カメルーン(英語表記)Cameroun

改訂新版 世界大百科事典 「カメルーン」の意味・わかりやすい解説

カメルーン
Cameroun

基本情報
正式名称カメルーン共和国République du Cameroun 
面積=47万5650km2 
人口(2010)=1941万人 
首都=ヤウンデYaoundé(日本との時差=-8時間) 
主要言語フランス語,英語,多くの民族語 
通貨=CFA(中部アフリカ金融協力体)フランFranc de la Coopération Financière en Afrique Centrale

中部アフリカ,ギニア湾に面した共和国。15世紀にヨーロッパ人として最初に渡来したポルトガル人が,近海でとれるエビ(ポルトガル語でカマロンイシュ)にちなんで,この地方を呼びならわしたのが国名の由来といわれている。
執筆者:

アフリカ大陸のさまざまな特質を一つの国の中にもつので,〈ミニ・アフリカ〉と呼ばれる。すなわちアフリカ大陸を構成する基盤岩類,湿潤熱帯下の円頂丘群,サバンナの島状丘とペディメント斜面といった地形のみならず,南の熱帯雨林からサバンナ,チャド湖へ至るステップのサヘル帯まで,乾湿による植生や気候の帯状分布が顕著な自然景観が展開する。

 詳細にみれば,ギニア湾岸の南部は岩石海岸,その北はカメルーン山の麓を除いて,3000mmを超える年降水量に支えられてマングローブ海岸となる。海岸低地は白亜紀以降の堆積岩からなり,背後には波状の小起伏凸型斜面群が標高400m付近まで続く。さらに中・南部一帯は標高630~850mの高原で,南の雨林地域にも北のサバンナ化した地域にもやはり赤色に深層風化した波状の凸型斜面群が分布する。北緯6~8°で国土を南北に二分するアダマワ高原が標高900~1100mと1200m以上の地形面をもって東西に走る。ここは北流するベヌエ川,南流するサナガ川など主要河川の源流部をなし,〈水の宮廷château d'eau〉と呼ばれる。以上の各高原はすべてゴンドワナ大陸を構成する変成岩類,花コウ岩類からなる。アダマワ高原の北側の低地帯は,ベヌエ川流域および国境線の形状から〈アヒルの嘴〉と呼ばれる地域まで,島状丘と緩斜面のペディプレーンがステップ景観として広がる。西のナイジェリア側には花コウ岩類を主体とし,標高900mほどのマンダラ山地がある。その一角のカプシキ周辺には第三紀末の粗面岩からなる岩塔群があり,奇勝をなす。この山地の北東部には8000年前の湿潤期に湖面上昇した巨大なチャド湖の浜堤が約150kmにわたり残っている。さらにこの北は,雨季に冠水しチャド湖へつづくヤエレ低地帯である。

 西カメルーンは,ギニア湾内のビオコ島(フェルナンド・ポー島)などから北東~南西方向に走る構造線沿いにカメルーン山,マネングーバ山,バンブート山などの火山列が続く。これらの火山群とともに北西部には標高1400mほどのバミレケ高原があり,2000mm前後の年降水量があるが,人為による林地の後退などで裸地化が著しい。現在,北緯4°あたりまで,1500mm以上の年降水量に支えられて熱帯雨林となっているが,約2万年前ころの最終氷期にはサバンナ化し,森林がほぼ消滅したことが最近の研究で明らかになりつつある。また現在のサバンナは人為的な森林の伐採と火入れなどにより林地が後退したものが多いようで,人々の生活様式や居住域の変動と自然環境の変化との相互関係があらためて問題となっている。
執筆者:

