語源はヘブライ語miryāmまたはアラム語のmaryāmで,〈ふとった女〉(すなわち〈美女〉)の意とされる。旧約聖書にはモーセとアロンの姉妹の名として出てくるし(《出エジプト記》15:20),新約聖書でもマリアの名をもつ人物はマグダラのマリア以下何人もいるが,一般にマリアといえばイエス・キリストの母,いわゆる聖母を指す。東方では4世紀以降,とくに431年のエフェソス公会議以降テオトコス(〈神を生んだ者〉の意)と呼ばれることが多く,他にパナギアPanagia(〈至聖なる女〉の意),メテル・テウMētēr Theou(〈神の母〉の意。と略す)などと呼び,マリアということはむしろ少ない。西方ではとくに12世紀以降,騎士道の隆盛とともに〈われらの婦人〉,すなわちノートル・ダムNotre Dame(フランス語),ヌエストラ・セニョーラNuestra Señora(スペイン語),ウンゼレ・リーベ・フラウUnsere Liebe Frau(ドイツ語),アワー・レディOur Lady(英語)など,またイタリアではやや遅れてマドンナとも呼ばれた。また処女のままみごもったとされるところから,マリアは〈処女〉を意味する語によっても示される(英語のthe Virginなど)。
マリアに関する記述は,福音書にはあまり多くはなく,〈聖告(受胎告知)〉(《ルカによる福音書》1:26~38),〈エリサベツ訪問〉(同1:39~56),〈キリスト降誕〉(同2:4~7),〈学者(教師)たちの間のイエス〉(同2:41~51)などキリストの幼年時代に登場するほかは,キリストの公生活以後は〈カナの婚礼〉(《ヨハネによる福音書》2:1~11),〈磔刑〉(同19:25~26)に名を出す程度である。しかし,〈神の母〉としての存在が時代の進展とともにしだいに重要視されるに従って,マリアに関する民間説話も東方各地でその数を増し,〈アポクリファ(外典)〉として《マリアの〈ゲンナ〉》《マリアの福音書》のほか,《ヤコブ原福音書》《キリスト幼児のアルメニアの書》などに記述があり,西方では中世盛期に《黄金伝説》の中に聖母伝が編入されて民間に流布した。またそれらとは別に,マリアの出現や事跡が旧約聖書の随所にすでに預言予示されていたとする,一種の聖書解釈学(テュポロギア)が発達した。たとえば《出エジプト記》3章2節に記されている〈燃えるしば〉の茂みが焼けなかったのは,マリアが出産してなお処女性を失わなかったことを予示するものである,と解釈する類である。この種の解釈学は時代を追って詳細を極め,それが少なからず造形表現された。
さてマリアは聖人たちの筆頭として,キリスト教社会ではほとんどいつの時代にも多くの信仰を集めたが,神学的にいえばマリアは神ではなく,神に次ぐ立場を占める者である。つまりマリアは前述のように〈神の母〉テオトコスであるとされる。キリストは聖霊によってマリアの胎内に宿ったのであり,それゆえにマリアは処女のままみごもったのであり,しかも原罪を負った通常の女性とは異なった〈無原罪Immaculata〉の女性であり(処女懐胎),人類を罪におとしいれたイブとは逆に救世主(メシア)を生んで人類救済の役を担った女性である。この意味で人間の救いのために〈とりなしをする女Mediatrix〉でもある。さらにその体は死後墓の中で腐ることなく天使たちによって天に挙げられたとされる(いわゆる〈聖母被昇天〉)。これらの教義は,多少の抵抗を受けながら時代とともに確立されていったものである。こうしてマリアはキリスト教社会においてきわめて特殊かつ重要な意味をもったのであり,教義的には神ではないが民衆はこれをほとんどキリストと並ぶ信仰の対象として扱った。マリアはエジプトのイシス神,シリアのアスタルテ神,小アジアのアルテミス神やキュベレ神,ギリシアのデメテル神やアテナ神,さらにはケルトやゲルマンの母神などに相応するものであった。そして事実,それら異教母神との影響関係が多かれ少なかれ指摘されている。いずれにせよ,マリア信仰(崇敬)は5世紀以降東西キリスト教社会で急速に発展し,マリアに献じられた聖堂および修道院の数はきわめて多かった
