本光寺(読み)ほんこうじ

日本歴史地名大系 「本光寺」の解説

本光寺
ほんこうじ

[現在地名]幸田町深溝 内山

村域東の丘陵麓に位置している。山門を入ると梅林がある。瑞雲山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦牟尼如来。島原(現長崎県島原市)本光寺のもと末寺。深溝ふこうず城主大場次郎左衛門を討った松平忠定が大永三年(一五二三)に祈願所とし、享禄元年(一五二八)開基と伝える。寺伝では松平忠定入道を本光寺殿と称するとあり、以来深溝松平氏との関連をもつ。

希声を開山とし、中本寺桑原くわばら(現岡崎市)大沢山竜渓りゆうけい院末で、さらに中本寺設楽したら大洞だいどう(現新城市)大洞山泉竜院末の法系になる。希声の道場はもと字迎野むかいのにあり、本光寺跡とよぶと伝える(本光寺由来)。初代忠定から好景・伊忠・四代家忠までは西御廟所の自然石の墓である。

今川義元から守護不入の黒印を拝領したという(本光寺由来)


本光寺
ほんこうじ

[現在地名]品川区南品川四丁目

海徳かいとく寺の南西方にある。経王山と号し、本尊三宝本尊。現在は単立寺院だが、もとは日什派寺院で京都妙満みようまん(現京都市左京区)末。同寺を開創した日什が南北朝時代末に開いたと伝え、品川の日蓮宗の端緒をなした寺院である。日什は明徳二年(一三九一)九月に品川を訪れ、「宮内ノ阿闍梨日春ノ坊」で説教し、その後船で下総国真間ママ(現千葉県市川市)弘法ぐぼう寺へ赴いている。当寺三世・妙満寺四世であった日運が、応永三二年(一四二五)に日什の行状をまとめた「門徒古事」に登場する「品川の坊」が、のちに日什が品川での布教の拠点とする本光寺の前身と考えられる。


本光寺
ほんこうじ

[現在地名]田沼町栃本

愛宕あたご山の南東山麓にある。大明山と号し曹洞宗。本尊釈迦如来。「本光寺開創記」(当寺蔵)によれば、明応九年(一五〇〇)佐野盛綱は武蔵の成田長泰と戦った際、長泰の和睦の使者として遣わされた龍淵寺(現埼玉県熊谷市)の僧宗賀に帰依、文亀二年(一五〇二)宗賀を招き唐沢山からさわさん(現佐野市)の北東部にあたる青柳あおやぎ山麓に当寺を建立したという。大永二年(一五二二)には後柏原天皇によって勅願寺とされた(同年一一月一二日「後柏原天皇綸旨」当寺蔵文書)


本光寺
ほんこうじ

[現在地名]珠洲市馬緤町

正覚山と号し、本尊は釈迦如来。曹洞宗。開山は臨済宗聖一派のうち竜吟門派の法系を引く月浦玄州で(大明国師法系)、南北朝期に草創された。貞治二年(一三六三)五月二〇日の島田光次寄進状案(本光寺文書)に本光禅寺とみえ、若山わかやま庄内下包正しもかねまさ名の免田一段を寄進されている。以後の寺領集積などの経過を寺蔵文書と常利弁志家文書によりみていくと、応安元年(一三六八)馬繋まつなぎ吉弘よしひろ名内の田畠の安堵、永和二年(一三七六)に同浦恒利つねとし名の田地寄進を若山庄領家日野資教の家人本庄宗成が行っている。


本光寺
ほんこうじ

[現在地名]島原市本光寺町

瑞雲山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。永禄三年(一五六〇)三河国深溝ふこうず(現愛知県幸田町)に今川氏の菩提寺として希声英音を開山に創建されたと伝える。のち三河国に勢力を伸ばした松平家の菩提寺となり、寛文九年(一六六九)同家の忠房が丹波福知山ふくちやま(現京都府福知山市)から島原に入封するに伴い、当寺も島原城下柏野かしわのに寺基を移した。寺域は戦国期に築城された丸尾まるお城の跡。島原藩からは寺領三五〇石を受け、三河国設楽したら泉竜せんりゆう(現愛知県新城市か)末で、末寺は浄林じようりん寺があった。


