シラー(Friedrich von Schiller)(読み)しらー(英語表記)Friedrich von Schiller

  • 1759―1805

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ドイツの劇作家、詩人。11月10日、西南ドイツの小さな田舎(いなか)町マールバハに生まれる。キリスト教信仰に篤(あつ)い両親のもとに育ち、幼少のころから聖職者となることを夢み、実際にそのコースを順調に進んでいたが、13歳のとき領主カール・オイゲン公の恣意(しい)的干渉によって進路の変更を余儀なくされ、命令に従って1773年1月、新設されたばかりの軍学校(通称カール学院)へ入学。軍隊式の規律と監督の厳しいこの学校で、初め2年間法学を学んだのち医学に転じ、80年12月、「人間の動物的本性と精神的本性との連関について」と題する卒業論文をもって卒業。ただちに連隊付き医官に任命された。

 すでに学院に在学中、ひそかに持ち込まれた当時の新文学運動の諸作品、とくにゲーテの『ウェルテル』(1774)や、哲学教授アーベルから教えられたシェークスピアの戯曲、とくに『オセロ』(1604)に刺激されて戯曲の習作を始めていたシラーは、そのころには、激しい自我主張と深い宗教感情とが交錯する処女作『群盗』をほぼ完成していた。そこで社会に出るやいなやその出版を思い立ち、81年初夏、匿名で自費出版し、これが翌年1月、マンハイム国民劇場で初演されて大評判となった。しかし『群盗』はシラーにとって「家族と祖国に値した」。中傷する者があってシラーは領主の不興を買い、82年9月、マンハイム国民劇場支配人ダールベルクを頼って亡命する。しかしダールベルクは外交上の配慮から冷たく、ためにその後1年間、苦境にあえぐことになる。さいわい逃亡をともにしたシュトライヒャーの献身的な友情に助けられ、また親友ウォルツォーゲンの母親のバウアバハの別荘にかくまわれて、政治的野心家と共和制の悲劇『ゲヌアのフィエスコの謀反』(1783)と、宮廷的専横のいけにえとなる清純な恋を描いた市民悲劇『たくらみと恋』(1784)を書き上げる。ようやく83年9月、1年の契約でマンハイム国民劇場付き詩人の職を得たが、翌年契約は更改されず、ふたたび窮地に陥る。このときドレスデンのケルナーから友愛の手を差し伸べられ、彼のもとに2年間滞在し、雑誌『タリーア』を編集。のちにベートーベンの『第九』の合唱テキストとして世界的に有名になった『歓喜に寄す』(1785)はこのころの作。またこの間に理想と友情の悲劇『ドン・カルロス』(1787)を完成。この作品は、それまでの散文による荒削りで破壊的な激越調の作風を捨て、韻文によって書かれ、シラーがシュトゥルム・ウント・ドラングから決別して古典主義的文学の様式へ進もうとしていることを端的に示すものであった。はたして彼はこの作品が完成すると同時にケルナーのもとを辞して、87年夏、ゲーテ、ヘルダー、ウィーラントらのいるワイマールへ移住する。

 ワイマールに到着すると、シラーは旺盛(おうせい)な意欲をもって『オランダ離反史』(1788)、小説『見霊者』(1787~89)を書き進めるかたわら、ギリシア悲劇、カント哲学を熱心に研究する。1789年イエナ大学歴史学担当教授(無定給)に就任(しかしこの職はやがてシラーが病気となったため長くは続かなかった)。91年、古典主義のプロローグと文学史上評せられるビュルガー批評を発表。詩人にとって不可欠の要件は、個性の純化と理想化技法による普遍的人間性の造形であると論じた。この年、一時は死の誤報も流れるほどの大患にみまわれ、デンマーク王子アウグステンブルク公から3年間の年金を贈られる。静養のかたわら『三十年戦争史』(1791~93)を書き続け、かつカントの哲学書を耽読(たんどく)して多大の啓発を受けると同時に、その主観主義的美学理論を乗り越えようとして一連の美学論文を書く。なかでも有名なのは『優美と尊厳について』(1793)、『人間の美的教育に関する書簡』(1795)、『素朴的文学と感傷的文学について』(1795~96)である。シラーは、人間の人格的完全性は理性と感性の調和的統一にあるという見地にたち、第一の論文においてそのような人格的完全性を「美しい魂」とよんだ。第二の論文は、近代人にとって「美しい魂」への道は芸術による美的遊戯教育にほかならないことを論じたものである。「人間は、この語の完全な意味において人間であるときにのみ遊ぶのであり、遊ぶときにのみ完全に人間である」ということばは有名。第三の論文は、詩人を二つの類型においてとらえ、自然に即して生き、自然を現実として描く詩人を素朴的詩人、自然を喪失し自然を理想として描くほかない詩人を感傷的詩人と名づけ、人為的な近代文化のなかにあって感傷的とならざるをえない近代の詩人と文学のあり方を論じたものである。

 1794年夏、ある対話をきっかけとしてゲーテは急速にシラーと親しくなり、以後シラーの死に至るまでの11年間両詩人は変わることのない友情に結ばれ、相携えてドイツ古典主義を確立する。合計1009通に上る往復書簡は希有(けう)の友情の記念碑であると同時に、貴重な文学史的資料である。95年夏、堰(せき)を切ったように詩想がふたたびあふれ始め、『理想と人生』(1795)や『散歩』(1795)などの思想詩が生まれる。96年秋、三十年戦争のさなかに反逆者として暗殺された皇帝軍の将帥を主人公とする史劇『ワレンシュタイン』制作を開始したが難渋し、97年には一時ゲーテとの競作で物語詩に没頭し、99年春ようやく『ワレンシュタイン』を完成。こののちほぼ1年1作のペースで戯曲を書き上げた。まず、巨大な歴史の波に飲み込まれて万策尽き従容(しょうよう)として死に向かう女王を描いた『マリア・ストゥアルト』(1801)、神から与えられた救国の使命ゆえに地上的愛着を断ち切り戦場に散華(さんげ)する乙女の悲劇『オルレアンの処女』(1801)、2人の反目する兄弟が実の妹とは知らずに愛する悲運をギリシア悲劇に倣って描いた『メッシーナの花嫁』(1803)、最後に、アルプスの大自然を背景にして素朴でたくましい男たちの躍動する自由と正義と人間愛の壮大なドラマ『ウィルヘルム・テル』(1804)。1805年5月9日、急性肺炎のためワイマールで没し、遺作『デメトリウス』は断片に終わった。

 シラーはその雄渾(ゆうこん)の戯曲、典雅な思想詩、高潔な理想主義的精神ゆえに今日でもゲーテと並んで敬愛されるドイツの国民的詩人である。両詩人の棺(ひつぎ)はワイマール公の公廟(こうびょう)内に並べて安置されている。生地マールバハにはシラーの生家が保存され、またシラー国民博物館がある。ワイマールにはシラーの住居やゲーテ・シラー文庫がある。

[内藤克彦]

『新関良三著『シラー 生涯と著作』(1959・東京堂)』『新関良三編・訳『シラー選集』全6巻(1941~46・冨山房)』

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