→マリア論
ここで図像学的立場から,ほとんど2000年近くにわたって西洋の東西社会に広がった聖母像を概観してみよう。聖母像はまずこれを独立像と説話図像とに分けることができる。
独立像は多く礼拝や祈願の対象とされるもので,ふつう〈神の母〉としての性格を明示するために聖子を抱いた聖母子の形をとる。その古い例はすでに初期キリスト教時代のカタコンベの壁画に現れているが(ローマ,プリシラのカタコンベなど),礼拝像としての聖母子像がとくに発達を始めたのは,前述のテオトコスの教義が確立したエフェソス公会議以後のことと思われ,さらに6世紀以後に普及の度を速めたらしい(ローマ,コモディラのカタコンベ壁画,シナイのカタリナ修道院のイコンなどが現存例)。しかし他方,ユダヤ教伝来の聖像否定思想も根強く,それが聖母像の発展をある程度阻止したに違いなく,また8~9世紀ビザンティン帝国のイコノクラスム(聖像破壊運動)のために,それまでの像の多くが破壊されてしまったに違いない。聖像否定論の主要な論拠の一つは,木や石などの像はただの物質にすぎないのであって聖なるものではありえないということであった。この問題が理論的に克服されて聖像が復活したあとも,聖像は三次元性を放棄して二次元の画面に表現されたものに限られ,東方ではその伝統が今日にまで続いているが,西ヨーロッパでは11世紀ごろから丸彫の聖母子像が作られるようになった。これらの聖母子像は幾つかの類型に分けることができる。初期キリスト教時代にはマリアが両手を広げて祈るマリア・オランスMaria Orans型が見られるが,その後類型が分化し,東方では立勢(ときには上半身)で左腕に幼児イエスを抱くホデゲトリアHodēgetria型(〈導く聖母〉の意),抱かれた聖子が母に頰をすりよせるエレウサEleousa型(〈いとおしみの聖母〉)などがあり,一般に板絵の礼拝像(イコン)として普及した。西ヨーロッパではロマネスク期に丸彫座像(木身の金属像または彩色木像)として発達し,13世紀からそれがしだいに立像に代わった。絵画の分野でも類似した形式が彫刻と並行して壁画,ステンド・グラス,写本画などに用いられ,また建築浮彫にも見いだされる。とくに聖堂建築では,聖母子像は祭室の半円蓋中央やティンパヌム中央の重要な位置を占めることが多い。中世末期から近世初期にかけて,諸種の象徴的モティーフを伴った多様な図像が現れた。その一つは〈楽園の聖母〉で,一般に花,とくにバラが周辺に描かれる。他に,〈悲しみの聖母〉や,聖母が両手で大きく広げた外衣の下に祈る信徒たちを小さく描きこんだ〈守護の聖母〉(この場合,聖子の姿は描かれない)がある。
以上の聖母子像に関して重要な問題は,それらの像においていかに神的なものを表現するかである。マリアは単なる人の母ではなく〈神の母〉であり,したがってそこに単なる人の母以上に何か聖なるものを表現しなければならない。その点で,11~12世紀のロマネスク彫刻は,聖母に宗教的な威厳を与えるのに成功している。13世紀に入ると,この超自然的な威厳に代わって慈愛の精神が優雅な表現をとるようになり,さらに中世末期からルネサンス期にかけて精神性がうすらぎ,聖母は一般に人間臭の強い美女となる(ラファエロの《聖母》など)。東方では,超自然的・神秘的な霊性の表現が長期にわたって聖母像の伝統をなすが(《ウラジーミルの聖母》,1130ころなど),17世紀ごろから西洋の写実主義が入るとともに俗悪なものに堕していった。
説話図像は,キリスト降誕以前のマリア伝,キリストの時代,マリアの晩年と三つに大別しうる。
