被疑者,被告人や受刑者を収容する刑事施設の総称として,大正期から,監獄に換えて用いられている語。1947年の法務省設置法では,刑事施設として,刑務所,少年刑務所,拘置所の3種が規定されており,そこでいう刑務所は主として受刑者を収容して自由刑の執行を行う施設(行刑施設)とされる。上記の3種に,少年院,少年鑑別所,婦人補導院を加えて,矯正施設ともいう。
死刑を中心とする中世以来の刑罰制度の中で,牢獄は,裁判を待つ未決囚や,執行を待つ死刑囚などを拘禁し,あるいは罰金や債務の支払いを強制するための身柄拘束を行う場所であった。裁判所庁舎等の地下などに置かれた非衛生的なものが多く,長期の拘禁を必ずしも予定していなかったといわれる。16世紀になって,現在につながる近代的な自由刑の萌芽ともされるものが出現した。ロンドンのブライトウェル宮殿を使ったものや,アムステルダムの懲治場が浮浪者を収容して作業を行わせたのである。この懲治場は各地に広がったが,やがて軽罪者をも収容し,上述の牢獄とも融合しつつ刑事施設化していった。一方,刑罰としての拘禁は,13世紀ごろから,教会裁判での有罪者に対して用いられており,宗教裁判の隆盛とともに拡大していったが,修道院を拘禁場所とするものも多かった。また,ロンドン塔やバスティーユなど城塞を使っての国事犯拘禁もみられた。さらに,16世紀ごろから死刑の縮小を伴いつつ拡大したガレー船漕奴刑や植民地流刑は,18世紀に入って大型帆船の出現と植民地の独立等によって退潮し,受刑者の廃船収容や国内拘禁施設の建設を促した。以上の諸施設は,1703年クレメンス11世建立のサンミケーレ感化院や,73年設立のガン監獄など若干の例外を除いて,一般に非衛生的で,残虐な処遇を行うものもあって悪弊に富み,J.ハワードなどの改革運動を惹起した。18世紀末には,J.ベンサムによるパノプティコン(一望監視制の円形監獄)の提案などもあり,18世紀から19世紀にかけて,自由刑が中心的な刑罰として確立するに伴い,本格的な刑務所建築が各地で行われた。初期には,逃走事故防止のための監視体制を基本に居房内拘禁が絶対視されたが,アメリカ合衆国におけるペンシルベニア制(厳正独居。フィラデルフィア東懲治監が有名)とオーバーン制(昼間は沈黙下での共同作業。ニューヨークのオーバーン刑務所で1824年から実施)との争いを経て,ヨーロッパでは独居拘禁が主流を占め,アメリカ合衆国ではオーバーン制が広がった。やがて近代的な工場をもつものや,今日では,大部屋に2段ベッドを並べたドーミトリー方式や,金網のフェンスのみで高いコンクリート塀のないもの,小規模の寮舎から成るもの,高層のビルディング形式のものなど,かつての監獄のイメージを一新するものも存在する。
日本の明治以前の刑事施設も,自由刑の萌芽とみられる若干のもの(人足寄場,徒刑場)を除いて,主として裁判待ちの者や死刑などの執行を待つ者を収容する場所(牢屋)であった。新政府の下で,初めは,律令制復活による徒刑(各府藩県管轄の徒場で執行)が導入された。やがて,イギリス,フランス,ドイツといったヨーロッパ諸国に学び,国立の集治監(1879年の宮城と東京に始まり,北海道などに増設)や,少年等の改善矯正のための懲治場(1881年の監獄則で導入,1907年に廃止)の時代を経て,1908年の現行監獄法制定に至っている。
少年を成人から分け,男女を分離することは,前述の18世紀の監獄改良運動以来の要請である。日本の監獄法は,そのほかに,刑名を異にする者の分界を定める。現在では,これらは,受刑者の収容分類として具体化している。全国で8ヵ所の少年刑務所は,前述のとおり組織法上も特別の種類とされている。もっとも,少年受刑者(J級)の減少により,その被収容者の大部分は若年成人(Y級)である。女子(W級)は,栃木,笠松(岐阜県羽島郡笠松町),和歌山,岩国,麓(佐賀県鳥栖市)の各刑務所と,札幌刑務所の独立女区に収容される。禁錮囚(I級)のうち交通業務上過失事件の受刑者を集禁するものとして市原刑務所などがある。最近は交通業務上過失事件の懲役囚も収容し,交通刑務所として機能している。日本人と異なる生活習慣をもつ外国人(F級)は,横須賀刑務所と,一部は府中(後述のB級)刑務所に収容される。精神に障害のある者(M級)のために,城野(北九州市),岡崎各医療刑務所が,また,身体に障害のある者(P級)のために,福岡刑務所の菊池医療支所があり,八王子医療刑務所は両者を収容する。その他,執行刑期8年以上の者のためのL級施設がある。これらに,犯罪傾向の進度によるA(犯罪傾向の進んでいない者),B(進んでいる者)分類が重なる。