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アフリカ探検 アフリカたんけん

世界大百科事典 第2版の解説

アフリカたんけん【アフリカ探検】


[古代・中世]
 最古のアフリカ探検家は古代エジプト人であった。前25世紀の第5王朝サフラ王は神に供える香料を入手するためプントの国へ船団を派遣した。プントの国はソマリアの一角と考えられている。前7世紀の第26王朝ネコ2世フェニキア人を雇ってアフリカ周航をさせた,と前5世紀のヘロドトスは記している。内陸部への進出はナイル川をさかのぼって行われた。古代エジプト王国が達した南限ハルツームに近い第6急流地帯である。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

アフリカ探検
あふりかたんけん

古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは紀元前430年ごろ、ナイル川をアスワン付近までさかのぼり、そこでの聞き取りをもとにしてナイル川上流のクシュ王国について記している。その約400年後、無名のギリシア人が『エリトラ海案内記』を書き、現在の東アフリカ海岸部について触れている。ローマ時代には、北アフリカにローマ帝国の植民都市が置かれ、前23年にはローマのエジプト総督ペトロニウスのクシュ遠征、紀元後61年にはネロ皇帝のナイル川上流の探検がなされた。アラブ人がザンジとよんだ東アフリカ海岸部については、10世紀初めのアラブ人旅行家マスウーディー、12世紀のモロッコ人地理学者アル・イドリーシーが、海岸諸都市の繁栄について記しており、1417~1419年には明(みん)の鄭和(ていわ)が大艦隊を率いて来航している。その後1498年にはポルトガル人バスコ・ダ・ガマが東海岸に到来し、それに続いて多くのポルトガル人が海岸都市を脅かした。
 西スーダンでは、早くからサハラ砂漠を越えて隊商路によるアラブ人との接触があったが、アラブ人の目的は塩と交換に金(のちに奴隷)を手に入れることにあった。この地に繁栄した古代ガーナ帝国(8~11世紀末)については11世紀末アラブ人旅行家バクリの記録、続くマリ帝国(13~15世紀末)に関しては14世紀なかばのイブン・バットゥータの記録、ソンガイ帝国(14~16世紀末)については16世紀初めのレオ・アフリカヌスの記録が残されている。
 南部アフリカでは1652年オランダ東インド会社が東インド貿易の補給基地としてケープ・タウンに上陸して以来、会社は移民を奨励して北東内陸部に進出したが、本格的な内陸進出は、1814年のイギリスのケープ植民地化と、その後に続くブーア人(オランダ系)のグレート・トレック(1835~1838)と、オレンジ自由国およびトランスバール共和国の建国である。一方イギリス政府は内陸に無関心であったが、キリスト教の布教は積極的に行われた。1840年ロンドン伝道協会から派遣されたD・リビングストンは、初めベチュアナランドのクルマンに伝道所を開いたが、その後、より内陸への布教を目ざして3回にわたる探検を行った。第1回(1841~1856)は西海岸のルアンダに出て、ふたたび引き返してザンベジ川を河口まで下り、第2回(1858~1864)はザンベジ川をさかのぼり、途中シレ川に入りマラウイ湖を発見、第3回(1866~1873)はルブマ川沿いにマラウイ湖に出て、北上してタンガニーカ湖に向かったが、その後消息を絶ち、探検家スタンリーの捜査でウジジで劇的な会見(1871)をした。
 18世紀後半に設立されたイギリスのアフリカ内陸発見協会(のちの王立地理学協会)の目的は、奴隷貿易の廃止と内陸部に対する地理学上の関心であり、まずその対象をニジェール川の水源、水流、河口の調査に向け、探検家に財政的援助を与えた。マンゴ・パークは2回の探検(1795~1797、1805~1806)で水流を明らかにしたが、途中ブッサで事故死した。ついでデンハム、クラッパートン、オードネーが北アフリカのトリポリから南下してチャド湖に達し、湖とニジェール川が無関係であることを証明した。さらにレイング少佐は川の水源を明らかにし、白人として初めてトンブクトゥに入ったが帰途殺された。一方、R・カイエは独力でガンビアからトンブクトゥに入り、サハラ砂漠を縦断してモロッコのラバトに抜けた。1830年レインダー兄弟はギニアから北上してブッサに達し、川を下って大西洋に出て、初めてニジェール川の河口が明らかにされた。
 ニジェール川問題解決後、王立地理学協会の関心はナイル川水源に向けられた。まずR・F・バートンとJ・H・スピークが1857年ザンジバルから内陸に入り、翌1858年タンガニーカ湖に達したが、バートンが病をいやしている間にスピークが北上してビクトリア湖に達し、ナイル川の水源であると直観した。ついでスピークは、グラントとともに水源問題に決着をつけるため、1860年ザンジバルからビクトリア湖の西岸を回ってブガンダ王国に達し、1862年ビクトリア・ナイル川の流出口を確認した。その後ナイル川沿いにカイロに出る途中、エジプトから南下してきたベイカー夫妻に会い、ベイカーはもう一つの湖アルバート湖を発見した。
 リビングストンの消息不明のニュースが世界中の関心となり、アメリカの『ニューヨーク・ヘラルド』紙記者スタンリーが派遣され、ウジジで劇的会見をしたことはすでに述べたが、スタンリーは1874年ふたたび大湖地方の探検隊を組織し、湖を船で一周してスピーク説を証明した。さらにブガンダ王国に立ち寄ったあと、アルバート湖、エドワード湖を通りタンガニーカ湖に達し、同湖から流出するルアラバ川沿いにコンゴ川に出て、同川を下って1877年初めて河口まで達した。そしてこのスタンリーの探検は、その後に続くアフリカ分割の幕開きでもあった。[林 晃史]
『ベルナール・ド・ボー著、酒井傳六訳『アフリカ探検五千年史』(1962・朝日新聞社)』

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世界大百科事典内のアフリカ探検の言及

【アフリカ】より

… 全大陸的規模でみても,多発する民族紛争,国際紛争と大国を含めた外部諸国のそれへの介入,パクス・アフリカーナを維持するべきアフリカ統一機構(OAU)の内部対立と能力の低下,はたまた深刻化する難民問題など,現代アフリカが当面している苦難は大きいが,90年代以降のアフリカ諸国における民主化の雪崩現象が新しい未来を切り拓く可能性もないわけではない。アフリカ探検アフリカ文学【小田 英郎】。…

【リビングストン】より

…イギリスのアフリカ探検家。産業革命後のビクトリア女王時代のイギリスとアフリカのかかわりを典型的に示す探検家といえる。…

※「アフリカ探検」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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