平安前期の律令(りつりょう)官人。政治家、文人、学者として名が高い。是善(これよし)の子で母は伴(とも)氏。本名は三、幼名を阿呼(あこ)といい、後世菅公(かんこう)と尊称された。従(じゅ)二位右大臣に至る。
承和(じょうわ)12年6月25日、父祖三代の輝かしい伝統をもつ学者の家に生まれた道真は、幼少より文才に優れ向学心も旺盛(おうせい)で、862年(貞観4)18歳で文章生(もんじょうしょう)となり、870年対策(たいさく)に及第、877年(元慶1)文章博士(はかせ)となった。その間、少内記に任じて多くの詔勅を起草、また民部少輔(しょう)として朝廷の吏務に精勤する一方で、文章の代作や願文の起草など盛んな文章活動を続け、880年父是善の没後は、父祖以来の私塾である菅家廊下(かんけろうか)を主宰、宮廷文人社会の中心となった。886年(仁和2)讃岐守(さぬきのかみ)に転出したが、翌年宇多(うだ)天皇の即位に際して起こった阿衡(あこう)事件には深い関心を寄せ、入京して藤原基経(もとつね)に良識ある意見書を提出、橘広相(たちばなのひろみ)のために弁護した。この事件が権臣の専横を示すとともに、政治に巻き込まれた文人社会の党争に根ざしていただけに心を痛めたのである。890年(寛平2)国司の任期を終えた道真は、藤原氏の専権を抑えて天皇中心の理想政治を実現しようとする宇多天皇の信任を受け、帰京の翌年には蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢(ばってき)され、893年参議、左大弁に登用されて朝政の中枢に携わることになった。たとえば894年遣唐大使に任命されたものの、唐朝の混乱や日本文化の発達などを理由に奈良時代から続いた遣唐使を廃止し、895年渤海使(ぼっかいし)を応接、その翌年には検税使の可否を再評議するべき奏状を奉るなどの事績を残している。その間も官位は昇進を続け、中納言(ちゅうなごん)、民部卿(きょう)、権大納言(ごんだいなごん)、春宮大夫(とうぐうだいぶ)、侍読(じとく)などの任にあたっていた。897年宇多天皇は譲位したが、その遺誡(いかい)により醍醐(だいご)天皇は藤原時平(ときひら)とともに道真を重用、899年(昌泰2)時平の左大臣に対して道真を右大臣に任じた。しかし当時の廷臣には儒家としての家格を超えた道真の栄進をねたむ者も多く、900年には文章博士三善清行(みよしきよゆき)の辞職勧告に接している。また他氏を着々と排斥してきた藤原氏にとって道真は強力な対立者とみなされており、901年(延喜1)従二位に叙してまもなく、政権と学派の争いのなかで時平の中傷によって大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷された。そして大宰府浄妙院(俗称榎寺(えのきでら))で謹慎すること2年、天皇の厚恩を慕い望郷の思いにかられつつ、延喜(えんぎ)3年2月25日配所で没した。福岡県太宰府(だざいふ)市安楽寺に葬られる。
このように政治社会では挫折(ざせつ)したが、学者・文人としての道真は死後学問の神と崇(あが)められてきたように、当時から高く評価されていた。独自の構成をもつ『類聚国史(るいじゅうこくし)』の撰修(せんしゅう)はとくに有名であり、『日本三代実録』の編集にも参加。文学上の業績は「文道の大祖、風月の本主」と尊敬され、その詩文は『菅家文草』『菅家後集』にまとめられている。和歌にも巧みで、配流されるとき詠んだ「東風(こち)吹かば――」の歌は古来人口に膾炙(かいしゃ)した。その晩年が悲惨であっただけに死後の怨霊(おんりょう)に対する怖(おそ)れは強く、まもなく本位本官に復し、993年(正暦4)正一位太政(だいじょう)大臣を贈られるとともに、天満天神(てんまてんじん)として全国的に信仰された。京都北野天満宮(てんまんぐう)は道真を祭神として10世紀なかばに創立されたものである。
[谷口 昭]
