翻訳|Scandinavia
ヨーロッパ北西部のスカンジナビア半島にデンマークを加えた地域。スカンディナビアとも記される。フィンランドを加えるとフェノスカンジアFenno-Scandiaという。人文的観点からフィンランド,アイスランドを含めて論じられることもあり,この場合はノルデンNorden(北欧)ともいう。この地域は北緯50°以北のユトランド半島から,北は北緯71°45′におよび,南は北海,西はノルウェー海,北はバレンツ海に面し,東にはボスニア湾とバルト海がある。
北大西洋ができる前に,スカンジナビア半島はグリーンランド,カナダと連なった広い古大陸塊を構成し,32億~9億年前の岩石からできている。約4億年前には半島の西半に褶曲山脈ができ,約2.5億年前にはオスロフィヨルド沿いに地溝ができ,激しい火山活動が起こってたくさんのカルデラができた。北海油田はこの古い山地塊のまわりの厚い中・新生代層の中に胚胎している。デンマークは地質的には中欧的で,古・中生代層の上を第四紀の氷河堆積物がおおっている。約250万年前に始まった氷河期に,スカンジナビア全域は厚い氷床におおわれ,最後の氷河がユトランド半島から退きはじめたのは約2万年前であった。氷河の末端は5000~6000年間この半島にとどまり,大量のモレーンを残した。氷縁は,1万年前ころにストックホルム,オスロを経て現在のノルウェー西岸沿いの線に2000年ほど停滞して,ラーモレーンという顕著な堆積物を残し,南スウェーデンに大きな湖をつくった。スウェーデン,ノルウェー南部の森林農耕地は,このようなモレーンの周辺帯に限られ,他の部分は露岩で土壌がない。このころ,氷の消えたデンマーク,南スウェーデンは隆起して陸地になり,氷が消えたばかりのストックホルム,イェーテボリを結ぶ地帯が海峡になってバルト海の融氷水を北海へ運んでいた。約8000年前に氷床は一度消失し,現在山地にある氷河は,6000~7000年前の暖期後にあらたにできたものである。氷床消失後の地盤隆起は現在も続いており,オスロ付近で0.4cm/年,ボスニア湾北部で1cm/年である。
スカンジナビアは地形的に三大分される。西岸のフィヨルドと急峻な島々およびスカンジナビア半島の脊梁山脈,その東麓の高原地帯,半島東岸とデンマークの低地である。南西岸にはたくさんのフィヨルドがあり,北西岸には多数の島々が狭くて深い水路によって分断されており,半島北端の島々は200mもの高さの段丘崖に囲まれた隆起段丘面をもつ。脊梁山脈は北緯61°~62°付近でスカンジナビア山地(ヨートゥンハイム山地)をつくり,北緯67°~68°付近でもスウェーデンの最高峰を含むケブネカイセ山をつくる。東麓の高原地帯には,谷氷河がつくった幅広いU字谷が東・南東へ流れ,中流でモレーンにせき止められてしばしば湖をつくる。バルト海側の低地には氷河が残したエスカー(氷河の底を流れた融水が作った丘)やモレーンの丘がたくさんあり,沼や湿原が多い。
スカンジナビア半島の北3分の1が北極圏に入るので,白夜(びやくや)と極夜があり,北端の町ハンメルフェスト(北緯71°)では,夏の62日間日が沈まず,冬は逆に日が昇らない。北緯70°付近のトロムセーはオーロラの名所である。半島の西側は北上するメキシコ湾流のため,北緯72°付近でも冬に海が凍らないが,東のボスニア湾は1月から4月の間凍結し,砕氷船が用いられる。バルト海はまれにしか凍らない。西岸地方は海洋性気候で気温の年変化は少なく,北端でも2月は平均気温-5.2℃,8月は9.7℃であるが,脊梁山脈とその東麓台地は大陸性気候で,冬季は-40℃にもなり,夏は30℃をこえる。半島の北東部では積雪が8ヵ月におよび,永久凍土帯が広がる。南半では西からの風が深く内陸へ吹き込むので,2月の月平均でも0℃以上であり,積雪は1ヵ月しかないが,四季を通じて北極寒気団の南縁に当たるため低気圧の通過が多く,天候は変わりやすい。デンマークは低平な土地であるため西風がいつも強い。
