デジタル大辞泉 「館」の意味・読み・例文・類語
かん【館】[漢字項目]
[学習漢字]3年
1 大きな建物・屋敷。「館舎/帰館・公館・商館・洋館」
2 宿屋。「旅館」
3 役所。「大使館」
4 公共の建物・施設。「映画館・図書館・博物館」
5 学校・道場などの名に添える語。「弘道館・明倫館」
[補説]「舘」は俗字。
[名のり]たて
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
東北地方では,土塁,空堀などの防御施設をもつ遺跡は,一般に〈たて〉と呼ばれ,その所在に基づいて館山(たてやま),古館(こだて),館(たて)などの地名が各地に数多く残されている。〈たて〉は〈たち〉であり,普通は〈館〉の字をあてるが,〈楯〉の場合もある。その呼び名は古代までさかのぼるものであろう。かつて東北地方の館は,土着民(蝦夷(えみし))が自分たちの集落を取り込む形でつくった防御施設で,律令政府が蝦夷征討のために設置した〈城柵〉に対応するものであるとの見解があった。また,北海道に分布するチャシとも深い関係をもち,北海道や東北地方など蝦夷地に固有なものであるとも考えられた。しかし,こうした見解ははなはだ疑問である。むしろ,館跡はその大部分が中世に属し,武士階級が歴史的・社会的条件に対応しながら築造し,地域支配の軍事的・政治的拠点として使用したものである。その数は東北地方全体で約5000に達する。規模や構造も大小さまざまあるが,関東地方以西の城郭と共通する点が多い。したがって,〈館〉ということばは,いわゆる〈城(しろ)〉とほぼ同義語であり,城郭を指すものと考えた方がよい。館跡の発掘調査では,平場(郭,腰郭),土塁,空堀,水堀,通路,井戸,土倉跡,掘立柱建物跡,竪穴式住居跡(兵舎,倉庫)などの遺構とともに,中国製品を含む陶磁器,古銭,硯,武具(鎧の破片,鏃,槍先,刀の破片,小柄,笄(けい)),石臼など多種類の遺物が豊富に発見される。このため,館跡は当時の土木技術,商品の流通,武士階級の実生活などを探る資料として,文献史料の少ない東北地方の中世史研究にとって,きわめて重要である。
→城 →館(たち)
執筆者:藤沼 邦彦 館は青森,秋田,岩手の各県にやや濃厚に分布するが,南は山形県や新潟県にまで及ぶ。それらの立地は丘陵,台地,山麓の先端部であり,しかもその地形の先端を切断するように空濠を造成し,館を囲んでいる。館は時代によりその意味が異なる。古代において,国司・郡司の舎宅,貴人・官吏などの邸宅や寓舎のことを指し,古代末から中世にかけて地方豪族の城砦的住宅を意味するようになった。辺要では柵館ともいった。なおその立地点によって,すなわち丘陵や山丘にあるものを山館,舌状台地の先端に位置し,平地に臨むのを平館,低地に立地するものを沼館という。さらに構造上,単郭,単濠単郭,単濠複郭,複濠複郭および空濠組合郭の5類型に分けられる。
→チャシ
執筆者:山田 安彦
中世の城塞的居館。古代では鴻臚館(こうろかん)のように,対外使節等の接待・宿泊機能を持つ客舎をいい,〈むろつみ〉とも訓まれた。また国衙・郡家・駅家(うまや)に付属する官人の宿所も館舎と称した。さらに貴人の第宅をも表わし,〈たち〉ないし〈たて〉とも訓んだ。またこの時期までは城・柵・塞と異なり,軍事的建造物の意はまったくなかった。
平安中期,関東に蟠踞(ばんきよ)した武士団的土豪の多くは経済的・軍事的重要地点に館を構築し,盗賊や局地的紛争に備えたので,館が城郭と同様の軍事的意味を帯びるようになった。居館の内外には,従類・伴類といった同族的武士や家内奴隷的な下人・所従を居住させ,付近には牧畜の柵をめぐらし,農業経営と軍事的要塞を兼ねた建築を施したのである。今日残存する東国武士居館の遺構によれば,本館の周囲には門・戸・櫓(やぐら)を設け,塀墻(へいしよう)で囲み,土塁と堀を構築した半城郭的なものが多い。相模上浜田遺跡(神奈川県海老名市)や上野矢嶋遺跡(群馬県高崎市)はその代表的な遺構で,改変が加わっているが,新田氏の居館等もその範疇に入る。ただ《将門記》によると平将門の居館石井は築城設備が少なく,まだこの段階では戦闘の際には舎宅を捨てて山野に戦場を選んでいたらしい。本格的に軍事的居館が登場するのは,平忠常の乱や前九年の役あたりと推定されている。ただし東北地方では,安倍氏の居館等を総称して,〈厨川柵〉のような〈柵〉の字をあてていた。1180年(治承4)に源頼朝が挙兵して襲撃した伊豆山木館の戦などは本格的な居館に対する攻城戦で,以後は居館と城郭がしばしば同義語として頻出する。