その説話は、『大鏡』巻2時平伝や『北野天神縁起』などにみえる。右大臣まで異常な昇進をするが、大宰権帥に左遷され、悲劇の一生を終えたために付加された後人の伝説も多い。死後の霊は天満自在天となり青竜と化して、時平を殺す。彼の霊が雷神として祟(たた)ったり、神と化した話は、当代の御霊(ごりょう)信仰からきたものである。荒(すさ)ぶる神としての性格のほかに、飛梅(とびうめ)や飛松の伝説も各地にある。左遷にあたって「東風(こち)吹かば匂(にほ)ひおこせよ梅の花主(あるじ)なしとて春な忘れそ」と詠んだ自邸の庭の梅の木が、後世に筑紫(つくし)などに飛んでいったとするものである。また左遷の途次の道筋に沿っての地名起源伝説なども、その哀れさをとどめる。雷神が天神として田の神として祀(まつ)られる地方が、東北、北陸など道真と関係のない地域にも残っている。雷雨によって水をもたらす利益が農神としての性格を残したものであろう。そのほか一夜(いちや)天神や渡唐(ととう)天神などの伝説もある。
[渡邊昭五]
『坂本太郎著『菅原道真』(1962・吉川弘文館)』▽『阿部猛著『菅原道真』(教育社歴史新書)』
平安時代中期の学者,政治家。菅原是善(これよし)の三男。菅原氏からは代々有名な学者が出たが,道真も11歳で詩を作り,父を驚かせたという。文章(もんじよう)得業生を経て872年(貞観14)に渤海使の接伴員となり,その詩才を賞された。877年(元慶1)文章博士となったが,886年(仁和2),讃岐守となって赴任した。その任中,宇多天皇と藤原基経との間に阿衡事件(あこうじけん)が起こり,道真は基経に書状を送ってその解決に尽力した。このことによって宇多天皇は,藤原氏をおさえるうえに道真を登用しようと考え,891年(寛平3),基経死去の直後に道真は蔵人頭(くろうどのとう)の重職にばってきされた。以後彼は,基経の子の時平と相ならんで参議・中納言と進み,897年,時平は大納言に,道真は権大納言に任ぜられた。当時大臣は欠員であり,時平・道真は並んで朝政統理の任にあたった。
彼の治績にはとくに目だった点はないが,894年,遣唐大使に任ぜられたとき,行路の危険,唐の戦乱の情勢にかんがみ,遣唐使派遣の中止を申請して許され,以後遣唐使が絶えたことは有名である。宇多天皇は893年,醍醐天皇に譲位のさいも道真1人を相談相手とした。899年(昌泰2),時平は左大臣に,道真は右大臣に任ぜられ,吉備真備(きびのまきび)に次ぐ学界出身の大臣が生まれた。当時として実に破天荒な出世であり,藤原氏や学閥の反感は大きく,901年(延喜1)1月道真は天皇の廃立をはかったかどで,突然大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷された。これは時平らの策動によるものであるが,道真が全然無実であったか否かは,わずかに疑問の点がある。彼は配所に閉居し,翌々年2月に死んだ。
死後,道真のたたりと称する異変が相次いで起こり,923年(延長1)罪を取り消して本官に復し,のち993年(正暦4)には正一位太政大臣を贈られた。その前から民間ではほこらを北野にたて,天満天神としてまつっており,以後,道真は文道の神として異例の尊崇を受けてきている。彼は勅命により892年《類聚国史》を撰し,また《三代実録》の編さんにもあずかった。ほかに《新撰万葉集》,また詩文集の《菅家文草》12巻があり,左遷後の作品を集めた《菅家後集》もある。
執筆者:土田 直鎮 道真の亡霊は御霊(ごりよう)(御霊信仰)となってたたりをすると信じられた。《将門記(しようもんき)》(940)によれば,平将門の乱の際に,八幡大菩薩が将門を新皇にするとの託宣をくだしたが,この八幡の神意をとりついだのが道真の霊だとされている。道真の霊は雷神となって猛威をふるい,その伝承を集成した《北野天神縁起》には,930年清涼殿に落雷して廷臣を殺傷し,醍醐天皇も地獄におちたと伝えている。荒ぶる神としての道真像は,やがて利生(りしよう)の神としての天神像へと変化する。道真は観音の化身と見られ,慈悲・正直の神と信じられ,さらに〈王城鎮護〉の神として仰がれるようにさえなった。また道真がすぐれた学者であったことから,平安時代以来,学問・詩文の神とされ,室町時代に禅僧の間では,遣唐使廃止を建議した道真は,天満天神となって皮肉にも渡唐し,径山(きんざん)の無準(ぶしゆん)のもとに参禅したと考えられた。