ラテン語で書かれた文学の総称。通常古代ローマの文学を指し,西欧の中世と近世のものは,中世(近世)ラテン文学と呼んで区別する。ラテン文学は前3世紀,ギリシア文学の影響を受けて発生し,つねにギリシア文学を摂取することによって成長開花したために,19世紀にはヘレニズム文学の亜流として軽視されたが,今日再びその独自性と真価が認められている。その特徴と歴史的役割を要約すれば,(1)ギリシア文学を継承して西欧に伝えたヘレニズム的役割,(2)ローマ人の国民文学としての面,(3)ローマ世界帝国の普遍的な文学としての面,(4)キリスト教ラテン文学を内包していること,などが挙げられる。以下では6期に分けてラテン文学の消長を歴史的にふりかえり,あわせてその影響と受容の一端にふれることにする。
ラテン文学は口承文学を別にすれば,前3世紀,ローマがイタリア半島を征服したときに,南イタリアのギリシア都市出身のリウィウス・アンドロニクスLivius Andronicusが,ホメロスの《オデュッセイア》に基づく叙事詩《オデュッシア》を発表したときに始まる。これに,ナエウィウスの《ポエニ戦争》とエンニウスの《年代記》の叙事詩2編が続く。エンニウスはこの詩によってのちに〈ラテン文学の父〉と呼ばれた。この時期は演劇時代でもある。リウィウス・アンドロニクスはローマで初めて悲劇と喜劇を上演した。続いてナエウィウス,エンニウス,パクウィウスPacuvius,アッキウスAcciusが悲劇とプラエテクスタ劇(ローマ史劇)を,ナエウィウス,プラウトゥス,カエキリウスCaecilius,テレンティウスが喜劇を,ティティニウスTitiniusとアフラニウスAfraniusがトガータ劇(ローマ喜劇)を創作上演した。これらのうちで現存するのは,プラウトゥス21編,テレンティウス6編の喜劇だけである。詩にはこのほかエンニウスの始めた風刺詩があり,ルキリウスはこのジャンルに専念して事実上の創始者になった。散文には大カトーの歴史書と百科全書的著作があり,一部現存する。
リウィウス・アンドロニクスの《オデュッシア》はギリシア文学の翻案でありながら,ローマ独特のサトゥルヌス詩形を用い,主人公の活躍の場をほぼイタリアとシチリアに限り,エトルリアの民間伝承を取り入れるなど,意識的にローマ化している。このことはすでにラテン文学の将来を象徴的に示している。ナエウィウスはポエニ戦争の危機にローマの現状を,エンニウスは戦勝後にローマの偉大さを,それぞれ主題にした。プラウトゥスはギリシア風の喜劇の中でギリシア風の生活を批判し,大カトーはギリシア化の風潮に眉をひそめて,古ローマの剛健の気風に帰れと警告した。しかしポエニ戦争終了後の若い世代を代表するテレンティウスは,ギリシア精神の積極的な支持者である。こうして対立してきたギリシア文化とローマ精神は,ルキリウスの中で一種の調和に達したといえよう。前2世紀後半には,階級闘争の社会不安を反映して弁論術が発達し,抑制のきいた古典的な〈アッティカ風〉の演説をローマに取り入れた重厚なスキピオ・アエミリアヌスScipio Aemilianus,民衆の利益を熱烈に擁護したグラックス兄弟など,すぐれた雄弁家が輩出した。
グラックス兄弟の社会改革の試みが失敗したあと,民衆派と貴族派の対立は激化し,これを背景に,マリウスとスラの抗争,スラの独裁と恐怖政治,第1次三頭政治,内乱,カエサルの独裁と暗殺,第2次三頭政治など,大小さまざまな抗争・対立・混乱が続き,ついにローマ共和政は崩壊する。この激動の時代にみずから政治家として現実に行動しながらそれを文筆活動に反映させた,時代精神の権化のような人物がキケロである。この時代の政治家はみな優れた演説家であったが,キケロの雄弁の前にはすべて色あせてしまい,後世に伝えられるに至らなかった。情熱的で,誇大な〈アシア風〉に近いけれども,極端には走らず,〈アッティカ風〉との中道をいくキケロの演説は,ラテン散文の最高傑作であり,政治家キケロそのものであるとともに,時代の証言でもある。政治的に不遇の時期には,修辞学と哲学の著作に専念し,学究としての一面を示している。代表作《演説家について》によって,哲人と芸術家の結合した理想的人間としての雄弁家を描き出した彼も,書簡集の中ではくつろいだ日常の素顔ものぞかせている。
