらの形式はある特定の神社に固有の形式であって,同じ祭神が他の場所に勧請されたときにその本殿形式が再現される場合を除くと,一般に形式の伝播という現象はなかったと考えてよいであろう。この点で流造系の本殿と基本的に性格を異にしており,しかもこれらの固有の形式は造替のときも基本が見失われることなく,古式が尊重され維持されるのを特色とした。
神社の起源に触れる説話や史料は一般にきわめて少ないが,出雲大社は詳しい創立譚をもつ珍しい例である。それによると,この本殿は〈天皇の御殿(みあらか)〉のようにつくられたといい,これの高大さを暗示する表現が多い。この本殿が異常に高い建築であったことは平安時代の記録や社家の伝えにも記されており,福山敏男はこれら史料にもとづいて高さ16丈(約48.5m)の本殿を復原した。現在の本殿は1744年(延享1)造営のもので,高さはその半分にすぎないが,平面や構造の基本は古式をとどめている。すなわち9本の柱からなる平面を維持し,その中央の柱を他より太くしてこれを神秘の柱とし,両妻中央の柱を少し壁より外にずらして棟持柱とするなどの点である。この形式を大社造といい,島根県にのみ分布する特異な形式である。大社造の古い遺構として1583年(天正11)の同県神魂(かもす)神社本殿がある。
大阪の住吉大社本殿の形式を住吉造という。1810年に造替された今の本殿は古い形式をおおむね伝え,奥行4間,間口(背面)2間,妻入りで,内部を2室に分ける。前後2室の妻入り神殿という平面は,大嘗祭のときにつくられる大嘗宮正殿と酷似しており,この本殿形式は古い時代の宮廷内の建築をもっともよく伝えるものであろう。床高が比較的低く,周囲に縁がないことも注目すべきで,伊勢神宮正殿の前身として高床の倉が想定されるのに対して,住吉の本殿はこれとは異なった源流を示唆するもののようである。なお住吉大社は関東の香取・鹿島両社とともに20年ごとにすべての社殿を造替する慣行をもっていたが,812年(弘仁3)以来,本殿だけの造替に改めたという。したがって当社の式年遷宮は奈良時代には実施されていたと考えてよいであろう。
奈良の春日大社は御蓋山(みかさやま)を神体山とする古い祭祀形態をとどめており,その西麓の祭場に他から勧請した神々をまつって,8世紀中ごろには春日大社として成立していた。春日造の本殿の特色は前述のとおりであるが,屋根,破風,千木の曲線や,彩色の調子などからみて,平安時代に完成した形式であることをうかがわせる。この形式が発展して,母屋(もや)の屋根に隅木を入れこれに庇(ひさし)を取り付けた形式を隅木入り春日造という。これは熊野神社系の本殿に多く用いられている。
京都の鴨川の流れに沿って鎮座する賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(上賀茂)と賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨)は,平安遷都後,王城鎮護の神として崇敬を集めたが,歴史に登場するのは7世紀末からである。両社の本殿形式,規模はほとんど同じで,切妻造平入りの前方の屋根をそのまま延長して庇とする。神殿の源流としての流造のもつ構法上の基本を残しつつ,大規模かつ整備された姿でこの両社本殿が完成しているのは,平安時代に両社が伊勢に次ぐ尊敬を集めたことによる発展と考えてよいであろう。両社本殿の母屋が正面3間,側面2間という規模をもち,かつ正面中央のみを板扉とし他を板壁とするのは,おそらく伊勢の正殿から直接影響を受けたものである。そして,一般にこの両社本殿が流造の典型とみなされてきた。
住吉造と並ぶ二室神殿として宇佐神宮本殿を代表とする八幡造がある。外観を見ると2棟の切妻造平入りの建物が前後に接続した形であるが,両殿の中間を相の間として建物のなかに取りこみ,相の間を前殿と一体として扱うので内部は連続する2室となる。平安初期に宇佐八幡を勧請して創立した京都の石清水(いわしみず)八幡宮も同じ形式であるが,相の間の床が低く張ってある点がかえって宇佐よりも古風であって,古くはこの部分が土間であった。この前殿と後殿はともに神の空間とみなしてよく,両者に神座が設けられている。八幡造は寺院建築における双堂(ならびどう),すなわち桁行長さの等しい正堂と礼堂(らいどう)とを前後に並立する形式に範をとって創始されたとされているが,これについてはなお考えるべき余地が多い。宇佐神宮は8世紀初期にはすでに朝廷の厚い崇敬を受けていた。そしてこの本殿の後殿も3間に2間の規模をもち,伊勢の正殿との類似性が指摘できる。