なお奥羽北部以北では,丘陵突端部に造築された砦を指す場合が多い。城塞または土塁の意であって,古代朝鮮語のサシ(城)との関連が考えられるが,〈館〉との関係は未詳とされている。鎌倉期以降は〈やかた〉と読むようになり,屋形の字をあて,守護大名等の尊称となった。
→城 →館(たて)
執筆者:今谷 明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
屋形とも書き、「たち」または「たて」とも読む。貴族や武士の第(だい)、邸(てい)、家などの私宅に対して、京都や地方国衙(こくが)における貴族、武士の公邸から、やがて有力な地方武士の屋敷を意味するようになった。『今昔(こんじゃく)物語』巻26に、陸奥(むつ)の国司の説話として「国ノ介(すけ)ニテ政(まつりごと)ヲ取行ヒケレバ、国ノ庁(た)チニ常ニ有テ、家ニ居タル事ハ希(まれ)ニゾ有ケル、家ハ館ヨリ百町許去(ばかりさり)テゾ有ケル」とあり、国司は、家から百町ほど離れた庁=館(たち)で政務をとっていたと記されており、平安期の「館」のあり方を示している。
中世では、おおむね守護クラスの大名が館を構え、敬称として「御館(おやかた)」などと称せられた。室町時代の関東では、千葉(ちば)、小山(おやま)、小田(おだ)、佐竹(さたけ)、那須(なす)、結城(ゆうき)、長沼(ながぬま)、宇都宮(うつのみや)の各氏が関東八屋形として重んぜられた。
中世武士の館は、荘郷の武士の本領(ほんりょう)に構築され、ほぼ方形のプランで周囲に堀と土塁(どるい)を巡らし、その内部に建物群があった。絵巻物に描かれた館は、『一遍上人(いっぺんしょうにん)絵伝』では、伊予(いよ)国越智(おち)氏館(一遍の生家)、筑前(ちくぜん)のある武士の館、信濃(しなの)国小田切里(おだぎりのさと)の武士の館、信濃国佐久(さく)郡大井太郎の館、『法然(ほうねん)上人絵伝』では、美作(みまさか)国漆間(うるま)時国(ときくに)の館(法然の生家)、讃岐(さぬき)国塩飽(しあく)の高階保遠(たかしなやすとお)の館などがある。漆間時国の館を例にとると、四方に堀を巡らし、館の正面左手に門がある。その前は堀を隔てて、門田(かどた)といわれる領主の直営田が広がっている。館の内部に五間×四間の茅葺(かやぶ)きの寝殿(母屋(おもや))があり、左側に曲屋(まがりや)になって一間×二間の遠侍(とおざむらい)があり、そこでは従者が武具の手入れをしている。寝殿を中心に右手に二間×三間の厨(くりや)(炊事場)、左手に二間×三間の厩(うまや)がある。
武士の館の規模では、おのずと家格の差による大小があり、最大規模の館は、ほぼ二町(約218メートル)四方で、南または西がすこし末広がりになって台形となっている場合が多い。栃木県足利(あしかが)市の鑁阿(ばんな)寺館跡(足利氏)、埼玉県川越(かわごえ)市の河越氏館跡などこの規模に属し、現状がよく保存されている。近年各地の発掘調査によって、館の全貌(ぜんぼう)が明らかになった所も多いが、福井県一乗谷(いちじょうだに)の朝倉(あさくら)氏館跡は、館跡を中心に庭園、寺、家臣団屋敷など全体が発掘され、そこから陶磁器など多くの遺物が出土している。
[峰岸純夫]
『峰岸純夫著『東国武士の館』(『地方文化の日本史 三 鎌倉武士団西へ』所収・1978・文一総合出版)』
