東漸寺(読み)とうぜんじ

日本歴史地名大系 「東漸寺」の解説

東漸寺
とうぜんじ

[現在地名]松戸市小金

小金こがねの西部にある。仏法山一乗院と号し、浄土宗。江戸時代から同宗関東十八檀林の一つに数えられた。本尊は阿弥陀如来。信州出身で芝増上寺音誉に師事した経誉によって文明一三年(一四八一)に開かれた。当時一帯に勢力を有していた高城氏は経誉に帰依、当初の寺地は同氏の居城があった根木内ねぎうちであったという(東漸寺史)。天文期(一五三二―五五)に五世行誉が現在地に移転したというが(同書)、この移転は高城氏の小金城への移転に伴うものといわれ、当寺は小金城の出城としての役割を負っていたと伝える。高城氏との関係は深く、殺生禁断などを内容とする三通の制札が同氏によって発給されているほか、戦国期後半に当寺の住持であった了学は高城胤吉の三男であったとする説もある(東葛飾郡誌)


東漸寺
とうぜんじ

[現在地名]磯子区杉田一丁目

国道一六号の西側にある。霊桐山と号し、臨済宗建長寺派。本尊聖観音。開山は桃渓徳悟、正安三年(一三〇一)に開かれたと伝え、開基は北条氏の一族北条宗長。永仁六年(一二九八)正月日の当寺鐘銘(県史二)によれば、この年宗鑑が真言宗から禅宗へ転じたとある。北条貞時十三年忌供養記(同書)によれば元亨三年(一三二三)一〇月二六日に鎌倉円覚寺で行われた法会には当寺の文岑長老ほか僧三九人が参加している。


東漸寺
とうぜんじ

[現在地名]佐世保市中里町

相浦あいのうら川左岸にある。岩問山と号し、真言宗智山派。本尊は薬師如来。寛和二年(九八六)奥院の岩問に安置されていた本尊像を当地に移し、堂宇を建立したのが始まりで、開基は観海、明応三年(一四九四)に教意が中興したと伝える(寺院明細帳)。本尊の木造薬師如来立像は室町期の作という。墓地にある応仁元年(一四六七)銘の宝篋印塔に「源盛 世寿四十六歳 前丹州大守観音寺殿 応仁元年」などと刻まれ、宗家松浦一三代の松浦盛(武辺城主という)の墓塔とされる。


東漸寺
とうぜんじ

[現在地名]伊豆長岡町南江間 中之台

仏法山と号し、臨済宗建長寺派。本尊十一面観音。応永二〇年(一四一三)三月、相模国平間ひらま(現神奈川県川崎市幸区・中原区)広済寺住持象初聞先(のち建長寺七六世)の中興ともいう。吉祥きつしよう(廃寺)の塔頭であったと伝える(増訂豆州志稿)。永禄五年(一五六二)四月二〇日の北条家朱印状(東漸寺文書)に「東漸院」とみえるのが早く、小田原北条氏が番衆に相首座と金首座を任命している。同年の検見により門前の菜園畠の年貢高が一貫九二三文と定まり、そのうち九六二文が看主分とされ、残りが堂舎の修理分と定まった(同年八月二一日「北条家朱印状」同文書)


東漸寺
とうぜんじ

[現在地名]近江八幡市桜宮町

近世のはやし村集落の北東、桜宮さくらみや町にあり、恵光山と号する。臨済宗妙心寺派。本尊は如意輪観音。開創年代は不明だが、境内には暦応元年(一三三八)一一月二二日と応安二年(一三六九)一一月二八日銘の石灯籠が残る。寺伝によれば、寺地は六角氏家臣(あるいは比牟礼神社の神主とも伝える)杉山氏の邸跡で、戦国時代には観音堂であったという。寛永一〇年(一六三三)幕府代官中島兵右衛門は速源を迎えて寺堂を再建し、禅風を広め、そののち梅嶺が入寺する。同一一年林村は陸奥仙台藩領となり、寛文二年(一六六二)には同藩主伊達氏は寺地五斗六升を与えて菩提所とし、同四年には境内保護の禁制(寺蔵)が下された。


東漸寺
とうぜんじ

[現在地名]岩見沢市一条東

大法山と号し、日蓮宗。本尊は題目宝塔。明治一八年(一八八五)元町畑もとまちはたけ一番地に、青森県人和久伊助らによって鬼子母神堂が建てられたのが開創の基礎となった。岩見沢における唯一の日蓮宗寺院で、同二二年東京深川円隆ふかがわえんりゆう(現江東区)の青柳孝蓮が岩見沢説教所を設けた。当時岩見沢は交通上の要衝として発展しており信徒が増えた。初代総代の士族移住者今井元三郎は同志を集めて教会所を創立し、同三〇年頃からは移転・改築に貢献した。同三一年寺号公称の認可を受け、身延山久遠くおん(現山梨県身延町)直末として堂宇が建立された(寺史、「岩見沢郷土史稿本」岩見沢神社蔵)


