改訂新版 世界大百科事典 「さいたま」の意味・わかりやすい解説
さいたま[市]
埼玉県南東部の県庁所在地。2001年5月浦和(うらわ),大宮(おおみや),与野(よの)の3市が合体して成立。03年4月政令指定都市に移行し,西,北,大宮,見沼(みぬま),中央,桜,浦和,南,緑の9区を設置。05年4月岩槻(いわつき)市を編入して,岩槻区を置き,現在の10区となる。さいたま新都心を中心に発展が進み,東部では埼玉スタジアムができ,埼玉高速鉄道が地下鉄と連絡して都内に通じている。人口122万2434(2010)。
岩槻
さいたま市北東部の旧市。1954年岩槻町と川通(かわどおり),柏崎,和土(わど),新和(にいわ),慈恩寺,河合の6村が合体,市制。人口10万9247(2000)。岩槻台地と元荒川,綾瀬川の低地よりなる。台地周辺には真福寺遺跡,黒谷貝塚などの縄文時代の遺跡が多い。中心街の岩槻は,1457年(長禄1)太田道灌が築いた岩槻城の城下町として起こり,江戸時代は日光御成道の宿場も兼ねていた。人形づくりは300年余の伝統をもち,1915年には45軒の業者が組合を結成,昭和初期には人形産地としての地位を確立した。台付屋と呼ばれる製造問屋を中心として,頭(かしら),衣装,手足,小道具の工程ごとに分業化が進んだ家内工業で,全国的に販路をもち,雛人形,武者人形,舞踊人形,浮世人形などがつくられている。東武野田線,国道16号,122号線が通じ,東北自動車道岩槻インターチェンジもあり,交通の便がよいため,近年都市化が進んで,人口は1970-95年に1.9倍に増加した。岩槻城跡,児玉南柯が私塾として開講し,のち藩校となった遷喬館,時の鐘などの文化財も多い。79年には県営しらこばと水上公園,80年には県立民俗文化センター(2006年の統合により現在は大宮区の埼玉県立歴史と民俗の博物館)も設置され,94年には目白大学も進出した。
執筆者:新井 寿郎
歴史
地名は岩月,岩築などとも書かれたが,中世では一般に岩付の字をあてている。永徳2年(1382)4月20日の長谷河親資軍忠状(江田文書)に〈岩付御陣〉とあるのが史料上の初見。1457年古河公方足利成氏に対抗するため太田資長(道灌)がここに築城して以来,関東管領上杉氏の支配のもとで太田氏代々の居城となった。その後,太田氏はこの岩付城に拠って後北条氏の北武蔵進出に抗したが,1564年(永禄7)内訌(ないこう)によって太田氏資が父資正を追放したのち後北条氏の支配に服した。氏資のあとは北条氏政の次男氏房が城主として太田氏の名跡を継ぎ,小田原の支城として後北条氏の北武蔵経略の重要拠点となった。90年(天正18)豊臣秀吉の小田原攻略に際し,浅野長政らの攻撃をうけて同年5月落城した。
執筆者:田代 脩 近世には岩槻藩の城下町,日光御成道の宿場で,木綿の取引を中心として栄えた。江戸よりおよそ9里に位置し,近郷商圏の中心であり,市立ては1560年岩槻の商人勝田佐渡守が岩槻城主太田資正から免許された由緒を伝える。90年高力(こうりき)清長岩槻入城とともに4万2145坪(約14ha)の地子が免許され,戦禍で離散した町人の還住がはかられ1・6の六斎市が復活した。この市立てについては1601年(慶長6)高力河内守(清長)が掟書を発し市場の統制をはかっているが,ここで取引される木綿は岩槻木綿と称され特産品の一つである。宿内は市宿,久保宿,渋江,横町,富士宿,林道,田中,新曲輪,新町の9町からなっており,城下九町と称されたが,このなかに代官町,同心町など岩槻藩家中の屋敷地が設けられていた。1774年(安永3)の町況は戸数816戸,人口3666人,うち穀屋が49軒,酒屋12軒,紺屋7軒,豆腐屋15軒などの商家が軒をつらねていた。このほか日光御成道の宿場として本陣,脇本陣を含め旅籠屋が12軒,問屋場2ヵ所,名主を兼帯した問屋が5名,年寄9名が置かれ,交代で伝馬業務を勤めた。宿建人馬は25人25疋,将軍日光社参時は往返将軍の泊り城となったので,動員された助郷人馬で町内は混雑をきわめた。特産品には木綿のほか足袋,人形,そうめん,ネギ,ゴボウなどがあった。明治以降伝馬制の廃止で宿場機能は失われ,かつ廃藩置県で城下町の機能は失われたが,商業都市として発展を続け,1875年(明治8)には戸数889戸,4039人を数えた。次いで79年の郡制施行には南埼玉郡役所が置かれ郡内政治の中心となった。ちなみに岩槻城は1871年に破却されたが城跡だけは残された。1929年大宮~野田間に総武鉄道(後に東武鉄道)が開通し岩槻駅が開設されて近代化が進んだ。
