翻訳|Uganda
基本情報
正式名称=ウガンダ共和国Republic of Uganda
面積=24万1550km2
人口(2009)=3270万人
首都=カンパラKampala(日本との時差=-6時間)
主要言語=スワヒリ語,英語
通貨=ウガンダ・シリングUganda Shilling
東アフリカの赤道直下にある内陸国で,ケニア,タンザニア,ルワンダ,コンゴ民主共和国,スーダンに接する。南にビクトリア湖,西にエドワード湖やアルバート湖,中央部にキョーガ湖などの大湖があり,国土の美しさから〈アフリカの真珠〉と呼ばれている。
執筆者:吉田 昌夫
ウガンダは陸封国であるが,湖の面積が国土の約20%を占める。コンゴ民主共和国国境に近い西部は著しく起伏に富み,ケニアとの国境にはエルゴン山(標高4321m)がそびえ立つが,ウガンダの地形は概して単調な高原である。第三紀以前には湖も火山もなく,今よりはるかに単調で,西部の諸河川もコンゴ民主共和国の方に流れていたといわれる。現在のような地形になったのは第三紀以降の大地殻変動の結果である。西部一帯が著しく隆起し,南北に走る多くの断層によって西リフト・バレーが形成された。アルバート湖,エドワード湖など一連の細長い湖はこの地溝帯の中にできた深い湖である。昔から〈月の山〉として知られた,ナイル川の一源流をなすルウェンゾリ山(5110m)はこの地帯にある。ウガンダ南西隅のムフンビラ火山の活動もこの地殻変動と関連している。一方,エルゴン山とその北にあるカラモジャ地方の火山は,ケニアの東リフト・バレーに伴うものである。東西の隆起地帯の間にあって相対的に沈下した皿状の盆地にできたビクトリア湖は最深部でも80mしかない。首都カンパラの〈七つの丘〉は,堅いラテライトにおおわれた高原が幅広い谷によって分断されてできたもので,国の中南部ではこのように頂部の平らな丘陵が特徴的である。
標高が1000mを超える所が多いので,年平均気温は一般に21~23℃程度であるが,季節変化がほとんどないことに赤道気候の特徴が表れている。東アフリカ3国のなかでは最も降水に恵まれている。ビクトリア湖西岸と南西部の山岳地帯で年2000mm近い降水量があり,ときには激しい雹に見舞われる。北東部のカラモジャ地方は年降水量が500mmにもならず,乾燥が著しい。
執筆者:中村 和郎
国名が〈ガンダ族の国〉に由来するように,ガンダ族が最大の人口(1983年で17.8%)を持つ。ついでテソ族(8.9%),アンコーレ族(8.2%),ソガ族(8.2%),ギス族(7.2%),チガ族(6.8%),ランゴ族(6.0%)などが有力である。
ウガンダの住民構成は,さまざまな種族の移住の歴史により複雑になっている。大湖地方とよばれるこの土地には,15世紀ごろ北方よりナイル語系(ナイロート)の牛牧民が侵入を始め,バントゥー語系の農耕民を制圧して王国を形成した。そのなかでも最も強力であったのはブニョロ王国で,現在のウガンダの南半分の領域を支配した。またその周辺に,ブガンダ,ソガ,トロ,コーキなどの小王国も生まれ,西にはアンコーレ王国がブニョロ王国に対抗していた。17世紀半ばに,ブニョロ王国の勢力は頂点に達したが,その後ブガンダ王国が代わって強大になった。ブガンダ王国の繁栄は,インド洋沿岸との長距離交易の独占に基づいていた。また王を中心とする中央集権制度を整備し,王は強力な近衛兵団を周囲に置いて,国内を軍事統治することができた。
このように多様な住民構成がみられるが,ビクトリア湖北方から西方にかけての肥沃な土地にはバントゥー語系の言語を話す農耕民が居住し,人口密度も高い。キョーガ湖の北方の乾燥地帯は人口密度も低く,ナイル語系のアチョリ族,ランゴ族,アルール族,ナイル・ハム語系のカラモジョン族,テソ族,スーダン語系のルグバラ族などが居住し,カラモジョン族などは牧畜民としての生活様式を強く保持している。ウガンダの公用語は英語で,共通語としてスワヒリ語も広まっている。キリスト教はカトリックが特に南部地方によく普及している。またイスラム教徒もかなり多い。ウガンダの住民構成の複雑さは近年の国内政治にも影響を残した。最大勢力のガンダ族の力を巧妙に排除したオボテ大統領が失脚したあと,クーデタにより政権奪取をしたイディ・アミンは政敵の部族を弾圧し,深刻な国内不和を招いた。その後返り咲いたオボテ大統領の前にも,部族間の対立に根ざした問題が立ちはだかり,政情不安が続いた。
