等覚寺(読み)とうかくじ

日本歴史地名大系 「等覚寺」の解説

等覚寺
とうかくじ

[現在地名]銚子市岡野台町

岡野台(おかのだい)の北部台地端にある。法雨山と号し、曹洞宗。本尊は阿弥陀如来。明徳元年(一三九〇)中島(なかじま)城主の海上理慶が城内に観音菩薩・薬師如来・地蔵菩薩を安置したことが始まりといい、成就(じようじゆ)院と号した。天正一八年(一五九〇)松平伊昌が領内巡視の折に成就院の檀越になっている。寛永一四年(一六三七)に旗本松平忠実から寺領一〇石が寄進され、のちに一二石に加増される(「海上郡誌」など)。慶安五年(一六五二)忠実が没し、等覚院殿の法号を受けたことにより以後寺号を等覚寺と改めた。境内には成就院という仏堂があり、観音・薬師・地蔵が各一千体、計三千体の仏像を安置していることから別名三千(さんぜん)堂ともいう。


等覚寺
とうがくじ

[現在地名]土浦市大手町

蓮光山正定聚院と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。前身は藤沢(ふじさわ)(現新治郡新治村)にあった極楽(ごくらく)寺で、藤沢山三教閣と号した。寺伝によれば開山は八田知家の子了信とされ、真言宗であった。小田(八田)氏の没落とともに極楽寺も荒廃したが、小田治算が土浦城の勝軍木(ぬるで)郭に極楽寺を再建し、浄土真宗に改宗した。慶長一〇年(一六〇五)に藩主松平信吉が田宿(たじゆく)町に移し、現山寺号に改めた。建永年間(一二〇六―〇七)に作られ、八田知家が寄進した銅鐘(国指定重要文化財)があり、鐘銘には「鋳顕極楽寺鐘」とある。


等覚寺
とうがくじ

[現在地名]宇和島市野川

宇和島城の東の丘陵地にある。竜華山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。

「宇和旧記」によると、開山は京都妙心寺開山関山国師一三世の法孫である光天。開基は宇和島藩初代藩主伊達秀宗。元和四年(一六一八)秀宗が母竜泉寺殿の菩提寺として創建し、白雲山竜泉寺と称した。秀宗の墓所が設けられた万治元年(一六五八)に浄妙山等覚寺と改め、現在は竜華山といい、宇和島では当寺を山号でよぶ。金剛山大隆(だいりゆう)寺とともに両山といわれ、宇和島藩内の寺院を統率する触頭の寺である。昭和二〇年(一九四五)の戦災で山門を除いて焼失したが、現在本堂などが再建されている。


等覚寺
とうがくじ

[現在地名]八百津町和知

和知の関田(わちのせきた)にあり、宝樹山と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。慶長一一年(一六〇六)領主稲葉右近が母妙玄院の菩提所として教如の弟子了賢に開山させた。由緒書によると、斎藤正義は関白近衛植家の末子として生れたが、僧になることを嫌い武士となり、岐阜城主斎藤道三に投じ、天文六年(一五三七)に中井戸(なかいど)村(現可児郡兼山町)に烏峰(うほう)城(金山城とも)を作り入城した。


等覚寺
とうがくじ

[現在地名]鎌倉市梶原一丁目

駒形(こまがた)神社の西、宮里(みやさと)にある。高野山真言宗、休場山弥勒院と号する。本尊不動明王。開山は秀恵僧都、応永年間(一三九四―一四二八)の創建という。もと手広青蓮(てびろしようれん)寺末。江戸時代には寺中境内高一反歩は除地となっていた(青蓮寺本末帳)。位牌から住僧には貞享三年(一六八六)に没した七世権大僧都源秀をはじめ、八世竜海、竜誉らの名が知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ノーベルがスウェーデンアカデミーに寄付した遺産を基金とする世界的な賞。1901年以降行われ、毎年、物理学・化学・生理学および医学・文学・平和・経済学の6部門において、顕著な功績のあった人に授与される。...

ノーベル賞の用語解説を読む