本行寺(読み)ほんぎようじ

日本歴史地名大系 「本行寺」の解説

本行寺
ほんぎようじ

[現在地名]弘前市新寺町

新寺しんてら町寺院街にあり、法立ほうりゆう寺と貞昌ていしよう寺の間に位置。妙法山妙覚院と称し、日蓮宗。本尊は十界曼陀羅。もと本圀ほんこく(現京都市山科区)末寺。開山は日健。開基は藩祖津軽為信。旧日蓮宗僧録所。

重宝錦嚢(受源院蔵)によれば、為信の懇請により深草宝塔ふかくさほうとう(現京都市伏見区)住職で兵学・武術にも通じた日健を、天正八年(一五八〇)津軽に迎え、堀越ほりこし城中へ寺を建立し、日健は家中の諸士へ書・兵学・武術を指南した。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦に為信が上京した際、堀越城で三ッ目内玄蕃・板垣兵部・尾崎喜蔵が謀反したが、この平定に日健は大きな役割を果し、寺禄二〇〇石を賜ったというが不詳。同一六年てら町へ移り、現在地には正保年間(一六四四―四八)に移ったとある。寛文一一年(一六七一)焼失、延宝元年(一六七三)普請が成ったが、客殿・門・塀は藩で、庫裏は当寺で建立したという。


本行寺
ほんぎようじ

[現在地名]能登川町種

たね集落の北部にある。威徳閣と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。天保下寺帳には大永元年(一五二一)の草創で、開基は西蓮坊教順とある。「天文日記」天文二〇年(一五五一)一一月二八日条に斎に相伴した坊主衆としてみえる「西□坊」は当寺と思われる。由緒記によればもと天台宗で、教順の俗名を佐々木盛綱の息男種村盛重とする。のち宗順の代に西游さいゆう寺の寺号を許され、五代超順は末寺・宝物を西本願寺に上納し、乗蓮じようれん(現能登川町)に隠居したとも記している。司鑰録(西本願寺蔵)によれば、慶長五年(一六〇〇)一一月二四日に宗順が本願寺准如より親鸞絵像を下付され、裏書に「犬上郡河瀬庄馬場村西游寺」とあるという。


本行寺
ほんぎようじ

[現在地名]中央区浜野町

浜野はまの集落の北側にある。如意山と号し、顕本法華宗。本尊は大曼陀羅。山号は寺域の地名でもあり、境内と墓地などを合せ約五千坪とされる。文明元年(一四六九)妙満みようまん(跡地は現京都市中京区)の日泰が当地の廃寺を興し、布教の道場とし、如意山本行寺と号したのが始まりと伝える。その師日遵の跡を継いで武蔵品川の本光ほんこう寺を兼務することになったため、はまの村と品川の間を海路往来していたらしい。これに同船した酒井定隆は日泰に帰依し、領内の寺院をすべて改宗するまでに至り、いわゆる七里法華と称され、当寺はその根本霊場として重きをなした。


本行寺
ほんぎようじ

[現在地名]徳島市寺町

てら町西方にある。高雲山法住院と号し、日蓮宗、本尊は大曼荼羅。かつては板野いたの勝瑞しようずい(現藍住町)にあり、開山日永は三好氏出身という。天正三年(一五七五)三好長治により菩提所とされた(「阿波志」など)。長治の祖父元長と父義賢(之康)はともに日蓮宗に帰依し、その被官の多くも日蓮宗を信仰していたとされる。長治は天正三年阿波一国の衆をすべて日蓮宗に改宗させ、他宗の寺への出入りを禁じた。


