上野城跡(読み)うえのじようあと

日本歴史地名大系 「上野城跡」の解説

上野城跡
うえのじようあと

[現在地名]向日市上植野町

上植野かみうえのにあったと推定される中世の城。文明六年(一四七四)三月日付野田泰忠軍忠状(別本前田家文書)に、

<資料は省略されています>

とある。西岡にしのおか地方で上野の地名は当地のほかに上野かみの(現京都市西京区)と下植野(現乙訓郡大山崎町)があるが、「谷之堂」(最福寺か、跡地は現京都市西京区)に陣どった山名右馬助勢といっしょになっていること、秋田あきた館が秋田氏の館とすれば、大永二年(一五二二)の小塩荘帳(寛文一〇年写、九条家文書)上植野村の条に秋田氏の名前があって上植野と無関係ではないことから、上植野かと思われる。


上野城跡
うえのじようあと

[現在地名]上野市丸之内

津藩藤堂氏の支城で、伊賀国の押えとして城代家老が置かれた。天守閣は完成間近の慶長一七年(一六一二)竜巻によって倒壊して以来建てられなかった。現在ある三層の天守閣は昭和一〇年(一九三五)に建設されたもの。

現在丸之内まるのうちとよばれる全域が城跡で、四方を外堀に囲まれ、南が開けた内堀内には天守跡と城代屋敷があった。「宗国史」の伊賀志に「仕家第宅」として「丸ノ内侍屋敷戸凡五十 地名曰二丸曰南土居側曰西土居側曰本町曰東蛇谷曰西蛇谷曰中蛇谷」とある。「宗国史」のいうまるうちは本丸を除いた外堀の内側一帯をさしたものと考えられる。明治五年(一八七二)の戸数四九、人数二四六。一般に上野城では二ノ丸とは北西側の俗称伊予(殿)丸をさすが、「宗国史」では東土居側が記されていないので、伊予丸から東外堀に沿う一帯をさしたものと思われる。これは宝永七年(一七一〇)の東使監藩問対案(宗国史)の「二ノ丸 郭廻り四町十七間」とほぼ合致する。しかし「統集懐録」によれば、藩政初期の二之丸にのまるは外堀内を総称しており、時代により若干の違いが認められる。


上野城跡
うえのじようあと

[現在地名]河芸町上野 城屋敷

標高三〇メートルの台地の東端にあって、東は伊勢湾を一望におさめ、足下に伊勢参宮街道と上野宿を見下ろす位置にある。上野城古図(別所三郎氏蔵)によると、南北三〇間、東西四二間の高台を本丸とし、その東側に南北四五間、東西二六間の二ノ丸を置き、周囲を空堀で囲み、その外側南北に侍屋敷を配する形となっており、現存の地形もほぼそれに合致する。奄芸あんげ安濃あのう両郡一円を勢力圏としていた国人領主長野氏の家臣三間親吉の次の書状(滋賀県高島町円光寺蔵分部文書)によって、戦国期にはすでに城砦が形成されていたことが知られる。


上野城跡
うえのじようあと

[現在地名]櫛形町上野

市之瀬いちのせ川の右岸、上野集落の北側にある中世の城跡。山茶花が多かったことから山茶花つばき(椿)城ともいう(甲斐国志)甲斐源氏の小笠原長清の長男長経の七男盛長が上野氏を名乗るが(尊卑分脈)、当城は盛長が築き居城としたという。しかし一説に戦国時代の大井氏の城ともいわれる(甲斐国志)。城跡の中央部に一辺四メートル前後の方形の石壇があり、五輪塔と宝篋印塔がコの字状に並んでいる。五輪塔の各輪には妙法蓮華経の文字が刻まれているものが多いが、このなかに嘉暦三年(一三二八)一〇月一三日の紀年銘と、「比丘尼妙意」と刻まれた五輪塔がある。


上野城跡
うえのじようあと

[現在地名]千種区鍋屋上野町

「寛文覚書」に、

<資料は省略されています>

とあり、「尾張志」に、

<資料は省略されています>

とある。遺構は不明だが、現上野小学校辺りに所在したといわれる。


上野城跡
こうずけじようあと

[現在地名]三原市小泉町 塔之端

天井てんじよう川北岸の比高約一五メートルの独立小丘陵にある土居形式の城跡。文和(一三五二―五六)の頃、沼田小早川氏一族小泉氏平(小泉氏祖)の築城と伝える。三段の郭跡があり、上の郭は東西約三〇メートル・南北約二六メートルで、東側に土塁跡、北西隅に高さ約一・五メートルの天主台という小高い場所がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「上野城跡」の解説

うえのじょうあと【上野城跡】


三重県伊賀市上野丸ノ内にある城跡。別名、伊賀上野城。上野盆地北部に位置する上野台地の端にある標高178mほどの丘に造られ、北には服部川と柘植(つげ)川、南には久米川、西には木津川が流れる要害の地に所在する。関ヶ原戦いののち、豊臣秀頼がいる大坂城を包囲することを考えていた徳川家康は、伊予国今治から築城の名手とされる藤堂高虎(とうどうたかとら)を伊勢・伊賀国に移した。それ以前の筒井定次の時代には、上野城は豊臣秀吉がいる大坂城の出城として大坂を守る立場にあったが、高虎の時代には大坂を攻撃するための城が求められた。高虎は1611年(慶長16)から上野城の大幅な改修に着手し、それまでの本丸を西に拡張し、高さ約30mという高石垣をめぐらせて南を大手とした。建設中の5層の天守は1612年(慶長17)の暴風雨で倒壊したが、外郭には10棟の櫓(やぐら)と長さ約40mの渡り櫓をのせた東西の大手門や御殿などが造営された。大坂冬の陣・夏の陣は家康の勝利に終わり、高虎が津城(三重県津市)を本城としたので上野城は支城となって城代が守り、江戸幕府城普請を禁止したため、上野城の天守は再建されることなく明治時代を迎えた。近隣一帯は上野公園として整備されている。現在ある天守は昭和初期に造られた模擬天守である。1967年(昭和42)に国指定の史跡になった。伊賀鉄道伊賀線上野市駅から徒歩約8分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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