翻訳|Uganda
アフリカ東部の内陸国。正称はウガンダ共和国Republic of Ugandaで、イギリス連邦に属する。北は南スーダン、東はケニア、南はタンザニア、ルワンダ、西はコンゴ民主共和国(旧ザイール)と国境を接する。面積は24万1550平方キロメートルだが、その約18%はビクトリア湖、キョーガ湖をはじめとする湖が占める。人口2444万2084(2002年センサス)、3463万4650(2014年センサス)。国名は「ガンダ人の国」という意味で、イギリス植民地時代「女王の首飾り」と称されたように、緑豊かな肥沃(ひよく)な土地である。1962年10月9日に独立を達成。首都はカンパラ。
[赤阪 賢]
国土の大半は標高900メートルから1500メートルの高原で、残りは湿地、湖、山地からなる。ビクトリア湖から出た白ナイル川がキョーガ湖を通り、北へ向けて国土を縦断している。国の西部には大地溝帯(グレート・リフト・バレー)が走り、その底部にはアルバート湖、エドワード湖などが連なっている。またコンゴ民主共和国との国境にはルウェンゾリ山地が突出している。その最高峰のマルゲリータ峰は標高5110メートルに達する。ルウェンゾリ山地は赤道直下にもかかわらず氷河を抱き、月の山の伝説で古くから知られている。東部のケニアとの国境地帯はエルゴン山(4321メートル)に続く高地となっている。
国の南部を赤道が走り、気候は熱帯型を示す。雨量は年間を通じて多く、ビクトリア湖北岸地域では年降水量は2000ミリメートルを超える。しかし、北東部のカラモジャ地方や南西部の東アンコーレ地方では年降水量が750ミリメートル以下に下がり、カラモジャ地方では干魃(かんばつ)問題が生じている。年間の平均気温は20℃から22℃の範囲で、全体として比較的快適である。高度により多少変動があり、国全体では7月がもっとも涼しい月だが、雨量はもっとも少ない。ウガンダはかつては熱帯森林に覆われていたが、人間の手で農耕地に改変され、ビクトリア湖などの湖の近辺の湿地に残存するにすぎない。ルウェンゾリ山地やエルゴン山には山地林が発達し、高山性の景観を示す。中部から北部にかけてはサバナが広がる。
北部にキデポ国立公園、カバレガ滝国立公園、西部にルウェンゾリ国立公園があり、ライオン、ヒョウ、ゾウ、クロサイ、シロサイ、キリン、シマウマ、カバ、ワニなどや、イランド、トピ、ローンアンテロープ、オリックス、クーズーなどのカモシカ類など、多様な動物相に恵まれている。また西部の山地にはマウンテンゴリラが生息している。1994年、ブウィンディ、ルウェンゾリの2国立公園が世界遺産の自然遺産に登録された。
[赤阪 賢]
一般に大湖地方と称される肥沃なこの土地には、初めバントゥー系諸族が、ついでナイロート系諸族、さらに牧畜民のハム系諸族が移住してきた。彼らはそれぞれブガンダ、ブニョロ、トロ、アンコーレ、ブソガ、ブギスなどの王国を形成した。これらの王国のなかから14世紀にはブニョロ王国が勢力を伸ばしたが、19世紀に入るとブガンダ王国が優勢になった。そのころヨーロッパ人による東アフリカ内陸部の探検隊はナイル川の水源の確認に熱中し、イギリスの王立地理学協会に派遣されたバートンとスピークが1858年にタンガニーカ湖畔に達した。ついでスピークは1862年にビクトリア湖の北に位置するブガンダ王国に入り、ナイル川の水源がビクトリア湖であることを確認した。1874年にスタンレーはビクトリア湖を一周し、ブガンダ王国のムテサ1世と会見したが、これをきっかけにキリスト教の伝道活動が活発化した。当時イギリスのマッキノンWilliam Mackinnon(1823―1893)は東アフリカ会社を設立、1888年には勅許を得て帝国イギリス東アフリカ会社となり、東アフリカ内陸への進出を目ざした。