アフリカの国々のなかで最も多様な住民構成を示し,およそ200の部族が居住している。言語系統も複雑であるが,だいたい三つの区分に大別できる。(1)アフリカ大陸中部・南部に大きな分布を示すバントゥー語族の分布の北限を示す線が,この国の中央部に引かれる(バントゥー諸語)。バントゥー語族の起源は一説にはカメルーン地域に求められるが,今日,バントゥー語系部族はカメルーン南部の森林地帯に住む。おもな部族は首都ヤウンデに多数居住するエウォンド族や,そのほかブールー族,バネ族,エトン族などファン族と総称されるグループである。ファンはヨーロッパ人の到来時,鉄の技術で驚嘆させた。(2)北西部のカメルーン高地には,バントゥー語に近縁の言語を話す小規模の部族が点在しており,それぞれ小さな王国を形成する首長制社会を維持している。バミレケ族は人口約40万を超えるが,そのほかバムン族,ティカル族などが居住する。これらの諸部族は,仮面やブロンズ彫刻,ビーズ細工など,華麗な物質文化を誇っている。(3)中央部のアダマワ高原から以北の北カメルーンには,スーダン語族に属するブーム族,ドゥル族,バヤ族などの土着の部族に加えて,西方や北方からフルベ(フラニ)族,ハウサ族,ボルヌー族などが来住している。アヒジョ初代大統領の出身部族でもあるフルベは,19世紀に入って現在のナイジェリア北部地方に興ったウスマン・ダン・フォディオのイスラム改革運動の影響で,ジハード(聖戦)に基づく征服国家をアダマワ高原に築き上げた。北カメルーンにはさらにアラブも来住している。またビンガなどピグミー系の人々が,南部の森林地帯に点在して狩猟生活を行っている。なお,北隣のチャド共和国の内紛の影響で,北カメルーンには多数の難民が流入してきており,国内問題となっている。

 カメルーンの公用語は,植民地体制のいきさつでフランス語と英語となっている。北部ではフルフルデ語(フルベ語),アラビア語,南部ではエウォンド語,そして西部ではピジン・イングリッシュが普及している。
執筆者:

北部のチャド湖に接する地域がかつてカネム・ボルヌー帝国の版図に組み込まれていたことが知られている。しかしそのほかは,15世紀末にポルトガル人が進出してやがて沿岸地域を中心に奴隷貿易その他の通商活動に従事し始めたこと,次いでオランダイギリスの進出が見られたが,いずれも沿岸部での通商活動や布教活動にとどまっていたことなどがわかっているにすぎない。ヨーロッパ列強のアフリカ分割が本格化し始めた1884年,サハラ縦断で知られるドイツの探検家ナハティガルGustav Nachtigal(1834-85)が政府の命でこの地を訪れ,諸部族の首長と保護条約を結んだ結果,カメルーンはドイツの保護領となった。もっともドイツが内陸部に進出してこれを完全に支配下に組み込んだのは1911年である。開発はドイツ移民のプランテーション(ゴム,アブラヤシ,カカオ,バナナなど)を中心に進められたが,この間,鉄道,道路などの建設その他の面で北西カメルーン会社,南カメルーン会社といった特許会社も大きな役割を果たした。第1次世界大戦が始まると,カメルーンは隣接するイギリス領,フランス領から攻撃を受け,1年半の抵抗ののちにドイツ軍が敗退して両国の占領下に入った。両国は1916年の協定に従い,ナイジェリアに隣接する全土の1/5の地域(西カメルーン)をイギリスが,残る4/5の地域(東カメルーン)をフランスが統治することとした。ベルサイユ条約で取り決められた一般原則にしたがって,22年に西カメルーンはイギリスの,東カメルーンはフランスの委任統治領となった。イギリスは西カメルーンをナイジェリア保護領に組み入れて統治し,フランスは東カメルーンをフランス領赤道アフリカとは別個の単位として位置づけ,本国の植民地問題担当相に直接責任を負う弁務官の統治下においた。このとき以降,フランスは積極的な開発政策を導入し,その結果,カカオ,アブラヤシ,木材などの生産量は急上昇し,道路網や港湾の整備,拡張も進んだが,そのかげには強制労働政策の強化があった。

 一般に両大戦間期はアフリカにおけるナショナリズムの萌芽期といわれるが,カメルーンの場合,37年にパリで組織されたカメルーン同盟が,カメルーンをB式委任統治領から,比較的広範な自治権を許されたA式委任統治領に昇格させること,カメルーンを将来ドイツに返還しないこと,などを国際連盟に請願するといった活動を見せた程度であった。しかし第2次世界大戦が終わると,他の大部分のアフリカ植民地と同様,カメルーンにも新しい時代が訪れた。国際連合創設にともない46年にカメルーンはその信託統治領へと地位が変更され,東カメルーンは同年発足したフランス第四共和政のもとで本国の国民議会へ代表を,政府へ閣僚を送ることができるようになったばかりでなく,内部的には地域議会も開設されることとなった。さらにカメルーン人民同盟(UPC)をはじめ多くの政党も組織された。イギリスの信託統治下にあった西カメルーンでもカメルーン民族民主党(KNDP)が創設され,ナショナリズムはここに開花期を迎えた。ナショナリズムの基本的な目標は独立と東西カメルーンの再統合であった。その後,東カメルーンは57年に自治を認められ,60年1月にカメルーン共和国として独立を達成した。西カメルーンは北部と南部に分かれて人民投票を実施した結果,北部はナイジェリアと合併することになり,南部だけが61年10月に独立すると同時に,カメルーン共和国とともにカメルーン連邦共和国を結成した。