執筆者:赤阪 賢
ビクトリア湖北岸から西岸にわたる肥沃な半月形の地域に15世紀ごろ牛牧民が北あるいは西より徐々に侵入し,以前から農耕を行っていた住民を従えて支配者になっていった。神話的存在として名高いバチュウェジBachwezi王朝はこのような支配者の一つと考えられているが,1500年ころにナイル語系のビト王族がバチュウェジを追い出し,その王国キタラをうけついでブニョロ王国をつくり,現在のウガンダの南半分の地域をほぼ従えた。1650年ころブニョロ王国の繁栄は頂点に達し,以後これに代わって南に接するブガンダ王国が強大となった。ブガンダは他の諸王国より中央集権的で,カバカと呼ばれる王のもとに任命制の首長が領地を治め,統治機構がよく整備されていた。18世紀にはインド洋沿岸との通商路が開かれ,アラブ商人が到来した。
19世紀中ごろ,ヨーロッパでナイル川の源をつきとめるための探検熱が高まり,イギリス人のスピークJ.H.SpekeとグラントJ.A.Grantの2人が1862年に白人として初めてブガンダ王国に入った。ついで訪れたスタンリーの新聞記事によるキリスト教伝道のよびかけに応じ,70年代末に宣教師が相ついでブガンダに到着,布教活動を始めたため,80年代末のムワンガ王の時代にイスラム教徒とキリスト教徒の間に宗教戦争が起こって後者が優位に立った。東アフリカの分割をめぐって争っていたイギリスとドイツは,90年の協定でウガンダ(ブガンダとその周辺)をイギリスの勢力範囲と定め,ウガンダは帝国イギリス東アフリカ会社の統治下に置かれることになった。同会社の先遣隊長ルガードはブニョロ王カバレガの強力な抵抗にあい,イギリス政府に統治の責任を負うよう要請,イギリスはこれを承認して94年にウガンダ保護領成立を宣言した(イギリス領東アフリカ)。ブガンダ王国は1900年の協定で保護領の一州として広範な自治を許されることになり,土地制度を改革して私有制を全土の半分(マイロランドと呼ばれた)に導入した。イギリスによる鉄道の建設は,01年にインド洋岸よりビクトリア湖岸までが開通してウガンダの経済開発に役立った。とくに03年に導入された綿作は急速に広がり,10年には綿花が最大の輸出品となった。22年には東アフリカ唯一の高等教育機関としてマケレレ大学がカンパラに設立され,中等教育の水準も周辺の諸地域より抜群に高かった。
第2次世界大戦後の49年,土地問題などをめぐるブガンダ王国指導層への不満や,インド人による綿花買付け独占への反感から民衆暴動が発生した。52年には民族主義政党,ウガンダ国民会議(UNC)がムサジI.K.Musaziの指導のもとに創設されて独立をめざした。翌年ブガンダ王ムテサ2世2世E.F.Mutesaがイギリスの東アフリカ連邦結成への動きに反対してロンドンに追放されると,UNCも王の帰還促進運動に加わったが,ブガンダ王国の政治運動に巻き込まれ,しだいに分裂を始めた。ムテサ2世は55年にイギリス政府の譲歩により帰還を許され,王党派の勢力が強まったため,UNC党員のうちブガンダ政治にあきたりない北部や西部出身者は脱党し,59年にウガンダ人民会議(UPC)を創設した。一方,王党派は61年にカバカ・イェッカ(KY)という政党をつくり,イギリスとの独立交渉の際,ブガンダ王国はウガンダの他地域から分離独立すべきことを主張,同年の立法審議会の総選挙をボイコットした。選挙はブガンダの少数派カトリック信徒に基盤を持つ民主党(DP。1956創設)が勝利し,DP党首キワヌカB.Kiwanukaがイギリス政府との独立憲法制定交渉にあたった。この会議でブガンダは連邦の地位を,他の3王国ブニョロ,トロ,アンコーレは半連邦の地位を認められ,王国形態をとらない他県と区別されることになった。62年の総選挙ではUPCが第一党となってKYと連立内閣を組み,UPC党首オボテA.M.Oboteを首相として同年10月9日に独立した。当時はイギリス女王が元首であった。
独立後1年たってウガンダは大統領制をとり,国会でムテサ2世が大統領に選ばれたが,その権限は名目的なものに限られていた。オボテ首相が64年にブガンダとブニョロ間の境界紛争に関して住民投票を断行し,ブニョロ側に係争地域を編入すると,ブガンダ王党派は反オボテ運動を展開,問題は大統領と首相との対立に発展していった。一方,オボテは66年3月に憲法を停止して全権を掌握,新憲法草案を国会に提出して連邦制の廃止と強力な大統領制の導入をはかった。そして同年5月,ウガンダ政府軍がブガンダ王宮を急襲,ムテサ2世はイギリスに亡命した。67年9月には共和国憲法が成立し,中央集権制の下,オボテが大統領となった。その後69年にDPは非合法化され,事実上UPCの一党制国家となり,政府は社会主義的路線をとり始めた。