A・B分類には批判もあるが,処遇の難易につながるものとして,A級施設かB級施設(暴力団員が大半を占める)かは大きな差異をもつ(類似のものに,拘禁確保の設備に応じて重・中・軽警備刑務所の区別や,以上の閉鎖施設に対して,物的設備を欠く開放施設,また,被収容人員の大小によって,数千人を収容する大刑務所と,中小刑務所の区別もある)。以上の分類が,受刑者集団を管理する便宜から同質者を集めるものである点は,批判の対象ともなり,刑事施設の特殊性をなるべく少なくしていく行刑の社会化の観点からは,むしろ異質なものを含んだ(男女・長幼・老若の混禁)小施設も主張される。
受刑者の刑務所生活は,入所に始まり,出所(半分以上が仮釈放)に終わるが,新受刑者の8割ほどは,未決拘禁からの資格移動である。刑務所生活がどのようなものであるかは,自由刑の刑罰内容の明確化の要請として監獄法以下の諸法令で明らかにされるべきものである。ただ,現実の具体的内容は,上述の各施設によって,時期によって,また独居房(監獄法上の原則)か雑居房(現実にはこれが主流)かによって差異があり,その受止め方も受刑者個々人ごとに異なろう。刑務所生活自体を懲罰的に構成することは,今日では,少なくとも理念的には否定されており,改善更生,社会復帰を目指した処遇が,行刑の具体的内容だといわれることも多い。現存している,一挙手一投足に至る厳格な規律,24時間にわたる監視体制,日課表に従った動作時限により他者(看守)の合図によって活動していく他律的生活などを基本とする実際の拘禁生活が,被収容者に及ぼす影響は拘禁心理学として,また現実の収容生活のありさまは刑務所社会学等の研究対象となる。アメリカ合衆国などでは,インフォーマルな刑務所文化(隠語や特殊な行動規範)の存在や,それが刑務所生活の特殊性から生じたものか,外界の犯罪者文化が持ち込まれたものかなどが議論されている。刑務所社会を構成するもう一方の側,つまり,拘禁し監視し処遇する職員(刑務官,矯正職員)についても,刑務官論や矯正職員論が,重要な研究領域として認められつつあり,職業倫理の高さが認識されるとともに,一般社会との交流に乏しい閉鎖社会性なども指摘されている。
→行刑 →牢屋
執筆者:吉岡 一男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
自由刑に処せられた者を収容する刑事施設。刑事収容施設法では、懲役・禁錮(きんこ)・拘留といった自由刑受刑者を収容し、処遇を行う施設や被勾留(こうりゅう)者や死刑確定者を収容し、処遇する施設等は広く「刑事施設」という名でよばれる(同法3条)。一方、法務省設置法は刑事施設として刑務所、少年刑務所および拘置所を区別し、法務省がこれらを設置・所管するものとされる(法務省設置法8条)。このうち刑務所と少年刑務所は、主として自由刑受刑者を収容し、処遇する刑事施設であり、広義では両者をあわせて刑務所とよぶ。これに対し、拘置所は、主として被勾留者や死刑確定者を収容する刑事施設である。刑務所・少年刑務所・拘置所の名称および位置は、「刑務所、少年刑務所及び拘置所組織規則(平成13年法務省令第3号)」により定められる。なお、1993年(平成5)ころより日本の刑事施設は「過剰収容」の状態が現出した(その後この傾向は緩和されたものの、一部の刑事施設ではなお過剰収容になっているところもある)。この過剰収容状態を緩和するために、いわゆるPFI(Private Finance Initiative)方式(民間資金を活用して建設・運営される方式)の刑務所建設が行われたが、これらの刑務所は「社会復帰促進センター」という名を冠してよばれる。2010年の時点で4施設を数える。
[須々木主一]
監獄は人を拘禁するところであって、人を処罰するところではないという思想は、ローマ時代からみられ、古代・中世を通じて近代初頭に至るまで存在した。それは、当時の主たる刑罰は死刑と身体刑であって、監獄はただ犯罪者を処罰するまでのあいだ拘禁する場所として使用されたことによる。自由刑に形式が近似するローマ時代の鉱山労働や、中世から近世にかけてみられる城塞(じょうさい)構築のための城塞刑などは、拘禁を伴う身体刑、犯罪人の労働力を利用しつつ肉体的な苦痛を与えるための刑であり、1532年のカロリナ刑法典(ドイツにおけるローマ法継受時代の統一的大刑事法典)にみられる終身禁錮は、死刑執行の一方法であった。このように、拘禁自体を刑罰内容とする自由刑が確立する以前は(とりわけ16世紀の中ごろまでは)、犯罪人を城塔や地下の洞穴に監禁することが多く、しばしば不衛生で、飢餓を強いられる状態がみられた。そのことは、また監獄が、犯罪人を威嚇して犯罪の予防を図ったり、拷問の一種として自白を強要したりするための手段に利用されたことを意味する。