ドイツもウガンダへ関心を寄せたが、1890年のイギリス・ドイツ協定によってウガンダはイギリスの勢力下に置かれた。ブガンダ王国ではアラブ商人の持ち込んだイスラム教と、カトリック、プロテスタントのキリスト教との間に勢力争いが繰り広げられた。帝国イギリス東アフリカ会社はルガードFrederick John Dealtry Lugard(1858―1945)を派遣して統治を試み、イスラム教を支持するブニョロ王国など周辺の諸王国を平定した。1894年ウガンダはイギリスの保護領とされた。イギリスは各部族の王国を間接統治する策をとったため、各王国の伝統的な政治形態が温存され、むしろ強化される傾向も生じた。
1910年インド洋沿岸のモンバサから延びたウガンダ鉄道がビクトリア湖東岸のキスムに達したため、以後ウガンダにはワタ栽培が急激に進展し、重要な輸出品となった。またコーヒー栽培も現地のアフリカ人の手によって急激に広まった。隣国のケニアと事情が異なり、白人の入植が比較的少なかったウガンダでも、1920年代になるとアフリカ住民の不満が爆発し、氏族長によるバタカ・アソシエーションが結成されて植民地政府に土地権利の復活を要求した。1938年にはムサジの率いる「キントゥの末裔(まつえい)」という大衆組織が反政府運動をおこした。第二次世界大戦後ブガンダ王国を中心に独立の気運が高くなり、1948年にはウガンダ・アフリカ人農民組合が結成され、価格の高騰したワタの直接販売を要求して立ち上がった。1952年にはウガンダ国民会議(UNC)が創設され、ついで1953年にはケニアのマウマウ団の反乱の影響で危機感をもったブガンダ王国のムテサ2世はロンドンに逃れた。最有力部族であるガンダ人中心のUNCの運動に反発した他部族はウガンダ人民会議(UPC)を結成し、ランゴ人のオボテを党首に選んだ。そのほか多くの政党が分立し、民族主義運動の路線をめぐり対立した。1962年4月の総選挙ではUPCが第一党を占め、首相オボテのもとで10月9日に独立を達成した。
[赤阪 賢]
1963年ウガンダは大統領制をとり、ブガンダ王のムテサ2世が名目上の初代大統領に就任したが、その権限は象徴的なものにとどまった。その後UPC内部の権力争いとガンダ人の独立分離運動により政局は混迷し、結局ムテサ2世は追放され、首相オボテが大統領に就任、1967年9月の新憲法で伝統的な王国を廃止して共和国体制をとった。1969年オボテは人民憲章を発表、旧体制の一掃を図った。さらに1970年には社会主義路線を示し、主要外国企業の国有化を企画し、経済力のあるアジア人追放をもくろんだ。
1971年1月25日、アミン少将による軍事クーデターが起こり、アミンは自ら大統領に就任し、1979年までの8年間独裁者として権威を振るった。その間、1972年のイスラエルとの国交断絶、在住アジア人の国外追放、イギリス企業の接収、タンザニアとの国境紛争、1976年のエンテベ空港事件を契機とした国境紛争など、従来築き上げた諸外国との外交関係が悪化した。また国内でも、政敵の出身部族であるランゴやアチョリなどへの弾圧を図り、そのために約30万人が虐殺されたといわれている。1979年2月、タンザニア北部のモシでアミンの独裁に対抗するウガンダ民族解放戦線(UNLF)が結成された。UNLFはタンザニア軍の直接的な支援を受けてウガンダ領内に進撃し、同年4月ついにアミン政権は打倒された。いったんルレが大統領に就任、ついでUNLFの内紛によりビナイサGodfrey Lukongwa Binaisa(1920―2010)が後を継いだが、1980年選挙で元大統領のオボテが返り咲いた。
1985年7月軍事評議会(議長オケロ)がクーデターを試み、民族抵抗運動(NRM)との内戦状態に陥った。1986年にムセベニYoweri Kaguta Museveni(1944― )がNRMを基盤にして政権を樹立し、アミン時代から続いた混乱を収拾した。1994年に憲法制定のための議会選挙で大統領支持派が勝利し、1995年に新憲法が制定された。1996年5月に実施された大統領選挙ではムセベニが対立候補に圧勝し、続いて国民議会の選挙でも与党が多数の議席を占めた。ムセベニはNRMによる単一政党制を導入したが、これに対し複数政党制採用の是非を問う国民投票が2000年6月に行われた。51%の投票率で、そのうちの9割近くがNRMの単一支配を支持し、複数政党制の導入は見送られた。2001年3月の大統領選挙では、69.3%の得票率でムセベニが再選された。