北部の永久凍土帯は,苔と地衣類を主とするツンドラで,カバや柳が灌木林をつくり,湿地にはカが多い。脊梁山地も同様の植生であり,これらの地域ではトナカイの放牧が行われている。デンマークでは,約1.5万年前から,氷河の残した砂礫やポドゾル性土壌の上に植物が入りこみはじめ,イネ科の草,カバ,柳,松,ハンノキ,ニレ,ナラ,オーク,ブナの順にしだいにスカンジナビア半島を北上した。現在は高度に対応して,高原の裸岩上には苔と地衣類,中腹にカバと柳の灌木林,低地には針葉樹林が広がり,湿地にはピンクのヤナギランが美しい。ナラ,オーク,ブナの混合林は南部にしか見られない。ジャガイモは西岸沿いでトロンヘイム地方(北緯63°)まで育ち,麦は東岸でストックホルム北方(北緯60°)まで耕作されている。針葉樹林には大型哺乳類が生息し,オオカミ,熊,ヤマネコは減少したので保護を受けているが,トナカイや鹿は最大の狩猟動物で,秋に解禁される。ホッキョクギツネ,アナグマ,ユキウサギ,カワウソ,テンなどがおもな哺乳類である。鳥は山地の小鳥をはじめ,沼や湿原のツル類,海岸のカモメ,アジサシ,カモの類など,ひじょうに数が多い。シロフクロウやワシは保護されている。魚は種類は多くはないが数が多く,大西洋側のタラ,ニシン,オヒョウ,サバ,エビなどがおもな漁業対象である。北岸のキャペリン(カラフトシシャモ)は最近大量に日本ヘ輸出されている。河川や湖には,サケ,マスが豊富で,養殖も行われている。
執筆者:太田 昌秀
民族大移動期にスカンジナビア地域に拡大・定着したゲルマン人諸部族は,一般に北ゲルマン人と総称されるが,彼らは,中世を通じて,他のゲルマン系諸国民とは異なる社会的特質を保持したまま,近代社会を迎える。なかでも,一般にバイキング時代(8世紀末~11世紀中ごろ)とよばれる中世国家の成立に先だつ時代の社会形態は,スカンジナビア史の特質を考えるうえでも,また,古ゲルマンの社会を再構成するうえでも,注目される。ここでは,スカンジナビアの歴史的特質にかかわるバイキング時代から中世にかけての社会のあり方の特徴をのべ,政治史,交渉史は各国別の歴史にゆずることとする。
スカンジナビアにおいては,生産,消費,防衛の単位となっていた大家族的結合はバイキング時代以前に解体し,この時代に単婚家族を中核とする農場世帯が成立する。この世帯長を〈農民(ボーンディbóndi)〉という(現代語bonde,英語husbandman)。〈農場〉は特定の産業部門をあらわすのでなく,牧畜,農耕,漁業等を行う経営体であり,農民はきわめて自立性の高い定着経済の主体であった。農場世帯は,自由人家族のほかに,解放奴隷など自由身分の家人,従士と若干の奴隷を含んでいる。自由人の家族は3世代を含む家族であるが,成人して結婚した男子は,農場の後継者となる一人を除いて独立して新しい家を構えたから,これは大家族・複合家族ではない。
スカンジナビアでは,デンマークとスウェーデン南端部を除き土地は肥沃でなく,とくにノルウェーでは広い平野を欠いているので,農場経営の中心は牧畜であった。夏期は山地で放飼いにし,冬期は農場周辺の牧草地から採った乾草で飼育するという生活を基本とし,このような生活形態に適合する形で,相互に離れて大面積を要する散居的定住と必要なものはすべて自給するという補充経済の追求が生まれた。一方散居制は,絶対的には少ない人口の下でも相対的に土地不足=人口過剰となる。相対的土地不足というのは,それまでの散居制という定住の仕方,生産のあり方のままでは,新しい定住地はもはや得られないという意味である。バイキング時代のはじめこの意味で人口過剰になっていたのは,ノルウェー西部地方であるが,ここ出身のバイキングはとくに植民・土地獲得の要素を強く示した(アイスランド植民など)。補充経済としてスカンジナビアは,農耕,牧畜,漁業のほかに,家人を指揮して交易や遠征をなした。いわゆるバイキング活動もそのひとつと見ることができる。早くからスカンジナビアの輸出産業となった鉄鉱業は,その歴史を農民の補充経済としてはじめられた。エンイェルブレクトやグスタブ1世を支持したダーラナ地方の鉄鉱夫はこのような農民的性格をもっていたし,ハンザ同盟と対抗しつつ中世のバルト海交易を担ったゴトランド商人も専業者というよりは〈農民商人〉であった。
このような自由な土地所有農民(オーダル農民とよばれ,英語のfranklinに近い)は,バイキング時代後期から国家形成とともに徐々に分解を始める。その上層=豪族は,どの国でも全体で数百家族にみたない少数の貴族となるが,大部分は奴隷制の終焉とともに小世帯農民となり,その少なからぬ部分は土地を失い,聖俗貴族などによる大土地所有下の借地農民となった。
