現江東区の西側北部一帯の地域呼称。江戸時代は西が大川(隅田川)、南が海浜、東はほぼ
深川の地名は徳川家康の江戸入府の頃に当地域を開拓した深川八郎右衛門の名にちなむ。摂津国出身という八郎右衛門ほか六名の者が、隅田川沿岸に近い
寛永年間には隅田川沿岸の砂洲状の地域が開発された。寛永六年の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京都江東区西部の地名。旧深川区にあたり,隅田川河口の東岸を占める。〈深川〉の名は慶長年間(1596-1615)に大坂から移住してこの付近を開発した深川八郎右衛門にちなむといわれる。江戸城の辰巳(たつみ)(南東)の地にあたるところから辰巳とも称した。1878年深川区が設置され,1947年城東区とともに江東区となった。そのほとんどの地域が江戸時代以来の埋立地であるうえ,第2次大戦後,地盤沈下が急速に進み,いわゆる0メートル地帯が広くみられる。浸水を防ぐため東京湾や隅田川沿いには防潮堤がめぐらされている。東京湾の埋立ての拡大によって,かつては海に面していた地域もしだいに内陸化し,縦横に走っていた水路や木場の貯木池もその多くは埋め立てられた。高度経済成長期以後,大気や河川水質の汚染,騒音公害により居住環境は急速に悪化し,一時は人口の減少をみたが,最近は汚染源の工場の移転,汚染防止対策の実施,公園緑地の設置などにより居住環境は改善されつつある。さらに営団地下鉄(現,東京地下鉄)東西線,都営地下鉄新宿線の開通により都心への交通が便利となり,多くの集合住宅が建てられるようになった。1627年(寛永4)創建の富岡八幡宮,1878年に岩崎弥太郎が全国の奇岩名石を集めて造成した清澄庭園などがある。
執筆者:正井 泰夫
徳川家康は城下町としての江戸を整備する過程で,行徳の塩の輸送路として小名木(おなぎ)川を開き,ひきつづき海岸を埋め立てていった。1641年(寛永18)の江戸の大火後,幕府は市中に散在していた木置場を深川に集中した。この深川材木町は一時本所に移転したが,近年まで江戸・東京の木材供給地,木場として存続した。他方,深川の東地域は寛永期から隅田川河口付近の開発が進められ,明暦の大火(1657)後には多数の寺院や武家屋敷が設けられた。町人の移住も多くなったため,1713年(正徳3)には,一部が町奉行の支配に組みこまれ,さらに20年(享保5)には,深川全域の町々が町奉行の支配するところとなった。こうした発展の契機になったのは,1693年(元禄6)の新大橋,98年の永代橋の架橋であった。
深川の地は水運の便がよく,大名などの蔵屋敷や,民間の倉庫が置かれた。とくに深川猟師町周辺には米問屋が多く,油や干鰯(ほしか)の集散地にもなった。さらに,深川十万坪などでは鋳銭も行われた。しかし,深川の地は江戸の焼土や塵芥によって埋め立てられた低湿地帯であったため,洪水や高潮の被害も大きかった。とくに1791年(寛政3)の被害は大きく,洲崎周辺の居住が禁止された。明治以後,清澄町の浅野セメント工業(1871設立)に代表されるように,近代工業の中心地帯となった。関東大震災では区域内の5万1900戸のうち4万9000戸が焼失,約20万人が焼け出された。震災後,土地区画整理が行われ,江戸時代以来の市街地も一新し,道路,運河が整備された。第2次大戦中,とくに1945年3月10日の東京大空襲により再び壊滅的な被害をこうむった。
一方,富岡八幡宮の門前町を中心として発展した深川地区は,18世紀以後岡場所としても著名となった。門前仲町をはじめ越中島にも料亭などが軒を並べた。深川芸者は辰巳芸者とも呼ばれ,独特の気風を生みだした。吉原の〈派手〉に対し〈粋〉を身上とし,また〈いなせ〉〈きゃん〉を誇りとする気質は江戸っ子に喜ばれ,洒落本や人情本などにも反映され,江戸文化の一特色ともなった。富岡八幡宮の相撲興行,霊岸寺,永代寺の開帳や富くじなども,盛場としての深川の発展の要素であった。さらに芭蕉庵に代表されるように,文人・学者で深川に居住した者も多かった。
執筆者:吉原 健一郎
北海道中部,石狩平野北部の市。1963年深川,一已(いつちやん),納内(おさむない)の3町と音江村が合体,市制。人口2万3709(2010)。神居古潭(かむいこたん)の峡谷を出た石狩川が西流し,雨竜川が南流する。中心の深川は1890年ころ華族農場の一つであった菊亭農場の事務所が置かれた地で,95年には一已と納内に入植した屯田兵500戸が本格的に開拓を進めた。1916年に大正用水,27年には神竜用水が完成して平野の水田化がさらに進んだ。米のほか小麦,ジャガイモ,リンゴの生産も多い。木材加工業,砂利採取業も立地する。石狩平野北部の交通の要地で,JR函館本線と留萌(るもい)本線の交点にあたる。また道央自動車道が通じ,国道12号,233号線の分岐点でもある。南部の音江山山麓には,環状に石をめぐらした音江遺跡(史),鳩の湯温泉(含重曹食塩泉,6℃),湯の花温泉(炭酸鉄泉,14℃)がある。
執筆者:氷見山 幸夫