2005年7月、ふたたび複数政党制採用を問う国民投票が実施され、その結果、複数政党制への回帰が決定された。2006年2月の大統領選挙ではムセベニが59.3%の票を獲得して3選を果たしている。また、反政府勢力の「神の抵抗軍」(LRA)と政府軍の闘いは20年以上に及んでいるが、2006年以後、和平の動きがあるものの、停戦には至っていない。
[赤阪 賢]
ウガンダは温和な気候と広い耕地に恵まれ、人口の約80%が農業を営む農業国である。輸出額においても農産物がほとんどの割合を占めている。おもな商品作物はコーヒー、綿花、紅茶の3品目である。コーヒーは古くからガンダ人によってこの地で生産されていたもので、1920年代に商品作物化が進み、1960年代にはアフリカで第3位の生産量を誇るようになった。ロブスタ種がガンダ地域などの低丘陵地で、またアラビカ種がキゲジやエルゴン山麓(さんろく)で栽培されているが、アラビカ種のほうが良質なため最近ではロブスタ種からアラビカ種への転換が進められている。綿花は20世紀初頭に栽培が奨励され、おもに鉄道に沿って広がった。当時はウガンダでもっとも重要な作物であった。最初カンパラ周辺に限られていたが、しだいに東部テソ地域やキョーガ湖の北部にまで普及した。紅茶は西部のフォート・ポータル近辺や、ビクトリア湖北岸のジンジャが主たる産地である。コーヒー、綿花の栽培が小農の手によって行われているのに比べて、紅茶栽培の場合はプランテーションが発達している。この3品目以外にもサトウキビ、タバコ、ラッカセイ、大豆などの商品作物も栽培されている。商品作物以外の食料作物もあり、ミレット、ソルガム、バナナ、マニオク(キャッサバ)、サツマイモ、プランテン・バナナ(料理用バナナ)、ゴマ、そして豆類がある。またルウェンゾリ地域では米が栽培されており、キョーガ湖近辺の低地でも実験栽培が試みられている。こうした豊かな農業国が成立したのは、イギリス保護領時代にアフリカ人自身の小農経営が促進されたことと、インド人の商業活動が内陸国ウガンダの流通面を確保してきたことの二つが大きな要因であったといえる。
しかし1971年にアミン政権が成立すると、性急な民族化政策がとられ、外国人プランテーションの接収、インド人の国外追放などが行われた。このため主要農産物の生産量は1970年代に減少の一途をたどった。1970年代からの混乱で農村も荒廃したため経済は衰退したが、1980年代後半から再建が進められ、国際通貨基金(IMF)の指導で経済自由化などの政策を採用して、国際的な援助の額も増加した。
ツェツェバエ駆除対策の成功もあって家畜数は増える傾向にあり、1994年、ウシ保有数は約510万頭である。おもな牧畜地域はテソ地区で、搾乳用および食肉用のゼブ種のコブウシが主体である。北東地域では遊牧が行われている。北部および東部からカンパラ周辺ブガンダ地区への家畜の交易が盛んである。漁業は、内陸国ながらビクトリア湖を中心とする湖沼で盛んである。2万人が漁業に携わっており、1993年に22万トンを水揚げした。
鉱業は銅が中心で、ルウェンゾリ山に近いキレンベ鉱山で産出される。この銅山は1956年に開発が始まり、1970年には1万7600トンを生産したが、近年は枯渇傾向にある。このほかコンゴ民主共和国との国境地帯で錫(すず)を産し、1980年の生産額は12万トンであった。また南西部ではタングステンを産し、1980年に13万9000トンであった。高品質の鉄鉱脈がキゲジで発見されていて埋蔵量3000万トンと推定されるが、開発は進んでいない。トロロ地区では石灰岩を産する。