「やかた」「たち」とも読むが、東北地方や津軽(つがる)海峡を隔てた渡島(おしま)半島に濃密に分布する居館址(し)については「たて」とよぶ。中世の津軽に関する文書には「石川楯」「尻八楯(しりはち)」などとあって「たて」と呼称していたことがわかる。「たて」は自然の地形を利用し、土塁や壕(ほり)などを設け、とりでといったたたずまいであるが、かならずしも戦闘、防衛にのみ用いられた施設ではない。中国産陶磁器や日用雑器類などの中世陶器の出土から、日常的居館と思われる「たて」も多い。
岩手県北上(きたかみ)市鬼柳(おにやなぎ)町所在の「鹿島(かしま)館」は、北上川の支流和賀(わが)川に臨む、比高20メートルの台地端にある。土塁や濠で6個の郭(くるわ)、谷を隔てて1個の郭、合計7個の郭で構成された多郭連続形式の「たて」である。平坦(へいたん)部分より建物跡を示すたくさんの柱穴とともに中世陶磁器片が出土し、15世紀ごろの地方豪族の居館址と推定されている。青森市後方(うしろがた)所在の「尻八館」は、陸奥(むつ)湾に面する標高182メートルほどの尾根に沿って2個の郭が構築されている山城(やまじろ)形式の「たて」であって、防衛的施設としての機能を十分に果たしている。郭内および周辺より、14~15世紀の良質な中国産青磁・白磁などの茶器・香炉や古瀬戸(こせと)などの優品も出土し、館主の経済力の豊かさがうかがえる。中世の文書記録の少ない東北地方にとって、これら「たて」の史料的価値はきわめて大きい。
[櫻井清彦]
アメリカの作家フォークナーの、いわゆるスノープス三部作の一つ。
[編集部]
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(1)「たて・やかた」とも。古代では政庁や公的な官舎をさした。平安中期以降各地に勢力をもった武士の日常拠点。(2)「たて」とも。屋形とも。鎌倉時代以降の武士の居館。虎口(こぐち)には櫓門(やぐらもん)を備え,塀や柵・築地で守られたが,13世紀以降堀と土塁を巡らしたものへ発達。室町時代には守護の拠点として1辺200mにも及ぶものが広く出現。戦国期には大名から村落領主まで重層的に形成され,それぞれ内部の空間構成に違いがあった。(3)「たて」とも。東北地方の中世城館の一般的名称。いくつかの館が集合し,一つの拠点的な城郭を造るのが特色。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…中世の城塞的居館。古代では鴻臚館(こうろかん)のように,対外使節等の接待・宿泊機能を持つ客舎をいい,〈むろつみ〉とも訓まれた。…
…中世後期山城(やまじろ)の麓にあった城主の館やその周辺の屋敷地。おもに東国で用いられた語で,後に集落の地名となって根古屋,猫屋などと書かれることもある。…
…鎌倉期に入ると幕府要人の邸宅や家臣の居所など,身分ある者の邸宅との意が生じた。とくに東国を中心に,地方居住の在地領主(武士)の居館を屋形と表現した記録が多い。南北朝時代に入ると,《太平記》などの軍記文学によって将軍,執事,探題など,武士階層中のとくに有力支配者の邸宅のみを〈屋形〉と記す表現法が初めて生じ,他方,武士一般の居宅は屋形の称を使わなくなった。…
…
〔日本〕
〈城〉という言葉には,建物だけをさす用語法もあるが,建物の設けられた一定区画の土地とその防御施設も含めた総体をさす用語法の方が正しい。また,居住施設としての比重の高い館(たて)や環濠集落,あるいは城壁で囲まれた都市を含める場合もあるが,その場合は城郭や城館という語を用いた方がよい。【村田 修三】
【古代】
古代の城柵は7世紀中ごろの天智朝以前の神籠石(こうごいし)と,天智朝に唐や新羅に対する防備のため対馬の金田城,讃岐の屋島城をふくむ九州から大和にまで築いた城,8世紀の怡土(いと)城などの西国の防御的な山城(さんじよう∥やまじろ)と,8,9世紀に東北経営の拠点として築いた平城(ひらじろ)または平山城(ひらやまじろ)に分けることができる。…
※「館」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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