この時代には歴史記述も盛んに行われた。カエサルの《ガリア戦記》と《内乱記》は,覚書の形式による自己の政治活動の記録であり,宣伝と弁明を兼ねている。サルスティウスの《ユグルタ戦記》と《カティリナの陰謀》および《歴史》は,ローマ人の道徳的堕落にローマ国家崩壊の原因を求める,きわめてローマ的な史観に貫かれている。ネポスの《伝記集》は,ギリシア・ローマ対比列伝の形式による偉人伝であるが,これも歴史書の分野に入る。一方,演劇は衰退の一途をたどり,悲劇と喜劇に代わって身振り狂言が流行し,ラベリウスLaberiusとプブリリウス・シュルスPublilius Syrusが活躍している。
詩は革新の時代を迎えた。政治に希望を失った青年たちの中に,一種の芸術至上主義的な文学改革運動に取り組む一群の詩人が現れた。〈新詩人〉と呼ばれるこれらの詩人は,アレクサンドリア派のカリマコスらの作風と理論を初めて意識的にローマに取り入れて,先輩たちの長いだけでしまりのない詩を批判し,洗練と技巧と学識と〈小さい完成〉を目ざした。彼らの中で特に才能に恵まれたカトゥルスの作品だけが今日まで残存した。彼は機知と嘲罵のためのエピグラムやイアンボスなどの軽い遊戯的な詩を作る社交詩人として出発したが,自己の恋愛体験をテーマにすることによって,軽い社交詩を深刻な抒情詩に発展させ,のちに流行するローマ独特の〈主体的恋愛エレギア(エレゲイア)詩〉に先鞭をつけた。ほかにも祝婚歌や,いっそうアレクサンドリア派的な技巧の顕著な小叙事詩を手がけた。以後のローマの詩は,カトゥルスの影響を抜きにしては考えられない。同じころ,ルクレティウスはエピクロスの教えを叙事詩の形式で情熱的に歌った未完の教訓詩《事物の本性について(自然について)》を残した。超俗の賢者エピクロスの思想は国家や政治に絶望した人々の心をとらえて流行していたから,ルクレティウスもまた時代の子であった。
100年にわたる内乱と恐怖政治の時代が終わり,平和と秩序が回復すると,文学は再び政治と民族と国家に目を向けて,ローマの意味と役割を問い,〈アウグストゥスの平和〉をたたえる。〈新詩人〉たちによって磨きをかけられた詩は,新しい世代によっていっそう洗練されると同時に,内容的に高められて,ここにラテン文学は絶頂期を迎える。この時期の文学は総じて古典主義的であって,ギリシア古典に範を取った均斉美と普遍性を特徴とするが,ローマ的なものを最も高らかに謳歌したのもこの時代である。有力者たちは文人保護に乗り出し,その周囲に一種の文学サークルが作られた。特に顕著だったのはアウグストゥス帝の右腕ともいうべきマエケナスのサークルで,ウェルギリウス,ホラティウス,プロペルティウス,ウァリウスVarius,プロティウス・トゥッカPlotius Tuccaなど,ラテン文学を代表する詩人たちがマエケナスの援助を受けて,職業詩人として活躍し,時代精神の形成に貢献した。メッサラのサークルにはティブルスと,リュグダムスLygdamusやスルピキアSulpiciaが属した。みずから詩人および歴史家でもあったポリオPollioは,文人を集めて朗読会を催す習慣を作った。