工業は就業人口813万人で全賃金労働者の15%を占める。豊富な水力発電が工業を支え、余剰電力はケニアに供給されている。この電力によりジンジャやトロロに化学、製錬、鉄鋼などの工場がある。食品工業もカンパラやジンジャにビール、冷凍肉、缶詰、製粉などの工場がある。また地方の生産地近辺にも繰綿、製茶、砂糖などの工場が散在している。しかし、工業もインド人の手によるところが大きかったため、アミン以後低迷をかこっている。
[赤阪 賢]
ウガンダは政治的、文化的に東部地域、西部地域、ブガンダ地域、北部地域の四つに区分されている。東部地域にはブギス、ブケディ、ブソガ、セベイ、テソの各地区が含まれる。エルゴン山の麓(ふもと)にブギス人などのバントゥー系諸族や、ナイロ・ハム系のテソ人などが居住し、ナイル川に沿ってバントゥー系のブソガ人などが居住している。西部地域はブニョロ、トロ、アンコーレ、キゲジの各地区からなる。これらの地区にはブニョロ、トロ、アンコーレなどの部族がそれぞれ居住し、かつては王国を形成していた。この地域ではとくに長角のアンコーレ牛の牧畜が盛んである。ビクトリア湖の北西にあたるブガンダ地域は、東メンゴ、西メンゴ、マサカ、ムベンデの各地区を含み、ガンダ人がおもに居住する、ウガンダでもっとも豊かな地域である。北部地域はカラモジャ、ランゴ、アチョリ、マディ、西ナイルの各地区からなる。これらの部族のなかでもっとも有力なのはガンダ人で、ついでテソ人、アンコーレ人、ブソガ人、ランゴ人、ブギス人などが続く。また隣国ルワンダから流入したバニャルワンダ人が増え、近年国境付近で紛争が生じている。
ウガンダ全土の人口密度は1平方キロメートル当り102人であるが、ビクトリア湖周辺では約300人に達する。都市化はあまり進まず、都市人口は約12%(2003)にすぎない。カンパラが最大の都市で、ついでジンジャ、ムベイルが続く。交通は東アフリカでも発達しているほうで、道路は延長2万7222キロメートル(1985)、約3分の1が舗装されている。モンバサ―ナイロビ―カンパラを結ぶ鉄道はカセセやグルへの支線をもち、国内で1286キロメートルに及ぶ。エンテベの国際空港はケニアなどのアフリカ諸国やヨーロッパ諸国への便をもっている。
教育制度も比較的整備されており、1989年で7905の小学校(生徒数約260万)があった。さらに教員養成の大学のほか、工科・商科大学では中堅技術者を養成している。1922年にカンパラに建設されたマケレレ大学は、最初は工業高校であったが、東アフリカ全体の高等教育機関となり、1950年には大学となって、多彩な人材を生んだ。そのなかにはタンザニアの元大統領ニエレレなども含まれる。アミン時代にインテリや専門家が国外に逃れたため、教育や文化の発展が停滞した。
[赤阪 賢]
第二次世界大戦前、日本の綿紡業は東アフリカの原綿を求め、1933~1937年のウガンダ綿の輸出の20%を日本が占めた経緯がある。その後も日本との貿易関係は継続し、今日では輸入でウガンダの貿易相手国の上位を占めており、日本側の恒常的出超傾向が続いている。1994年にムセベニ大統領が来日、1997年には日本大使館が設置された。
[赤阪 賢]
基本情報
正式名称=ウガンダ共和国Republic of Uganda
面積=24万1550km2
人口(2009)=3270万人
首都=カンパラKampala(日本との時差=-6時間)
主要言語=スワヒリ語,英語
通貨=ウガンダ・シリングUganda Shilling
東アフリカの赤道直下にある内陸国で,ケニア,タンザニア,ルワンダ,コンゴ民主共和国,スーダンに接する。南にビクトリア湖,西にエドワード湖やアルバート湖,中央部にキョーガ湖などの大湖があり,国土の美しさから〈アフリカの真珠〉と呼ばれている。
執筆者:吉田 昌夫