第1のマリア伝に関しては福音書には記述がなく,外典(《ヤコブ原福音書》《マリアの〈ゲンナ〉》《マッテヤによる福音書》など)が典拠となったが,聖母図像の展開はキリストの幼時伝の図像の展開と類似し,明らかにこれにならったものである。それはマリアの両親ヨアキムとアンナの物語に始まり,〈マリアの誕生〉〈神殿への奉献〉などと続き,さらに〈マリアの結婚〉が加わるが,これらの説話図像表現はおおむね11世紀ころから東方で広がり(カッパドキアの洞窟修道院の壁画,《修道士ヤコボスの説教集》写本画など),その後しだいに一般化したもので,コンスタンティノポリス(イスタンブール)のカハリエ・ジャーミー(旧コーラ修道院)壁画,スクロベーニ礼拝堂(パドバ)のジョットの壁画などにその代表作がみられる。
次いで,〈聖告〉〈エリサベツ訪問〉などに始まるキリストの幼年時代の説話の表現では,マリアの像は福音書の記述にみえるマリアよりもはるかに重要な役を演じ,とくに〈キリスト降誕〉〈マギの礼拝(三博士の参拝)〉〈エジプトへの避難〉などでは主役的な意味をもつ。諸種の外典が,これらの図像に重要な典拠を提供したことはいうまでもない。キリストの公生活の時代にはマリアの姿はほとんど消えてしまうが,〈受難〉の諸場面でマリアは再び登場し,〈磔刑〉〈十字架降下〉から〈埋葬〉にいたる諸場面で,〈嘆く女〉として表現される。とくに,息絶えたわが子を膝の上に抱いて嘆き悲しむ聖母の姿は,西洋の中世末期に至って独立した主題として彫刻となり画像となった。いわゆるピエタで,それがラインラントを中心としてヨーロッパ各地に広がり,《アビニョンのピエタ》,ミケランジェロの《バチカンのピエタ》などの名作を生んだ。
マリアの晩年の図像には,〈キリストの昇天〉〈聖霊降臨〉に登場するほか,マリアを主役とする図像に〈聖母の死〉(〈聖母の眠りDormitio〉),〈埋葬〉〈被昇天〉〈聖母の戴冠(たいかん)〉と続く。中でも東方では〈聖母の死(眠り)〉が,西方では〈聖母の戴冠〉(13世紀以降)が,それぞれキリスト伝の主要な場面と並ぶ重要な意味をもった。以上のさまざまの聖母図像は,各時代や各地域においてそれぞれ形式の変化を示し,またその様式も表現された宗教感情も多様であったことはいうまでもない。造形表現におけるマリアの最も一般的な持物はバラや白ユリ,王冠などであるが,時代・地域により変化が多い。
なおマリアに関した祝日は数多く,そのおもなものに,聖告3月25日,聖母被昇天8月15日,マリアの誕生9月8日,神殿への奉献11月12日,懐胎12月8日がある。
執筆者:柳 宗玄
新約聖書に語られるガリラヤ湖西岸マグダラ出身の聖女。イエス・キリストにより〈七つの悪霊〉を追い出してもらったという(《マルコによる福音書》16:9)。かつて遊女であったが,悔い改めイエスに献身的に仕えた。イエスの処刑,埋葬に立ち会い(《マタイによる福音書》27:56,《マルコによる福音書》15:47),墓を訪ねて復活したイエスに接した(《マルコによる福音書》16:1~8)。またイエスは復活後最初に彼女の前に現れた(《ヨハネによる福音書》20:11~18)。彼女はその後南フランスへ行き,布教と30年の隠修生活ののち没したという。美術作品では,彼女と同一視されるイエスの足に塗油した罪深い女の逸話(《ルカによる福音書》7:37~50)から,香油壺を持つ髪の長い女性として表される。また,福音書の諸場面--磔刑,十字架降下,〈われに触れるな(ノリ・メ・タンゲレNoli me tangere)〉--などに登場し(ジョット《イエス伝》,アレーナ礼拝堂,パドバ),伝説から天使を従え昇天する全身を髪でおおった女性(エジプトのマリアとの混同)として表現される。祝日は7月22日。
執筆者:篠 雅広