しかし,スカンジナビア中世の農民は,バイキング時代以来の古い自由を失わなかった。土地所有農民の比率は他のヨーロッパ諸国とくらべて高く,中世末スウェーデンでは全耕地面積の約50%,ノルウェーで3分の1,農民の地位がもっとも低下したデンマークでも4分の1が,土地所有農民の手中にあった。彼らは国家(公権力としての王)に租税skattを商品的な生産物(おもにバター,干魚,乾肉,塩漬肉,皮革)で支払うこと以外に隷属的な立場におかれなかった。しかしそれと並んで重要なのは他人の土地で働く借地農も自由を失わず,農奴ではなかったということである。ノルウェーと,南端部を除くスウェーデンでは,牧畜が中心だったので賦役に適さず,また地形にも助けられ,聖俗の大土地所有は分散所領だったので,借地農に対する土地所有者の〈支配〉は一定の地代を受け取ることだけからなっていたのである。地代は,土地所有農民が国家に納める租税を大きくは上回らなかった。よい例が王領で,借地農が地主としての王に支払う地代は,土地所有農民が公権力としての王に支払う租税よりほんの少し多いだけだったのである。運搬賦役を除いては一般に賦役がなかったことと結びついて,借地農は地主の裁判権に服さず農民自身の裁判集会をもち,それは形式上王権にのみ属していた。これに対して中世のデンマーク(今日の南スウェーデンを含んでいた)では,三圃農法を伴う村落共同体が発達し,ドイツの影響もあって封建的騎士制度が成立した。一般にデンマーク,スウェーデン,ノルウェーの同君連合といわれるカルマル同盟は,デンマークの代官によるスウェーデン農民に対する重税・高地代の試みでもあった。だからこそ,エンイェルブレクトの乱(1434-36)をはじめスウェーデンの独立戦争は農民闘争でもあったのである。この闘争を通じて組織されたスウェーデン国会Riksdagには,他のヨーロッパ諸国の身分制議会と異なり農民代表が地位を占めた。
農民たちは,共通の関心事(相互の紛争の調停,治安,防衛)を処理するために集会(古北欧語シングthing,現代語ting,しばしば民会と訳される)をもった。異教時代にはここで,共同体結合を神聖化し,収穫と平和と戦勝を祈願する祭祀も行われた。彼らにとって法秩序は宗教と同一であった。祭祀,紛争の調停,戦争の指揮は農民中の有力者=豪族にゆだねられる。すなわち集会は武装農民の全員参加という〈民主的〉形式をもちつつ,地域の豪族支配的結集でもある。やがて,人口増と交通発展を基礎にいくつかの地域にまたがるより大きな集会が組織される。それはそれぞれが豪族に指導される地域共同体がより大きな法共同体に統合されるということである。法共同体の連鎖・累積として,北欧三国(ノルウェー,デンマーク,スウェーデン)にそれぞれいくつかの法的領域land,landskap(邦)が形成されたのは,バイキング時代から中世初期にかけてである。こうした集会=法共同体の編成とその形成過程がもっともよく知られている例はアイスランドである。アイスランドは9世紀末からノルウェー西部地方をはじめとするスカンジナビアからの移住者のつくった社会である。彼らは有力農民の神殿hofを中心に祭祀共同体を組織し,かかる有力者はゴジgoði(司祭)とよばれた。このような有力者は集まって地域的集会heraðsthing(〈ヘラズherað(地域)の集会〉の意)を組織し,さらに人口増によって未開地が基本的に消滅した930年ころに,全島レベルの集会=アルシングAlthingに結集し,全島をさまざまなレベルの集会の体系に組織した。でき上がった機構は,全体は東西南北の4分区に分けられてそれぞれの集会をもち,各区はさらに三つ(北区のみ四つ)の地域(ヘラズ)に区分されてこれもそれぞれ集会をもち,この計13個の地域集会は,3人ずつのゴジによって主宰された。集会の序列は裁判集会としては下級審-上訴審の関係にあるが,アルシングと地域集会は立法集会でもあった。しかしこの集会機構にはいかなる執行権力もない。任期3年のアルシングの〈法を告げる者〉(毎年アルシング開催中に法を3分の1ずつ朗唱しまた法の知識を求めに応じて与える)以外には〈官吏〉はいなかった。司法機関としての集会が下した判決は,原告に執行がゆだねられる。最高刑は死刑ではなく法共同体の秩序からの追放である。被追放者は所有物を没収され,共同体成員から保護を受けられず,もしだれかが彼を殺しても罪に問われない。したがって法の執行は原告ないしその支持者の実力によるほかない。ここに集会にもとづく法秩序の特徴があり,それぞれの単位地域の指導的有力者ゴジたちが,その実力を背景に超地域的な全島的秩序を創出したものが集会の体系であった。
