公娼(こうしよう)を集娼方式によって一定区域内に集団的に居住させておく場所。政治権力が公娼を容認するときに,治安や風俗の対策のために集娼制をとることが多いのは,私娼の取締りや税金の徴収を便利にすることのほかに,政策的に,そこを一般市民社会とは異なる性格をもつ場所とするという意図があった。そこに遊郭を設置する意義があるわけで,単に同業者が集住しているのとは本質的に異なる。したがってその政策を効果的にするため,遊郭は都市の周辺部に設定し,周囲を溝や塀で囲み,出入口を1ヵ所にして外部との遮断を図った。都市の発展により市域が拡大して遊郭が中心街に近くなれば,外辺部への移住を強制することも珍しくなかった。公娼制をとらない場合や公娼制度下の私娼の場合にも1ヵ所に集まっていることがあり,それらを遊郭と称することがなかったとはいえないが,政治権力によらない集住地区は厳密には遊郭ではない。遊郭のことを郭(くるわ)(曲輪とも書く)と呼ぶのは,四辺を塀などで囲んでいたことによる。また遊里とも称したが,この方は私娼街を含めて遊興街一般の意味にも用いた。
厳密な意味における公娼集娼を目的とした遊郭は,豊臣秀吉によって1585年(天正13)に始められ,徳川氏がこの政策を継承して整備していった。85年の許可は大坂の島之内辺であったといい,慶長年間(1596-1615)に道頓堀へ移った後,17世紀初頭の元和~寛永初年に新町(しんまち)(現,西区新町1丁目付近)へ移転して定着した。しかしそのときに建設されたのは瓢簞町(ひようたんまち)で,後に市内各所から次々に移住して,佐渡島町,新京橋町,新堀町,吉原町などが追加されており,全体の完成に約30年を要したのは,発足時における集娼制の不徹底さを露呈している。これに対し89年に秀吉が指定した京都の柳町遊郭は,規模は小さいながら集娼制の意図を明白にしており,後に移転を重ねて1640年(寛永17)に島原遊郭が成立している。
江戸は徳川氏になってから1617年に傾城町の建設が認められたもので,集娼制はいっそう明確であり,57年(明暦3)に浅草の新吉原へ移転したものが幕末を経て昭和まで存続した。このようにして各地に設置された公認遊郭の主要なものを示せば,前記3遊郭のほか,伏見撞木(しゆもく)町,奈良木辻(きつじ),大津柴屋(しばや)町,駿府弥勒(すんぷみろく)町,敦賀(つるが)六軒町,越前三国,佐渡鮎川(相川)(あいかわ),堺高須,同乳守(ちもり),神戸磯ノ町,播磨室津,備後鞆(とも),安芸宮島,同多太海(忠海)(ただのうみ),石見温泉津(ゆのつ),下関稲荷町,博多柳町,長崎丸山などで,《洞房語園(どうぼうごえん)》(1720)は計25ヵ所を挙げている。それらの中には江戸時代前期にすでに衰微したものもあり,諸書の伝える遊郭は地名,件数ともに多少の異同があって一致せず,設置の起源なども確定できないものが多い。ただし1650年ころには,遊郭の新設不許可の方針が確立したと考えられるので,上記の数を大きく上回ることはないとみられる。したがってこれ以外はすべて非公認ということになるが,なかには小遊郭をしのぐ大規模な遊里もあった。例えば,伊勢参詣人を対象に古い歴史をもつ伊勢の古市(ふるいち)は茶屋町として,東海道の品川宿は形式上は飯盛旅籠(めしもりはたご)屋(飯盛女)として営業を認められていたものである。
各地によって多様な構図をもつ遊郭の基本的な設計は,上記のように周囲を溝や塀で囲み,大門(おおもん)(出入口)のみによる通行とした(裏門はあっても非常用である)。市中から大門に至る道には,遊郭行きをためらう思案橋(しあんばし),遊郭に近づいて身づくろいする衣紋坂(えもんざか)などが配置され(橋や坂は地形によって変わる),大門のそばには柳の木が植えてあることが多い。大門内には出張武士と町内役人の番小屋が並んで,出入人の監視と郭内の治安維持にあたった。遊郭に対しては,町役を免除したり人口統計を別扱いにするなどして一般社会から隔離するとともに,私娼の取締権を付与して業者を保護した。郭内でのけんかは切られ損とし,遊客の滞留を一夜限りとするなどの法令もある。遊女には乗物を禁じたほか,逃亡の防止と私娼対策のために郭外へ出るのを禁止したが,長崎丸山では唐人と紅毛人とに対する出張を認めていたので,自由に外出することができた。中期以後,江戸幕府の売春対策の不徹底さも加わって私娼街が勢力を伸ばし(江戸では岡場所(おかばしよ)という),一方では遊郭がもっている格式主義とそれに伴う遊興費の高さなどの原因が重なって,遊郭はしだいに遊興場の主役の地位を失い始めていた。