ミノス文明時代の宮殿址。クレタ島北岸の中部にあり,ミノス文明の他の諸宮殿と同じように,新宮殿が旧宮殿の上に重なり,中央中庭をかこむ諸室からなる一大集合体である。ただしここは海岸に近く,宮殿の主入口は海の方にあったらしく,この方向から舗装路が作られ,それに沿って高官の家々があった。宮殿の規模は約9000m2。中央中庭の北側と東側に柱廊があり敷石されていたが,今はただ土の広場である。この一隅に置かれている大きな円形の石盤は供物盤。西翼部は祭祀用の諸室と倉庫にあてられたが,今は錯綜する基礎のなかに双斧を刻んだ大きな角柱と広い階段が目をひく。東翼部は倉庫からなり,そこに細長い7室が並ぶ。中庭南側の遺跡に四つずつ2列に並ぶ円筒形の積石構築物は穀倉か貯水槽か決定しにくい。北の部分は宮殿の正面にあたるのか,多柱室をはじめ立派な諸室があった。この宮殿では,他の宮殿とちがって劇場風の場所はなかったようである。
執筆者:村田 数之亮
5世紀,エジプト出身の伝説上の悔悟女で聖女。アレクサンドリアで17年間遊女として暮らしていたが,エルサレム巡礼に旅立ち改心。その後ヨルダン川を渡り,パレスティナの荒野で約50年間3個のパンのみで隠修生活を送ったという。美術作品では,毛髪で全身をおおい手に香油または3個のパンを持った女性として表される(メムリンク〈キリストの哀悼の祭壇画〉部分)。また伝説から,司祭ゾシモスより聖体を拝領する場面,ライオンが付き添い彼女の墓穴を掘る場面,死後天使により天上へ引き上げられてゆく場面(ロレンツォ・ディ・クレディ)などが表される。20世紀の作例に,ノルデによる祭壇画がある。祝日は4月2日。
執筆者:篠 雅広
新約聖書中の人物。《ルカによる福音書》10章38節以下で姉のマルタとは対照的に〈主の足下にすわって,御言に聞き入る〉女性として登場する。《ヨハネによる福音書》11章と12章1~11節では,兄弟のラザロとともにベタニアの住人であり,イエスの足に高価な香油を塗る。この物語を《ルカによる福音書》7章36節以下は,ある匿名の遊女の行為として述べるが,この女が一方で同じ前歴を持つと考えられたマグダラのマリアと同一視され,他方でベタニアのマリアと同一視されたため,元来別個の2人のマリアが混同される結果となった。
執筆者:大貫 隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ヘブライ語のミリアムMirjām(高められたもの)に由来するギリシア語の人名で、普通イエス・キリストの母をさす。ヘブライ語をラテン語に直訳して「海のしずく」Stilla Marisと解されたが、これが誤ってStellaと綴(つづ)られたために「海の星」Stella Marisという意味に解釈され、星が聖母の象徴となって、「暁(あかつき)の星」Stella Matutinaや「ヤコブの星」Stella Jacobiなどともよばれた。正式の呼称は「童貞聖マリア」Beata Maria Virgoで、多くの場合B. M. V.という略号が用いられる。女性を尊重する中世の騎士たちは、聖母を「わが貴婦人」Madonnaとよんだので、これが近代語では、Our Lady(英語)、Notre Dame(フランス語)、Unsere Liebe Frau(ドイツ語)と訳されている。
[藤田富雄]
『新約聖書』によると、マリアはダビデ王の血統を引く大工のヨセフと婚約したが、大天使ガブリエルのお告げを受け、聖霊によって処女のまま受胎した(「マタイ伝福音書(ふくいんしょ)」1章18節、「ルカ伝福音書」1章26~38節)。夢のお告げに従ってマリアを妻としたヨセフは、ローマ皇帝アウグストの命による人口調査に登録するためマリアを連れてベツレヘムに行き、馬小屋でイエスが誕生した(「ルカ伝福音書」2章1~20節)。ヘロデ王の幼児殺しを避けて、聖家族はエジプトに逃れ、王の死後、ガリラヤ地方のナザレに移住した(「マタイ伝福音書」2章13~23節)。イエスが十字架につけられたのちは、イエスに託された愛(まな)弟子ヨハネの家に引き取られた(「ヨハネ伝福音書」19章25~27節)。イエスの死後、彼女は弟子たちの一団に加わった(「使徒行伝」1章14節)。しかし、マリアを主人公とする聖書外典「ヤコブ原福音書」Protoevangelium Jacobiには、正典にはない記述がみられる。マリアの父はヨアキム、母はアンナで、長い間子供のなかった両親から、主の使いによる告知のあと奇跡的に誕生し、3歳から神殿で養育され、12歳でヨセフに預けられ、16歳のとき受胎告知を受け、ベツレヘムの近郊の洞窟(どうくつ)でイエスを出産したとされている。