ウェルギリウスの最初の傑作《牧歌(詩選)》は,〈新詩人〉の精神に従ってアレクサンドリア派のテオクリトスのジャンルをラテン語で試みたものである。しかしローマの現状と将来に対する憂慮と関心が示され,救世者アウグストゥスの下で時代が生まれ変わるという彼の終生のテーマが早くも芽生えている。次の《農耕詩》では,アレクサンドリア派が偏重したヘシオドスに範を取った点と,農夫をエピクロス的賢者に比する点にヘレニズム精神をみせながらも,祖国イタリアをたたえ,黄金時代を継承する農業に真の人間性の発露をみるとともに,アウグストゥスによる内乱の収束と平和の建設をたたえている。叙事詩《アエネーイス》は初めから新時代の到来を祝う目的で着手された。ローマ建国の伝説を歌うこの詩において彼は,神話の時代にすでにローマの世界支配の運命が定められていたという主題によって,神話の中に未来の歴史を予言の形で織り込み,こうしてホメロス風の神話叙事詩とエンニウス風の歴史叙事詩を巧みに結びつけ,合わせてローマ帝国の使命を解き明かした。
ホラティウスの立場はやや異なる。彼は初めから〈新詩人〉を批判してヘレニズムに背を向け,古典ギリシアに範を求めて,アルキロコス風の《エポディ》とアルカイオス風の《歌章》に取り組んだ。また《風刺詩》ではルキリウスに基づきながらこれを随想風に変え,さらに変形して《書簡詩》を作った。《詩論》も書簡詩である。彼はサルスティウス的に内乱を道徳的堕落の現れとして非難することから出発し,やがてアウグストゥスの支持者となって,平和をたたえ,国民に道徳的回復を促す警世詩人になる。とはいえ本来の彼はエピクロス主義者であって,私生活の優位を主張し,世俗からの超越を説く。私的なものと公的なもの,エピクロス的な面とストア的な面は,終生均衡を保っていた。
プロペルティウスもまたアウグストゥスの平和に花を添えた。だが彼がしぶしぶ公的詩人になったのは最後の詩集においてであって,本来の彼は恋愛詩人である。しかもカトゥルスの試みを継承してローマ独特の〈主体的恋愛エレギア詩〉を創始したガルスの詩が残っていない現在,プロペルティウスはこのジャンルの代表者である。最初の詩集はほとんどキュンティアCynthiaに対する彼の恋を歌った詩から成る。彼は常に自分の恋を神話の恋物語と比較することによって普遍化し,同時にアレクサンドリア式の学識を披露する。第2巻以後,他のテーマもしだいに増していくが,最後の第4巻でもまだキュンティアに関する詩が霊感において他を圧しており,彼が恋の殉教者であったことを示している。
しかしこれらの恋愛詩から自伝を再構成しようと試みるのは正しくない。古代の詩にはジャンル特有のしきたりがあり,恋愛詩もしきたりに従って書かれた。これはすでにカトゥルスについてさえいえることであり,もう一人の恋愛詩人ティブルスの場合も例外ではない。彼は恋人デリアDeliaと田舎で農牧生活をする平和を夢見ながら,実際には振られ役を演ずる。失恋は彼自身の体験であるかもしれないが,それ以上に喜劇の要素を取り入れた恋愛詩のしきたりなのである。
この点は最後の恋愛詩人オウィディウスに至って明瞭になる。彼は体験ではなく,知識と想像力と修辞によって恋愛詩を書いた。最初の《恋の歌》ではしきたりに従って自分の恋に見せかけているが,次の《名婦の書簡》では主体的恋愛詩をやめて,神話の女性の恋を歌うギリシアの客観的恋愛詩に戻り,《女の顔の手入れについて》《アルス・アマトリア》《恋の治療法》では皮肉な理論と教訓に転じ,ついには恋愛詩自体を放棄して,神話伝説を歌う叙事詩《転身物語》とローマの祭礼の縁起を歌う《祭暦》に没頭した。こうして彼はギリシア・ローマの恋愛詩の伝統を総括し,完成させ,それに終止符を打った。だから,彼以後に恋愛詩人が出なかったのは,アウグストゥスが彼を後8年に黒海沿岸のトミスに追放することによって恋愛詩を弾圧したからではなく,しきたりの枠の中ですべての可能性が開拓されて,もはや新しく歌う余地がなくなったからである。しかしオウィディウスの追放は,平和への希望が文学の推進力になる時代が終わり,再び言論弾圧の恐怖政治が始まったことを意味する。追放された詩人は僻遠の地でなおも《悲歌》と《黒海からの手紙》を書いている。
この時代の重要な散文作家としては,すでにキケロの時代から著述を続けていた百科全書的学者ウァロ,142巻の膨大な《ローマ史》によってローマをたたえた愛国の歴史家リウィウス,および古代唯一の《建築論(建築十書)》の著者ウィトルウィウスなどが挙げられる。
