金剛院(読み)こんごういん

日本歴史地名大系 「金剛院」の解説

金剛院
こんごういん

[現在地名]舞鶴市字鹿原

鹿原かはら川に沿った谷奥にある。山腹に本堂・鐘楼・雲山閣(舞台造)があり、三重塔(室町末期)重要文化財に指定される。真言宗東寺派。開山は平城天皇第三皇子高岳親王(真如法親王)と伝える。山号鹿原山、本尊はもと阿弥陀如来であったが、白河天皇勅願の永保二年(一〇八二)以後波切不動尊となった(旧語集)

草創を示す確実な記録はないが、弘安九年(一二八六)一二月二八日付の良範田畠所領等譲状(梅垣西浦文書)に「金剛院坊壱宇房敷在之四至在限事」とみえ、藤原期から鎌倉期の仏像を所蔵していることなどからも創建は平安時代と推測される。

金剛院
こんごういん

[現在地名]伊丹市宮ノ前二丁目

かつての大坂から中山なかやま(現宝塚市)へ向かった道に面し、猪名野いなの神社の門前にある。山号は有応山、真言宗御室派。本尊は大日如来。またの名を野宮ののみや寺といい、江戸時代は同社の別当を勤めていた(「野宮別当所旧記」猪名野神社旧蔵)。伊丹町(村)円正寺えんしようじ昆陽口こやぐち北少路きたしようじ・中少路・下市場しもいちば外城とじよう高畑たかはた外崎とざき天津あまつ北河原きたがわら猪名寺いなでら(現尼崎市)各村の伊丹七郷の氏寺(同記)

金剛院
こんごういん

[現在地名]厳原町豆酘

豆酘つつ集落の西手にある。金剛山と号し、高野山真言宗。本尊は阿弥陀如来。はじめ長安ちようあん寺と号していたが、大同元年(八〇六)空海が唐より帰朝の途次当地に自像を刻み、草堂を構えて安置したことから事股ことまた大師堂と称されたという(津島紀事)。さらに沙門長照が大宰府の曼陀羅まんだら(現福岡県太宰府市)より来住するに伴い、金剛院と号したとされ、罪人が当院に逃れたときはこれを追捕しなかったという故事がある。宗氏の祖重尚が兵を率いて寛元四年(一二四六)一月一日豆酘に上陸し、金剛院に駐屯したというが(「寛政重修諸家譜」など)、当時金剛院はない。

金剛院
こんごういん

[現在地名]騎西町根古屋

私市きさい城跡の東方にある。真言宗智山派、神光山大日だいにち寺と号し、本尊は大日如来。草創年時未詳。鶏足寺世代血脈(鶏足寺蔵)の二九世尊誉の項によると、応安八年(一三七五)に「於武州崎西秀安駒形堂灌頂在之、受者東坊主千海律師」とある。当院は文禄(一五九二―九六)頃北方の日出安ひでやすから移転し、旧地は駒形こまがた権現社の傍らと伝えるので(風土記稿)、「秀安駒形堂」は移転前の当院を示すと考えられる。

金剛院
こんごういん

[現在地名]岩槻市末田

元荒川右岸沿いに位置し、地元では「島の金剛院」と称している。金竜山妙音みようおん寺と号し、真言宗豊山派。本尊は虚空蔵菩薩。元禄一六年(一七〇三)の金竜山金剛院来由記(寺蔵文書)や「風土記稿」によると、開山は宥慶(生没年不詳)で、当初は岩付にあり金剛坊と称したが、寛正三年(一四六二)当地に移転し、現院号となったという。寛文五年(一六六五)の徳川家綱朱印状(寛文朱印留)によると、天正一九年(一五九一)一一月末田すえだ郷内で一〇石の寺領を寄進された。

金剛院
こんごういん

[現在地名]二宮町堀込

本屋敷もとやしきにあった本山派修験寺院。かつては巳高山と号し(宗光寺蔵桐箱墨書銘)、のち中央山と改めた。永禄七年(一五六四)八月一〇日の結城晴朝宛行状(金剛院文書)で、大和国大峯における祈念のため長沼ながぬま郷内堀込ほりごめ村のうち一五貫文の地と居屋敷が当院に与えられ、文禄三年(一五九四)一一月一五日には当院が知行している修験中年行事職を晴朝の執事水谷勝俊から安堵されている(「水谷勝俊安堵状」同文書)。慶長三年(一五九八)晴朝は堀込村のうちで三〇石の黒印地を与え(「結城晴朝黒印状」同文書)、慶安元年(一六四八)には同じく堀込村のうちで三〇石の朱印地が与えられた(「徳川家光朱印状」県立文書館蔵)