[藤田富雄]
処女受胎の神話は、母が処女の純潔を守りながら、神によって子を宿したことを示すもので、大地母神崇拝と処女崇拝との二重の崇拝が認められる。この処女受胎の概念は、生まれた子の神性を説明する手段としてきわめて有効である。マリアの受胎告知は、『旧約聖書』の「イザヤ書」(7章14節)に記されている「見よ。おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」という預言の実現と解されている。初代教父たちは、この預言の記述に基づいて、繰り返し聖母の処女受胎を説いた。413年のエフェソス公会議において、マリアは単なる「キリストの母」christotokosではなくて「神の母」theotokosであることが決定され、それに反対したネストリウス派は異端として破門された。この時期から「童貞聖マリア」の崇敬がますます広まり、聖母に奉献された聖マリア教会堂が各地に建てられ、聖母についての説話も急速に民衆の間に伝えられた。10世紀以来、聖母小聖務日課が一般信者にも唱えられるようになり、有名な「天使祝詞(アベ・マリア)」も12世紀には主祷文(しゅとうぶん)や信条とともに唱えるように規定された。そのほか、アンジェラスの鐘が祈りの時刻を知らせる「お告げの祈り」「ロザリオの祈り」「悲しみの聖母(スタバト・マーテル)」など、多くの祈祷文や賛歌がつくられた。
神の母としてのマリア崇敬が広まるにつれて、マリア自身もいっそう神に近いものにまで高められた。それは教義としては、死後の「被昇天」assumptioと、誕生する前の「無原罪の御(おん)やどり」conceptio immaculataという二つの方向をとった。トマス・アクィナスは、マリア崇敬をキリストの礼拝よりは下位にたつが、他の聖人崇敬よりも上位にある「特別崇敬」hyperduliaと名づけたが、マリア崇敬に対する攻撃はプロテスタント側から生じた。ルターはその弊害を戒めただけで、崇敬そのものを廃止しようとはしなかったが、カルバンはマリア崇敬を偶像崇拝として排斥したので、今日でもルター派以外のプロテスタントは否定的である。1854年教皇ピウス9世によって無原罪の御やどり、1950年ピウス12世によって被昇天の教義が正式に公認されるに至った。古代教会の時代から民衆の信仰にとってはマリア崇敬が大きな意味をもっていたので、マリアの奇跡が各地に続出して守護聖人となっている。巡礼の聖地となったフランスのルルド、ポルトガルのファティマ、メキシコのグァダルーペ・イダルゴなどに聖母が出現した奇跡の根底には、社会的変動による民衆の苦悩と、その克服への宗教的自覚をはっきりと指摘することができる。また、マリアを通してキリストへという昔からのマリア崇敬を中核として、世界各国、各階層に「マリア信心会」が設立され、マリアの名をつけた無数の「修道会」が活躍している。
[藤田富雄]
祝日は非常に多いが、おもなものは、御潔(おんきよ)め(2月2日)、お告げ(3月25日)、被昇天(8月15日)、御(ご)誕生(9月8日)、七つの悲哀(9月15日)、無原罪の御やどり(12月8日)などである。
[藤田富雄]
『日本聖書学研究所編『ヤコブ原福音書』(『聖書外典偽典6 新約外典I』所収・1976・教文館)』▽『矢崎美盛著『アヴェ・マリア』(1953・岩波書店)』▽『リューサー著、加納孝代訳『マリア』(1983・新教出版社)』