ウガンダは陸封国であるが,湖の面積が国土の約20%を占める。コンゴ民主共和国国境に近い西部は著しく起伏に富み,ケニアとの国境にはエルゴン山(標高4321m)がそびえ立つが,ウガンダの地形は概して単調な高原である。第三紀以前には湖も火山もなく,今よりはるかに単調で,西部の諸河川もコンゴ民主共和国の方に流れていたといわれる。現在のような地形になったのは第三紀以降の大地殻変動の結果である。西部一帯が著しく隆起し,南北に走る多くの断層によって西リフト・バレーが形成された。アルバート湖,エドワード湖など一連の細長い湖はこの地溝帯の中にできた深い湖である。昔から〈月の山〉として知られた,ナイル川の一源流をなすルウェンゾリ山(5110m)はこの地帯にある。ウガンダ南西隅のムフンビラ火山の活動もこの地殻変動と関連している。一方,エルゴン山とその北にあるカラモジャ地方の火山は,ケニアの東リフト・バレーに伴うものである。東西の隆起地帯の間にあって相対的に沈下した皿状の盆地にできたビクトリア湖は最深部でも80mしかない。首都カンパラの〈七つの丘〉は,堅いラテライトにおおわれた高原が幅広い谷によって分断されてできたもので,国の中南部ではこのように頂部の平らな丘陵が特徴的である。
標高が1000mを超える所が多いので,年平均気温は一般に21~23℃程度であるが,季節変化がほとんどないことに赤道気候の特徴が表れている。東アフリカ3国のなかでは最も降水に恵まれている。ビクトリア湖西岸と南西部の山岳地帯で年2000mm近い降水量があり,ときには激しい雹に見舞われる。北東部のカラモジャ地方は年降水量が500mmにもならず,乾燥が著しい。
執筆者:中村 和郎
国名が〈ガンダ族の国〉に由来するように,ガンダ族が最大の人口(1983年で17.8%)を持つ。ついでテソ族(8.9%),アンコーレ族(8.2%),ソガ族(8.2%),ギス族(7.2%),チガ族(6.8%),ランゴ族(6.0%)などが有力である。
ウガンダの住民構成は,さまざまな種族の移住の歴史により複雑になっている。大湖地方とよばれるこの土地には,15世紀ごろ北方よりナイル語系(ナイロート)の牛牧民が侵入を始め,バントゥー語系の農耕民を制圧して王国を形成した。そのなかでも最も強力であったのはブニョロ王国で,現在のウガンダの南半分の領域を支配した。またその周辺に,ブガンダ,ソガ,トロ,コーキなどの小王国も生まれ,西にはアンコーレ王国がブニョロ王国に対抗していた。17世紀半ばに,ブニョロ王国の勢力は頂点に達したが,その後ブガンダ王国が代わって強大になった。ブガンダ王国の繁栄は,インド洋沿岸との長距離交易の独占に基づいていた。また王を中心とする中央集権制度を整備し,王は強力な近衛兵団を周囲に置いて,国内を軍事統治することができた。
このように多様な住民構成がみられるが,ビクトリア湖北方から西方にかけての肥沃な土地にはバントゥー語系の言語を話す農耕民が居住し,人口密度も高い。キョーガ湖の北方の乾燥地帯は人口密度も低く,ナイル語系のアチョリ族,ランゴ族,アルール族,ナイル・ハム語系のカラモジョン族,テソ族,スーダン語系のルグバラ族などが居住し,カラモジョン族などは牧畜民としての生活様式を強く保持している。ウガンダの公用語は英語で,共通語としてスワヒリ語も広まっている。キリスト教はカトリックが特に南部地方によく普及している。またイスラム教徒もかなり多い。ウガンダの住民構成の複雑さは近年の国内政治にも影響を残した。最大勢力のガンダ族の力を巧妙に排除したオボテ大統領が失脚したあと,クーデタにより政権奪取をしたイディ・アミンは政敵の部族を弾圧し,深刻な国内不和を招いた。その後返り咲いたオボテ大統領の前にも,部族間の対立に根ざした問題が立ちはだかり,政情不安が続いた。
執筆者:赤阪 賢
ビクトリア湖北岸から西岸にわたる肥沃な半月形の地域に15世紀ごろ牛牧民が北あるいは西より徐々に侵入し,以前から農耕を行っていた住民を従えて支配者になっていった。神話的存在として名高いバチュウェジBachwezi王朝はこのような支配者の一つと考えられているが,1500年ころにナイル語系のビト王族がバチュウェジを追い出し,その王国キタラをうけついでブニョロ王国をつくり,現在のウガンダの南半分の地域をほぼ従えた。1650年ころブニョロ王国の繁栄は頂点に達し,以後これに代わって南に接するブガンダ王国が強大となった。ブガンダは他の諸王国より中央集権的で,カバカと呼ばれる王のもとに任命制の首長が領地を治め,統治機構がよく整備されていた。18世紀にはインド洋沿岸との通商路が開かれ,アラブ商人が到来した。