金剛院
こんごういん

[現在地名]摂津市千里丘三丁目

味舌ました寺とも蜂前ぶぜん寺ともいわれた高野山真言宗の寺で、本尊薬師如来、山号蜂熊山(霊蜂山とも)。行基開基と伝え、「摂陽群談」には蜂前寺は山号霊蜂山、院名金剛院で「天平勝宝年中、行基僧正難波の津に遊ぶ。尓時北方紫雲霊光あり。僧正爰に至る。老翁遇、此所は大悲有縁の霊場也。急ぎ寺院を草創すべしとて、種々の珍菓を与へ去。

金剛院
こんごういん

[現在地名]武生市深草二丁目

慧日山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。永享五年(一四三三)玉翁正光の創立という。初め安泰あんたい寺と号し、平出ひらいで(現武生市)にあったが、天正元年(一五七三)織田信長の進撃の際、焼亡し、丹生にう八田はつた(現同県宮崎村)に移り、さらに同一一年青木紀伊守重治の帰依によって旧地に堂宇を再建した。慶長一五年(一六一〇)府中ふちゆう領主本多富正によって青木氏居館跡の現在地に寺基を移し、金剛院と称した。徳尾とくお(現福井市)禅林ぜんりん寺末。正徳元年(一七一一)府中惣絵図(経王寺蔵)によれば、東西六五間・南北七四間の広大な寺域を有し、四方に土塁と外堀をめぐらして館の面影をとどめる。

金剛院
こんごういん

[現在地名]沼田市 坊新田町

坊新田ぼうしんでん町の北東部にあり、海王山善福ぜんぷく寺といい天台宗。本尊は阿弥陀如来。古くは沼須ぬますにあり、「加沢記」などにも散見するが、元和二年(一六一六)藩主真田信幸より当所に一〇〇間四方の地を与えられ移転。真田氏時代城下絵図では当院の一角に天王社(現須賀神社)があり、敷地の東側、坊新田町通に面して金剛院長屋とみえる。数度の火災に遭い、現堂宇は天明七年(一七八七)の再建。寺伝では沼田景繁の三男景次が横塚よこづかに勧請した愛宕社の本尊を戦乱を避け沼須にあった当院に移し、現本尊としたとされる。

金剛院
こんごういん

[現在地名]大宮市日進町

かも川東岸に位置する。真言宗智山派、花台山大聖寺と号し、本尊は不動明王。草創は不詳。天正一九年(一五九一)一一月徳川家康から入間いるま郡河越のうちに朱印寺領四石を寄進された(「徳川家康寄進状」金剛院文書)。寛永一〇年(一六三三)の関東真言宗新義本末寺帳では「寺領四石之御朱印雖有之、地所無之候」という状況で、この時の本寺は小俣鶏足おまたけいそく(現栃木県足利市)

金剛院
こんごういん

[現在地名]境町若林

本田ほんでんのほぼ中央、字店坪たなつぼに所在。無量寿山神清寺金剛院と称し、真言宗豊山派。本尊不動明王。江戸初期に成立したと考えられる若林村之草切人為念覚(台家文書)に明徳三年(一三九二)のこととして「阿弥陀堂守、金剛院」とある。第九世栄伝による中興から二五〇余年を経るという。宝永三年(一七〇六)の猿嶋郡下郷廿三ケ村(長野監治文書)には「一御朱印高三石、無量寿山神清寺金剛院、本寺伏木村大政院、真言宗境内壱町五反歩、外年貢地八石弐斗弐升八合」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「金剛院」の解説

金剛院

京都府舞鶴市東部、鹿原(かはら)川沿いの谷奥に位置する真言宗東寺派の寺院。山号は鹿原山、寺号は慈恩寺。本尊は波切不動尊。平安時代の創建と見られている。三重塔は国の重要文化財に指定。紅葉の名所。

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