日本大百科全書(ニッポニカ)「ラテン文学」の解説
ラテン文学
らてんぶんがく
古代ローマおよびその支配下の地域において、紀元前3世紀から西ローマ帝国の滅亡(後476)ごろまでにつくられた文学。ローマの言語はラテン語であったからこうよばれる。また、中世、近世ヨーロッパでこの文学の影響の下にラテン語で書かれた作品を含むこともある。最初はギリシア文学の模倣として発展したが、ローマ人の豊かな想像力とラテン語の彫琢(ちょうたく)とにより独自の文学が成立した。
風刺詩、恋愛詩はローマで新たに開拓された文学ジャンルであり、また記録文学(戦記)、演説、書簡など実際的分野に優れた作品がつくりだされた点に大きな特色がある。
[岡 道男]
初期
ローマには古くから穀物の収穫や厄除(やくよ)けを祈願する歌があったが、真の意味でのローマ文学は、前3世紀にローマの国力が拡大して南イタリアのギリシア植民地の文化に接したことに始まる。前272年タレントゥム(現タレント)の陥落の際、捕虜となったリウィウス・アンドロニクスは、前240年ローマで初めてギリシア劇の翻案を上演した。彼はさらに『オデュッセイア』を古いラテン語詩形で翻訳したが、これは、主人公オデュッセウス(ラテン名ウリクセス)をローマ建国の祖とする別伝が存在したため、長い間ローマ人の間で尊重された。リウィウス・アンドロニクスののちギリシア文学の翻訳、翻案はますます盛んになり、ナエウィウスは悲劇と喜劇をつくった。プラウトゥスはギリシアのメナンドロスその他の喜劇を俗語に満ちたラテン語に翻案し、そのなかに歌謡を加えるなど大胆な試みを行って観衆を喜ばせた。一方、アフリカ出身のテレンティウスは優雅なラテン語でギリシア新喜劇にそっくりの劇をつくった。「ラテン文学の父」とよばれるエンニウスは多くのギリシア悲劇・喜劇を翻案し、さらにギリシア叙事詩と同じ韻律(六歩格)を用いて『年代記』を書いた。ローマの歴史を歌うこの叙事詩は後代の詩人に多大の影響を及ぼした。またルキリウスは叙事詩と同じ韻律で風刺詩をつくり、この文学ジャンルを確立させた。そのほか、悲劇詩人としてパクウィウス、アッキウスが知られる。
[岡 道男]
共和制末期
前2世紀後半から前1世紀後半にかけて、ローマは社会的混乱や内外の戦争により激しく揺れた。ある者は醜い現実からの逃避を詩や哲学のなかに求め、ある者は自らを混乱の渦中に投じ、文筆を闘争の手段となした。ネオテリキ(現代派)とよばれる詩人たちは、ヘレニズム時代のギリシア文学の強い影響の下に愛と友情を歌った。カトゥルスはその代表的詩人である。またルクレティウスはエピクロス学派の思想に基づく教訓的叙事詩のなかで万物の生成と本性について説いた。一方、政治家、軍人のカエサルは、自己の政治的立場を正当化するため、ガリア人やポンペイウスに対する戦いの記録を簡素な文体でつづった。彼の政敵キケロは、これと対照的に、議会や法廷の演説で修飾に満ちた技巧的なことばを用いた。また彼は道徳論、対話編など哲学的著作においてラテン語独特の明晰(めいせき)な文体を完成させた。この二人の文体はラテン語散文の範とされている。文学の一ジャンルとみなされていた歴史の分野ではサルスティウスとネポスがあげられる。ローマ史を書いたワロは、さらにラテン文法、地理学、哲学、医学など多方面にわたる著作で有名であった。
共和制末期は社会的に不安定な時代であったが、このことがかえって人々をより優れた文学の創造へ向かわせた。その際、規範となったのはヘレニズム時代のギリシア詩人であった。念入りに磨かれた言語、斬新(ざんしん)な表現、隅々まで計算された緻密(ちみつ)な構成、該博な学問的知識と詩文との完全な融合などはこの後ローマ文学の大きな特徴となった。
[岡 道男]
黄金時代