伊勢の正殿との類似という点では,もう一つ日吉(ひえ)造を挙げなくてはならない。その平面は,正面3間,側面2間の母屋(内陣)の3方に庇を付加して外陣とした形式である。外形はこの平面をそのまま立体化した形式であって,正面から見ると入母屋造のようであるが背面では軒を途中で切り落としたような姿をもつ。これを日吉造といい,滋賀県の日吉大社にのみ固有の形式である。
以上のほか,本殿の前に礼堂を付加してあたかも仏堂のような形態とする京都の八坂神社本殿の八坂造,本殿,石の間,拝殿を連結した京都北野天満宮の権現造(八棟(やつむね)造ともいう),母屋の前後に庇をもつ厳島神社本殿の両流造などがある。これらはいずれも平安時代には完成していた形式であるが,両流造については福岡県の宗像神社や福井県の気比神宮などの古社も採用しているので,さらに古い時代にさかのぼる可能性がある。また権現造は北野天満宮がそうであるように,実在した人物の霊をまつる社殿の形式として,豊臣秀吉の豊国廟以後,東照宮など近世の遺構が多い。また中世以後は,流造,春日造の基本形を横に連結した山口県の住吉神社本殿(1370),大阪府の建水分(たけみくまり)神社本殿(1334)など,平面との対応がなくても屋根を入母屋造とした滋賀県の御上神社本殿(鎌倉時代),大阪府の多治速比売(たじはやひめ)神社本殿(1541)など,また特異な複合形式をもつ岡山県の吉備津神社本殿(1425)など,さまざまの意匠をもつ社殿が生まれた。
伊勢神宮がそうであるように,大規模な神社は神に供する御饌(みけ)を調進するためのさまざまの施設,たとえば贄殿(にえどの),酒殿,竈殿,盛殿などを備えていた。また神宝,祭器などを納める庫,斎戒や参籠のための建物,社務執行に用いる建物などがあり,内宮だけで70棟を超える建築群で構成されていた。しかし人が神を礼拝し,幣帛(へいはく)を捧げるなど祭りのために用いる建物は比較的のちに現れるのであって,伊勢では現在でも祭典は野天で行われる。古代の伊勢神宮に幣殿があるが,これは幣帛を収蔵する施設であり,後世他社に見られるような奉幣のための建物ではなかった。春日大社や賀茂両社のように平安時代に盛大な祭りが行われ,貴族の参詣の多かった神社では,社頭に祭使たちの席となる建物や直会殿(なおらいどの)などが設けられた。平安時代にはさらに楼門,回廊が石清水八幡宮,賀茂両社,春日大社などに見られ,これらは単に神域を区切るだけでなく,とくに回廊は祭典執行の際の神官たちの着座の場所となり,神殿前で行われる奉幣や舞楽を見る場所ともなった。また同じころ神殿前に幣殿,舞殿がようやく出現する。楼門,回廊を備えるにいたらない小規模な神社では本殿の前に拝殿を建て,これを祭典執行上さまざまの用にあてたと考えられる。拝殿には,平入りとして着座の向きが神殿と対座するようにした京都府の宇治上神社拝殿など,妻入りにして左右の座が向かい合うようにした愛知県の津島神社拝殿などがあり,また横長の拝殿の中央部分を土間として通り抜けられるようにしたものもある。この最後の形式は楼門,回廊が一体化して生まれたと考えることができ,奈良県の石上(いそのかみ)神宮摂社出雲建雄(たけお)神社拝殿(1300改築)などに見られる。
→社寺建築構造
執筆者:稲垣 栄三
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神社の社殿およびその付属建築。古代人は、神霊のよる神聖な場所を神籬(ひもろぎ)として崇(あが)め、また祖先の霊を祀(まつ)るために、伝来の宝物を御霊代(みたましろ)として崇めた。したがって、神籬のある場所、御霊代を祀る場所が、その神の社地として定着してゆくが、前者の場合は神籬そのものが神の依代(よりしろ)であるから、本殿はつくられない(奈良・石上(いそのかみ)神宮や同大神(おおみわ)神社、長野・諏訪(すわ)大社、埼玉・金鑽(かなさな)神社など)。一方、御霊代を祀る際には、それを奉納する建物が必要であり、高床の倉が神社の本殿へと発展したものと思われる。伊勢(いせ)皇大神宮外宮(げくう)の御饌殿(みけでん)は、横板を井籠(せいろう)組みにした板倉の形式をいまもとどめ、古式を伝えている。
[工藤圭章]
これには種々の形式があるが、大別して、棟と直角方向に扉口のある平入(ひらいり)と、棟と同方向に扉口のある妻入(つまいり)に分けることができ、平入には神明造(しんめいづくり)、流(ながれ)造、八幡(はちまん)造、日吉(ひえ)造、妻入には大社(たいしゃ)造、住吉(すみよし)造、大鳥(おおとり)造、春日(かすが)造がある。本殿の屋根はすべて切妻造であるが、流造や春日造では正面に庇(ひさし)がつく。