江戸時代には寺子屋で天神をまつり,書道の神として敬った。《菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゆてならいかがみ)》寺子屋の段からは,そういう事情をうかがうことができる。明治以後,学校教育を中心にして,配所にあって〈恩賜の御衣〉を毎日捧持する道真の姿が,君恩を忘れぬ〈忠臣〉として称賛された。そこには国家をゆるがす荒ぶる神の面影は,ほとんど見られない。〈東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ〉の歌は有名。
→天神信仰
執筆者:桜井 好朗
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845~903.2.25
平安前期の公卿・文人。父は是善(これよし),母は伴氏。正室は島田忠臣(ただおみ)の女宣来子。867年(貞観9)文章得業生(もんじょうとくごうしょう),870年対策(たいさく)に及第し,877年(元慶元)文章博士となる。渤海使裴頲(はいてい)接待のため加賀権守兼治部大輔に任じられ,894年(寛平6)には遣唐使中止を建言。886年(仁和2)讃岐守として赴任,阿衡(あこう)の紛議以降,宇多天皇の知遇を得て,893年参議,899年(昌泰2)には右大臣に昇った。901年(延喜元)従二位となったが,藤原氏の讒言により突如大宰権帥(ごんのそち)に左遷されて,失意のうちに当地で没した。死後,怨霊として恐れられ,天神として祭られる。993年(正暦4)贈正一位・太政大臣。漢詩文集に「菅家文草」「菅家後集」など。「三代実録」の編纂事業に参加,宇多天皇の命で「類聚国史」を編述した。
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…平安時代中期の学者,政治家。菅原是善(これよし)の三男。菅原氏からは代々有名な学者が出たが,道真も11歳で詩を作り,父を驚かせたという。文章(もんじよう)得業生を経て872年(貞観14)に渤海使の接伴員となり,その詩才を賞された。877年(元慶1)文章博士となったが,886年(仁和2),讃岐守となって赴任した。その任中,宇多天皇と藤原基経との間に阿衡事件(あこうじけん)が起こり,道真は基経に書状を送ってその解決に尽力した。…
…これをその家の人は落雷と思いこんで,雷公は馬に乗り陣笠のようなものをかぶり,落ちてしばらくしてから馬を引き返し,雲の中に沓音がしたが,だんだんそれが遠くなっていったと伝えたものである。菅原道真にまつわる伝説も雷とは大いに関係がある。《菅原伝授手習鑑》の〈天拝山の場〉では,菅公が無実の罪をうらんで天に祈り,やがて公の霊が雷となって京都に落ち,都の人々をふるえあがらせることになっている。…
…菅原道真の漢詩集。1巻。…
…菅原道真の漢詩文集。12巻。…
…京都市上京区馬喰町に鎮座。祭神は菅原道真,相殿には中将殿(道真の長子,高視),吉祥女(道真の北の方)をまつる。道真は903年(延喜3)に大宰府で没し,905年に味酒安行が神託によって墓地に神殿を造立した。…
…私撰集。菅原道真撰か。上・下2巻。…
…福岡県太宰府市に鎮座する菅原道真をまつる神社で,天満天神,菅公霊廟ともいう。903年(延喜3),道真が謫居(たつきよ)の地大宰府の南館(現在の榎社のあたり)で没すると,侍臣味酒安行は遺骸を当地に葬り,905年には祠廟を建立した。…
…その場合,物の怪も主として病気,難産,死,災異などの原因とされ,それを退散させ駆除するために僧による加持祈禱が行われた。そしてこれらのさまざまな祟り現象の頂点を示す事例が,菅原道真(すがわらのみちざね)の怨霊による怪異な事件であった。清涼殿への落雷から醍醐天皇の死にいたる一連の社会的・個人的な異変が,大宰府で憤死した道真の怨霊によるとされたのである。…