この時代は,前1世紀の〈黄金時代〉に対して,〈白銀時代〉と呼ばれる。皇帝の弾圧は激化したが,文学はまだ活力を失わず,弾圧をうまく避けるようにしながら多くの傑作を生み出した。作家たちを束縛したのは皇帝だけではない。弁論術の過度の流行が逆に規制力として働いて,散文からも詩からも発想と表現の自由を奪うようになった。共和政の崩壊によって実際の活動の場を失った弁論は,学校に入り,修辞学となって,すべての学問の基礎としての地位を獲得した。有名な弁論術教師には,演説の見本集を残した大セネカ,《弁論術教程》を著したローマ最大の修辞学者クインティリアヌス,皇帝マルクス・アウレリウスの師フロント,弁論のための資料集を編んだウァレリウス・マクシムスValerius Maximusなどがいる。
白銀時代の最大の作家は小セネカ(以下単にセネカと記す)とタキトゥスであろう。セネカはストア学派の思想と修辞学とを結合した多くの哲学書と書簡集,ギリシア悲劇に基づく9編の悲劇などを残した。タキトゥスは歴史家として,帝政の悪事を余すところなくえぐり出した大作《年代記》と《歴史》,および小品の《ゲルマニア》と《アグリコラの生涯》を,また修辞学者としては《弁論家についての対話》を著した。ほかにウェレイウス・パテルクルスVelleius Paterculus,クルティウス・ルフスCurtius Rufus,フロルスなどの歴史家の名がみられる。またそのほかの散文作家には,小説《サテュリコン》の作者ペトロニウス,百科全書《博物誌》の著者の大プリニウス,《書簡集》を残した雄弁家の小プリニウス,農学書を残したコルメラ,2世紀に入って,《皇帝伝》と《名士伝》を著した伝記作家スエトニウス,哲学者で小説《黄金のろば(転身物語)》の作者アプレイウス,《アッティカ夜話》の著者ゲリウスなどがいる。
詩の分野ではセネカの悲劇のほかに,叙事詩ではルカヌスの《内乱(ファルサリア)》,シリウス・イタリクスの《プニカ》,ウァレリウス・フラックスの《アルゴナウティカ》,スタティウスの《テバイス》と《アキレイス》など,叙事詩以外ではマニリウスの教訓詩《天文譜》,ファエドルスの《寓話》,カルプルニウスCalpurniusの《牧歌》,マルティアリスの《エピグランマ》,それにペルシウスとユウェナリスそれぞれの《風刺詩》などがみられる。2世紀初頭に創作したユウェナリスのほかはすべて1世紀の詩人たちである。この時代の叙事詩は修辞的技巧ばかりが目だち,とうていウェルギリウスに匹敵するものではない。むしろ帝政ローマの腐敗した世相をえぐり出したユウェナリスとマルティアリスが,白銀時代を代表する詩人であるといえよう。
〈白銀時代〉が2世紀前半に終わり,その後約200年間ラテン文学史に空白が生じたのは,帝国内にギリシア・ルネサンスの運動が興って,知識階級が帝国の西部でさえギリシア語で執筆したからである。ゲリウス以後の2世紀の間に,かろうじて名指すに値するラテン作家は,3世紀中葉の牧歌詩人ネメシアヌスNemesianusくらいである。
しかし3世紀はキリスト教ラテン作家の台頭期である。ミヌキウス・フェリクスMinucius Felixの対話編《オクタウィウス》は,現存する最古のラテン語によるキリスト教の文献であるが,すでに古典の教養との妥協が図られている。キリスト教未公認時代最大のキリスト教ラテン作家はテルトゥリアヌスであったが,後世に与えた影響はキプリアヌスの方が大きかった。313年のキリスト教公認を境に,4世紀から5世紀にかけて,《マタイによる福音書》を叙事詩にしたユウェンクスJuvencus,雄弁家ラクタンティウス,賛美歌作者で人文主義に反対した神秘主義者アンブロシウス,古代最大のキリスト教ラテン詩人プルデンティウスとその後継者ノラのパウリヌスなどが活躍したが,古代最大の2人のキリスト教作家も続いて現れた。一人は,全古典作家に精通した人文主義者である一方,聖書をラテン語に翻訳して,異教の伝統とキリスト教とを照応させたヒエロニムス,もう一人はヨーロッパ最初の自叙伝《告白》と,《神の国》などの著作で名高いアウグスティヌスである。こうみてくると,一部にアンブロシウスのような反人文主義の主張があったとはいえ,全体としてはキリスト教作家たちは古典を尊重し,これを習得研究してキリスト教思想と融合させようとしている。こうして古典ラテン文学はキリスト教徒の手によって中世に伝えられていく。
