白銀町(読み)しろがねまち

日本歴史地名大系 「白銀町」の解説

白銀町
しろがねまち

[現在地名]鶴岡市三光町さんこうちよう

七日なのか町の南、うち川東岸に沿って南北に続く道の東側にある。金具師・研師・鞘師などの居住する職人町。銀子町・銀町とも記され、明治以降は銀町ぎんまちと称する。慶長八年(一六〇三)北方内川西岸の百間ひやつけん堀との間に町割されたとみられ、寛永二〇年(一六四三)の間数八間(大泉掌故)。寛文一一年(一六七一)二月、上肴かみさかな町より出た火事により全焼し、七日町の南しま村地内に新たに町割して引移ったという(「水野重誠筆記」鶏肋編など)。延宝六年(一六七八)城下絵図では四三間。文政四年(一八二一)頃の城下絵図ではシロカネマチとある。幕末の弍郡詳記には島村の小名に白銀町を記している。天和三年(一六八三)の町割は一町半、家数二四、男七八・女六三(「鶴ヶ岡町割家数人数書上」鶏肋編)


白銀町
しろがねまち

[現在地名]南区大宝寺だいほうじ中之なかの

鰻谷うなぎだに二丁目の南、南米屋みなみこめや町の西にある。町域は南北の難波橋なにわばし筋と九之助橋くのすけばし通の交差点を中心に東西南北に半町ずつ。町名は明暦元年(一六五五)から確認できるが(南区志)、初発言上候帳面写によると明暦以前は「銀屋町」とよばれていた。大坂三郷南組に属し、元禄一三年(一七〇〇)三郷水帳寄帳では屋敷数一九・役数二二半役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。年寄は伊勢屋弥兵衛。勧化三〇町組の一町で、嘉永二年(一八四九)の坪数高年番定帳(大阪市立中央図書館蔵)によると坪高は一千五四六坪、年寄分を引いた一千四六一坪半が負担坪数。


白銀町
しろがねちよう

[現在地名]日野町大窪おおくぼ 金英町きんえいちよう

上鍛冶かみかじ町の西、ほん町通筋に位置し、日野大窪町のほぼ中央にあたる。中野なかの城下の職人町として成立し、城下町割にみなみ町通九ヵ町の一として町名がみえる。正徳五年(一七一五)の三町絵図では上銀かみぎん町と記される。延宝七年(一六七九)から日野大窪町鍛冶組に所属。町名から古くは銀箔などを扱う職人が多くいたと思われる。寛保三年(一七四三)には五軒の合薬屋があった。安永四年(一七七五)には木地屋二軒(君ヶ畑氏子狩帳)


白銀町
しろがねちよう

[現在地名]高崎市白銀町

東はとおり町と組屋敷(十人町)、西は町、南は連雀れんじやく町、北は元紺屋もとこんや町に接する。町の長さ四二間、名主は三木平右衛門(高崎寿奈子)。「高崎志」に「白銀町ハ通町ノ北ニアリ、東西ノ町也、田町ニ出ル、昔此町ニ白銀師アリ、故ニ名ヅク、元ハ鞘町ノ分也、其頃住シ後藤某以下、皆鞘町ニ移リシ後、人家漸ク多クナリテ別町トナル、今ハ名ノミニシテ、金具師ナシ」とある。後藤とは彫金工後藤家の縁者と考えられる。宝暦五年(一七五五)の「高崎寿奈子」に「商もの穀類、市日に賑なり、表具師、其外売もの品々」とあり、この頃すでに白銀師は居住していない。


白銀町
しらがねちよう

[現在地名]平戸市職人町しよくにんちよう 細工町さいくまち

平戸城の南西にあり、北はろく町、東は大工だいく町。戸石といし川左岸に位置し、同川の石橋は白銀橋ともよばれた。細工町とも通称される。職人町五ヵ町の一つで、町名は金銀細工師が集住していたことに由来し、職人町の玄関口にあたるため当初は武具方支配や船作事方支配の任にあった者の居宅がみられた。元禄一〇年(一六九七)当時の諸商職は平鍛冶三・鞘師七・金具屋五・桶屋二(うち借屋一)・正平紋屋一・花切並香炉箸屋一・染屋一のほか、酒屋一・諸色振売小商人五があった。研師六人も当町の在住であろう(町方年鑑次第)。同一六年の役所手鑑(谷村家文書)に研屋三人・鞘師一一人・金具屋四人・花切香炉箸屋二人・鏡研一人・刀脇差金具絵蒔者下絵書一人らが記され、懸年寄が橘屋喜左衛門、頭料が西儀兵衛であった。


白銀町
しろがねちよう

[現在地名]七尾市白銀町・一本杉町いつぽんすぎまち阿良町あらまち木町きまち

所口町の西部にあり、南北に延びる町。元和二年(一六一六)の所之口町絵図に町名はなく、単に「小路」とある。慶安二年(一六四九)町が成立したとみられ(七尾市史)、所口地図では小路両側に家並があり、東側は南を内浦街道に臨み、一本杉町・阿良町・木町、西はうお町、北は海岸に面する。延享二年(一七四五)の浦役銀三二匁余・伝馬銀一九匁余・出分地子四匁余・人足銀一八匁余(「御代覚書」税務大学校所蔵文書)


白銀町
しろがねちよう

[現在地名]高岡市白銀町・白金町はつきんちよう

鴨島かもじま町の東端に直交し、南北に延びる両側町で、北端近くから南東に白銀後しろがねご町、南端付近から南東に大工だいく町が延びる。本町で、町名は白銀師が居住したことによるという。時割は五歩四厘、地子地一千五九四歩三厘(不歩記)。明治六年(一八七三)には役地・地子地を含め二千三〇坪一合(沽券調総計帳)。天明五年(一七八五)の家数四三(家数書上帳)、文政四年(一八二一)の高岡大火では二七軒が焼失(高岡史料)


白銀町
しろがねちよう

[現在地名]金沢市本町ほんまち一―二丁目・玉川町たまがわちよう武蔵町むさしまち

文政六年(一八二三)安江木やすえぎ町上の木戸から専光せんこう寺の辻までを町域として成立(「又新斎日録」加賀藩史料)。両側町で南は武家地


白銀町
しろかねちよう

[現在地名]水戸市ほん町三丁目

本五町目と本六町目の北裏にあたり、東は鍛冶かじ町、西は竹熊たけくま町。「水府地名考」に「寛永二年に、上町しろかね町今は元白銀町と云より移されし故、故地に依て町名とす、又細工町とも云ひしとなり、往元ハ職人のミ住せしと見ゆ、今は南側ハ町家間々に職人も住す」とあり、北側は諸士宅地。


白銀町
しろがねちよう

上京区裏門通出水上ル

町の東寄りを裏門うらもん通が、西寄りを浄福寺じようふくじ通が南北に通る。平安京大内裏の「職御曹司」から「華芳坊」にわたる跡地(「拾芥抄」の宮城指図)

近世の聚楽第じゆらくだい遺構では南二之丸西部の水堀の地にあたる。「坊目誌」は慶長年間(一五九六―一六一五)の開通と記すが、寛永一四年(一六三七)洛中絵図ではまだ野畑で、寛保初京大絵図に「つちや丁」とみえ、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」では「白銀しろかね町」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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