フランスの哲学者、作家。第二次世界大戦後に、無神論的実存主義とマルクス主義の総合を試みて、世界的な影響を及ぼした知識人でもある。6月21日パリの中産階級の家庭に生まれる。2歳で父を失い、母方の祖父のもとで育てられる。幼いとき右眼(め)がほとんど失明状態になり、その後はすべて左眼に頼らざるをえなくなったが、これは、晩年の不幸の遠因となった。高等中学(リセ)時代にニザンを知り、高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)に進んでからも親しい交際を続けた。そのころボーボアールと知り合い、生涯にわたる同志的な愛情を結ぶ。
1931年からル・アーブルの高等中学で教鞭(きょうべん)をとっていたが、1933年から1934年にかけてベルリンに留学し、フッサールの現象学を学んだ。そこから生まれたのが、『想像力』(1936)、『自我の超越』(1937)、『想像力の問題』(1940)などの一連の哲学論文で、サルトルの思想の基盤はこのときつくられた。これら哲学論文の執筆のかたわら、長編小説『嘔吐(おうと)』(1938)を発表し、硬質な文体と、哲学に裏づけられた大胆な主題で、作家としてもその地位を確立した。当時のサルトルは、意識の自由を根底に据えて人間の自由を追究していたが、それを理論的に体系化したのが『存在と無』(1943)である。彼はこの大著で、意識存在としての人間のありのままの姿をとらえることを基本的な課題としたのであり、この徹底した自覚の道は、自由の思想とともに、その後の一貫した方法的態度をつくりあげることになる。
第二次世界大戦中、召集され、捕虜になり、いったんはドイツの収容所に送られたのちに、病気と偽って釈放され、パリに戻る。対ドイツの抵抗組織をつくることを試みたが、それはほとんど効果をあげることもなく解消し、じっと終戦を待っていた。この間に戯曲『蠅(はえ)』(1943)、『出口なし』(1944)などが書かれて上演され、劇作家としても第一歩を踏み出した。
戦後は、雑誌『レ・タン・モデルヌ』(現代)に拠(よ)るグループのリーダーとして、戦闘的ヒューマニズムの立場で活発な発言を展開する。彼の存在は、戦後の混乱期の若者たちに強烈に訴えるものをもっており、単にフランスのみならず、たちまち世界中の戦後派の注目の的になった。その後の活動は、ごく大まかに四つの時期に分けられる。
[鈴木道彦 2015年5月19日]
第1期は『存在と無』の延長上にあるもので、『文学とは何か』(1947)のなかで「アンガージュマン(社会参加)の文学」を提唱した時期である。当時は米ソの厳しい対立が世界の政治状況を支配していたが、彼は「第三の道」を模索して、「革命的民主連合」とよばれた運動に積極的に参加する。しかし、そうした政治的行動はまったく無効に終わったばかりか、作品に極端な有効性を求めたその文学理論も、いつか行き詰まりに陥った。「アンガージュマンの文学」の実践として、そのころ最大の努力を傾けた長編小説『自由への道』(1945~1949)が未完のまま放棄されたのは、そのためであった。
[鈴木道彦 2015年5月19日]
しかし、第2期に入ると、「第三の道」を完全に放棄し、とくに長大な論文「共産主義者と平和」(1952~1954)を書いてからは、共産党の同伴者となって反戦・平和運動にも精力的に参加する。他方、文学的には、作品に直接の有効性を求めるのではなくて、むしろ文学にいっそう深い価値を探り、こうして大作『聖ジュネ』(1952)を発表することになる。これはサルトルの最高傑作に数えられるもので、『存在と無』で予告した「実存的精神分析」の成果ともいうべきものであるが、そこでは抽象的な自由ではなく、ジャン・ジュネという屈強な対象を通して、他者と状況とによって疎外された人間の解放を文学に求めていることが注目される。こうして文学は、政治主義的なものではなく、深められたアンガージュマンとして位置づけられた。この時期に『悪魔と神』(1951)、『キーン』(1953)などという、きわめて充実した戯曲を書きえた理由もそこにある。なおこの間に、戦後に一時協力しあったカミュと、反抗と歴史をめぐる論争(1951~1952)がきっかけで決別したばかりか、『レ・タン・モデルヌ』誌の政治的リーダーであったメルロ・ポンティもまた離れていき(1953)、こうして同誌創立当時のおもなメンバーは、ほとんどサルトルとボーボアールを残すのみとなった。