世俗文学も,往年の光輝はないけれども,4世紀後半から5世紀前半にかけて再生し,タキトゥス以後の歴史を執筆したアンミアヌス・マルケリヌス,ローマ史の概要を書いたエウトロピウスEutropius,皇帝伝のアウレリウス・ウィクトルAurelius Victorなどの歴史家が出た。しかし世界史概要を著したオロシウスはアウグスティヌスの影響を受け,叙事詩の韻律で《モーゼル川》を書いた詩人・修辞学者アウソニウスは,キリスト教徒であって,キリスト教徒による世俗文学の開祖とされるように,世俗文学の側からもキリスト教との握手が始まっている。古代ローマ精神の復活を図る世俗作家たちの代表格だった雄弁家シンマクスは,キリスト教に反対してアンブロシウスと論争し,また古典を学んでローマをたたえた詩人ルティリウス・ナマティアヌスも反キリスト教的であったが,しかし異教最後のラテン詩人クラウディアヌスには,もうそのような反抗はみられない。このほか5世紀初頭には文献学者マクロビウスや,いわゆる自由七科についての百科全書的記述によって,中世教育制度の基礎を築いた修辞学者のマルティアヌス・カペラがいる。さらに6世紀には,中世に聖書に次いで愛読された《哲学の慰め》の著者ボエティウスが,最後の世俗ラテン作家となった。世俗詩人も6世紀中葉のコリップスCorippusあたりが最後であろう。
5世紀後半から6世紀にかけてのキリスト教作家には,シンマクスの後継者といえるほどの技巧派の修辞家シドニウス・アポリナリス,キリスト教と世俗の両方のテーマを歌った詩人ドラコンティウスDracontius,古典の教養を顕示した演説家エンノディウスEnnodius,最後の詩人ウェナンティウス・フォルトゥナトゥスVenantius Fortunatus,《フランク史》の著者トゥールのグレゴリウス,教皇グレゴリウス1世などがいる。カッシオドルスは古典研究を神学研究に取り入れて,中世修道院を学問所とする道を開いた。最後の修辞学者イシドルスは,すでに7世紀に入っている。こうして文学史上の古代ローマは7世紀初頭まで細々と続いた。しかしキリスト教的中世が3世紀に始まったともいえるのである。
→キリスト教文学
6世紀の残照が消えたあとは,メロビング朝の文化的低迷時代である。この間に日常の俗ラテン語からロマンス諸語が発生し,文章語としてのラテン語もまったく乱れてしまった。しかし大陸の混乱の影響を受けなかったアイルランドの修道士たちの間で古典の研究と保存の伝統が持続され,7世紀初頭,彼らは大陸に進出して,スイスのザンクト・ガレンと北イタリアのボッビオに修道院を設立,ここが時代を通じて写本作りと研究の中心地になった。イングランドにも7世紀後半に,古典研究を聖書研究に不可欠とするヒエロニムス以来の考えを継承するアルドヘルムとベーダが登場し,その後継者ボニファティウスは大陸に渡って,フランク王国の教会改革に乗り出した。
8世紀中葉にカロリング朝が起こると,カール大帝の下でカロリング・ルネサンスが始まる。聖堂と修道院に学校が創設され,古典の教養の深い聖職者が各地から集められて,古典文化復興の気運が高まった。アルクイン,テオドゥルフTheodulf,ラバヌス・マウルスなどがこの時期に活躍している。10世紀のオットー帝国もイタリア文化を尊重してラテン語を公用語にしたが,12世紀から13世紀にかけて再びルネサンス運動が起こって,ボローニャ,パリ,オックスフォードなど各地に相ついで大学が創設され,アベラール,トマス・アクイナス,R.ベーコンなどの大学者が登場した。このころに《ケンブリッジ歌謡集》《カルミナ・ブラーナ》などの詩集と,《黄金伝説》《ゲスタ・ロマノルム》などの伝説集が成立している。