執筆者:本間 清利
浦和
さいたま市南部の旧市。1934年市制。人口48万4845(2000)。大宮台地南部と荒川低地にまたがり,芝川と鴨川が広い浸食谷を刻む。天正年間(1573-92)から市が開かれ,江戸時代は中山道の宿場町であった。1871年(明治4)埼玉県庁が置かれてから県都となったが,83年日本鉄道(現,JR東北本線)の浦和駅が開設された後も,県都としての地位は必ずしも安定せず,97年には県庁熊谷移転が県会で議決されるほどであった。1920年の第1回国勢調査の人口は県内で第9位に止まったが,22年の旧制浦和高校の開校と,翌年の関東大震災で被害が少なかったことが契機となって,静かな平地林へ移り住む東京人が増えた。32年の省線電車(現,JR京浜東北線)の大宮までの乗入れ,36年の北浦和駅の開設などもあって,東京の衛星都市として急速に発展した。第2次世界大戦末期の多数の疎開者の受入れを経て,戦後は南浦和駅の開設(1961),南浦和団地(1962),田島団地(1965)の完成などによって人口は急増し,90年には40万人の大台に乗った。食料品,ゴム製品,機械などの工場も増え,新大宮バイパス沿いには倉庫も進出している。73年には外郭環状線のJR武蔵野線も開通した。JR埼京線が85年に池袋まで,86年に新宿まで,96年恵比寿まで通じたので,都内への交通は一層便利になった。1990年の国勢調査では都内への通勤者は県内へ向かう通勤者の2倍近くもあり,県都でありながら,首都近郊の住宅都市としても発展している。東北自動車道と東京外環自動車道のインターチェンジがある。東部の台地には貴重な農地が残され,野菜,花木の園芸農業が盛んである。商業はふるわなかったが,81年浦和駅西口にデパートが進出し,地元商店のショッピング・ビルも開業して商圏が拡大している。埼玉大学,県立浦和図書館,埼玉会館などの文教施設や各種官公庁,銀行などが集中している。見沼通船堀(つうせんぼり)遺構,田島ヶ原サクラソウ自生地(特天)などがある。
執筆者:新井 寿郎
浦和宿
中山道武蔵国の宿駅。古くは浦羽とも書く。県南東部荒川東岸の大宮台地に位置し,地名は海浜に由来するというが不詳。文献上の初出は1505年(永正2),印融の《杣保隠遁鈔》奥書。古くは高埇(たかはな)郷に属し,98年(慶長3)の印信(いんじん)に浦和村,1726年(享保11)の助郷勤方覚書に浦和町とある。天領で一部寺社領,近世初頭浦和郷1万石は岩槻城主高力氏の預地とされた。検地は1690年(元禄3),1733年(享保18)。近世初頭鷹場御殿が置かれ,のち本陣となった。宿高は736石余,戸口は273軒1230人,定式人馬50人50疋,宿立人馬45人45疋,本陣1,脇本陣3,問屋は星野本陣家が兼帯した。宿の両側に土手が築かれ,宿内は上中下に画される。幕末の定助郷村は37ヵ村,1万2576石。2・7の市は木綿,穀物,布の交易をした。
執筆者:大村 進
大宮
さいたま市北西部の旧市。大宮台地の中央部にある。1940年市制。人口45万6271(2000)。台地周辺を限る綾瀬川と荒川沿いの低地および台地を刻む芝川と鴨川の樹枝状谷には水田が多い。武蔵国一宮氷川神社の門前町として起こり,地名もこれに由来する。江戸時代は中山道の宿場町で,市も立った。1885年高崎線と東北本線の分岐点として大宮駅が開設されてから鉄道の街となり,94年日本鉄道大宮工場が設立され,1927年大宮操車場が開業した。東武野田線(1929),国電(現JR)京浜東北線(1932),国鉄(現JR)川越線(1940)の開設,大宮~赤羽間の三複線化(1968)などにより,県下最大の鉄道交通の要地となり,1982年には東北・上越両新幹線の暫定始発駅となり,83年には新交通システム・ニューシャトルが,85年にはJR埼京線が池袋,86年新宿,96年恵比寿まで通じた。