[鈴木道彦 2015年5月19日]
1950年代後半から1960年代にかけての第3期とよべる時期に、サルトルはいま一度転回と飛躍を遂げる。そのきっかけになったのは、ソ連共産党のスターリン批判と、ハンガリー事件であり(ともに1956)、またアルジェリア独立戦争(1954~1962)であった。彼はそのときどきに自己の立場を明確にしたが、彼の態度表明はほとんど世界中の注目を集めたといっても過言でない。それほどに、戦後のもっとも著名な知識人として、彼の名声は揺るぎないものになっていたのである。とくに植民地独立のための武装闘争を支持したことは、アルジェリア民族解放戦線(FLN)にとって強力な味方を得たことを意味したばかりか、「第三世界」の重要性を認識させるのに大いに役だった。
こうした一連の行動は、共産党の政策とまったく相いれないものであったが、その反面でサルトルは思想的にマルクス主義を完全に受け入れ、実存主義でそれを補完しようとしていた。そこから生まれたのが、構造的で歴史的な人間学を目ざす『弁証法的理性批判』(1960)である。しかしこれは第1巻を刊行したままで中絶し、その影響力も完全には発揮されることなく終わった。なお、この時期の重要な作品には、歴史の劇化を試みた戯曲『アルトナの幽閉者たち』(1959)がある。1964年にノーベル文学賞に指名されたが、ノーベル賞の政治的偏向を主たる理由として、これを拒否して受けなかった。
[鈴木道彦 2015年5月19日]
1960年代後半に世界的規模で起こった学生運動、とくにフランスの「五月革命」(1968)は、サルトルに深い影響を与えた。一方で、従来から取り組んでいた膨大なフロベール論『家(うち)の馬鹿(ばか)息子』(第1・2巻1971、第3巻1972)を発表するとともに、他方では中国の文化大革命に影響された小組織(マオ派)を支援し、発禁と押収の続くその機関紙を防衛するために、自ら編集長を引き受けたり、その新聞を街頭で配布するなどして、従来の知識人としての行動からようやく一歩脱皮する姿勢を示した。しかし、彼の肉体はすでに衰え、唯一残る左眼もまた1973年以降はほとんど失明状態になり、読書や執筆活動は不可能になった。『家の馬鹿息子』もこうして4巻目はついに書かれなかった。その後もインタビューなどに答えて発言に努めたが、それも晩年にはほとんど現実的な影響力を失い、輝かしい名声にもかかわらず、最後の数年間はけっして幸福なものではなかった。それでも、1980年4月15日に死亡したとき、フランスの各紙は数ページを割いて大々的にこれを報じ、葬儀の日には数万の群衆が自発的に柩(ひつぎ)のあとに長い行列をつくって、戦後史上最大の無冠の巨人に別れを惜しんだ。
[鈴木道彦 2015年5月19日]
『伊吹武彦他訳『サルトル全集』全38巻(1950~1977・人文書院)』▽『海老坂武・澤田直訳『自由への道』全6巻(岩波文庫)』▽『F・ジャンソン著、伊吹武彦訳『サルトル』(1957・人文書院)』▽『鈴木道彦他著『サルトルとその時代――総合著作年譜』(1966・人文書院)』▽『大江健三郎・加藤周一他著『サルトルとの対話』(1967・人文書院)』▽『竹内芳郎著『サルトル哲学序説』(1972・筑摩書房)』▽『竹内芳郎著『サルトルとマルクス主義』(紀伊國屋新書)』▽『鈴木道彦著『サルトルの文学』(紀伊國屋新書)』
フランスの作家,哲学者。第2次大戦後の世界の代表的知識人。パリで生まれ,パリで死去。早く父を失い,母の実家に引き取られる。3歳のとき右眼を失明。12歳のときに母が再婚。サルトルは養父との折合いが悪く,その少年時代は幸福とはいえなかった。高等師範学校に学んだころの彼の周囲には,P.ニザン,R.アロンなど,後にそれぞれ一家を成した友人たちがいた。とりわけ24歳のときに知り合ったシモーヌ・ド・ボーボアールは,最初は恋人として,後には思想上の同志として,生涯をともにする唯一の伴侶となった。
1933-34年にベルリンでフッサールの現象学を学んだサルトルが,後の著作や活動の哲学的な基盤となる思想(現象学的存在論)を体系的に展開したのは,《存在と無》(1943)においてである。しかし彼の名前は,それ以前にすでに小説《嘔吐》(1938)で知られていた。これは発行と同時に好意的な批評に迎えられ,その直後には短編集《壁》(1939)を著し,たちまち彼は前途有望な作家として注目されるにいたる。第2次大戦中はドイツの捕虜になったがやがて釈放され,長編小説《自由への道》(1945-49)や戯曲などを書きつつ,ひたすら連合軍の勝利を待ちこがれていた。