東漸寺
とうぜんじ

[現在地名]旭市イ

土の妻つちのつまにある。殿玉山と号し、真言宗智山派。もと野中長禅のなかちようぜん寺末で、本尊は阿弥陀如来。初め禅宗で木曾氏の菩提寺として文禄二年(一五九三)禅僧悦道を開山として創立された。木曾義昌は在世中に高一五石七斗を寄進した(外口家文書)。同氏没落後悦道は重臣千村氏・山村氏と網戸あじとを去ったので、前沼まえぬまにあった真言宗西徳さいとく宝寿ほうじゆ坊を現在地に移し、野中長禅寺末の真言宗東漸寺とした。


東漸寺
とうぜんじ

戦国期の駿府にあった寺院。「駿河記」の駿府城下八幡やはた町の項に、「本尊阿弥陀観音」、浄土宗、鎌倉光明こうみよう寺末として専照山東漸寺円光えんこう院が載せられており、徳川家康が駿府在城の時に施薬院として建てたと記される。近世後期の町方絵図では、東海道から南の有渡うど郡八幡村の八幡神社への道が分岐する地点の東側に「浄土宗円光院」が描かれる。しかし東漸寺ではすでに天文三年(一五三四)五月七日に冷泉為和が参加した歌会が行われ、これ以降しばしば歌会が開かれており(為和集)、前述の寺伝以前に存在していたことは確実である。


東漸寺
とうぜんじ

[現在地名]取手市寺田

寺田てらだ集落東部の字本郷ほんごうに所在。興隆山と号し、天台宗。本尊阿弥陀如来。

天正二年(一五七四)創建、正徳二年(一七一二)火災にかかり(正徳元年ともいう)、享保二年(一七一七)本堂を建立したといわれている。境内に源三位頼政の碑があり、手・足・腹の痛みや脳の病に霊験があるといわれている。また境内の馬頭観世音像は行基の作といわれ、高さ二尺四寸。もとは小堂に納められていたが、元和三年(一六一七)現在の堂に安置。馬の安全を願うと霊験があるとして、馬を引いた参詣者が絶えなかった。


東漸寺
とうぜんじ

[現在地名]横須賀市武二丁目

たけ山の北麓、県道横須賀―三崎線に沿った低丘陵にある。松得山と号し、浄土宗、本尊は阿弥陀三尊。寺のある丘陵は古くからトノ山とよばれ、寺の開基である長島肥後守の屋敷があったとの伝えがある。長島肥後守については「風土記稿」も事跡は不明とする。開山は冏讃で、「風土記稿」に見蓮社尊誉念阿と号し、天文二三年(一五五四)に卒去したとある。


東漸寺
とうぜんじ

[現在地名]塩尻市大字洗馬 芦ノ田

開山の愚底(経誉、父は長瀬氏)の死去が永正一四年(一五一七)となっているので、室町中期の建立であろう。浄土宗。本尊阿弥陀如来。

寺の入口の道路わきの垂桜は周囲四・四メートルもあり、主幹がやや衰えをみせているが、地上四メートル上から出た側枝は発育も盛んで、市内最大の老木である。


東漸寺
とうぜんじ

[現在地名]三和町仁連

日光東街道の東、妙厳みようごん寺の向いに所在。青谷山地蔵院と号し、真言宗豊山派。本尊大日如来。入口に十九夜供養塔・馬頭観音の石塔が並び、境内に露座の大仏の銅造阿弥陀如来がある。寺伝によると文治五年(一一八九)の創立で、覚法が創立当時は仲山なかやま観音堂の西にあったと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「東漸寺」の解説

東漸寺

(神奈川県横浜市磯子区)
鎌倉十刹」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の東漸寺の言及

【関東十八檀林】より

…しかし最後にできた深川霊巌寺は24年(寛永1)の開山であるので,制度としての確立はそれ以降のことである。かくして成立した十八檀林は,開山の年代順に相模鎌倉光明寺,武蔵鴻巣勝願寺(埼玉県鴻巣市),常陸瓜連常福寺(茨城県那珂郡瓜連町),江戸芝増上寺,下総飯沼弘経寺(茨城県水海道市),下総小金東漸寺(千葉県松戸市),上総生実(おゆみ)大巌寺(千葉市),武蔵川越蓮馨寺(埼玉県川越市),武蔵滝山大善寺(東京都八王子市),武蔵岩槻浄国寺(埼玉県岩槻市),常陸江戸崎大念寺(茨城県稲敷郡江戸崎町),上野館林善導寺(群馬県館林市),下総結城弘経寺(茨城県結城市),江戸本所霊山(りようぜん)寺(東京都墨田区),江戸下谷幡随院(東京都小金井市,もと台東区浅草神吉町),江戸小石川伝通院,上野新田大光院(群馬県太田市),江戸深川霊巌寺(東京都江東区)である。学問所としての檀林はやがて幕府の寺院統制下で行政の一端をにない,一,二の変動はあったが宗教行政の中心となった。…

※「東漸寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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