14世紀はダンテ,ペトラルカ,ボッカッチョの世紀,イタリア・ルネサンスの前夜である。ペトラルカは人文主義の先駆者で,ほとんどの著書をラテン語で書いたが,他の2人も論文にはすべてラテン語を使用している。イタリア人文主義の15世紀には,ピッコロミーニ,L.バラ,ポリツィアーノ,アリオストなどが,古典文学を研究してそれに基づいて創作した。他の国々の人文主義はやや遅れて16世紀に始まり,エラスムス,ラブレー,ロンサールらのプレイヤード詩派,モンテーニュ,コハノフスキ,F.ベーコン,オーピッツなど,古典に関心を抱く者,賛美し模倣する者,研究に没頭する者,古典の精神に従って新しい物の見方を獲得する者,古典の文学理論を復活する者などが続出した。
→人文主義
やがてマニエリスムを経て,17世紀から19世紀初頭まで,バロックと並行しながら,もう一度古典復興運動が流行する。モリエールとラシーヌ,ドライデンとポープ,ゲーテとシラー,モンティとフォスコロなどに代表される古典主義である。そして西欧が古代ローマ文学の影響を脱し始めるのは,19世紀のロマン主義からである。この世紀にはギリシア文学の再発見もあって,ラテン文学はかつてなかったほどに低く評価され,その権威を完全に失墜した。しかしその間にも文献学的研究は続けられ,20世紀に入るとラテン文学も再評価されて,ギリシア文学と対等の地位を回復しつつある。
最後に古典期の個々の作家の後世への影響を概観しよう。古代から中世全体にわたって最も尊敬され,愛読され学習され,最大の影響を与えたのは,ウェルギリウスである。中世には予言者にされ,魔術師ともみなされ,ダンテの《神曲》では冥界の案内人に選ばれた。しかし近世にはホメロスの単なる模倣者として権威を失い,ようやく復権したのは20世紀に入ってからである。ホラティウスは中世にはもっぱら風刺詩人として人気があり,《歌章》の真価の再発見はペトラルカに負う。《詩論》は近世西欧の文学理論の確立の基礎になった。オウィディウスの神話叙事詩は中世にはウェルギリウスと並ぶほどの人気を保ち,近世にもアリオストやシェークスピアやゲーテ,それにルネサンス以後の美術にも無限の影響を与えた。ルカヌスも中世から近代まで人気が高く,フランス古典主義から革命思想にまで影響を及ぼした。
この4人に次いで,スタティウスとペルシウスとユウェナリスも中世から近世にかけて愛読された。ルクレティウスは中世には大プリニウスとともに自然科学の教科書に使われ,近世には啓蒙思想家とみなされて,ゲーテにも好感を与えた。セネカは中世には警句集に抜粋されて普及したくらいであるが,コルネイユ,ラシーヌ,シェークスピアなど近世各国の古典悲劇に与えた影響は絶大である。テレンティウスは中世から近世の教科書の中で高い位置を占め,シェークスピア,モリエール,レッシングなどに応用された。クインティリアヌスは教師として近世初頭まで広く学習され,スエトニウスは中世大流行した伝記文学の模範になり,ペトロニウスはいつの時代にも人気があり,18世紀には劇としても上演された。サルスティウスとタキトゥスは史書として愛読されただけでなく,近世,小説や演劇の材料にも使われた。
これに対してキケロとカエサルは,ペトラルカに発見されて人文主義者に愛読されるまで,ほとんど忘れられていた。プロペルティウスもペトラルカのおかげで復権し,ゲーテに深い印象を与えた。リウィウスは近世再評価され,プラウトゥスは16世紀以後に復活上演されて,無数の模倣作を生み,マルティアリスも16~18世紀のドイツのエピグラム詩に影響を与えた。これらの復興の中にあって,黄金時代の最も重要な詩人の一人カトゥルスの真価が正しく認識されたのは,ようやく20世紀も後半になってからである。