本行寺
ほんぎようじ

[現在地名]畑野町松ヶ崎

まつさき集落中央部北側にあり、日蓮宗、松崎山と号し、本尊十界大曼荼羅。江戸初期に廻船業で産をなした、菊池喜兵衛の屋敷内に建てられた氏寺である。当寺の過去帳に「本行院日営居士 元和元年十二月 当山開基大檀那ナリ」と記される。伝承でも、寺の山門は喜兵衛家の裏門を利用したと伝え、山門の妻の部分には菊池家の紋所違い鷹ノ羽と初代の妻の紋所三ッ柏が付いている。現在当寺が保管する由緒書はいく通りもあり、内容にかなりの相違があって信憑性に欠ける。寛政年間(一七八九―一八〇一)に二九世(回向帳による)日正の書いたものでは、文永八年(一二七一)一〇月二八日、日蓮が越後から渡海の折、着船の古跡であるにもかかわらず、寺領はなく貧しい寺であると記している。


本行寺
ほんぎようじ

[現在地名]水戸市上水戸四丁目

本堂は国道一二三号に対し東面して建ち、長い参道が延び、本堂裏には墓地がある。法栄山本法院と号し、日蓮宗。本尊は一塔両尊四菩薩。慶長三年(一五九八)佐竹義宣の外護により、その家臣宇垣伊賀守・商人笹島越後守(法名浄真)・竹田利菴らが施主となり、加倉井の妙徳かくらいのみようとく寺の日尚を招いて一寺を建立した。日尚は武蔵池上本門いけがみほんもん寺の一二世仏乗院日乗を招請開山とした。


本行寺
ほんぎようじ

[現在地名]勝浦市浜勝浦

勝浦湾を見下ろす高台にある日蓮宗寺院。寿栄山と号し、本尊は大曼陀羅。大同二年(八〇七)空海の開創と伝え、長寿ちようじゆ寺と号する真言宗寺院であった。暦応二年(一三三九)能登国石動いするぎ(現石川県鹿島町)の日続が来て改宗を迫り、激しい法論の末に当時の住職が没すると日続が住職を襲い、本行寺と改めたという。その子日伝が串浜の恵日くしはまのえにち寺、日燈が新戸の長慶しんどのちようけい寺を開いたという。


本行寺
ほんぎようじ

[現在地名]下関市赤間町

紅石べにいし山の西方にある。法華宗で清照山と号し、本尊は十界大曼荼羅。

寺伝によればもと稲荷いなり町にあって妙福みようふく寺と号したという。元亀二年(一五七一)五月、本承院日円が西之端にしのはし町に移して本能ほんのう(現京都市中京区)の末寺となった。


本行寺
ほんぎようじ

[現在地名]熊本市中央街

中央ちゆうおう街と安政あんせい町との境界をなす道に面し、かつては本行寺町の通り中央に位置した。寿命山と号し、日蓮宗、本尊十界曼荼羅。「国誌」によると、寛永一一年(一六三四)没した本蔵院日利の開基で、六畝二四歩の免許地という。「熊本区誌」は「元和八年壬戌僧日利開基創建ス、明治十年兵災ニ罹リ焼亡」と記している。


本行寺
ほんぎようじ

[現在地名]金沢市本多町二丁目

小立野こだつの台の下、県立工業高等学校の西に位置する。久遠山と号し、日蓮宗。本尊日蓮上人像・釈迦如来。元和三年(一六一七)寂光じやつこう(現京都市左京区)二代本行院日海が建立。日海は棋聖本因坊で、江戸にあった時三代藩主前田利常に、金沢へ弟子を一人置き寺屋敷を拝領したい旨願出たところ、それが認められ屋敷地を拝領。


本行寺
ほんぎようじ

[現在地名]佐賀市西田代一丁目

市の西、現国道三四号に沿っている。常住山と号し日蓮宗。本尊は毘沙門天。竜造寺胤家が隠居した西の館跡が本行寺となったと伝えられる。創建は明確でないが、現在の建物は文化三年(一八〇六)五月の再建。

鍋島直茂の家臣で文武の人といわれ、領内の治水水利事業に尽力した成富兵庫茂安の墓および直茂の四男で成富家を継ぎ、白石鍋島家(親類)を創始した鍋島直弘の墓がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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