前29年、アウグストゥスによる政権の確立は長年の戦乱に倦(う)むローマに待望の平和をもたらした。ウェルギリウスは初めテオクリトスに基づく『牧歌』を、次いでヘシオドスを範とする教訓詩『農耕詩』をつくったが、そこにはアウグストゥスの政治への期待がにじみ出ている。『アエネイス』は新生ローマにふさわしい国民的叙事詩として意図された大作であったが、未完のまま残された。ウェルギリウスの友人ホラティウスは、サッフォー、アルカイオスなどのギリシア叙情詩人の韻律をラテン語に移すことに成功した。また彼は風刺詩、書簡詩をつくったが、後者の一つは『詩論』とよばれ、後代の文学理論の形成に大きな影響を与えた。エレゲイア詩形(六歩格と五歩格を組み合わせたもの)による恋愛詩はローマ独自のジャンルとして発展した。すでにカトゥルスはいくつかの情熱的な恋愛詩をつくったが、この時代のおもな詩人としてプロペルティウス、ティブルス、オウィディウスがあげられる。彼らは恋人への思慕を詩に託したが、オウィディウスにとって恋愛はすでにひとときの戯れとなった。彼はあらゆる技巧を駆使して恋愛詩を完成させたが、他方そこからまじめさを奪うことによりそれを衰退へ導いた。彼はさらに神話的叙事詩やエレゲイア詩をつくった。オウィディウスの作品は、ウェルギリウスなどにみられる質実剛健を尊ぶ気風が薄れ、官能の喜びや情感を重視する傾向が顕著である。散文ではリウィウスが、愛国心の高まったこの時代の精神を反映するローマ史を著した。このころから修辞論が詩文に大きな影響を及ぼすようになり、その影響は、たとえばオウィディウスの作品の随所に認められる。
[岡 道男]
白銀時代
アウグストゥスの帝政は平和をもたらしたが、それに伴う自由の制限はやがて訪れる暗い時代を予告した。アウグストゥスの死(後14)からドミティアヌス帝(在位81~96)までのおもな文人として、大セネカとその息子の小セネカがあげられる。後者は、多くの哲学的著作のほか、いくつかの悲劇をつくったが、これは上演を目的としたものではない。彼の甥(おい)ルカヌスはカエサルとポンペイウスの死闘を主題とする未完の叙事詩『ファルサリア』を残した。ほかに叙事詩人としてワレリウス・フラックス、シリウス・イタリクス、スタティウスがあげられる。スタティウスは、優美な短詩の作者としても知られる。ペトロニウスは、異色の小説『サチュリコン』を著した。また、マルティアリスは多数の風刺的な短詩を残した。修辞論は当時の教養人の必修科目であったが、クインティリアヌスの『弁論家教育』はその集大成である。
ドミティアヌス帝の暗殺後の五帝時代において、ローマ帝国は最盛期を迎えた。このころタキトゥスは荘重な文でつづった『同時代史』『年代記』を著し、スエトニウスは平明な文体で皇帝たちの伝記を書いた。ユウェナリスは、当時のローマ人の生活を痛烈に批判した風刺詩によって知られる。またアプレイウスの『変身物語』は、完全な形で現存する唯一のローマ小説である。2世紀末からローマ文学は衰退の一途をたどったが、3世紀から4世紀にかけてアウソニウス、クラウディアヌスが優美な詩を残している。またキリスト教徒のプルデンティウスは、キリスト頌歌(しょうか)などの新しい分野を開拓した。ラテン語はすでに日常語から遊離していたが、中世、近世に至るまで教養人の間で尊重され、詩文、演説、論文の言語として絶えず用いられた。ローマ文学は中世に引き継がれ、ラテン語による異色の文学を生み出した。『ケンブリジ歌集』『カルミナ・ブラーナ』は、中世の代表的詩集である。また、中世から近世にかけて生まれたヨーロッパ文学は、ローマ文学の強い影響のもとに発展したことを忘れてはならない。
[岡 道男]
『高津春繁・斉藤忍随著『ギリシア・ローマ文学案内』(岩波文庫)』▽『呉茂一・中村光夫著『ギリシア・ローマの文学』(1962・新潮社)』▽『ピエール・グリマル著、藤井昇・松原秀一訳『ラテン文学史』(白水社・文庫クセジュ)』