ポルトガルの女王(在位1777~1816)。ブラガンサ朝第6代の王で、敬虔(けいけん)女王a Piedosaともよばれる。父王ジョゼ1世José Ⅰ(1714―1777、在位1750~1777)の死後即位すると、ただちに独裁者ポンバル侯を解任したが、彼の政策はほぼ継承され、1780年代から著しい経済繁栄をみた。フランス革命に大きなショックを受け、1792年息子のジョアン(のちのジョアン6世)が摂政(せっしょう)についた。1807年ナポレオン軍の侵入により王室ともどもブラジルに亡命し、リオで死去した。
[金七紀男]
『新約聖書』の「福音(ふくいん)書」によれば、このマリアは、イエスに「七つの悪霊」を追い出してもらい、彼女の出身地と目されるガリラヤ(ティベリヤまたはゲネサレ)湖西岸沿いの町マグダラの名をもってよばれた(「ルカ伝福音書」8章2節)。彼女は、イエス処刑の場から退いてしまった弟子たちとは異なり、イエスの最後を見届けた人たちの1人であった(「マタイ伝福音書」27章55~56節、「ヨハネ伝福音書」19章25節)。イエスの死後、その墓を見に行き、だれよりも先に復活のイエスに会った(「マタイ伝福音書」28章1~10節、「ヨハネ伝福音書」20章1~18節)。
[定形日佐雄]
ギリシア『新約聖書』に言及される6人のマリアの1人。姉妹マルタおよび兄弟ラザロとともに、エルサレムから約3キロメートル離れた村ベタニア(現エル・アザリエ)に住んでいた、といわれる(「ヨハネ伝福音(ふくいん)書」11章1、18節)。伝承によれば、彼女はイエスのことばを熱心に聞き(「ルカ伝福音書」10章38~42節)、イエスの処刑日が近づいたある夕べに、高価で純粋なナルドの香油一斤(約600グラム)をもってイエスの足に塗り、自分の髪の毛でそれをぬぐった(「ヨハネによる福音書」12章3節)。
[定形日佐雄]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
イエスの母。ダヴィデ王の家系に属し,ヨセフと婚約したが,聖霊によって身重となり,イエスを生んだ。イエスの死後弟子たちの一団に加わった。キリスト教の発展とともに童貞無垢(むく)の聖母として崇敬された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
… 8世紀に始まるイスラム教徒に対するレコンキスタ(国土回復戦争)の進展とともに,フランスの影響下に数多くの宗教建築が建てられた。ロマネスクでは巡礼路様式のコインブラ旧大聖堂(1184),ゴシックへの移行期のシトー会様式ではアルコバーサAlcobaçaのサンタ・マリア修道院(1222)が,ゴシックではバターリャ・サンタ・マリア・ダ・ビトリア修道院(15世紀)が傑出している。この国の建築が偉大な個性を発揮したのは大航海時代で,時の王マヌエル1世(在位1495‐1521)にちなむマヌエル様式と呼ばれる建築様式が生まれた。…
…1820年の革命から生まれた立憲王制に反対して,24年オーストリアに亡命。26年父王の死によりポルトガル王ペドロ4世として即位した兄のブラジル皇帝ペドロ1世は同年,王位を幼少の娘(マリア2世)に譲り,ドン・ミゲルを摂政に迎えた。しかし,ドン・ミゲルは絶対専制君主として反動政治を行い,マリア2世を擁立する自由主義陣営との間に内戦(1834‐36)を招き,敗れて再度亡命した。…
…コロンビアの作家。文学グループ〈エル・モサイコ〉に属し,その主要作品《マリア》(1867)はラテン・アメリカのロマン主義文学の傑作と評価されている。この小説は一人称で書かれ,彼と同じユダヤ系の息子エフラインと孤児マリアとの悲恋を描く。…
…マリアの母。その名は聖書には記されていないが,外典(ヤコブの原福音書)に,老夫ヨアキムJoachimとの間に神から一人娘マリアを授けられる物語が語られている。…