→ギリシア文学 →ローマ演劇
執筆者:中山 恒夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
古代ローマおよびその支配下の地域において、紀元前3世紀から西ローマ帝国の滅亡(後476)ごろまでにつくられた文学。ローマの言語はラテン語であったからこうよばれる。また、中世、近世ヨーロッパでこの文学の影響の下にラテン語で書かれた作品を含むこともある。最初はギリシア文学の模倣として発展したが、ローマ人の豊かな想像力とラテン語の彫琢(ちょうたく)とにより独自の文学が成立した。
風刺詩、恋愛詩はローマで新たに開拓された文学ジャンルであり、また記録文学(戦記)、演説、書簡など実際的分野に優れた作品がつくりだされた点に大きな特色がある。
[岡 道男]
ローマには古くから穀物の収穫や厄除(やくよ)けを祈願する歌があったが、真の意味でのローマ文学は、前3世紀にローマの国力が拡大して南イタリアのギリシア植民地の文化に接したことに始まる。前272年タレントゥム(現タレント)の陥落の際、捕虜となったリウィウス・アンドロニクスは、前240年ローマで初めてギリシア劇の翻案を上演した。彼はさらに『オデュッセイア』を古いラテン語詩形で翻訳したが、これは、主人公オデュッセウス(ラテン名ウリクセス)をローマ建国の祖とする別伝が存在したため、長い間ローマ人の間で尊重された。リウィウス・アンドロニクスののちギリシア文学の翻訳、翻案はますます盛んになり、ナエウィウスは悲劇と喜劇をつくった。プラウトゥスはギリシアのメナンドロスその他の喜劇を俗語に満ちたラテン語に翻案し、そのなかに歌謡を加えるなど大胆な試みを行って観衆を喜ばせた。一方、アフリカ出身のテレンティウスは優雅なラテン語でギリシア新喜劇にそっくりの劇をつくった。「ラテン文学の父」とよばれるエンニウスは多くのギリシア悲劇・喜劇を翻案し、さらにギリシア叙事詩と同じ韻律(六歩格)を用いて『年代記』を書いた。ローマの歴史を歌うこの叙事詩は後代の詩人に多大の影響を及ぼした。またルキリウスは叙事詩と同じ韻律で風刺詩をつくり、この文学ジャンルを確立させた。そのほか、悲劇詩人としてパクウィウス、アッキウスが知られる。
[岡 道男]
前2世紀後半から前1世紀後半にかけて、ローマは社会的混乱や内外の戦争により激しく揺れた。ある者は醜い現実からの逃避を詩や哲学のなかに求め、ある者は自らを混乱の渦中に投じ、文筆を闘争の手段となした。ネオテリキ(現代派)とよばれる詩人たちは、ヘレニズム時代のギリシア文学の強い影響の下に愛と友情を歌った。カトゥルスはその代表的詩人である。またルクレティウスはエピクロス学派の思想に基づく教訓的叙事詩のなかで万物の生成と本性について説いた。一方、政治家、軍人のカエサルは、自己の政治的立場を正当化するため、ガリア人やポンペイウスに対する戦いの記録を簡素な文体でつづった。彼の政敵キケロは、これと対照的に、議会や法廷の演説で修飾に満ちた技巧的なことばを用いた。また彼は道徳論、対話編など哲学的著作においてラテン語独特の明晰(めいせき)な文体を完成させた。この二人の文体はラテン語散文の範とされている。文学の一ジャンルとみなされていた歴史の分野ではサルスティウスとネポスがあげられる。ローマ史を書いたワロは、さらにラテン文法、地理学、哲学、医学など多方面にわたる著作で有名であった。
共和制末期は社会的に不安定な時代であったが、このことがかえって人々をより優れた文学の創造へ向かわせた。その際、規範となったのはヘレニズム時代のギリシア詩人であった。念入りに磨かれた言語、斬新(ざんしん)な表現、隅々まで計算された緻密(ちみつ)な構成、該博な学問的知識と詩文との完全な融合などはこの後ローマ文学の大きな特徴となった。
[岡 道男]