国道17号線と16号線,新大宮バイパスも通じ,バス網も発達しているため,1960年代以降住宅や工場,デパートや銀行なども増え,人口は75年には30万人,90年には40万人をこえた。県下有数の工業都市で,第2次世界大戦前には生糸と輸送機械が中心をなした工業は,1963年の吉野原工業団地造成後,化学工業が主力となった。毎日の乗車人員が20万人をこえる大宮駅前には,そごう・高島屋などのデパート大型店舗や都市銀行が集まり,市内には総合食品卸売市場などもあって,県下の商業流通の中心地である。旧国鉄大宮操車場跡地には,〈さいたま新都心〉が建設された。氷川神社一帯は競技施設や県立博物館(現,埼玉県立歴史と民俗の博物館)などのある県営大宮公園となり,近くには盆栽村がある。
執筆者:新井 寿郎
大宮宿
中山道武蔵国の宿駅で運輸交通の要地。文献上の初見は1368年(正平23・応安1)12月9日の檀那職譲状(米良文書)。足立郡大宮領のうちで,近世初頭には土手宿村,高鼻村を合わせて大宮之村を称し,享保以前は大宮町,以後は大宮宿と見える。元禄年間(1688-1704)大宮宿は,本村,北原,甚之丞新田,右衛門八分,新宿中町,新宿下町,吉敷新田の7組から成り,各組に名主,百姓代が置かれた。天領で,享保年間(1716-36)に新宿中町の一部は見沼用水路敷潰地の替地として旗本伏見氏が知行し,ほかに氷川神領があった。検地は1592年(文禄1,本村),1629年(寛永6),新田検地は1731年(享保16),45年(延享2),町高は正保期(1644-48)475石余,元禄期には7組合わせて1058石余,天保期(1830-44)1282石余となる。江戸から7里16町。近世初頭の中山道は氷川参道を通っていたが,1628年伊奈忠次の指揮で一の鳥居から北方へまっすぐに原野を開削し,両側を地割りして,氷川参道の百姓42軒を移転させ,翌29年検地して6万4313坪余の地子免をもって50人50疋の伝馬役を負担させた。68年(寛文8)大成村ほか7ヵ村,高2300石を定助郷村に指定,江戸後期には31ヵ村,高1万1827石に拡大された。天保期の宿の状況は往還の長さ25町55間,戸口319軒,1508人,本陣1,脇本陣9,旅籠屋25軒,問屋場は4ヵ所。本陣は初め臼倉新右衛門家,文政期(1818-30)以降には山崎喜左衛門家が勤めた。このほか北沢甚之丞家に紀州鷹場本陣が置かれ,松本万右衛門家とともに紀州鷹場鳥見役を勤めた。1775年(安永4)の北沢大火で宿内85軒,3414坪を焼失し,大きな打撃をうけた。市は5・10の六斎市であったが,幕末には宿困窮により衰微し,宿の東の見沼代用水西縁の堀の内河岸,芝川の新河岸などから年貢米や蔬菜類などを江戸へ積み出した。
執筆者:大村 進
与野
さいたま市中部西寄りの旧市。1958年市制。人口8万2937(2000)。市域の大部分が大宮台地上に位置するが,中央部に高沼(こうぬま)の,西部に荒川の低地があり,全体として小起伏に富む。中心の与野本町は,中世に鎌倉街道の宿駅としておこり,江戸時代には中山道の脇往還の宿駅で,4・9の六斎市の立つ市場町でもあった。明治前期の東北本線,高崎線の開通までは,浦和宿や大宮宿をしのぐ隆盛をみたといわれ,今も往時を物語る家並みや商家が残る。市域北東部の国道17号線や西部の新大宮バイパスに沿って,自動車関係の工場や販売店,食品関係の工場が立地している。また,都心まで1時間弱の距離にあるため住宅建設も盛んで,県営の高層住宅もあり,ほぼ全域が住宅地となっている。1985年JR埼京線が大宮から新宿まで開通,市内に三つの駅が開業,30分で新宿へ行ける交通至便な街に変身,94年には〈彩の国さいたま芸術劇場〉もオープンした。北与野駅近くの旧国鉄操車場跡地に〈さいたま新都心〉が建設され,新駅も開業した。鈴谷の妙行寺門前にある大カヤ(天)は,樹齢約1000年といわれる。
執筆者:新井 寿郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報