…特に宗教や呪術は,しばしば特定の儀式や教義と結びついて,複雑な色彩の象徴体系を発達させた。例えば,ラファエロの数多くの聖母子像において,聖母マリアはほとんどつねに赤い上衣に青いマントをはおっているが,これは,赤は天の愛情を表し,青は天の真実を表すという考え方に基づく。ラファエロにかぎらず,チマブエ,ジョットからルネサンス期にかけてのイタリアの聖母表現は,特別の例外を別として,ほぼこの原則にのっとっている。…
…また昇天日前の3日間を昇天前祈禱日Rogation Daysという。聖母マリアの昇天は〈聖母被昇天Assumption of the Virgin〉と呼び,その祝日は8月15日。イスラムの預言者ムハンマドの昇天については〈ミーラージュ〉の項目を参照されたい。…
…使徒信条のイエスに対する告白の中に述べられている句,〈主は聖霊によりてやどり,処女マリアより生まれ〉の内容を通常〈処女降誕〉と称し,キリスト者の信仰を表すものとされている。しかしこれについて聖書はマタイとルカ両福音書の,いわゆる降誕物語において語っているのみであって,マルコ,ヨハネ,パウロはまったくこれにふれていない。…
…しかし〈帝国〉という正式のタイトルはなくても,イギリス・チューダー朝の名声を担ったエリザベス1世(在位1558‐1603)はイメージからすればまさに〈女帝〉に近い存在であった。ヨーロッパ史で〈女帝〉というタイトルをもち,またそれにふさわしい政治的手腕を発揮するのは,神聖ローマ帝国のマリア・テレジア(在位1740‐80)である。男子がなかった皇帝カール6世は長女マリア・テレジアにハプスブルク家の全領土を継承させるために〈国事詔書Pragmatische Sanktion〉を発し,列強の一応の承認をえた。…
…例えば南イタリアのモンテガルガノには,大天使ミカエルが巌頭に残したという真紅のマントがあった。イエス・キリストやマリアについても同様だが,キリストのへその緒だけは地上に残されたはずと信じられた。十字軍が始まると東方から大量の聖遺物が流入する。…
…幼子イエスに最も近い親族。ヨセフ,マリアとイエスの3人(父,母,子)で構成される。《マタイによる福音書》2章13~23節では聖家族の〈エジプト逃避〉について,《ルカによる福音書》2章41~52節ではエジプトからの帰還後,ガリラヤ地方のナザレで,イエスが成人に達するまでを暮らした聖家族の様子について短く述べられている。…
…キリスト教美術の主題の一つで,幼児イエスを伴う聖母マリアの表現。崇拝や祈願の対象として,説話的場面から独立した表現がとられる。…
…象はまた帝王とその英知のシンボルとされ,知恵の女神ミネルウァ(ギリシアのアテナ)とも同一視され,象が引く車に乗るミネルウァが美術の主題となった。キリスト教世界では〈力〉と〈勝利〉の象徴とされ,またユニコーンや雄ジカとともに処女にだけ従順であるところからマリアの隠喩(いんゆ)に用いられ,塔または城を背負う象が〈マリアに庇護(ひご)される教会〉の寓意図となった。また象はつがいになるとき東方のエデンへいき,雌がマンドラゴラをとって雄に食べさせるといわれ,アダムとイブの隠喩あるいは人間の堕落の象徴ともされる。…
…新約聖書の神も手を使ってみずからの神性を証明しようとする。処女マリアによるイエスの出産を疑ったサロメが,マリアの性器に指を入れて処女性を確かめたとたん,その手はやけただれ,イエスを抱いて神への信仰を誓ったら直ちに治癒したし(外典《ヤコブ原福音書》),幼児イエスは斧で切られ失血死した青年や,病死した赤ん坊に手を触れて生き返らせている(外典《トマスによるイエスの幼時物語》)。成人した後もイエスの手の奇跡は続き,死んだ少女の手をとって生き返らせたり(《マルコによる福音書》5:41~42),癩病患者を手で触れるだけで治したり(同1:41~42),棺にさわるだけでその中の死人をよみがえらせたりしている(《ルカによる福音書》7:14~15)。…