国防ということが重大でなかったアイスランドとちがって,北欧三国では,自生的で非国家的な立法・司法集会の体系を超えた政治的統合が必要とされ,王権を先頭としてこれが行われる。しかし統一王権の成立後も,法的領邦landskapは自立的たりえたのであって,王権はその権威の承認を,各法領域から別々に受けねばならなかった。王位請求者は国内を巡回して各集会で承認されるのであった。それぞれの国において,10~11世紀に成立をはじめた王権が,個々の法領域に妥当する法landskapslov,landskapslagの集積ではなく,全国に妥当する法の制定に成功するのは13~14世紀においてである。しかしそれ以後も下級の集会は,農民が自由を失わなかった度合に応じて自治的な農民集会として機能しつづける。ただこの点でも村落共同体を形成したデンマークでは,村の集会は領主裁判所の性格をあわせもったのである。
自由な集会をもつ武装農民を王権のもとに結集させたのは,海軍役=レイザングleiðangr(現代語では,ノルウェー語でライダングleidang,デンマーク語でレディンゲンledingen,スウェーデン語でレドゥングledung)である。海にかこまれたこれらの国では国防は個々の自生的な法共同体をこえた軍事機構を,したがって自生的な武装集団とは一応別個の召集・動員機構と超領邦的指揮権=王権を必要とした。そのため全土の沿岸部は,1隻の軍船を建造し,艤装し,武器と糧秣を供給し,漕手=兵員を乗りくませるための〈船区〉に編成され,さらにその下は乗員1名をだす漕手組ともいうべき単位地区に区分組織された。
1隻の船をだす地域は,ノルウェーではシキプレイザskipreideないしシキプスシュースラskipssýsle(〈船の義務〉〈船管区〉の意),デンマークではスキペンskiben(〈船〉),1人の漕手をだす単位はそれぞれマンゲルズmanngjerd(〈乗員義務〉),ハブネhavne(〈オール紐〉)とよばれている。船区と行政単位との関係は初期の段階では明確ではないが,デンマークでは1ヘラッドherred(アイスランドのヘラズに当たる地域)に4ないし5スキペンがあったと計算され,ノルウェーでは船区の数は,現実の動員船員と一致しない。船区と行政区が一致していたらしいのは,スウェーデンのスベア人地域である。
スベア人の故地(今日のウップランドの主要部)は,ティウンダランド,アットゥンダランド,フィエドルンダランドという三つの〈部族地folkland〉からなっていた。地名第1要素はそれぞれ10,8,4の数詞を,第2要素はフンドhundすなわちフンダリhundari(スウェーデンの他の部分やノルウェー,デンマークのヘレッド,アイスランドのヘラズに当たる)という地域単位をさすから,三つの部族地はそれぞれ10,8,4個のフンダリを統合した地域を本来は意味していた。のちのウップランド法典によれば,各フンダリは動員の際に1隻の船をだすように規定されている。フンダリはさらに1人の漕手をだすハムナhamnaという地域単位に分けられたが,ハムナ(ハムラ)は櫂を船のきまった場所に固定する紐のことである。1ハムナは4農場からなっていたらしく,〈12対のオールをもつ船〉1隻を乗員で満たすには24人の漕手と1人の指揮者を要するから,1フンダリには25のハムナがあることになる。フンダリは100という意味であるから25ハムナ=100農場という計算が成立し,現在フンダリの軍事的起源に関する仮説となっている。この仮説は北欧の各級行政単位の名称が数詞と結びついていることをうまく説明し,またタキトゥス《ゲルマニア》6章でゲルマン人の軍事・社会組織についてのべた叙述とも符合するが,あまりに整然としているゆえに人口増も居住も自然に任せられていた社会にはうまくできすぎているように思える。他方先の〈部族地〉の外側に広がるバルト海・メーラル湖沿岸のスベア人地域はロジンRodhin(現代語ローデン)と総称された。この地名はローro(漕ぐ)に関係する(ちなみにフィンランド語ではスウェーデン人をルオチRuotsiという)。ここでは1隻の軍船をだす地域はスキプスラグskipslagh(現代語skeppslag)すなわち〈船の法領域〉とよばれ,1人の漕手をだす単位地域はオール(〈櫂〉)とよばれた。ラグlagh,lagというのは,先にのべたような集会を伴う法共同体のことである。したがってここでも農民の軍役は自主的な農民組織を基礎にしていたことが示唆される。