第2次大戦後の45年10月,サルトルはM.メルロー・ポンティ,ボーボアールらと《レ・タン・モデルヌLes Temps Modernes》誌を創刊し,その編集長として,アンガージュマンの立場を主張し,華々しく論壇に登場。彼の名は一躍有名になり,〈実存主義者サルトル〉として,たえずマスコミの話題になる。と同時に,政治・社会の状況に応じ積極的に発言する知識人としての姿勢もこのときに確立された。
戦後のサルトルの活動は,ほぼ4段階に分けられる。第1期は米ソ両大国の冷戦下で,〈第三の道〉を主張しつつ,ダビッド・ルーセらと〈革命的民主連合〉をつくった時期だが,これはほどなく瓦解する。第2期は朝鮮戦争勃発(1950)以後で,これを契機に彼は急速に共産党に接近するが,ハンガリー事件(1956)で再びその関係は冷却する。第3期はそれ以後で,共産党とは絶縁したものの,彼はマルクス主義の基本的立場を受け入れ,スターリン主義が停滞させてしまったマルクス主義を,〈発見学〉の方法として活性化することを目ざした。またそのあいだにも,アルジェリア戦争やベトナム戦争をめぐって,彼は解放戦線を支持する発言を展開し,先進国内での第三世界への理解を深めるのに努力した。第4期は68年以後で,いわゆる〈五月革命〉によって,物を書き壇上から訴える知識人の存在そのものが異議申立てを受けていることを悟ったサルトルは,さらにその行動を深めるべく,毛沢東派と呼ばれる極左グループの支援を開始する。しかし73年には,残った左眼もほとんど失明状態になり,それ以後は肉体も急速に衰えて,晩年はほとんど活動不可能であった。それでも彼が80年に他界したときは,数万の大群衆がすすんで葬儀の列に加わり,この第2次大戦後の世界の代表的知識人の死を悼んで,墓地まで数kmの道を行進した。
このように彼が一時代の代表的知識人とみなされたのは,むろん彼の思想が他に類のないほどスケールの大きなものだったからであるが,同時に彼が時代とともに滅び去るつもりで,ひたすら同時代人に語りかけたためでもあった。その著作は膨大な量に上るが,上記のもののほか重要な作品は,まず第3期の理論的到達点である《弁証法的理性批判》(1960),また〈実存的精神分析〉を縦横に駆使しながら作家の形成を解明した《聖ジュネ》(1952)と《家の馬鹿息子--フローベール論》(1971-72),戯曲として《出口なし》(1944),《汚れた手》(1948),《悪魔と神》(1951),《キーン》(1953),《アルトナの幽閉者》(1959),それに,〈文学とは何か〉や〈共産主義者と平和〉など,そのときどきの状況に応じて書かれた文章を集めた《シチュアシオン》全10巻などである。
なお,サルトルが第2次大戦後の日本に与えた影響はきわめて広く,また深い。哲学では竹内芳郎,文学では野間宏や大江健三郎などが,サルトルの思想を自分の仕事に生かした顕著な例として挙げられる。しかし,そうした著作家の場合よりもさらにいっそう注目されるのは,1960年代の終りごろまで多くの若者が,サルトルの作品や生き方に導かれながら物を考えたり,政治にコミットしたりするのを学んだことである。同時代の外国人が,このように長期間にわたって,日本の若者の熱い注目を浴びる〈指導的知識人〉として機能したのは,ほとんど稀有のことである。
→実存主義
執筆者:鈴木 道彦
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1905~80
フランスの作家,哲学者。第二次世界大戦中,反ナチス抵抗運動に参加し,戦後は行動的知識人として大きな影響力を持った。その思想は実存主義であり,「存在は本質に先行する」という考え方で,まず人間の現実の存在から出発して人間革命を行い,ついで社会革命を行うと主張する。こうして人間の存在を重視する点で共産主義の唯物史観と対立する。主著は『嘔吐』『存在と無』『自由への道』。