…〈神を生んだ者〉〈神の母〉を意味する聖母マリアの尊称。日本の正教会では〈生神女(しようしんじよ)〉と訳す。…
…例えばそれは美の化身であるから,そこから正・負の意味合いが,こもごも生じてくる。赤いバラは勝ち誇る美と愛欲の女神ビーナス(ギリシア神話のアフロディテ,ローマ神話のウェヌス)と容易に結びつくし,白いバラは聖母マリアの純潔と霊的な愛を表しえた。しかし,美しい花はうつろいやすく,人の世の愛もまたうつろいやすい。…
…死せるイエス・キリストを膝に抱いて嘆き悲しむ聖母マリア像。14世紀初頭にドイツで創出された新しい図像で,埋葬する前にわが子を抱きしめて最後の別れを告げる聖母を,説話の時間的・空間的関係から切り離して独立像に仕立てたもの。…
…【池田 裕】 イスラム時代にも,ベツレヘムの聖地としての性格は失われなかった。ムスリムの地理書や旅行書では,イエス生誕の地として,また比類なき降誕教会の美しさが称賛されるとともに,この地が,コーランにいう(19章23~26節)身ごもったマリアにナツメヤシの実が授けられた地であり,2代カリフ,ウマル1世がパレスティナ平定後に教会をモスクに改造して礼拝を行った地であることが述べられている。ベツレヘムを訪れる巡礼者は,ムスリムばかりでなく,西方のキリスト教徒の往来も盛んでにぎわった。…
…聖母マリアの絵画または彫刻による像のこと。元来イタリア語で〈わが貴婦人〉の意。…
…カトリック神学の一部門。イエス・キリストの母マリアの役割を,キリストの受肉(神であるキリストが人間になること)と人類の罪の贖いと救済のなかで神学的に規定し,その意義をきわめようとするもの。この部門はいくつかの教会によって決定・定義された教義を出発点にして,マリアの役割をさらにくわしく解明し,その教義を展開する。…
… 近縁のヒメコウオウソウT.tenuifolia Cav.はとくに矮性で葉が小さく,小鉢植えとして利用できるが,栽培は比較的少ない。【浅山 英一】
[民俗]
マリゴールドは聖母マリアの持物とされている。荒天や嵐に耐え,夏の太陽の下で花を開き,闇に対してはそれを閉じる姿が,聖母を彷彿(ほうふつ)させるためだという。…
…しかし栽培がやや難しいことなどから,観賞の歴史に比べて栽培・品種改良の歴史は短く,園芸花卉(かき)として広く扱われるようになったのは江戸時代後期になってからである。ヨーロッパでも古く紀元前より人とのかかわりが深く,とくに純白のマドンナ・リリーL.candidum L.(英名Madonna lily,Annunciation lily,Lent lily)はキリスト教が広がるにつれ,これと深く結びつき,処女マリアの貞節,純潔の象徴となり,キリスト教の儀式,祭日の聖花として使われてきた。観賞用としての用途のほか,東アジア地域では球根に苦みのない種類が食用として利用されてきた。…
…新約聖書中の人物で,マリアの夫,イエスの父。《マルコによる福音書》6章3節によるとイエス以外の息子ヤコブ,ヨセ,ユダ,シモンおよび何人かの娘があり,職業はおそらく木工専門の大工であった。…
…《ヨハネによる福音書》11章と12章1~11節では,兄弟のラザロとともにベタニアの住人であり,イエスの足に高価な香油を塗る。この物語を《ルカによる福音書》7章36節以下は,ある匿名の遊女の行為として述べるが,この女が一方で同じ前歴を持つと考えられたマグダラのマリアと同一視され,他方でベタニアのマリアと同一視されたため,元来別個の2人のマリアが混同される結果となった。【大貫 隆】。…
※「マリア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
7/22 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新