小沢村(読み)こざわむら

日本歴史地名大系 「小沢村」の解説

小沢村
こざわむら

[現在地名]岩内いわない郡共和町小沢・国富くにとみ・ワイス

明治一五年(一八八二)から昭和三〇年(一九五五)まで存続した岩内郡内の村。幌似ほろに村の東方にあり、堀株ほりかつぷ川が北西流する。一八五六年(安政三年)一一月岩内―余市よいち間の道路が改修されるに伴い陸路による往来が可能になった。明治四年杉沢文吉(青森県人)がシマツケナイ川下流域(現国富)の道路沿いに旅人の休憩所を設け、南部茶室とした。同八年高橋末吉(同県人)山道さんどう(シマツケナイの奥)に宿屋と茶店を兼ねた新茶屋を開いた。同一五年二月、御鉾内おむない町より小沢村が分立した(郡区沿革表)。同二四年調の「徴発物件一覧表」では戸数一五、男八三・女六七。同二五年御料林の倶知安くつちやん原野への入植が始まり、シマツケナイ川河口部に集落が形成され始めた。同二七年大井昌次郎がヤエニシベに土地の貸下げを受けて農場を開設、同二八年には倶知安原野区画地の貸下げが行われるに伴い、ヤエニシベ・盤ノ沢ばんのさわを通る往来がにわかに活発になった。


小沢村
おざわむら

[現在地名]南牧村小沢

村央を南牧川が北東流し、東は青倉あおくら村・宮室みやむろ(現下仁田町)、西は塩沢しおざわ村・千原ちはら村と接する。南牧川右岸に沿って南牧道が通る。永禄一〇年(一五六七)八月七日、武田信玄に誓詞を出した南牧衆の一人に小沢源十郎行重がみえる(「小沢行重等連署起請文」生島足島神社文書)

近世はおおむね幕府領。寛延二年(一七四九)より一部の五四石余が旗本岩手領となり二給。寛保三年(一七四三)の村明細帳(関文書)によると文禄三年(一五九四)検地が行われ、高四八貫八四七文とある。寛文郷帳には日影ひかげ小沢村・日向ひなた小沢村の二ヵ村がみえ、両村の合計高一四二石余はすべて畑方。


小沢村
こざわむら

[現在地名]弘前市小沢・大原おおはら一―三丁目・桜ヶ丘さくらがおか一―五丁目・常盤坂ときわざか四丁目

弘前城下の南西にあり、東を土淵つちぶち川が北流、東は原ヶ平はらがたい村、北西は湯口ゆぐち(現中津軽郡相馬村)下湯口しもゆぐち村、南は坂本さかもと村に続く。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の平賀ひらか郡に村名があり、村高二三〇・五石、うち田方は二一五・二七石。寛文四年(一六六四)の高辻帳でも村高は変わらない。貞享四年(一六八七)検地帳によれば、村高六二七・〇二二石、うち田方三四六・〇〇六石、畑方二八一・〇一六石、田位は上田から下々田まであり、斗代は上田が一・一石と低い。村内の寺社は真言宗久渡くど(現坂元)、同寺抱の観音堂・熊野堂・白山堂・十二神社があった。


小沢村
こざわむら

[現在地名]新井市上小沢かみこざわ

堀之内ほりのうち村からせき川を渡り、下濁川しもにごりかわ村から馬場ばば川沿いの道をたどると小沢村に達する。平丸ひらまる村の北、鍋倉なべくら(一二八八・八メートル)西麓の村。峠を越えて信濃国水内みのち戸狩とがり(現長野県飯山市)に通ずる。寛永一八年(一六四一)から口留番所が置かれた。寛文二年(一六六二)の覚(小沢区長文書)に「寛永拾八巳之年より関所ニ被仰付候、因高五拾石之小役銀并家二軒分之足役銀、同四軒分之伝馬人足役御用捨被成来候」とある。


小沢村
おざわむら

[現在地名]長南町小沢

佐坪さつぼ村の北東に位置し、一宮いちのみや川支流の埴生はぶ川が流れる。宿しゆく峰岸みねぎし中の台なかのだい根古屋ねこや中堀なかぼりなどの地名がある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高四四八石。寛文四年(一六六四)の久世広之領知目録(寛文朱印留)に記載がある。元禄郷帳では高五五八石余。寛政五年(一七九三)の村明細帳(石橋家文書)では六二町八反余で家数九四・人数四五一、溜井六、莚・茣蓙を作っていた。旗本森川(旧高旧領取調帳では知行高一八二石余)・石野(同一一八石余)・酒井(同九八石余)・高島(同七四石余)・森川(同六一石余)・飯田(同二三石余)六氏の相給。