 この連邦は,初代大統領に東カメルーンのアヒジョAhmadou Ahidjo(1924-89)が,副大統領に西カメルーンのJ.N.フォンチャが選ばれたほか,国民議会の議席配分が東の40に対して西の10といったように,面積,人口の違いを反映して東部優位であった。さらに連邦はその後しだいに形骸化の度を強め,連邦政府が地方に対して強い権限を行使しうる方向で制度改革が進められ,また66年には既存の諸政党を糾合した新政党カメルーン民族同盟(UNC)の東西にまたがる一党体制が成立した。この間,1955年に武装蜂起を行ったため非合法化されたUPCの反政府ゲリラ闘争もしだいに弱まり,アヒジョ政権は揺るぎないものとなっていった。その結果72年に連邦制は廃止され,カメルーンは中央集権的な単一共和国となった。これは権力配分の面で中央が強化され,地方が弱体化されたという問題とあわせて,多数者の東カメルーンが少数者の西カメルーンを同化吸収していくための制度的再編成という問題をも含む,重大な改革であった。

連邦共和国から単一共和国への制度改革にともなって国名もカメルーン連合共和国へと変更されたが,このとき公布された憲法では,大統領制,一院制の国民議会などについては大きな変化はみられなかった。ただし,それまで東西両カメルーンにそれぞれ存在した自治政府,議会,および西カメルーンから選出されていた副大統領は,制度上廃止された。アヒジョ政権はUNCの一党体制を基盤としてますます強固なものとなり,アヒジョ自身は75年に大統領に四選された。彼は対外政策面でフランスと緊密な政治的・経済的関係を保つ一方,ベトナムやカンボジアの共産主義政権と外交関係を樹立するなど,東西関係のなかでたくみにバランスをとろうとする姿勢を示した。しかし内政面ではしだいに強権政治に対する不満が高まり,また連邦制への復帰を求める反政府運動が主として西カメルーン人の間に起こり,79年には軍部クーデタ未遂事件が発生した。こうした状況のなかでアヒジョは80年に大統領に五選されたが,82年11月突如辞任を表明した。後任には,憲法の規定により彼の第一の側近P.ビヤ首相が就任した。ビヤ大統領は,自身がキリスト教徒であることもあって,アヒジョ政権時代に政治の中枢部への進出が目だったイスラム勢力をしだいに排除し,南部の非イスラム勢力をもって周辺を固めたため,北部イスラム系住民などの激しい反発を引き起こし,非合法組織UPCなどの反政府活動が高まった。また84年4月には親衛隊の一部によるクーデタ事件が起こり,85年12月にはUPCなどによるビヤ政権打倒計画があったとして多数の逮捕者が出た。これより前,イスラム勢力との結びつきの強いアヒジョ前大統領は83年8月のクーデタ計画に関係したとして84年2月の欠席裁判で死刑を宣告されたが,その後終身刑に減刑された。ビヤ自身は84年1月の大統領選挙の唯一の候補者として臨み,99.98%の得票をもって再選されたのを契機に権力の集中化を図り,同時に国名をカメルーン共和国に変更した。さらに唯一の合法政党UNCは,85年3月にカメルーン人民民主連合(RDPC)と改称され,ビヤが5年の任期で書記長に選出された。その後,人権抑圧が続けられているとの国際的な批判を受けて,86年以降相当数の政治犯の釈放,帰国許可などの措置がとられ,また88年の国民議会選挙でもRDPCから議席数をこえる数の候補者を立てて有権者の選択の余地を残すなど,若干の〈民主化〉政策を導入した。90年12月に複数政党制への移行を議会が決議し,92年3月の選挙で与党のRDRCが第一党となった。同年10月の大統領選挙では現職のビヤが四選された。連邦制の廃止以来,人口の20%を占める英語系住民の不満が高まり,英語系2州の分離の動きも強まっている。

大部分のアフリカ諸国と同様に農業国で,主要産品はカカオ,コーヒー,バナナ,トウモロコシ,綿花などであり,木材も生産される。鉱産物はボーキサイト,石油などであるが,生産量は多くはない。貿易相手国ではフランスが輸出入とも第1位であり,オランダ,西ドイツ,イタリア,アメリカ,日本がそれに続く。アフリカ圏内では中部アフリカ関税経済同盟(UDEAC)や中部アフリカ諸国銀行(BEAC)に参加し,圏外ではACP(アフリカ・カリブ・太平洋)諸国の一員として,ヨーロッパ連合(EU)に連合する。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「カメルーン」の意味・わかりやすい解説