これらのうち、もっとも古い形式を伝えると考えられるのは、神明造、大社造、住吉造で、飛鳥(あすか)時代に仏教建築が輸入される以前にその形式の基本的特徴がつくりだされたと思われる。
[工藤圭章]
伊勢皇大神宮正殿は桁行(けたゆき)(棟の方向)3間、梁間(はりま)(棟に直交する方向)2間、高床で、柱を円柱の掘立て柱とする。屋根は直線的な垂木(たるき)で、反りがなく、茅(かや)で葺(ふ)く。妻の破風(はふ)は交差して棟上では千木(ちぎ)となり、その間に堅魚木(かつおぎ)が飾られ、破風上部には鞭掛(むちかけ)が4本ずつつく。中央床下には心御柱(しんのみはしら)、両妻中央の柱は棟持(むなもち)柱として独立して立つ。このような外観をもつものを神明造といい、長野・仁科(にしな)神明宮は現存神明造本殿の最古の遺構だが、屋根は檜皮葺(ひわだぶ)きである。なお、伊勢皇大神宮の正殿は、とくに他と区別して唯一(ゆいつ)神明造ともよばれる。
[工藤圭章]
京都・賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(上賀茂(かみかも)社)、賀茂御祖(みおや)神社(下鴨(しもかも)社)本殿・権殿(ごんでん)にみられる。賀茂社の本殿は桁行3間、梁間3間で、桁行前寄り1間分が庇になる。庇は吹放しで後寄り2間の母屋(おもや)柱は円柱になるが、庇柱は角柱。庇が吹放しにならず、前室風につくられるものもある。流造は桁行柱間数により一間社、二間社、三間社、五間社に分類され、賀茂社の場合は三間社流造という。広島・厳島(いつくしま)神社本殿のように前後に庇があるものを両流造という。
[工藤圭章]
前後に切妻造の建物が並ぶ形式で、代表的遺構に大分・宇佐神宮本殿、京都・石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)本殿・外殿がある。前方の外院は桁行3間、梁間1間で、後方の内院は桁行3間、梁間2間となり、両院の軒先は接するので排水用の雨樋(あまどい)がつき、中間は造合の間(ま)になっている。
[工藤圭章]
聖帝(しょうてい)造ともいわれ、滋賀・日吉大社東本宮・西本宮・宇佐宮の各本殿にみられる。いずれも桁行5間、梁間3間、入母屋(いりもや)造で、正面および両側面に庇がつく。したがって、庇が前室になる三間社流造の、側面にも庇が設けられたような形になる。だが、庇柱は流造のように角柱とならず、すべて円柱である。
[工藤圭章]
島根県の出雲(いずも)大社本殿や神魂(かもす)神社本殿にみられるような、桁行2間、梁間2間、切妻造妻入の本殿の形式で、殿内中央には太い心御柱が立ち、正背面妻中央の棟持柱の名残(なごり)をとどめる宇頭(うず)柱も太くつくられ、正面扉口前の木階上には霧除(よ)けの屋根がかけられる。出雲大社と神魂神社とでは殿内の仕切りが左右逆になり、神座の向きも異なっている。この形式は島根県下に数多く、扉口が逆になる佐太神社本殿や、2棟の大社造を横に並べて接続したような美保神社本殿など変型のものもある。
[工藤圭章]
大阪・住吉大社本殿にみられる形式で、桁行4間、梁間正面1間、背面2間の切妻造妻入で、殿内は内陣・外陣の2室に分かれる。このような2室をもつ本殿の平面形式は、天皇の践祚(せんそ)の際に設けられる大嘗祭(だいじょうさい)の正殿(しょうでん)とよく似ている。福岡・住吉神社本殿では内陣がさらに2室に分かれている。
[工藤圭章]
外観は大社造に似ているが、正面を1間とし中央に扉口を開き、内部も心御柱がなく、住吉造のように内陣・外陣の2室に分かれる。大阪・大鳥神社本殿が代表例である。
[工藤圭章]
奈良の春日大社本社本殿や若宮神社本殿に代表される本殿形式。桁行1間、梁間1間、切妻造妻入の建物の前面に庇がつき、本格的なものは縁が正面にだけつく。前面に庇があるため、正面は入母屋造風にみえるが、実際に前面両端に隅木(すみぎ)を入れて入母屋造とする隅木入春日造もある。この種の前面隅木入で、母屋の奥行が2間以上あり、殿内が内陣・外陣に分かれる熊野本宮大社本殿のような形式を、熊野造または王子造ともいう。
以上のほか、入母屋造の屋根の本殿も多い。これらの本殿にも平入、妻入の両者があり、なかには前後に入母屋造の屋根を並べた、岡山・吉備津(きびつ)神社本殿のような例もある。