19世紀中ごろ,ヨーロッパでナイル川の源をつきとめるための探検熱が高まり,イギリス人のスピークJ.H.SpekeとグラントJ.A.Grantの2人が1862年に白人として初めてブガンダ王国に入った。ついで訪れたスタンリーの新聞記事によるキリスト教伝道のよびかけに応じ,70年代末に宣教師が相ついでブガンダに到着,布教活動を始めたため,80年代末のムワンガ王の時代にイスラム教徒とキリスト教徒の間に宗教戦争が起こって後者が優位に立った。東アフリカの分割をめぐって争っていたイギリスとドイツは,90年の協定でウガンダ(ブガンダとその周辺)をイギリスの勢力範囲と定め,ウガンダは帝国イギリス東アフリカ会社の統治下に置かれることになった。同会社の先遣隊長ルガードはブニョロ王カバレガの強力な抵抗にあい,イギリス政府に統治の責任を負うよう要請,イギリスはこれを承認して94年にウガンダ保護領成立を宣言した(イギリス領東アフリカ)。ブガンダ王国は1900年の協定で保護領の一州として広範な自治を許されることになり,土地制度を改革して私有制を全土の半分(マイロランドと呼ばれた)に導入した。イギリスによる鉄道の建設は,01年にインド洋岸よりビクトリア湖岸までが開通してウガンダの経済開発に役立った。とくに03年に導入された綿作は急速に広がり,10年には綿花が最大の輸出品となった。22年には東アフリカ唯一の高等教育機関としてマケレレ大学がカンパラに設立され,中等教育の水準も周辺の諸地域より抜群に高かった。
第2次世界大戦後の49年,土地問題などをめぐるブガンダ王国指導層への不満や,インド人による綿花買付け独占への反感から民衆暴動が発生した。52年には民族主義政党,ウガンダ国民会議(UNC)がムサジI.K.Musaziの指導のもとに創設されて独立をめざした。翌年ブガンダ王ムテサ2世2世E.F.Mutesaがイギリスの東アフリカ連邦結成への動きに反対してロンドンに追放されると,UNCも王の帰還促進運動に加わったが,ブガンダ王国の政治運動に巻き込まれ,しだいに分裂を始めた。ムテサ2世は55年にイギリス政府の譲歩により帰還を許され,王党派の勢力が強まったため,UNC党員のうちブガンダ政治にあきたりない北部や西部出身者は脱党し,59年にウガンダ人民会議(UPC)を創設した。一方,王党派は61年にカバカ・イェッカ(KY)という政党をつくり,イギリスとの独立交渉の際,ブガンダ王国はウガンダの他地域から分離独立すべきことを主張,同年の立法審議会の総選挙をボイコットした。選挙はブガンダの少数派カトリック信徒に基盤を持つ民主党(DP。1956創設)が勝利し,DP党首キワヌカB.Kiwanukaがイギリス政府との独立憲法制定交渉にあたった。この会議でブガンダは連邦の地位を,他の3王国ブニョロ,トロ,アンコーレは半連邦の地位を認められ,王国形態をとらない他県と区別されることになった。62年の総選挙ではUPCが第一党となってKYと連立内閣を組み,UPC党首オボテA.M.Oboteを首相として同年10月9日に独立した。当時はイギリス女王が元首であった。
独立後1年たってウガンダは大統領制をとり,国会でムテサ2世が大統領に選ばれたが,その権限は名目的なものに限られていた。オボテ首相が64年にブガンダとブニョロ間の境界紛争に関して住民投票を断行し,ブニョロ側に係争地域を編入すると,ブガンダ王党派は反オボテ運動を展開,問題は大統領と首相との対立に発展していった。一方,オボテは66年3月に憲法を停止して全権を掌握,新憲法草案を国会に提出して連邦制の廃止と強力な大統領制の導入をはかった。そして同年5月,ウガンダ政府軍がブガンダ王宮を急襲,ムテサ2世はイギリスに亡命した。67年9月には共和国憲法が成立し,中央集権制の下,オボテが大統領となった。その後69年にDPは非合法化され,事実上UPCの一党制国家となり,政府は社会主義的路線をとり始めた。