カメルーン

◎正式名称−カメルーン共和国Republic of Cameroon。◎面積−47万5650km2。◎人口−1941万人(2010)。◎首都−ヤウンデ(182万人,2005)。◎住民−ファン人,バミレケ人,フルベ(フラニ)人など約200の民族。◎宗教−キリスト教35%,イスラム20%,土着宗教。◎言語−英語,フランス語(以上公用語)のほか,北部ではフルフルデ(フルベ)語,アラビア語,南部ではエウォンド語が普及。◎通貨−CFA(中部アフリカ金融協力体)フラン。◎元首−大統領,ビヤPaul Biya(1933年生れ,1982年11月就任,2011年10月7選,任期7年)。◎首相−ヤンPhilemon Yang(大統領が任命,2009年6月発足)。◎憲法−1972年6月発効,1984年1月改正(国名改称など)。◎国会−一院制(定員180,任期5年)。2007年7月下院選挙結果,カメルーン人民民主連合153,社会民主戦線16,カメルーン国民民主連合4など。◎GDP−234億ドル(2008)。◎1人当りGNP−1080ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−56.0%(2003)。◎平均寿命−男53.9歳,女56.2歳(2013)。◎乳児死亡率−84‰(2010)。◎識字率−76%(2008)。    *    *アフリカ大陸西岸,ギニア湾に面する共和国。南部は熱帯雨林地帯で,チャド湖のつくる盆地に続く北部はサバンナ地帯。中央をサナガ川が貫流。最高点はカメルーン山。南部にバントゥー系の民族,北部にスーダン語系の民族が住む。農業,畜産業が主で,バナナ,コーヒー,モロコシ類,タロイモなどを産する。ギニア湾岸の原油をはじめ,金,ボーキサイトなどの鉱産にも恵まれ,アルミニウム製錬が行われる。 15世紀末ポルトガル人が来航。18世紀末英国勢力下にはいったが,19世紀後半ドイツが進出した。第1次大戦時に英国,フランスが占領し,戦後,東カメルーンをフランスが,西カメルーンを英国が統治することになった。前者が1960年カメルーン共和国として独立,1961年英領カメルーンの南部(北部はナイジェリアへ編入)と合体して連邦共和国を形成した。1972年連邦制を廃止。1990年複数政党制が認められ,1992年に初の複数政党制による議会選挙が実施された。1999年南カメルーン国民会議が,英語系地域2州の分離・独立を宣言した(2000年4月,初代大統領アロブウェデを任命)。

カメルーン[山]【カメルーン】

カメルーン南西部,ギニア湾岸から約30kmにある火山。4095m。西側は世界最多雨地帯の一つで年雨量1万mmを越える。1861年R.F.バートンが初登頂。1909年,1922年,1959年,1982年に溶岩の流出がみられた。
→関連項目カメルーン

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カメルーン」の解説

カメルーン
Cameroun

ギニア湾の湾入部に位置する共和国。およそ200もの諸民族が住み,自然環境的にもアフリカ大陸の諸要素を併せ持ち多様性に富む。15世紀末,ポルトガル人が進出,1884年ドイツ保護領になる。第一次世界大戦でのドイツの敗退により,保護領はイギリス,フランスの分割占領下に入る。両国は1916年の協定により,ナイジェリアに隣接する地域(西カメルーン)をイギリスが,残る地域(東カメルーン全土の5分の4に相当)をフランスが統治することになった。46年,国際連合の信託統治領,その後に民族運動が先鋭化し,60年1月に独立した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「カメルーン」の解説

カメルーン
Cameroon

ギニア湾に面する,西アフリカの共和国。首都ヤウンデ
アメリカへの黒人奴隷の給源地にされ,1884年ドイツ領となった。第一次世界大戦後,国際連盟委任統治領として西部をイギリス,東部をフランスが分割統治し,第二次世界大戦後,信託統治領として両国に引きつがれ,1960年フランス領がまず独立した。翌年イギリス領が人民投票で編入(一部はナイジェリアに)され,連邦共和国となる。その後,1972年に連合共和国,84年には共和国に改称された。石油産出地域をめぐってナイジェリアと対立している。

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