レイザング制は,武装農民の自主的集会組織を基礎としながら法典には整然たる全国機構のように規定されているのは,法典の書かれた時期(12~13世紀)が北欧三国でレイザングが課税化しつつあった時期だからでもある。王権の独自の武装力が発展するにつれて軍役は代納される。この軍役代納金と,船に積みこむべきバター,粉などの糧秣を起源とする現物納入とは,北欧中世農民の主要な税となり,この税もまたレイザングとよばれつづけた。農民は課税農民skattebondeとなり,自発的贈与や武装自弁の軍役とちがって新たな定額課税は国家・王権への従属を示す。しかしそれが自由人の証左としての軍役を起源とし,同じ名称をもったことはなお中世農民の自由を表現している。スウェーデンではレイザング(レドゥング)の義務を負わない貴族の耕地を〈自由地〉といったが,それは課税免除をあらわし,課税地=農民所有地が身分的な〈不自由〉と結びついていることを示すのではない。貴族は免税の代りに面積に応じて騎兵を供出する義務を負っていた。貴族の称号をもたぬ農民もその所有面積に応じた騎兵を供すればレイザング(レドゥング)義務から自由となり,その土地は自由地となったのである。軍事的な封建化,職業的騎士制度がもっとも進んだデンマークでは,農民の隷属化はもっとも進んだ。スウェーデン,ノルウェーでは,レドゥング,ライダングとよばれた租税を負担した土地所有農民のみならず,他人の土地を借地経営する地代負担農民も16世紀まで武装と集会をもった自由人であった。スウェーデン農民から武装と自治を奪ったのは,彼らの支持によってデンマークからの独立を実現したグスタブ1世とその王朝である。
スカンジナビア人はキリスト教以前はゲルマン的異教に属した。スノッリ・ストゥルルソンやブレーメンのアダムによればバイキング時代にもっとも崇拝されたのはソール(トール),フレイヤ,オーディンの3神だったらしい。農民たちは各級の集団ごとに定期的に集まってこれら3神などに人身を含む犠牲を捧げ,神々の名において乾杯した。それは豊穣と平和と戦勝のためだとスノッリは伝えている。多産の神フレイヤは部族的結合にとってもシンボルたりえ,ウプサラのスベア人の王家ユングリング家はフレイヤの子孫とされる。平和は仲間・共同体内の治安を,戦勝は対外的な遠征と防衛における勝利を意味する。宗教は,農民たちが相互の紛争処理と軍事目的のために法的共同体をなして地域的に結集するイデオロギーとなっていたのである。信仰と正義と法は重複する観念であった。999年ころアイスランドの全島集会でキリスト教への改宗が論ぜられた。このとき調停を依頼された豪族は,〈法が分裂すれば平和は分裂する〉とのべ,みずからは異教徒であったのにキリスト教化の裁断を下す(《ニャールのサガ》による)。信仰は個人的な問題ではなかったのである。ゲルマン的異教は信仰としては共通であっても祭祀は神殿ごとに独立している。したがって,神殿を所有してこれを維持し,そこでの犠牲式すなわち宴会を自己負担する司祭=豪族は,宗教的権威と世俗的権威を統合していた。より広い地域的結集はかかる豪族たちの連合である。このような祭司権威の多数並存と法領域ごとの祭祀の自律性は,国民的統一を課題とする王権にとっては克服の対象である。豪族的〈民主制〉に対して中央的〈専制〉を表現する宗教は,他のすべてのヨーロッパ諸国と同じく,ここでも教区制を伴うキリスト教であった。