小沢村
おざわむら

[現在地名]大原町小沢

釈迦谷しやかやつ村の南東に位置し、南北に伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高六五五石。慶長五年(一六〇〇)の大多喜藩領分高付帳(大木家文書)では高六五九石余。領主の変遷は中魚落なかいおち郷に同じ。明暦元年(一六五五)の上総国伊南庄小沢村地詰帳(吉野家文書)によれば、反別は田二〇町八反余・畑三八町三反余。元禄一六年(一七〇三)の夷隅郡郷村高帳では高一千二二八石余、ほかに新田高二六六石余、小物成として旅酒売場運上永三五貫五〇〇文を上納。


小沢村
おざわむら

[現在地名]大月市猿橋町小沢さるはしまちおざわ

殿上とのうえ村の南、桂川支流小沢川の中流域左岸に位置する。元禄郷帳には下小沢村とみえ、枝郷として田中たなかがある。下小沢とは小沢川上流の朝日小沢あさひおざわ(上小沢村)に対して下にあたるので付された村名であろう。田中は本村より小沢川下流の左岸にある。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控に村名がみえ、高八五石余。寛文年中(一六六一―七三)の検地帳(県立図書館蔵)では下小沢村とあり、高九〇石余、ほかに寺領四升余。寛政七年(一七九五)の都留郡御成箇郷帳(渡辺正三家文書)によると駒橋こまはし宿へ助郷を勤め、山畑二町一反余がある。


小沢村
こざわむら

[現在地名]脇野沢村小沢

陸奥湾に面し、北に二股ふたまた(四三一・三メートル)天狗てんぐ(五三六・三メートル)などの山を負う。東は蠣崎かきざき(現川内町)、西は脇野沢村と接する。康正年間(一四五五―五七)の蠣崎の乱の頃は「狐沢」と称したというが(東北太平記)、委細不明。

延宝五年(一六七七)「小沢之内口広沢」「小沢之内松ケ崎」に塩釜が設けられた(雑書)。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に村名がみえ、寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には高八・七石余、うち畑六・三石余とある。戸口は二七軒・一八〇人。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数二八。田名部たなぶ通に属する。「邦内郷村志」によれば漁船一〇艘、塩釜二工があり、牛一〇七疋を飼養。


小沢村
おざわむら

[現在地名]新鶴村小沢

佐賀瀬さかせ川の北にあり、東は大石目おおいしのめ村。集落は二つに分れ、南西を上小沢、北東を下小沢と称する。天正一七年(一五八九)一二月一四日の伊達政宗充行状(八角神社文書)に「太沼之内、入田沢七貫文、同おさハの内、六く面壱貫五百文」とあり、当地などが八角やすみ神社(現会津若松市)別当宝寿院に与えられている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高九二五石余。寛文五年(一六六五)の「万改帳大沼郡中荒井組」では本田高七四〇石余・新田高一九石余、免五ツ三分九厘余、本村は家数三四、竈三八、男七八・女七〇、馬一二、端村の下小沢は家数三〇、竈三四、男八七・女七〇、馬一七。


小沢村
おざわむら

[現在地名]筑波町小沢

多気たけ山の西嶺道場どうじよう山西麓に所在。村内中央を道場山より北条ほうじよう用水に向かって一条の沢が通流している。弘安大田文の筑波郡北条に「大沢三十七丁 率分保」とみえる大沢おおさわは当村ともいわれる(→率分保。寛永二年(一六二五)堀田正盛(のち下総佐倉藩主)領、元禄一一年(一六九八)土浦藩土屋氏領に編入され廃藩置県に及ぶ。同年の小沢村指出帳(沼尻信一文書)によると家数二七軒のうち本百姓二〇、水呑五、寺一、道心一。


