イギリスの物理学者。写真乾板を用いた高速粒子検出法を創始し、宇宙線研究に新生面を開いて、1950年ノーベル物理学賞を受賞した。また科学運動の指導者の一人。
ケント州トーンブリッジに生まれ、ケンブリッジのシドニー・サセックス・カレッジを卒業、1925年の自然科学トリポスの第一席を得て、キャベンディッシュ研究所に入り、ラザフォード、C・T・R・ウィルソンの影響を受け凝縮現象を研究し学位を得た。1927年ブリストル大学に地位を得て以後、チンダルのもとにあって1948年物理学教授、1964年H・H・ウィルズ物理研究所所長となり退官までその職にあった。ノーベル賞のほか王立協会のヒュー・メダル、ロイヤル・メダルを受け、またソ連科学アカデミー(現、ロシア科学アカデミー)からロモノーソフ金賞を得ている。
写真乾板による粒子の軌跡の検出に着手したのは1930年代終わりで、乳剤の開発により軌跡が可視となると、これを顕微鏡下で調べることにより粒子の質量・電荷・エネルギーを定める方法を進めた。湯川秀樹が中間子の存在を予言して以来、この粒子の発見は物理学者の課題であったが、発見された粒子(μ(ミュー)中間子)は湯川の予言とは性質を異にしていた。予言された粒子(π(パイ)中間子)を発見したのはパウエルとそのグループで、彼らは写真乾板により、π中間子が2×10-8秒の寿命でμ中間子(およびニュートリノ)に崩壊することを示したのである。その後、不安定な素粒子の発見が進められ、今日の素粒子物理学の端緒が開かれた。パウエルは国際的な共同研究の体制を組織し、気球による観測からヨーロッパ諸国の原子核研究の共同研究所としてのCERN(セルン)(ヨーロッパ原子核研究機構)の設立に尽力した。そして宇宙線研究でのブリストル・グループはとくに1946~1956年にわたる10年間の業績によってあまりにも著名である。またパウエルは、科学が社会で果たす役割について優れた見識をもち、実践的な活動をも進めた。科学者の社会的責任を説く世界科学者連盟(WFSW)の会長としてその指導にあたり、またパグウォッシュ運動の創始者として活動し、国際的な科学者運動の中心的存在としてその役割を果たした。
[藤村 淳]
アメリカの軍人、政治家。G・W・ブッシュ政権1期目の国務長官。ニューヨーク市生まれ。中央アメリカ・ジャマイカからの移民の子で、ニューヨークのサウス・ブロンクス地区で育つ。1958年ニューヨーク市立大学卒業。在学中に予備役将校訓練でアメリカ陸軍へ入隊。ベトナム戦争に二度にわたって従軍した。ジョージ・ワシントン大学で経営学修士号(MBA)も取得している。軍歴は35年間におよび、1989年から1993年にかけて黒人としてアメリカ史上初めて、アメリカ軍の最高位である統合参謀本部議長を務めた。在任中、「軍事介入は、アメリカの安全への脅威が明白で国民の支持があるときのみ、最後の手段として行う」「いざ軍事力を行使する際には、戦略目標を明確にして圧倒的な兵力を投入する」といった基本方針を掲げ、パウエル・ドクトリンとして知られるようになった。1991年の湾岸戦争を指揮したことで国民的人気が高まり、1993年の退官後、大統領選出馬の可能性も取りざたされた。2001年1月、ブッシュ政権の発足の際に国務長官に就任した。国際協調を重視する穏健派。2003年3月に遂行されたイラク戦争にいたる過程では、フセイン政権への対処を巡ってタカ派のラムズフェルド国防長官らと対立した。2005年1月国務長官を退任した。
[尾関航也]
『オーレン・ハラーリ著、前田和男訳『パウエル リーダーシップの法則』(2002・ベストセラーズ)』▽『コリン・パウエル著、ジョゼフ・E・パーシコ著、鈴木主税訳『マイ・アメリカン・ジャーニー コリン・パウエル自伝 少年・軍人時代編』『マイ・アメリカン・ジャーニー コリン・パウエル自伝 統合参謀本部議長時代編』『マイ・アメリカン・ジャーニー コリン・パウエル自伝 ワシントン時代編』(角川文庫)』
イギリスの映画製作者、監督、脚本家。カンタベリーの生まれ。1925年、フランス、ニースのレックス・イングラムRex Ingram(1892―1950)のスタジオに、1928年にはブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズに入所、1931年監督となる。1942年、脚本家のエメリック・プレスバーガーと独立プロダクションのアーチャーズを設立。製作・監督・脚本を2人の共同クレジットで、『わが一機未帰還』(1942)から『将軍月光に消ゆ』(1956)まで15本の作品をつくりあげた。なかでも現世と天国をモノクロとカラーで描き分けた『天国への階段』(1946)、ヒマラヤの尼僧院を舞台にした『黒水仙』(1946)、バレエ映画『赤い靴』(1948)、『ホフマン物語』(1952)など、巧緻(こうち)をつくした大胆華麗な作風で海外でも高く評価された。単独で活動するようになってからの作品に、カルト映画『血を吸うカメラ』(1960)がある。
[宮本高晴]
スパイ The Spy in Black(1939)
バグダッドの盗賊 The Thief of Bagdad(1940)[ルドウィヒ・ベルガーとの共同監督]
潜水艦轟沈す 49th Parallel(1941)
わが一機未帰還 One of Our Aircraft Is Missing(1942)
老兵は死なず The Life and Death of Colonel Blimp(1943)