北欧のキリスト教化は9世紀初め以来,アンスガール(ベネディクト派の修道士。ヘゼビューに北欧最初の教会を建て,のちハンブルク大司教となる)をはじめとする北方伝道と,西方で受洗したバイキングの帰郷によってはじまったが,最初の成功はようやく10世紀中ごろ,ドイツの軍事的圧迫下にデンマークでみられた。ヘゼビュー,リベ,オーフスに司教座がおかれ,おそらく960年ころにはハーラル青歯王が受洗した。ノルウェーとスウェーデンでは,ともに11世紀初め国の統一者,外敵からの防衛者としての王の名と結びついて少なくとも制度上の改宗がなされた(オーラブ2世など)。大司教座設置は,ルンドが1103年か04年,トロンヘイムが1152年か53年,ウプサラが1164年である。しかし民間信仰としてのゲルマン異教は13世紀過ぎまで根強い力をもち,多くの異教的慣習・祭宴は,キリスト教の外被のもとに生き残った。飲酒と舞踊を伴う異教起源の宴は,キリスト教の聖人の日に教会堂で行われさえした。これらの習慣と教会の関係が断ち切られたのはようやく宗教改革によってである。
ルター派はきわめて短時日のうちに北欧・スカンジナビアで完全な勝利を得た。それは,北ドイツからデンマークへの影響力,ハンザ商人による北欧諸都市への浸透のほか,当時北欧の神学生の多くがドイツのウィッテンベルクをはじめとするルター派の中心地に留学していたことにもよる。しかし決定的な要素は王権の政策である。デンマークとスウェーデンは国の独立と中央集権化,それらに伴う軍事費を必要としていた。ローマからの独立と教会財産の没収をルター派が支持するかぎり国王はルター派に好意を示し,北欧の宗教改革は国家教会をもたらした。国民国家の創設にむけてルター派改革を利用した両国は,隣人に対しては強圧的であった。デンマーク王クリスティアン3世(在位1535-59)はノルウェーとアイスランドに,スウェーデン王グスタブ1世はフィンランドにルター派を軍事力をもって押しつけた。本国を含むすべての国でカトリック派司教たちの指導下に農民たちの抵抗と反乱があったがすべて鎮圧された。北欧でも,宗教改革は聖書の各国語への翻訳を印刷術とともにもたらした。とくにフィンランド語訳聖書は最初の母国語印刷であり,南西部方言の標準語化への第一歩である。しかしノルウェーにおいては印刷がなされず,デンマーク語訳聖書が用いられ,ノルウェー公用語のデンマーク語化はここにその起源をもっている。
→北欧神話
執筆者:熊野 聰
スウェーデン,ノルウェー,デンマークおよび1944年に独立したアイスランドの4ヵ国は,それぞれの歴史的特質を有しながらもゲルマン民族の移動時において,いわゆる北ゲルマン人に占有された国々であり,ゲルマン民族特有の共同体的秩序を根底に,とくに〈平等〉に力点をおいたスカンジナビア・デモクラシーの伝統を,根深くひめて発展してきた国々である。さらにフィンランドもくわえてスカンジナビア諸国とよぶのが,最近の傾向である。
各国とも宗教は,福音主義系ルター派であるとともに,フィンランドおよびアイスランドをのぞく3国は,いずれも立権君主国として国王を擁しており,現在デンマークは女王である。また,スウェーデンの場合,国際婦人年以後,国王にたとえ男子がいても最長子が後継者となること,つまり最長子が女子の場合はその女子が女王となることなどへの改革が行われ,もっとも民主的な王室として,国民になじまれている。
近代においてはスウェーデンが,いち早く工業化の道をたどる過程で,ノルウェーおよびアイスランドは漁業国,デンマークおよびフィンランドは農業国としての特徴をもっていた。しかし現在はデンマークの工業化の進展や,ノルウェーの北海油田の開発の進展に伴う工業化により,それら2国は,スウェーデンの国民総生産額にしだいに接近してきている。
外交上はそれぞれが,独自の立場をとりつつある。たとえばデンマークの場合には,NATO協力,EU協力,北欧協力,国連協力の4本を外交の方針としている。だがスウェーデンの場合には,NATOに加盟しておらず,EC(現,EU)に対してはその拡大に伴い,特別協定を1972年7月に調印,73年1月から正式に加盟した。それに対しノルウェーの場合には,NATOの創設メンバーで,NATO北部軍司令部があり,NATOの近代化計画に賛成をしている。またアイスランドは,完全非武装国家であるとともに1949年NATOに加盟,フィンランドは,95年1月にEUに加盟した。なお,北欧諸国間協力の組織として1953年以来〈北欧会議〉が開かれている。
国内においては,スウェーデンの場合,1970年に国会を一院制に改革,デンマーク,フィンランドも一院制にしてその機能をたかめているが,ノルウェー,アイスランドは,現在も二院制を堅持している。いずれも多党制であるが,連立内閣の結成や,少数政党同士の内閣の結成も可能であるため,政治的な安定もはかられている。