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北海道中西部、空知(そらち)地方北部の石狩(いしかり)平野に位置する都市。1963年(昭和38)深川町と一已(いっちゃん)、納内(おさむない)、音江(おとえ)の3村が合併して市制施行。1970年多度志(たどし)町を編入。市名はアイヌ語「メム」(泉地の意)の意訳。付近の川が深いので名づけられたという。石狩川が市域を西流し、旭川(あさひかわ)市との境界付近で神居古潭(かむいこたん)の渓谷をつくっている。JR函館(はこだて)本線、国道12号を軸に、留萌(るもい)本線、留萌への国道233号を分岐し、北部に275号が通じ、道央自動車道深川インターチェンジと深川留萌自動車道深川西インターチェンジもある交通の要衝。石狩川左岸の音江は1889年(明治22)旭川に通ずる上川(かみかわ)道路(現、国道12号)の駅逓(えきてい)開設に始まる地。右岸の深川地区は1893年成立の菊亭農場(きくていのうじょう)の中心であった地で、深川駅開設で市街に成長した。一已、納内は1895年に入植の屯田兵村として開け、多度志は初め一已村に属していた。平野部は水田化が進んで空知第一の米作地となり、畑地ではタマネギなどの野菜、山麓(さんろく)部の音江ではリンゴ、サクランボ栽培が行われるなど、農業を主産業とする都市である。音江環状列石は国指定史跡。面積529.42平方キロメートル、人口2万0039(2020)。
[柏村一郎]
『『深川市史』(1977・深川市)』
東京都江東区(こうとうく)の西部にある町名であるが、広義には江東区の西半分(旧、深川区)をさす。1947年(昭和22)旧深川、城東両区が合併して江東区となった。慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に摂津(せっつ)の人深川八郎右衛門(ふかがわはちろうえもん)が開拓したというが、『寛永(かんえい)江戸図』に村名はない。明暦(めいれき)の大火(1657)後に本所(ほんじょ)とともに計画的に開発されて、周辺の材木置き場(木場(きば))をここに集中移転させて以来発展した。江戸時代には木材の集散地として深川木場が繁栄し、また永代寺、富岡八幡宮(はちまんぐう)の門前町として成長した。埋立ての伸展に伴い岡場所も多くでき、また深川芸者はその方角により辰巳(たつみ)芸者ともよばれた。水運の便に恵まれていたため、明治になって工場地帯として発展し、現在も都内有数の工業地区で、金属工業、重工業、化学工業の工場地帯を形成している。深川木場は夢の島、新木場へ移転し、いまは町名を残すのみになっている。
[菊池万雄]
山口県北西部、長門(ながと)市の中心地区。旧深川町。深川平野の主要部を占め、『和名抄(わみょうしょう)』の深川郷、中世の深川庄(しょう)の地。中心集落は市場町起源の正明市(しょうみょういち)で、長門市役所の所在地。JR山陰本線、美祢(みね)線の長門市駅があり、国道191号、316号が通じる。
[編集部]
寄席(よせ)や花柳界で流行した舞踊音楽。幕末期、江戸の願人坊主(がんにんぼうず)は大坂の住吉(すみよし)踊をまねて、街頭で「かっぽれ」や茶番狂言を演じた。その演目の一つがこの曲である。明治中期に座敷化し、手拭(てぬぐい)を頭に巻き付け、裾(すそ)をはしょって、高座や花柳界で踊られるようになった。明治末期から大正にかけては豊年斎梅坊主(ほうねんさいうめぼうず)(1854―1927)の名が高いが、昭和以降は、どちらかといえば歌だけが愛唱されている。
[倉田喜弘]
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…1721年(享保6)に幕府評定所は〈無宿幷宿なし同然の者〉が集住するようになった地域として,根津権現,護国寺門前,越中島辺,麻布,本所辺の新町をあげ,以後こうした新町の設立を認めないとしたように,拡大しつつあった都市域には,下層民が定着する,いわゆるスプロール現象が進行していったのである。こうした山手の町々が無秩序にスプロール化していったのに対し,寛文~元禄期(1661‐1704)に造成された本所・深川の地域では,整然とした町並みで,武家地と町地が設定されていったが,その町々にも多くの下層民が定着していった。 つぎに江戸の都市的膨張を町数の面からみると,寛永期の古町中心の300町から,1713年(正徳3)には,代官所支配地の町も編入して933町に,ついで45年(延享2)には寺社門前町の町地編入も含めて1678町と増大している。…
…本姓河野氏。上州高崎藩士で江戸深川に住む。1779年(安永8)《美地の蠣殻(かきから)》以後,《通仁枕言葉(つうじんまくらことば)》(1781),《富賀川(ふかがわ)拝見》(1782)など,深川の遊里に強い愛着を持ち,その風俗をうがち,深川女の意気地を描く。…
※「深川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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