これらの社殿のなかには、一定期間たつと造り替える制度があり、これを式年造替(ぞうたい)(遷宮)という。住吉大社は20年、北野神社は50年、出雲大社は60年の式年造替であったが、中世以降しだいに廃れ、現在は伊勢皇大神宮のみ20年ごとに行われている。
[工藤圭章]
神社建築のなかでは、本殿に次いで拝殿、幣殿(へいでん)の数が多い。拝殿のなかで、中央部が通路となるものを割(わり)拝殿といい、大阪・桜井神社のものが有名である。また熊野神社関係では長床(ながとこ)があり、福島・熊野神社のものが古例としてあげられる。近世に入ると、本殿・拝殿、あるいは本殿・幣殿・拝殿を接続した複合社殿が多くつくられているが、このうちでは各地の東照宮に多くみられる権現(ごんげん)造が著名である。古式を伝えるものに京都・北野天満宮があり、本殿と拝殿の間は床が低い石の間になる。
古い時期の神社の付属建築は、伊勢神宮にみるように、本殿の周囲を囲む玉垣、入口のシンボルである鳥居と、神宝を納める倉がおもなものであった。しかし、しだいに拝殿・幣殿のほか、社頭の景観を整えるためのものが加わるようになる。これには回廊、御供所(ごくしょ)、神饌(しんせん)所、祝詞(のりと)舎、舞殿、神楽(かぐら)殿、直会(なおらい)殿、手水屋(ちょうずや)などがある。
[工藤圭章]
『稲垣栄三著『原色日本の美術16 神社と霊廟』(1968・小学館)』▽『渡辺保忠著『日本の美術3 伊勢と出雲』(1964・平凡社)』
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現在のところ古墳時代以前に神社建築と確認される遺構は発見されておらず,神社建築は仏教建築の導入後にその影響をうけて成立したと考えられている。7世紀頃に出雲大社と伊勢神宮が本殿を成立させたと推測されるのが最も早い。有力神社は奈良~平安初期に本殿を成立させるが,一般の神社が本殿を建てるのはさらに遅れたであろう。神社の信仰は複雑多岐にもかかわらず,仏寺とは明確に区別される神社とよばれる建築を成立させたことが注目される。神明造(しんめいづくり)・大社造・住吉造・日吉造(ひえづくり)・八幡造・流造(ながれづくり)・春日造・権現造など今日に伝えられる本殿形式の大半は,古代に成立したと考えられている。従来社殿の成立については自然発生的な経緯を説明するさまざまな仮説が提示されているが,一握りの有力神社のそれぞれの成立の経緯とそれらの勧請(かんじょう)の関係で説明できる部分も多い。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…上記の分類による遺構例は,(1)では大報恩寺本堂(京都),霊山寺本堂(奈良),明通寺本堂(福井),(2)では長弓寺本堂(奈良),(3)では浄土寺本堂(広島),明王院本堂(広島),本山寺本堂(香川),孝恩寺本堂(大阪),鑁阿(ばんな)寺本堂(栃木)がある。 神社建築では,本殿の遺構は滋賀,京都,奈良に集中していて,他地方では少ない。本殿の形式分類では流造(ながれづくり)が大半を占め,特に一間社が過半を占める。…
…このような伝統の根強さは,また新しい様式が起こっても,つねに旧様式が保存されるという点にもつながっている。神社建築はその最も著しい例であり,4~5世紀ころの様式である伊勢神宮の正殿が,60回の造替にもかかわらず今日まで古い形式をそのまま伝えているようなことは,他に例のない点であろう(式年造替)。この伝統維持と関連して,建築様式に地方色が少なく,きわめて画一的であるのも,見逃しえない特色である。…
…喫茶の民間普及はこの時代に著しく,村落の宮座では茶寄合や地下(じげ)の連歌会が行われ,都市では寺社の門前などに一服一銭(いつぷくいつせん)の茶売人が住人や参詣人に湯茶をひさいだ。このような民衆文化の舞台となったのは,村落結合の場である宮座が行われた鎮守社の長床(ながとこ)であるが,惣村の神社建築は惣結合の象徴として,この時期意匠的に最も発達した。すなわち拝殿や幣殿が本殿に連接する建法が生じ,比翼春日造や比翼入母屋造など連棟建築が登場し,屋根の意匠は唐破風(からはふ),千鳥破風が合成されて,仏堂建築の保守化に比し,きわめて自由闊達な展開をとげ,近世の城郭建築にも大きな影響を与えたのである。…
※「神社建築」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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