カンタベリー物語 A Canterbury Tale(1944)
うずまき I Know Where I'm Going!(1945)
天国への階段 A Matter of Life and Death(1946)
黒水仙 Black Narcissus(1947)
赤い靴 The Red Shoes(1948)
女狐 Gone to Earth(1950)
快傑紅はこべ The Elusive Pimpernel(1950)
ホフマン物語 The Tales of Hoffmann(1951)
美わしのロザリンダ Oh... Rosalinda!!(1955)
戦艦シュペー号の最後 The Battle of the River Plate(1956)
将軍月光に消ゆ Ill Met by Moonlight(1957)
ハネムーン Luna de miel(1959)
血を吸うカメラ Peeping Tom(1960)
年頃 Age of Consent(1969)
第16代アメリカ連邦準備制度理事会(FRB)議長。弁護士、銀行家、財務官僚などを経て、ジャネット・イエレンの後任として、2018年2月にFRB議長についた(2022年再任)。経済学の博士号をもたない者がFRB議長を務めるのは、第11代のウィリアム・ミラーGeorge William Miller(1925―2006)以来40年ぶりである。
ワシントンDC生まれ。1975年にプリンストン大学政治学部を卒業し、1979年にジョージタウン大学で法務博士号(J.D.)を取得。弁護士を務めた後、投資銀行の役員、投資ファンドの共同経営者を務めるなどウォール街での経験が長い。1990年から財務省に転じ、1993年までジョージ・H・W・ブッシュ政権下で財務次官補(国内金融担当)や財務次官を歴任した。その後、シンクタンクの客員研究員としてリーマン・ショック後の政策研究に従事した。2012年5月にFRB理事に就任(2014年再任)し、金融危機後の量的金融緩和策を進めたバーナンキやその後の金融正常化(出口戦略)に取り組んだイエレンを支えた。トランプ政権下でFRB議長となり、金融正常化を進めたが、2020年から新型コロナウイルス感染症(COVID(コビッド)-19)の流行に直面。急速に冷え込んだ経済を下支えするため、2020年3月、ゼロ金利政策と大規模な量的金融緩和政策を同時に断行し、アメリカ経済の急回復につなげた。アメリカ経済が約30年ぶりの物価高に直面すると、2021年11月から量的金融緩和の縮小(テーパリング)を進め、2022年3月にはゼロ金利解除に踏み切るなど、インフレ抑制のための金融引締めを主導している。銀行規制(ボルカー・ル-ル)や気候変動対策に消極的なため、民主党左派からの評判は芳しくないが、新型コロナウイルス感染症流行時にとった金融政策や、物価高に機動的に対処した手腕を評価するアメリカ大統領バイデンが2021年にFRB議長再任を決め、2022年にアメリカ議会上院から承認された。
[矢野 武 2022年6月22日]
アメリカのジャズ・ピアノ奏者。ニューヨーク市生まれ。6歳のときからクラシック・ピアノを学び、15歳ごろジャズに転向。クラブに出入りして新しいジャズであるビ・バップを習得、セロニアス・モンクの示唆を受けて天才ぶりを発揮した。1940年代末から50年代初めにかけてが真の絶頂期で、あらゆるピアノ奏者に影響を及ぼした。自作の名曲に『クレオパトラの夢』などがある。
[青木 啓]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
バド・パウエルとして知られるアメリカの黒人ジャズ・ピアニスト。本名Earl Powell。モダン・ピアノのパイオニア。ニューヨークの音楽的な家庭に育ち,幼時からクラシックを習い,高校を中退してプロとなった。最初アール・ハインズとアート・テイタムを手本としたが,1941年ころハーレムのクラブに出入りしているうち,セロニアス・モンクのプレーから多くの示唆をうけ,ビバップ・イディオムに基づく革新的なピアノ・スタイルを創造して注目を浴びた。そのころから精神病と麻薬常習によって健康は徐々にむしばまれた。レコードによって年代順にたどるその作品は,いい時期とわるい時期が交互に現れ,全体としては下降をたどっている。50年前後の数年間のバド・パウエルはジャズ史上屈指の天才であった。59-62年フランスに移住,パリのクラブに出演していたが,結核が悪化して帰米し,ニューヨークの病院で死去した。マックス・ローチ,クリフォード・ブラウンの五重奏団で活躍し,ブラウンとともに自動車事故で死去したジャズ・ピアニスト,リッチー・パウエルRichard(Richie)P.(1931-56)は実弟。代表作に《バド・パウエルの芸術》(ルーレット),《パウエル第1集》(ブルーノート),《ジャズ・ジャイアント》(バーブ)などがある。
執筆者:油井 正一
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1937~
アメリカの軍人,国務長官(在任2001~05)。ベトナム戦争に従軍し,レーガン大統領の国家安全保障担当補佐官。統合参謀本部議長としてパナマ侵攻と湾岸戦争を指揮した。G.W.ブッシュ政権では黒人として初の国務長官に就任。
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