明治維新後,娼妓解放令の翌年の1873年発令の〈貸座敷渡世規則〉により遊郭は貸座敷営業指定地となり,従来の公認遊郭のほか飯盛旅籠屋や私娼街などが続々と指定地の免許をうけて拡大移行した。1924年における全国の許可地は545ヵ所,業者は約1万1200軒,娼妓は約5万2200人に及んだ。その後も廃娼運動を抑えて存続し,ことに軍隊はその存在を肯定させる一原因であった。46年の公娼廃止指令によって表面上は廃止されたが,いわゆる〈赤線地帯〉が旧遊郭をそのまま引きついだ。52年6月の赤線および類似地帯は全国に618ヵ所,業者約1万8000軒であったが,58年4月の〈売春防止法〉の実施によって消滅した(赤線・青線)。
各地の遊郭は規模の大小のほか地方ごとにそれぞれ特色があった。〈京の女郎に,江戸の張(はり)をもたせ,大坂の揚屋で遊ぶ〉と《好色一代男》(1682)に見え,のちに〈長崎の衣裳を着せて〉と付け加えたありようを理想としたのは,その現れである。大坂の町人客に対して江戸の武士客ということもあれば,時代相による変化もあった。元禄(1688-1704)ころの大坂を中心とする遊郭風俗は,西鶴や近松の作品に描写されているし,心中という情死事件もそのころに多発した。遊郭の差は同一地内にもあって,高級妓と切見世(きりみせ)などの下級妓とでは揚代が数倍から十数倍も違った。遊郭内にはこれら上中下の遊女屋をはじめ,揚屋(あげや),引手茶屋,芸者,幇間(ほうかん)らの主要構成員のほか,台屋(だいや)(遊女屋への仕出屋)や日常用品の小売商などが居住していた。一時期禁止された夜間営業も,1657年の新吉原をはじめ各地とも許可されて,夜間が主流となった。大勢の客の中には張見世(はりみせ)を見て回るだけの見物客もあり,これを〈ひやかし〉〈ぞめき〉〈素見(すけん)〉といった。そうした見物客にとっては,花魁(おいらん)道中も目を楽しませるものであった。遊女の衣装は,絹つむぎ,木綿の紺屋染までと規定されていたが少しも守られず,金銀糸の高価な衣類を着用した。ただ後年までも足袋をはかなかったのは,古風の伝統と素足の色けを守ったものである。遊女屋の建築も〈美麗に致すべからず〉と制限されながら,遊女の座敷はぜいたくで,中には3階建てもあった。遊客誘致のため,桜を植え,灯籠を飾り,にわか(俄)や踊りをみせる行事を企画し,その日は五節供などとともに物日(ものび)(紋日(もんび)ともいう)として揚代を割増しにした。明治以後は祝祭日などを紋日に扱った。
明治以後の遊郭は単なる売春地帯でしかなかったが,江戸時代の遊郭は芝居と並ぶ娯楽の二大機関として文化と深い関係をもっていた。それは遊郭を中心としながら,一部の私娼街を含んだ遊里文化と称すべきものであり,江戸時代文化の重要な一面を構成していた。初期の遊郭が大名や公家や豪商らを上客とし,相手を勤める遊女に高い教養を要求し,遊興には社交場的要素が介在した。遊女の最高位である太夫(たゆう)となるには,容色のほかに広範な技芸と知識をもつことが要件であった。そこに,有名な古歌を暗誦したり,座敷に《源氏物語》を備えるなどの,中世貴族的古典文化の継承を重視している点が目だつ。しかもこれらの教養は,当時の一般女性のための儒教的教訓作法書の内容をはるかにこえており,いわば男性本位に作り上げた理想像であったといえる。これは遊郭設置の政治的意図にも反し,遊里を悪所(あくしよ)と呼んで遊女を蔑視(べつし)した社会通念とも矛盾するが,その点にこそ江戸時代文化の特質を認めるべきであろう。前期におけるおびただしい色道書の著作は,ひとえに遊郭の案内書的性格が強いとはいえ,ついに《色道大鏡》という大冊の金字塔を生むに至っている。たとえ求道精神が旺盛だとしても,売春に色道(好色道)を見いだしたのは決して個人の趣味に基づく発想でないだけに特異である。これと並行して作り出された〈粋(すい)〉の美学は,やがて中期には〈いき〉や〈通(つう)〉の美意識となって生活全般に及ぶことになる。〈いき〉や〈通〉は必ずしも遊郭が全面的に育成したとはいえないが,根幹部分で関与していたことは疑いない。