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…もともとは〈契約〉〈誓約〉〈拘束〉などの意。しかし第2次大戦の直後から,作家で哲学者のサルトルがこの語を用いて一つの思想的立場を打ち出すに及び,〈政治参加〉〈社会参加〉といった意味でも広く用いられるようになった。 サルトルによれば,人間はだれしも自分のおかれた状況に条件づけられ,拘束されているが,同時にあくまでも自由な存在である。…
…このような意味での意識をとくに重視するものに,現代の実存主義の哲学がある。例えばハイデッガーは,人間特有の在り方を〈前存在論的〉な〈自己了解〉にあるとみなし,そうした在り方を〈実存〉と呼んだが,サルトルも,いわゆる無意識とは実は〈非定立的自己意識〉,すなわち非主題的,非対象的な自己意識にほかならないとして,無意識の存在を否定し,人間の根源的自由を力説した。彼によれば,神経症といったものも,各自の選択した生き方なのである。…
…同じフッサールの弟子ハイデッガーは《存在と時間》(1927)において,シェーラーのこの着想も採り入れながら,人間の基本的存在構造を〈世界内存在〉としてとらえ,そのようなあり方をする人間が世界や多様な世界内部的存在者ととり結ぶ能動的かつ受動的な関係の総体を解明し,さらにはその関係の根本的な転回の可能性をさえ模索する壮大な存在論を構想する。 やがて1930年代に入り,ナチス政権のもとにドイツ哲学が圧殺されるころには,現象学はフランスに移植され,サルトルの《存在と無》(1943)やメルロー・ポンティの《行動の構造》(1942),《知覚の現象学》(1945)において新たな展開をとげる。サルトルのもとでは現象学は実存主義のための方法的手段にとどまるが,メルロー・ポンティはフッサールの後期思想やシェーラー,ハイデッガーの志向を正しく受け継ぎ,20世紀前半の知的革新において現象学の果たした大きな役割の決算書を提出した。…
… (1)コギトを重んずる現代の哲学としては,何よりもまず実存主義の哲学があげられる。例えばハイデッガーは,人間をたえず〈前存在論的〉に〈自己了解〉しているものととらえ,そうした人間の在り方を〈実存〉と呼んだが,サルトルはそのような自己了解を〈非定立的自己意識〉と規定して,実存をコギトに直結させようとした。われわれは自分自身を反省するまでもなく,いつもすでにおのれを非対象的,非定立的に意識しており,したがって人間のどんな在り方も自由な選択の結果にほかならないというわけであった。…
…〈実存哲学〉の語が定着するのは,第1次大戦後の動向のうちとくに《存在と時間》(1927)に表明されたハイデッガーの哲学を念頭に置いて,これを〈人間疎外の克服を目指す実存哲学〉と呼んだF.ハイネマンの著《哲学の新しい道》(1929)以降であり,ヤスパースがこれを受けて一時期みずから〈実存哲学〉を名のった。ほかに,ベルジャーエフ,G.マルセル,サルトルらの哲学を実存哲学に含めるが,彼らは必ずしもみずからの哲学を実存哲学と呼んではいない。〈実存主義〉の語はサルトルの《実存主義はヒューマニズムである》(1946)によって一般化したが,文学界では人間の不条理を抉出するサルトルやカミュ,さらにはカフカ,マルローらを実存主義文学者と呼ぶことができる。…
…ジューベにより劇作《女中たちLes bonnes》が初演された1947年は,また小説《葬儀》と《ブレストの乱暴者》が刊行された年だが,同時にジュネは窃盗常習犯として終身刑に処せられる。コクトー,J.P.サルトル,F.モーリヤック,P.クローデルらによる大統領への特赦請願が功を奏して,以後,ジュネは作家として生活するようになる。だがガリマール社による小説《泥棒日記Journal du voleur》の刊行(1949)と,同社刊の《ジュネ全集》の巻頭を飾るはずのサルトルの《聖ジュネ――役者にして殉教者Saint Genet――comédien et martyre》(1952)が,小説家ジュネの活動には終止符を打ってしまう。…
…自然的事物に関しては,形相と質料の区別と同様にその〈である=本質存在〉と〈がある=事実存在〉とを区別して考えることは困難だからである。 現代の哲学者,たとえばサルトルが〈事実存在〉に対して〈本質存在〉を優先させてきた西洋哲学の伝統に逆らい――話を人間の存在に限ってのことではあるが――〈本質存在〉に〈事実存在〉つまり〈実存〉を優先させ,そうすることによって人間の根源的自由を主張する実存主義を提唱したことはすでに知られていよう(《実存主義とは何か》)。 同じような企てはすでに19世紀初頭のシェリングの後期思想にも見られる。…