71年1月,オボテがシンガポールで開かれたイギリス連邦首脳会議に出席中,陸軍司令官アミンIdi Aminがクーデタを起こし,国会を停止して軍事政権を樹立した。72年にアミンはイスラエル人,ウガンダ国籍を持たないインド系在住アジア人約5万人(主としてイギリス国籍)の国外追放を命じ,彼らの財産のほとんどを没収した。この措置に抗議したイギリス,オボテの亡命先のタンザニアやケニアとの関係が悪化し,イスラム教徒のアミンはリビアに軍事援助をあおいだが,ウガンダ軍隊内ではクーデタ未遂事件が頻発した。アミン政権による国内反対派の弾圧,虐殺は激しさの度合を増し,政府要職者の国外脱出が続出,77年にはウガンダ教会大主教も殺害されて国際的な非難の的となった。
78年11月,アミンの軍隊がタンザニア西部の国境地帯を占領したが,タンザニア軍はウガンダ民族解放戦線(1979年3月結成)とともに逆にウガンダに進攻し,79年4月にカンパラに入り,アミンは国外に逃れた。元マケレレ大学副学長のルレを長とする暫定政権が発足したが,ルレは内部対立から2ヵ月後に解任され,次のビナイサ政権も80年5月のクーデタで失脚し,経済復興は手間取ることになった。同年12月に行われた総選挙でUPCはDPを破り,オボテが10年ぶりに大統領に返り咲いた。
農業が中心で住民の80%以上が依存し,国内総生産の50%強を占める。工業は一次産品加工と繊維工業がほとんどである。主要な食糧作物はプランテン・バナナ,シコクビエ,モロコシ,キャッサバなどで,輸出向け作物ではコーヒー,綿花,茶が重要である。綿花は植民地時代初期より小農民によって生産され,1970年には生産量は8万5000tに達していたが,アミン政権下の77年には1万4000tに低下した。同じ期間に,コーヒーは世界第4位の生産量を誇った70年の22万1000tから15万5900tへ,紅茶は1万8200tから1万5200tへと下落し,インド系アジア人所有の大プランテーションで栽培されたサトウキビの生産量も大幅に減少した。輸出額ではコーヒー,綿花についで第3位を占めてきた粗銅も同時期に年産1万7000tから2500tに落ちた。この結果,長年貿易収支の黒字を保ってきた経済事情は悪化し,経常収支では大幅な赤字となり,加えて78-80年の政治混乱でインフラストラクチャー(都市の基幹となる施設)が破壊され,極度のインフレと経済活動の停滞に見舞われた。第2次オボテ政権はIMFの資金の支援を得て経済自由化政策をとり,アミン政権下に追い出されたアジア人資本の再導入を図ったが,インフレ率が年100%以上に達し,農産物輸出も回復を見せないうちに,クーデタで倒れた。
執筆者:吉田 昌夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
東アフリカ,赤道直下の内陸国。17世紀半ばブニョロ王国が栄え,18世紀ブガンダ王国が強大化した。1890年イギリスの勢力範囲として帝国イギリス東アフリカ会社の統治下に入り,94年イギリスのウガンダ保護領となり,アフリカ人小農中心の綿花栽培が発展。第二次世界大戦後民族運動が高揚し,ブガンダ王国をめぐる政争のなか,1962年オボテ初代首相のもとで独立を達成し,67年共和政移行。アミン政権(1971~79)後もクーデタが頻発し,政情は安定しないが経済的には復興。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…植民地時代のケニア,ウガンダ,タンガニーカ,ザンジバルの4地域の総称。場合によってはインド洋上のセーシェル諸島も含める。…
※「ウガンダ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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