71年1月,オボテがシンガポールで開かれたイギリス連邦首脳会議に出席中,陸軍司令官アミンIdi Aminがクーデタを起こし,国会を停止して軍事政権を樹立した。72年にアミンはイスラエル人,ウガンダ国籍を持たないインド系在住アジア人約5万人(主としてイギリス国籍)の国外追放を命じ,彼らの財産のほとんどを没収した。この措置に抗議したイギリス,オボテの亡命先のタンザニアやケニアとの関係が悪化し,イスラム教徒のアミンはリビアに軍事援助をあおいだが,ウガンダ軍隊内ではクーデタ未遂事件が頻発した。アミン政権による国内反対派の弾圧,虐殺は激しさの度合を増し,政府要職者の国外脱出が続出,77年にはウガンダ教会大主教も殺害されて国際的な非難の的となった。
78年11月,アミンの軍隊がタンザニア西部の国境地帯を占領したが,タンザニア軍はウガンダ民族解放戦線(1979年3月結成)とともに逆にウガンダに進攻し,79年4月にカンパラに入り,アミンは国外に逃れた。元マケレレ大学副学長のルレを長とする暫定政権が発足したが,ルレは内部対立から2ヵ月後に解任され,次のビナイサ政権も80年5月のクーデタで失脚し,経済復興は手間取ることになった。同年12月に行われた総選挙でUPCはDPを破り,オボテが10年ぶりに大統領に返り咲いた。
農業が中心で住民の80%以上が依存し,国内総生産の50%強を占める。工業は一次産品加工と繊維工業がほとんどである。主要な食糧作物はプランテン・バナナ,シコクビエ,モロコシ,キャッサバなどで,輸出向け作物ではコーヒー,綿花,茶が重要である。綿花は植民地時代初期より小農民によって生産され,1970年には生産量は8万5000tに達していたが,アミン政権下の77年には1万4000tに低下した。同じ期間に,コーヒーは世界第4位の生産量を誇った70年の22万1000tから15万5900tへ,紅茶は1万8200tから1万5200tへと下落し,インド系アジア人所有の大プランテーションで栽培されたサトウキビの生産量も大幅に減少した。輸出額ではコーヒー,綿花についで第3位を占めてきた粗銅も同時期に年産1万7000tから2500tに落ちた。この結果,長年貿易収支の黒字を保ってきた経済事情は悪化し,経常収支では大幅な赤字となり,加えて78-80年の政治混乱でインフラストラクチャー(都市の基幹となる施設)が破壊され,極度のインフレと経済活動の停滞に見舞われた。第2次オボテ政権はIMFの資金の支援を得て経済自由化政策をとり,アミン政権下に追い出されたアジア人資本の再導入を図ったが,インフレ率が年100%以上に達し,農産物輸出も回復を見せないうちに,クーデタで倒れた。
執筆者:吉田 昌夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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東アフリカ,赤道直下の内陸国。17世紀半ばブニョロ王国が栄え,18世紀ブガンダ王国が強大化した。1890年イギリスの勢力範囲として帝国イギリス東アフリカ会社の統治下に入り,94年イギリスのウガンダ保護領となり,アフリカ人小農中心の綿花栽培が発展。第二次世界大戦後民族運動が高揚し,ブガンダ王国をめぐる政争のなか,1962年オボテ初代首相のもとで独立を達成し,67年共和政移行。アミン政権(1971~79)後もクーデタが頻発し,政情は安定しないが経済的には復興。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…植民地時代のケニア,ウガンダ,タンガニーカ,ザンジバルの4地域の総称。場合によってはインド洋上のセーシェル諸島も含める。…
※「ウガンダ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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