小沢村
おざわむら

[現在地名]常陸太田市小沢町

里川沖積地の東岸にあり、西は三才さんざい村。弘安大田文の佐都東郡に「小沢五十五丁三段半」とみえ、貞治五年(一三六六)の奥郡役夫工米切手在所注文(税所文書)には「佐都東上小沢二十丁」とある。文禄四年(一五九五)七月一六日付の御蔵入目録(秋田県立図書館蔵)には「小沢 小沢之内千石 中務代官分」と記され、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「小沢村」とある。「水府志料」に「是より以東拾六ケ村、此村を以て小沢郷と称す。何の故なるをしらず」とあるが、俗には「小沢十二郷」ともよばれた。


小沢村
こざわむら

[現在地名]稲沢市稲沢町

南は大塚おおつか村に接し、村の南境を大江おおえ川が流れる。天保村絵図によると、美濃路が村の中央を北上し、本陣前で西に折れ、稲葉いなば村に続き、一里塚もみられる。天正末、織田信雄が幅五間の幹線道路築造を命じた判物(酒井家文書)に小沢とみえ、幅三間の支線道路築造を命じた判物(同文書)に「一、小沢江高井、ひらの」とみえ、家臣飯尾久兵衛の知行地であった(織田信雄分限帳)

概高四三七石余で宿高でもあった。田地一二町六反五畝余・畑地一四町三反五畝余(徇行記)


小沢村
おざわむら

[現在地名]吉川町下小沢しもおざわ

東は東寺とうじ村、西は泉谷いずみだに村に接する。南の平等寺びようどうじ川対岸に吉井よしい村がある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所此外七方分小沢村 中」とみえ、本納六六石四斗六升一合四勺・縄高一四七石六斗六升五勺、家九軒・三〇人とある。正保国絵図に高一八九石余とある。天和三年郷帳によれば高二三〇石二斗余、うち漆高六〇石余。


小沢村
こざわむら

[現在地名]長浜市小沢町

新庄寺しんじようてら村の北に位置し、東は国友くにとも村、北と西は下之郷しものごう村。中世は福永ふくなが庄のうちで、「神照寺記録」の文明元年(一四六九)分に「小沢」とみえ、永正一四年(一五一七)八月日の米布施御影供新寄進帳(神照寺文書)にも「小サワ」とある。寛永石高帳によれば高六五八石余、彦根藩領。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免五ツ三分。元禄二年(一六八九)の新庄福永庄小沢村検地帳(宮村文書)によれば上田二二町一反余・三九〇石余、中田六町八反余・一〇八石余、下田一町七反余・二四石余、荒田六畝余・八斗余、上畑六反余・一〇石余、中畑一反余・二石余、下畑一五歩・五升余、屋敷七反余・一一石余、木原一反余・三斗。


小沢村
こざわむら

[現在地名]菊川町小沢

神尾かんのお村の北、牛淵うしぶち川上流に位置し、東部は牧之原まきのはら台地に連なる。南西の村の出入口以外は山に囲まれ、牧之原に上る一帯を小沢原と称する。寛永二一年(一六四四)には高七二石余で幕府領であったが、正保二年(一六四五)掛川藩預となる(掛川預一万石郷村覚)正保郷帳によると田方六八石余・畑方四石余、「水損」「松山」「芝山」の注記がある。


小沢村
こぞうむら

[現在地名]旭町榊野さかきの

矢作川の支流阿摺あすり川に注ぐ小沢川に沿う。東は押手おしで村、南から西にかけて能見のうみ村・月畑つきばた村、北は源重げんじゆう村に接する。集落は谷地形の山麓に点在。現主要地方道土岐―足助線と県道笹戸―稲武線が通る。


小沢村
おざわむら

[現在地名]安達町小沢

渋川しぶかわ村の東に位置し、北と東は下川崎しもかわさき村、南は上川崎村。天正一四年(一五八六)九月七日の二本松配分日記(伊達家文書)にみえる「さ藤外記分 あらやしき上所務計くたされ候」の「あらやしき」は、小沢村荒屋敷である可能性が高い。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に小沢とみえ、高六四三石余。


小沢村
こざわむら

[現在地名]長岡市小沢町・みどり町一―三丁目

信濃川左岸べりにあり、西は古正寺こしようじ村。村立ては慶長(一五九六―一六一五)頃、寺島てらじま村の百姓某が南部の小沢島の地に新田を開発したことに始まるという。元和(一六一五―二四)以来信濃川出水がはなはだしく、寛永年間(一六二四―四四)に現在の地に移ったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

仕事納

〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...

仕事納の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android