峠村(読み)とうげむら

日本歴史地名大系 「峠村」の解説

峠村
とうげむら

[現在地名]佐伯町峠

権現ごんげん山の北から西にかけての麓に位置し、北麓の谷間を通る石見津和野路沿いに集落が展開する。村内を玖島くじま(峠川)が流れる。天文一〇年(一五四一)二月六日付の大内氏奉行人連署奉書(大願寺文書)に「地之御前外宮修理免塔下弐拾五貫文目」とみえ、当地二五貫文の地は地御前じごぜん神社(現廿日市町)の修理免として以前から厳島神社領で、その後厳島社神主友田興藤が人給の地としていたが、天文一〇年興藤の滅亡後大願だいがん(現宮島町)からその還補を大内氏に愁訴し認められたことなどがわかる。同一六年一一月吉日付の大願寺領所務帳(速谷神社所蔵文書)によって諸年貢収取の実態が知れるほか、刀禰と地頭が当地を二分して支配し、「塔下との」とよばれる小領主がいたことなどがわかる。同二三年の折敷畑おしきばた明石あかし(現廿日市町)の合戦では戦場となった。文禄四年(一五九五)一一月二八日付の大願寺領薪調人夫下行飯米注文(大願寺文書)に「塔下衆、六十壱人、五日分、飯米弐石弐斗八升七合五勺、三百五人役」とある。


峠村
とうげむら

[現在地名]柏原市峠

大和川の亀瀬かめのせ峡谷のすぐ北側山地の峠に位置する。村中を亀瀬峠越竜田たつた道が通る。峠はゆるやかで、山越えの道としては条件がよく、古代から近世まで多くの人々に利用されてきた。なお昭和六年(一九三一)から七年にかけて大地すべりがあり、峡谷は様子が一変した。峠地区から山塊が大和川へ向けてすべりだし、川をふさぐ状況であった。第二次世界大戦後にも地すべりが起こり、今は峠地区の住民は大部分他へ移動してしまっている。

大県おおがた郡に属し、そのうち堅上かたかみに入る。天正一八年(一五九〇)の検地および文禄三年(一五九四)の検地では雁多尾畑かりんどうばた村の枝郷として同村の高のうちに入れられている。


峠村
とうげむら

[現在地名]金沢区朝比奈あさひな町・東朝比奈ひがしあさひな二―三丁目

相模国鎌倉郡に属する。北は武蔵国久良岐くらき坂本さかもと村・宿しゆく村、東は六浦寺分むつらてらぶん村、西は十二所じゆうにそ(現鎌倉市)、南は相模国三浦郡池子いけご(現逗子市)に接する。村域中ほどを東西に鎌倉道の峻路朝比奈切通が通る。六浦寺分村との境北側の岩腹に鼻欠はなかけ地蔵がある。「鎌倉志」によると、武蔵・相模の国界をなす位置にあるためさかい地蔵ともよぶとあり、風化がはなはだしいが現存する。十二所村境に大切通、これより一町ほど下った村内に小切通がある。

天正一八年(一五九〇)旗本加藤領、延享四年(一七四七)幕府直轄領、文化八年(一八一一)会津藩預、文政四年(一八二一)川越藩預、嘉永六年(一八五三)熊本藩預所。


峠村
とうげむら

[現在地名]花泉町老松おいまつ

涌津わくつ村・男沢おとこざわ村の北に位置し、東は日形ひかた村。戦国期の峠城主は葛西家臣寺崎石見守で、天正七年(一五七九)三月二七日の石川丹波守宛葛西晴信知行宛行状(中尊寺文書)によれば、富沢日向守の乱に際し、ながれ大門で寺崎石見守に打続き手柄を立てたとある。慶長六年(一六〇一)留守政景知行目録写(留守文書)に「とうけ」がみえ、当地の一〇三貫五三四文が留守政景に与えられている。寛永一八年(一六四一)の峠村検地帳(県立図書館蔵)によれば田方九九町九反余・代一二五貫二六文、畑方四八町六反余・代一七貫二八三文、名請人数一〇六。正保郷帳では田方一二二貫九二七文・畑方一六貫八九八文、ほかに新田高二貫四八四文。


峠村
とうげむら

[現在地名]松代町峠

北に鍋立なべたて山がありにごり川の源流地に近く、西は小豆あずき峠を境に中野なかの(現大島村)、東は室野むろの村の枝村竹所たかどこに接する。正保国絵図では高八石余。天和三年(一六八三)の検地帳(牧田大平氏蔵)では、庄屋以下一一戸すべて本百姓。同年郷帳では高一七石四斗余、反別二町四反余・青苧畑九畝余で漆木八本。安永九年(一七八〇)新田検地では高二〇石三斗余。


峠村
とうげむら

[現在地名]久米南町峠

下二しもに山手やまて村の南にある山間の村。「作陽誌」によるともとは北東全間またま村の内であったという。下二ヶ山手村から備前仁堀にぼり(現赤磐郡吉井町)方面に出る道の峠には博労宿や酒屋があったとされる。正保郷帳に村名がみえ、田一一七石・畑六六石余。「作陽誌」では家数二七、男八〇・女六七。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高・開高合せて三五石余、村位は下。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は上二ヶ村と同様。


峠村
とうげむら

[現在地名]小矢部市峠

荒間あらま村の南東に位置する山間村了輪りようわ村から当村を経て岩尾滝いわおだき村、笠池かさいけはら(現石川県津幡町)へ至る道が通る。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数二、峠組に属する。正保郷帳では高六二石余、田方一町六反余・畑方二町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一〇一石・免五ツ五歩、小物成は山役三四匁・蝋役二匁・漆役一匁(三箇国高物成帳)


峠村
とうげむら

[現在地名]作東町宮原みやはら

小滝こたき村の北に位置し、北は吉野よしの川沿いの立石たていし(現大原町)。正保郷帳に村名がみえ、田二七石余・畑三〇石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高七石余・開高四石余、村位は下。


峠村
とうげむら

[現在地名]伊根町字峠

六万部ろくまんぶ村の西北に位置する。慶長検地郷村帳に七六・二九石「峠村」とみえるが、延宝九年(一六八一)の延高で一〇一石余となった(天和元年宮津領村高帳)。宮津藩領であったが寛文六年(一六六六)幕府領、同九年宮津藩領、延宝八年幕府領、同九年宮津藩領、享保二年(一七一七)幕府領と変遷。


峠村
とうげむら

[現在地名]作東町川北かわぎた

東作誌」によれば南の川北村地続きで、天正年中(一五七三―九二)同村から分村したという。正保郷帳に村名がみえ、田一石・畑二一石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高四石余・開高八斗余、村位は下。


峠村
とうげむら

[現在地名]名立町峠

名立川中流右岸の段丘上にあり、北は濁沢にごりさわ村、南は池田いけだ村に接し、対岸は折居おりい村。正保国絵図に村名がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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