瑞光寺
ずいこうじ
[現在地名]中町門前
妙見山南麓に位置する。集雲山と号し、臨済宗天龍寺派。本尊は釈迦如来。周徹が開創した(「播州瑞光寺沙門周徹伝」本朝高僧伝)。「峯相記」には松井庄の瑞光寺とみえ、正和(一三一二―一七)頃の創建という。「播磨鑑」では元弘二年(一三三二)夢窓疎石の開基とある。応永一四年(一四〇七)三月日の宣陽門院領目録写(八代恒治氏旧蔵文書)では瑞光寺が松井庄左方を知行しており、右方の赤松遠江五郎とともに弘紙四千帖の年貢を納めることとなっていた。
瑞光寺
ずいこうじ
[現在地名]関町木崎町
木崎町の街裏にある。河上山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。寺伝によれば、応安四年(一三七一)太源宗真の創立という。文亀三年(一五〇三)の万松山永明禅寺懺法僧衆帳(当寺蔵)に瑞光寺の名がある。戦国武将関氏の庇護を受けたと伝えられ、もと三日城山の古河上にあったという。戦国期に廃寺となった永明寺の寺跡・遺物などを承継したが、一二代豊屋永隆の代に現在地に再興した。再興にあたって、関盛信が祈念仏の観音像(現在四日市市建福寺本尊)を寄進したとも伝えられる。
瑞光寺
ずいこうじ
[現在地名]辰野町大字横川 門前
横川川の上流上横川にあり、境内は南向きの山麓の台地で、台地の下方に開けた集落を門前とよんでいる。臨済宗正法山妙心寺の末寺、本尊は阿弥陀如来。延享元年(一七四四)成立の「伊那郡神社仏閣記」(蕗原拾葉)に「臨済宗白鳳山、高遠建福寺末山瑞光寺、人皇八十八代御深草院正元元未年大覚禅師開基也、則単寮也、臨末にて長老寺は稀也、境内五段歩林三丁六段歩」とある。
瑞光寺
ずいこうじ
[現在地名]東淀川区瑞光二丁目
臨済宗妙心寺派。天然山と号し、本尊は聖観音。当寺地は聖徳太子が創建し、南北朝時代に退転したと伝える三宝寺の跡地という。寛永二〇年(一六四三)跡地に伊予大洲(現愛媛県大洲市)の曹渓院天梁の弟子天然が草庵を結び指月寺と称した。のち白隠を座主に迎え、二世北禅の時三番村の瑞光院を移し、享保一四年(一七二九)現寺名に改称した。境内弘済池に「摂津名所図会」が「難波一州の名奇なり」と記す雪鯨橋が架かる。宝暦六年(一七五六)四世潭住が南紀州を遊歴中、太地浦(現和歌山県東牟婁郡太地町)の漁師に請われて豊漁を祈念した。
瑞光寺
ずいこうじ
[現在地名]熊本市横手一丁目
旧高麗門外にあり、南は正立寺、東は土居と堀、西は小路を挟んで長国寺に接する。正東山と号し、日蓮宗、本尊十界大曼荼羅。「国誌」に感応院日如が万治二年(一六五九)に開基したとある。明暦(一六五五―五八)頃の絵図では、この地は畠地と中正院秀悦の屋敷地となっている。元禄(一六八八―一七〇四)頃の絵図では中正院秀悦屋敷地に「長国寺末寺瑞光寺」として屋敷を与えられているので、瑞光寺も中正院問題(→長国寺)が解決したのち独立したと思われる。
瑞光寺
ずいこうじ
[現在地名]嬉野町大字下宿字温泉二区
嬉野町の北部山麓にあり、臨済宗南禅寺派。大寧山と号し、本尊は薬師如来。応安二年(一三六九)相州鎌倉五山の一つ巨福山建長寺の前住石室善玖禅師の開山と伝える。寛文年間(一六六一―七三)初代蓮池藩主鍋島直澄が嬉野家の志を継いで再興したといわれる。
瑞光寺
ずいこうじ
[現在地名]舞鶴市字寺内
旧田辺城下の西部、高野川の左岸、港町であった竹屋町に対する広大な地域が寺領で、その中央に位置している。
山号不動如山、浄土真宗本願寺派に属し、本尊阿弥陀如来。文禄三年(一五九四)細川藤孝(幽斎)の建立になり、江戸時代には境内地一万余坪、「三千坪は門内、七千拾余坪ハ門外寺内町」であった(旧語集)。
開山明誓は若狭小浜(現福井県小浜市)の城主京極高次の家臣楠伊賀正重の子で、俗名源五という。
瑞光寺
ずいこうじ
[現在地名]鹿沼市玉田町
丘陵麓にある曹洞宗寺院。加園の興源寺とともに鹿沼地域の同宗の中心寺院。玉田山と号し、本尊釈迦如来。長享元年(一四八七)昌源の創建と伝える。寺記によれば、末寺一五ヵ寺を数え各寺とも当寺の和尚を開山としている。下野国内には一一ヵ寺で、ほとんどが鹿沼周辺にあり、一五世紀から一六世紀初めにかけての創建である。当時曹洞宗の教線の拡大が図られていたことがうかがえる。
瑞光寺
ずいこうじ
[現在地名]真岡市西田井 岡
根本山の北西麓中腹にあり、松医山三宝院と号し、天台宗、本尊は勢至菩薩・薬師瑠璃光如来の二体。寺伝によれば、貞観二年(八六〇)慈覚大師円仁が開基となり西田井村北原中丸に創建したのに始まり、鎌倉時代後期に覚秀が現在地に移して再建、宝永七年(一七一〇)三〇世住職範友が寺容を整えたという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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