…9世紀後半の元慶年間(877‐885)には京都の北野で穀物がよくみのるよう雷公をまつって祈った。10世紀になって菅原道真の御霊(ごりよう)(怨霊)が北野の地にまつられてから,北野天神への信仰が天神信仰を代表するかのようにさかんになったが,北野天神も雷や牛と結びつけられている。天【桜井 好朗】 室町時代以降,菅原道真を文筆・学問の神とする天神信仰がたかまると,詩文にたずさわる五山の禅僧の間には〈渡唐天神〉の伝承が成立した。…
…菅原道真をまつる神社。〈てんまぐう〉ともいい,俗に〈天神さん〉とよばれる場合が多い。…
…土師寺ともいう。そののち土師氏の一族菅原氏も氏寺として崇信し,菅原道真の伯母覚寿尼が入寺した。道真が大宰府に左遷されるとき当寺を訪れたという故事は,江戸時代に《菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゆてならいかがみ)》の舞台となって歌舞伎や浄瑠璃でよく演じられ,当寺は一躍有名となった。…
…896年(寛平8)に大学寮で講書始めが行われ,翌々年11月に元服し,ついで三品兵部卿となり,上総太守も歴任した。901年(延喜1)菅原道真が親王を皇位につけようとしたとの理由で左遷されるに及んで仁和寺に入り,真寂と名を改めた。真寂法親王といわれ,欣求修行につとめ,灌頂は前後7回に及んだという。…
…聖徳太子の夢殿,大宝令の規定に見える中務(なかつかさ)省の図書(ずしよ)寮,東大寺など大寺に付設された経蔵,さらには吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)など知識人の私的な文庫も広義の図書館と考えることができるが,一般には石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が奈良の地において,私邸に阿閦(あしゆく)寺を建立し,その境内に芸亭(うんてい)と称する書斎を設け公開したものが日本における公開図書館の発祥とされる(8世紀後半)。また,菅原道真はその書斎文庫の紅梅殿(こうばいどの)を他人にも公開したといわれる。彼はまた《類聚(るいじゆう)国史》を撰しているが,これは,そのときまでに出た六国史それぞれの中から事項別に原文を抜粋し編集したもので,カード(短札)方式による知識情報の処理の最初の例ともいえる。…
…《骨董集》(1815)は〈古画を見るに,髭なき男子はまれなり。昔は髯うすき者は仮髯(つくりひげ)をさへしたりと聞ける〉と述べ,昔から関東では成人男子を髭男(ひげおとこ)とほめたので諸侍は髭を願い,ほお髭は鍾馗(しようき)髭として好まれたが,あご髭は天神髭(菅原道真の肖像画のような二峰の鬚)としてあまり好かれなかったという《見聞軍抄(けんもんぐんしよう)》(1614)の言を引用している。能面にもひげのあるのが少なくない。…
…古代社会によく見られた政治的争いに敗れた貴族が,死後怨念をたたりとして発現させ,そのたたりを鎮めるために神にまつったという事例がある。たとえば菅原道真の御霊が雷と化し,落雷して藤原氏にたたりをなしたことは有名で,後に道真の霊は天神にまつられるに至っている。古代社会では天変地異や悪疫流行の原因が御霊であるとみなされ,御霊を鎮めて和霊にした後,神殿の中にまつりこめ,代々崇敬するという経過をたどっている。…
…890年(寛平2)従三位,891年父が没するが参議,892年権中納言,897年6月大納言,左大将,氏長者となる。同時に宇多天皇に抜擢された菅原道真も権大納言,右大将となり,同年7月天皇は醍醐天皇に譲位,二人に新帝幼少の間政務を委任した。899年(昌泰2)左大臣,道真は右大臣となるが,宇多院の信任は道真の方が厚かった。…
…また小野篁(たかむら)《奉右大臣書》(巻七)は後世に残るプロポーズの模範文である。三善清行《奉菅右相府書》(巻七)は菅原道真に送った異例の辞職勧告書。巻八~巻十一は序を収める。…
※「菅原道真」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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