同じように,演劇,三味線音楽,文学,絵画などの主要な文化は,遊郭を無視してはその存在価値を失うほどに密接な関係をもつのである。それはこれらの諸形態の文化に多くの素材を提供しているだけでなく,遊郭自体が文化を創出する能力をもっていたからにほかならない。すなわち,演劇の題材を遊郭にとり,美人画のモデルに遊女が利用されたのにとどまらず,洒落(しやれ)文学が遊郭を契機に実践され,遊興を通じて文化を形成していた。このような土壌があったから,遊郭内の茶屋が売春なしで会合に使用されえたのであって,ほかに適当な場所がなかったという理由だけではなかったはずである。ただ,あまりに遊郭と密着しすぎたために,例えば三味線音楽などに強く指摘されるように,明治以後における正常な発展を阻害した点のあることを否定しえない。しかし,それは諸文化の発展途上で遊郭から絶縁して解決さるべき問題であって,遊郭が責めを負わされる性質のものではない。ともかく江戸後期に〈暦(こよみ)〉や〈武鑑(ぶかん)〉と並んで〈吉原細見〉(細見)が毎年出版されていたことは,すこぶる異常といわねばならないが,それだけ遊郭が身近な存在であり,各種の文化を介在させることにより,遊郭の社交場的性格を保持し,その地位を高めることができたといえる。明治以後の遊郭にはこの機能はまったくない。
→公娼 →私娼 →島原 →吉原
執筆者:原島 陽一
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…赤線とは特殊飲食店と称された,売春婦を置いて売春をさせる店が集まっていた地域である。太平洋戦争中までは,明治以来,許可された売春婦すなわち公娼を置いて売春をさせる店を一区域内に集めて遊郭といった。黙認されている私娼を集めて売春させる店は明治中期から銘酒屋と称して集落を作らされた。…
…漢字の〈遊〉は〈辵と,ゆれうごく意と音とを示す斿(ゆう)とから成り,ゆっくり道を行く,ひいて‘あそぶ’意を表わす〉(小川環樹・西田太一郎・赤塚忠《新字源》)。道をふらふら歩くことが〈遊〉の本義だとすれば,近代になってとりわけヨーロッパで発見,ないし再発見された散歩などは,もっとも遊びの精神にかなったものかもしれない。日本語の〈あそび〉の語源については,定説というべきものはないが,古代に喪葬儀礼に従事したとされる遊部(あそびべ)という集団が存在したことなどから,その本義を神事にかかわるものとする説がある。…
…16世紀以後はさらに女郎(じよろう),おやま,花魁(おいらん)などの名称が加わった。当時はこれらの用語間に厳密な概念区分はなく俗語として混用されていたが,遊女はおもに公認遊郭における売春婦を意味し,なかでも上級のものをさして用いることが多かった。明治以後は公娼に対して娼妓(しようぎ)の官用語が定められたため,遊女とはいわなくなり,逆に遊女を近代以前の売春婦の総称として使用することがある。…
…京都島原,江戸吉原,大坂新町の各遊廓の遊女名を列挙し,彼女たちの容貌や技芸などについて品評した書をいう。江戸前期に述作され出版された。廓中の諸事情や遊興について述べた〈秘伝書〉の類をも含む。文学史では仮名草子に分類している。現存する最古の作品は1655年(明暦1)刊の《桃源集》で,島原の太夫八千代,小藤(こふじ)以下計13人,天神(太夫の次位の遊女)40人の容色を記している。五言絶句の狂詩と狂歌とを掲げる点,文学作品的色彩がすでに認められる。…
…江戸時代以来つづいていた東京の遊郭地。江戸幕府は集娼制(しゆうしようせい)を確立するため,1617年(元和3)3月に従来江戸市中数ヵ所に散在していた遊女屋を集めて葺屋町(現,中央区日本橋人形町付近)に傾城(けいせい)町(遊郭)をつくることを許可した。…
※「遊郭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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