前29年、アウグストゥスによる政権の確立は長年の戦乱に倦(う)むローマに待望の平和をもたらした。ウェルギリウスは初めテオクリトスに基づく『牧歌』を、次いでヘシオドスを範とする教訓詩『農耕詩』をつくったが、そこにはアウグストゥスの政治への期待がにじみ出ている。『アエネイス』は新生ローマにふさわしい国民的叙事詩として意図された大作であったが、未完のまま残された。ウェルギリウスの友人ホラティウスは、サッフォー、アルカイオスなどのギリシア叙情詩人の韻律をラテン語に移すことに成功した。また彼は風刺詩、書簡詩をつくったが、後者の一つは『詩論』とよばれ、後代の文学理論の形成に大きな影響を与えた。エレゲイア詩形(六歩格と五歩格を組み合わせたもの)による恋愛詩はローマ独自のジャンルとして発展した。すでにカトゥルスはいくつかの情熱的な恋愛詩をつくったが、この時代のおもな詩人としてプロペルティウス、ティブルス、オウィディウスがあげられる。彼らは恋人への思慕を詩に託したが、オウィディウスにとって恋愛はすでにひとときの戯れとなった。彼はあらゆる技巧を駆使して恋愛詩を完成させたが、他方そこからまじめさを奪うことによりそれを衰退へ導いた。彼はさらに神話的叙事詩やエレゲイア詩をつくった。オウィディウスの作品は、ウェルギリウスなどにみられる質実剛健を尊ぶ気風が薄れ、官能の喜びや情感を重視する傾向が顕著である。散文ではリウィウスが、愛国心の高まったこの時代の精神を反映するローマ史を著した。このころから修辞論が詩文に大きな影響を及ぼすようになり、その影響は、たとえばオウィディウスの作品の随所に認められる。
[岡 道男]
アウグストゥスの帝政は平和をもたらしたが、それに伴う自由の制限はやがて訪れる暗い時代を予告した。アウグストゥスの死(後14)からドミティアヌス帝(在位81~96)までのおもな文人として、大セネカとその息子の小セネカがあげられる。後者は、多くの哲学的著作のほか、いくつかの悲劇をつくったが、これは上演を目的としたものではない。彼の甥(おい)ルカヌスはカエサルとポンペイウスの死闘を主題とする未完の叙事詩『ファルサリア』を残した。ほかに叙事詩人としてワレリウス・フラックス、シリウス・イタリクス、スタティウスがあげられる。スタティウスは、優美な短詩の作者としても知られる。ペトロニウスは、異色の小説『サチュリコン』を著した。また、マルティアリスは多数の風刺的な短詩を残した。修辞論は当時の教養人の必修科目であったが、クインティリアヌスの『弁論家教育』はその集大成である。
ドミティアヌス帝の暗殺後の五帝時代において、ローマ帝国は最盛期を迎えた。このころタキトゥスは荘重な文でつづった『同時代史』『年代記』を著し、スエトニウスは平明な文体で皇帝たちの伝記を書いた。ユウェナリスは、当時のローマ人の生活を痛烈に批判した風刺詩によって知られる。またアプレイウスの『変身物語』は、完全な形で現存する唯一のローマ小説である。2世紀末からローマ文学は衰退の一途をたどったが、3世紀から4世紀にかけてアウソニウス、クラウディアヌスが優美な詩を残している。またキリスト教徒のプルデンティウスは、キリスト頌歌(しょうか)などの新しい分野を開拓した。ラテン語はすでに日常語から遊離していたが、中世、近世に至るまで教養人の間で尊重され、詩文、演説、論文の言語として絶えず用いられた。ローマ文学は中世に引き継がれ、ラテン語による異色の文学を生み出した。『ケンブリジ歌集』『カルミナ・ブラーナ』は、中世の代表的詩集である。また、中世から近世にかけて生まれたヨーロッパ文学は、ローマ文学の強い影響のもとに発展したことを忘れてはならない。
[岡 道男]
『高津春繁・斉藤忍随著『ギリシア・ローマ文学案内』(岩波文庫)』▽『呉茂一・中村光夫著『ギリシア・ローマの文学』(1962・新潮社)』▽『ピエール・グリマル著、藤井昇・松原秀一訳『ラテン文学史』(白水社・文庫クセジュ)』
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