スウェーデン,デンマーク,ノルウェーの3国は,とくに労働組合の組織率が高く,また生活協同組合の組織化が進んでいる。労働組合運動は,社会民主主義を支持するものが主流をしめ,それぞれの国情における現実路線をとっている。また生活協同組合のうちスウェーデンは資本主義国において,もっとも組織率が高く,デンマークの場合は,生活協同組合が酪農生産を行うなど,きわめて積極的で注目されている。しかも,その労働組合および生活協同組合が支持している社会民主主義系統の政党すなわちスウェーデンの場合は社会民主労働党,デンマークは社会民主党,ノルウェーは労働党がいずれも国会で多数をしめ,とくに1930年代の世界大恐慌下に政権をとり,その後もつづいて政権を担当し,経済の成長と福祉国家の展開を推進してきた。なお,アイスランドの場合は,独立党が強いが,他の政党との差が少ないため,連立政権がつづいている。フィンランドの場合は,とくにスウェーデンの影響が強く,労働組合および小農民を基盤とした社会民主党が強力である。しかし,いずれの国々においても,とくに1970年代以降のオイル・ショック以後は,従来の社会民主主義系の政党が,一時,政権の座をおりるなどの変動がみられる。
選挙は,いずれの国においてもその公営部分がしだいに拡大されており,候補者本位ではなく党本位で,また政治活動資金の個人負担はまったくない。したがって,選挙民は,各自の選ぶ政党に投票し,各政党が得票した割合で議席をしめる議員をきめるという方法をとっている。
また,地方自治がきわめて発達しており,国政は,地方自治をむしろ支え援助するとともに,外交,軍事その他重大政策において統合的な政策をとるという特色がある。なおスウェーデンにおいては,1977年の選挙から,18歳以上に選挙権を付与するとともに,地方自治体においては,外国人にも居住年数が一定以上の住民に選挙権をあたえている。
婦人の地位も高く,地方自治体や国会の議員,あるいは大臣に就任する婦人議員は,他国に比し多い。
そのほか,特記すべきことは,現代の護民官といわれるオンブズマン制度の発生が,スウェーデンであることである。これは,1713年,当時の国王が,役人に対する国民からの不平不満を調査する目的で設けた。その後,行政に対し市民の苦情処理を公正にしかも迅速に行う制度として発展しており,とくにスウェーデンでは,公正取引,消費者保護,報道オンブズマンなどが活躍,デンマークでは,1955年以来この制度を確立し,社会保障や社会福祉関係で活動,さらにノルウェーも52年以来軍事オンブズマン,62年から行政監察オンブズマンをもっている。いずれも,国民主体の政治の反映である。
以上の状況のなかで,社会福祉,社会保障制度は,世界のなかでももっとも整備されている。ことに,年金によって高齢者はもとより障害者も,最低限度とはいえ,その生活が保障されているばかりでなく,保健,医療保障,とりわけリハビリテーションの充実が進められている。また住宅保障が社会保障として確立しており,ことに住宅およびその周辺の地域計画に,福祉サービスが統合化されることによって,在宅福祉の整備が努力され,〈ノーマライゼーション〉の具現化が進展している点が特徴的である。
執筆者:一番ヶ瀬 康子
スカンジナビア諸国は,富の平等を政策とし個人の生活を保障する福祉社会であるため,国民には高税が課せられ,衣食住の面では1973年のオイル・ショックを期に悪条件が重なっている。消費税をすべての物品に約20%もかけるなど生活費はかさむ一方といえる。日常食品中乳製品は豊富で,黒パン・肉食が主となり生野菜や果物類は極度に少ない。そのため一年中保存食品を用いている。バターを厚くぬったパンの上にチーズ,ソーセージ類を置くオープンサンドは常食である。温かい食事はゆでたジャガイモに肉類を添える程度である。魚ではタラやニシンもよく用いられ,ニシンは酢漬や薫製にと多様に調理されている。子どもは主として牛乳,大人はビールなどを飲むが,ときには強いシュナップス酒も愛用される。一般に変化の少ない食生活を強いられビタミン錠剤が常用されている。ただ来客時などにはテーブル飾りに配慮が見られ,この分野で芸術の域に達するものもある。