本光寺
ほんこうじ

[現在地名]岩美町恩志

坂上さかげ地内、蒲生がもう川右岸の山裾にある。瑞応山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。南章長勝が廃寺となっていた村の弥勒寺を永享五年(一四三三)会下原えげはらへ移し、改めて拈笑山本光寺として創建したといい(岩美町誌)大檀那は山名中務大輔熙貴と伝える。「尊卑分脈」によれば熙貴は因幡守護山名氏家の子。天文一一年(一五四二)三月日の山名誠通寄進状(因幡志)によると熙貴から当寺に寄進されていた山林・境内地と寺領七〇石に加えてさらに誠通が寺領三〇石を寄進している。


本光寺
ほんこうじ

[現在地名]熊本市坪井四丁目

浄行寺じようぎようじ交差点から北に国道三号沿いに三〇〇メートル行った西側にあり、見性けんしよう寺の北約五〇メートルに位置する。明亀山と号し、日蓮宗、本尊日蓮上人。「国誌」に「承応元年自盛院日進開基之、日親上人ノ像アリ」とある。本光寺の笠塔婆の塔身には安元元年(一一七五)の銘があり、笠塔婆としては日本最古で、県指定重要文化財。塔はもと山門を入った左側にあったが、現在は本堂の入口左側に移されている。塔身は阿蘇溶岩で作られ、高さ九七センチの角柱で、頂部にを彫り出している。四面ともに上部に深い薬研彫の蓮座をあらわし、その上に月輪を描く。


本光寺(願生寺)
ほんこうじ

[現在地名]牟礼村大字平出字西浦

東本願寺の末寺、真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来

寺伝によれば、勧修寺大納言光隆の嫡子経隆が治承二年(一一七八)法然の弟子となり、尊願坊と号し、のち親鸞に随従、源実朝の命により建保二年(一二一四)下総国葛飾かつしか磯部いそべ(現茨城県猿島郡)に一宇を建て願生寺と号した。正応元年(一二八八)三世尊継坊のとき下野国芳賀はが郡平出村(現栃木県)に移る。応仁二年(一四六八)七世祐栄坊のとき当国水内郡平出村もとどり山に移り、「平出ノ坊願生寺」と改めた。


本光寺
ほんこうじ

[現在地名]古川町弐之町

荒城あらき川右岸のかすみ橋詰、壱之いちの町と弐之にの町の南端にある。白豹山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。「岷江記」によれば、始祖教了は白川照蓮しらかわしようれん(現高山別院)の明心に帰依し、天文元年(一五三二)古川に草庵を営む。天正一七年(一五八九)金森氏が古川の町を増島ますしまに移したとき僧房も移し、松材一〇〇本を寄付される。慶長八年(一六〇三)寺号を許された。


本光寺
ほんこうじ

[現在地名]伊万里市山代町楠久

楠久くすく村と楠久津くすくつとの境近くにある。山号は太明山。曹洞宗。本尊釈迦如来。やま寺の総持てらのそうじ寺や熊野権現の属下として幾多の社寺が建てられた頃(一六世紀末)、不鉄を開山として建立されたと伝えられる。元和二年(一六一六)鍋島勝茂が総持寺にちなんで現佐賀市多布施たふせ宗智そうち寺を建て、不鉄に関係の深い山代地域の本光寺・親種しんしゆ寺・吉祥きつしよう寺・広厳こうごん寺をその末寺とした。


本光寺
ほんこうじ

[現在地名]金井町泉 和泉

黒木くろき御所跡に隣接してある。日蓮宗、法教山と号する。寺伝によれば、正和元年(一三一二)大日房日性の開基という。慶長七年(一六〇二)に日蓮の高弟日興を開基とする駿州本門ほんもん(現静岡県富士宮市)の日建より当寺大円房日正へ曼荼羅が授与された。寛永年間(一六二四―四四)一二世日円のとき、寺基は「観音平」から現在の畑田はただに移して山門・本堂を再興。慶安五年(一六五二)に本門寺末となるが、のち竹田たけだ(現真野町)世尊せそん寺末に改まる。


本光寺
ほんこうじ

[現在地名]有田市新堂

新堂しんどう集落の東部、山麓にある。清浄山と号し、西山浄土宗。本尊阿弥陀如来。もと名草なくさ梶取かんどり総持そうじ(現和歌山市)末。「続風土記」には永禄年間(一五五八―七〇)(現有田市)を拠点とする宮崎彦五郎が建立、彦五郎の法名本光院寿源居士より寺名が起こり、宮崎氏の位牌所として寺領も寄付されたが、天正期(一五七三―九二)に中絶したとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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