自由刑が芽生えたのは近代に入ってからのことで、その場合にも、当初は従来の監獄においてではなく、寺院その他の別の施設で犯罪者の強制労働による規律と労働への教育が図られたものであった。この形式が監獄拘禁と結び付くことによって自由刑が誕生する。しかし、そこには、啓蒙(けいもう)思想による死刑の排撃、残虐な身体刑に対する躊躇(ちゅうちょ)、そして他の刑罰方法を模索する過程で自由刑に行き着いたという事情もあって、監獄の状況は依然として悲惨なままに放置された。イギリスのジョン・ハワードは1777年に監獄についての画期的な著作『イングランドおよびウェールズにおける監獄事情』を公にし、当時のそれが不衛生なること伝染病の温床のごとく、無秩序なること犯罪学校のごとくであることを世に訴え、ここに、監獄作業を伴う独居拘禁を採用すべしとするいわゆる刑務所改良運動が始まる。この運動はアメリカに渡り、フィラデルフィア監獄協会(1776年ペンシルベニア監獄協会として発足)を通して開花結実した。
日本では、16世紀末のアムステルダム懲治場と並び称される人足寄場(よせば)の制度が江戸時代にあり、刑政思想に進歩的なものがあったが、近代的な自由刑制度と獄制は、明治初期、香港(ホンコン)、シンガポールなど、当時のイギリス植民地のそれらに学んで導入された。監獄が内務省の所管とされた明治の中ごろまでは、各府県費の支弁にかかる府県監獄と、国庫支弁にかかる内務省直轄の集治監とが区別されていたが、1903年(明治36)の司法省移管と同時に獄制の統一・整備のため監獄はすべて国庫支弁となった。現在は法務省の所管で刑事施設の職員は国家公務員である。
[須々木主一・石川正興]
『正木亮著『新監獄学』(1951・有斐閣)』▽『小河滋次郎著『監獄法講義』(1967・法律研究社)』▽『小野清一郎・朝倉京一著『改訂監獄法』(1972・有斐閣)』▽『大塚仁・平松義郎編『行刑の現代的視点』(1981・有斐閣)』▽『刑事立法研究会編『刑務所改革のゆくえ――監獄法改正をめぐって』(2005・現代人文社、大学図書発売)』▽『浜井浩一編著『刑務所の風景――社会を見つめる刑務所モノグラフ』(2006・日本評論社)』▽『菊田幸一・海渡雄一編『刑務所改革――刑務所システム再構築への指針』(2007・日本評論社)』▽『刑事立法研究会編『刑務所民営化のゆくえ――日本版PFI刑務所をめぐって』(2008・現代人文社、大学図書発売)』▽『鴨下守孝編著『新行刑法要論』全訂2版(2009・東京法令出版)』▽『鴨下守孝著『受刑者処遇読本――明らかにされる刑務所生活』(2010・小学館集英社プロダクション)』▽『菊田幸一著『日本の刑務所』(岩波新書)』
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…警察の留置場は,これらの監獄に代用されるが,この代用監獄には人権保障上批判も多い。監獄法のほか,刑法や刑事訴訟法も〈監獄〉の語を用いているが,大正期の行刑刷新以来,〈~監〉は〈~場〉に,施設の名称としては刑務所や拘置所などに変えられた。犯罪者処遇をも内容としたかつての監獄学は,行刑学や矯正科学などとして装いを改めており,監獄法も,刑事施設法案(1982,1987,1991)が国会に上程されるなど,その名称をも含めて改正作業の対象となっている。…
…18世紀後半にイギリスの思想家J.ベンサムによって唱えられた集中型の監獄(刑務所)の形式。一望監視施設(装置)とも訳す。…
…近代以降の牢屋すなわち監獄(刑務所)とは,懲役刑,禁錮刑を宣告された犯罪者が身体を拘束される場所を意味するが,その目的や機能には(1)犯罪者の自由を剝奪するという社会的制裁,(2)有益な労働を行わせて犯罪者の社会復帰に備えさせるという矯正の役割,(3)社会秩序を保つため社会の危険人物を隔離する役割,などがある。しかし,牢屋は人間の歴史とともに存在しており,その機能および社会的存在理由は,時代や諸地域の社会の進展とともに大きく変化し,当初から以上のようなものではなかった。…
※「刑務所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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