冬が9ヵ月は続くため,家庭は明日の仕事への精力を生み出す所として,また社交の場としても重要である。今日まで浴室はあまり重要視されなかったが最近は整ってきた。まず,サウナを,次に住居をという考えはフィンランド人のみの好みである。古い大きなアパートに老人の一人暮し,狭いところに子どものある夫婦という現象も起きているが,平均して1人2部屋弱をもつゆとりのある住宅状況となった。都市住民はアパート式,一軒家は庭付きで郊外にと全体の計画および環境づくりがよく行き届いており住宅の外観は美しい。室内の飾りつけは個性が生かされており,斬新なデザインと研究を重ねた機能的な家具の数々に特色があり,彼らの好みや高い文化水準を表している。
一年中でもっとも大きな祝い事は誕生日と12月末のユールのころである。後者は各国少しずつ異なった方法や伝統をもつが祖父母から孫まで親戚中が集い24日の夜に贈物を交換しごちそうを作って家庭でくつろぐ。大晦日は路上で爆竹などに興ずるが午前零時に友人や家族が乾杯して新年の挨拶を交わす。夏には勤労者も1ヵ月前後の休暇を取って健康管理のため自然と太陽を求めてサマーハウスへの転居や南への旅行を楽しみ,心身ともに生きる喜びを謳歌する。
執筆者:岡田 令子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ヨーロッパ北部に位置するデンマーク、ノルウェー、スウェーデンは一般にスカンジナビアとよばれる。しかし厳密な規定はなく、便宜上、狭義にはこの3国とし、広義には「北欧」と同義とみてフィンランド、アイスランドを含める場合もある。以下は狭義のスカンジナビアについて解説する。
語源はスウェーデン南部スコーネSkåne地方のラテン語綴(つづ)りスカンディアScandiaから転じたものといわれる。3国の人口は約1878万人(2001)、面積約81万7000平方キロメートル。スカンジナビア半島は中央より西寄りに古生層からなる2000メートル級のスカンジナビア山脈を配し、これがノルウェーとスウェーデンの中・北部国境となっている。更新世(洪積世)の氷河時代に氷床の中心がボスニア湾上にあったため、そこから拡大した氷床によって山脈は侵食を受け、山脈の西側は高原状の山地にU字谷ができ、そこに海進がおこってフィヨルドができた。東側斜面には細長い氷河湖が生まれたが、浸食作用によって表土が持ち去られた外側の地域には丘陵と無数の湖水が出現し、その結果半島の南部には平野が形成された。気温は、半島西部では暖流の影響を受けて高緯度のわりには冬は温暖であるが、内陸部と大陸性気団の影響を受ける東部は寒冷である。
スカンジナビア三国はビーキング(バイキング)時代(8世紀末~11世紀なかば)に北ゲルマン系のスベア人(イェート人を含む)、デーン人、ノルウェー人によってそれぞれ国家の発生をみ、海外交易で知られた。10世紀前後にキリスト教が渡来し、現在の3国が形成されたが、1397年にカルマル連合が成立し、デンマークが支配権を握った。1523年にスウェーデンはデンマークからの独立に成功したが、ノルウェーは1814年までデンマークの支配を受けた。ノルウェーはその後さらに同君連合の名のもとにスウェーデンの支配下に置かれたが、1905年に独立した。第一次世界大戦では3国とも中立を保持できたが、デンマーク、ノルウェー両国は第二次世界大戦でドイツの占領下に置かれ、戦後、その2国はNATO(ナトー)に加入している。1953年に北欧会議(Nordic Council)が発足し、域内(アイスランドを含む。フィンランドは1955年に加盟)で移動、就業、社会保険の受理が可能となるなど、域内の社会、経済、文化、交通・通信、法律などさまざまな分野での協力を進めてきた。デンマークは73年からEU(ヨーロッパ連合)の前身のEC(ヨーロッパ共同体)に、スウェーデン、フィンランドは95年からEUに参加しているものの、北欧各国間の協力関係は変わっていない。言語は語源的に共通のノルド語系の言語を使用し、各国語の話しことばは発音がそれぞれ異なるが、書きことばでは十分に理解しあえる。通貨はそれぞれ異なるが、名称はクローネの共通名でよばれる(正確にはスウェーデンではクローナ)。国旗には3国とも左寄りの十字があしらわれ、「スカンジナビア・クロス」とよばれる。
[村井誠人]
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