…このようにしてカントは,想像力を,それによって総合されるべき〈多様なもの〉に関しては感性に依存しながら,その〈知性的な総合の統一〉に関しては悟性に依存するものと考え,そこに感性と悟性を媒介する基本的な働きを認めたのである。 これとほぼ同じ洞察を現象学的方法によってより厳密化したのが,サルトルである。彼によれば,例えばX氏の想像とは,われわれが自分の頭の中にあるX氏の像を見たりすることではなく,X氏その人に思いをはせることである。…
…形而上学が存在者の充足理由としての存在しか問わなかったことを批判して,存在者としては虚無である存在そのものへの問いに専心した点で,彼の思想は東洋の無の思想によほど接近している。だが総じて東洋の無が肯定的な意味をもつのに対し,西洋のそれは一般に身の毛もよだつ虚無という意味を含意しており,虚無としての意識の否定性のうちに人間の対自存在の深淵をみてとったサルトルの実存思想の場合もまた,現代におけるその顕著な一例である。【吉沢 伝三郎】
[インド]
インド思想の中で,〈ニヒリズム〉という言葉が当てられるものとしては,二つばかりある。…
… さらに,ヒューマニズムの根拠を哲学的な次元にまでさかのぼってとらえようとすると,そこには多くの問題が残されている。たとえばサルトルが,〈人間においては存在が本質に優先する〉というテーゼによって,〈実存主義〉を唱えながら,やがて〈われわれは,ただ人間のみが存在するような地平にいる〉というテーゼによって,〈実存主義はヒューマニズムなり〉と主張するとき,ヒューマニズムという立場の根拠に関するあいまいさと混乱があらわになる。ハイデッガーの《ヒューマニズムについて》(1949)は,こういう多義性に直面して,〈ヒューマニズムという言葉に一つの意義を取り戻すことができるか〉という問いに答えようとしたものであるが,彼はヒューマニズムを,存在者の存在についての特定の解釈を前提にした形而上学の系譜に属するものとして,それから一線を画し,人間中心主義の形而上学の超克という方向で,むしろヒューマニズムを超えることを志向している。…
…ハイデッガーは,人間の現存在を死の不安においてある存在として把握し,また伝統的形而上学においてはもっぱら存在者が問題にされて,無としての存在が忘却されてきたと批判した。サルトルは,意識としての人間の対自存在そのものを〈無化する無néant néantisant〉として把握した。【吉沢 伝三郎】
[インド]
一般にインドでは,古くから,ふつうならば肯定的に表現してもよさそうなところを,さらに否定的な表現をすることが多かった。…
…ニーチェの無神論は後に通俗化されてナチスのイデオロギーを支えた。 サルトルに代表される実存主義的無神論は,神の死後人間を宗教的・道徳的次元に閉じこめておくことは不可能という信念をニーチェと共有しているが,ニヒリズムという人間存在にとってまったく新しい状況からの脱却に関しては彼と袂を分かつ。実存主義的無神論は,人間的実存の完全性を保つために,〈本質と実存〉の統一という,従来神が引き受けてきた思想を拒否する。…
…1930年代にベルグソン哲学やフッサールの現象学の影響下にその思想を形成し,《行動の構造》(1942)と《知覚の現象学》(1945)によって学位を取得,45年リヨン大学講師,48年同教授,49年パリ大学文学部(ソルボンヌ)に招かれて心理学と教育学を担当,52年当時としては異例の若さでコレージュ・ド・フランス教授に就任した。この間,一方では,第2次大戦終結直後の1945年にサルトルとともに雑誌《レ・タン・モデルヌ(現代)》を創刊し,以後これを舞台に実存主義の運動を華麗に展開したが,52年に同誌の政治的主張をめぐってサルトルと決裂し同誌を去る。
[初期の思想]
早くからフッサールの現象学を学んだが,メルロー・ポンティが継承したのは,超越論的意識への還帰を目ざすその中期の観念論的思想ではなく,〈生活世界〉の記述を課題にした後期思想であり,彼はそれによって,おのれの世界を生きる人間の具体的実存の解明を企てる。…
※「サルトル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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