大林寺(読み)だいりんじ

日本歴史地名大系 「大林寺」の解説

大林寺
だいりんじ

[現在地名]岡崎市魚町一丁目

岡崎城外郭内の北、大林寺曲輪内にある。拾玉山阜光ふこう院と称し、浄土宗西山深草派。本尊阿弥陀如来。明応二年(一四九三)岡崎松平家初代の松平光重明大寺みようだいじに創建し、開山は天盈良倪。一説に初めは禅宗で光林寺と称し、暦応元年(一三三八)の開創ともいう(岡崎市史)。明応二年の光重の文書(大竹家文書)にも光林寺とある。

<資料は省略されています>

明応八年五月に書写したという「深草抄」(大谷大学蔵)奥書に「三川国額田郡東矢作岡崎郷大林精舎南面之(ママ)主」とあり、この時点では岡崎とは明大寺付近をさしていたから、大林寺はまだ明大寺にあった。享禄三年(一五三〇)松平清康が岡崎城をおと川北岸に移した際、当寺も城の東北に寺地を与えられて移り、新たに堂舎を建てた。


大林寺
だいりんじ

[現在地名]水沢市 寺小路

寺小路の南側にある。森城山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。永正六年(一五〇九)宮城郡高森たかもり(岩切)(現仙台市)城主留守景宗(大林寺殿)の開創になり、天台宗仏徳山大鄰だいりん寺を改めて禅寺とし、同慶どうけい(現福島県相馬郡小高町)の住職遠山の法子笑翁東闇を請じて開山としたと伝える。寛永六年(一六二九)留守宗利の水沢入城に伴い当寺も移転。安政六年(一八五九)の水沢大火の際本堂・庫裏ともに全焼したが、明治七年(一八七四)再建。大正七年(一九一八)斎藤実より報恩金の寄進があり、随意会地に昇格、斎藤実は中興開基となった(水沢町誌)。当寺所属の三本木さんぼんぎの三十三観音堂(もと大林寺隠居地)は、もと浄天じようてん寺と称し、宮城郡南宮なんぐう(現宮城県多賀城市)にあって留守顕宗の菩提寺であった。


大林寺
たいりんじ

[現在地名]山口市朝倉

弟兄おとどい山の西南麓、朝倉あさくら八幡宮の東隣にある。曹洞宗で山号は岩戸山、本尊釈迦如来。

創建年代は不詳であるが、元禄六年(一六九三)荒廃していた堂宇を、朝倉村の給領主宍道就則が菩提寺として再興、萩の亨徳こうとく寺の三江祖元を招請して中興開山とし、大林寺としたと伝える。また別伝として小俣おまた(現防府市)楞厳りようごん寺を宝永元年(一七〇四)に移したともいう。


大林寺
だいりんじ

[現在地名]長野市松代町石切町

曹洞宗甲州恵雲院末、寒松山と号す。本尊釈迦如来。

寺伝によれば、天正年中(一五七三―九二)真田昌幸の時、同地房山に一寺を建立し、恵雲院第三世松山を招じ、大輪寺を創建し開山とした。昌幸夫人寒松院殿宝月妙鑑大姉の発願による。

真田氏の松代移封後、寒松院の墓と遺骸を今の地に移し、水上山大輪寺としたが後現在の寺称とした。「続錦雑誌」によれば、寛永一〇年(一六三三)関三刹の一つ下野総寧寺より、秩序を乱す奸僧を監視し行動を注進することを命ぜられた。


大林寺
だいりんじ

[現在地名]赤堀町市場

福田山と号し、曹洞宗。本尊は観世音菩薩。慶長一九年(一六一四)に赤堀藤繁の開基、常陸国金龍きんりゆう(現茨城県龍ケ崎市)九世秀山梵芝が開山したと伝える。元禄郷帳によると寺領高一〇石。正徳五年(一七一五)大雄以峯が下野国佐野さの(現栃木県佐野市)鋳物師につくらせた梵鐘があったが、第二次世界大戦にあたり供出。


大林寺
だいりんじ

[現在地名]松山市味酒町二丁目

山号は月照山。浄土宗。本尊阿弥陀如来。松山城主蒲生忠知は、寛永四年(一六二七)に松山に入部したのち、菩提寺として見樹けんじゆ院をこの地に創建した。その後を継承した松平定行は、寛文一一年(一六七一)九月に、見樹院を大林寺と改称し、三甫を住持として浄土宗に改め、同家の菩提寺とした。

八代藩主松平定静の懇望によって来住し、一四代住職となった学信は学徳ともに秀でた傑僧で、藩主に献策するところ多く、書画をよくし、松山文化の発展に貢献した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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