弥生土器(読み)ヤヨイドキ

デジタル大辞泉 「弥生土器」の意味・読み・例文・類語

やよい‐どき〔やよひ‐〕【弥生土器】

弥生文化の土器。東京都の弥生町貝塚で発見された土器が機縁となって命名。セ氏600~800度程度で焼成した赤焼き軟質土器で、貯蔵用の壺、深鍋としてのかめ、盛りつけ用の鉢・高坏たかつきなどがある。西日本のものは簡素な装飾をもち、東日本では縄文や曲線文様を複雑に飾る。弥生式土器

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精選版 日本国語大辞典 「弥生土器」の意味・読み・例文・類語

やよい‐どきやよひ‥【彌生土器】

  1. 〘 名詞 〙 彌生時代の土器。明治一七年(一八八四)東京都文京区の旧地名、向ケ岡彌生町で発見された壺形土器とその同型式のものについて仮称された「彌生町式土器」に始まる。壺・甕(かめ)・高坏(たかつき)・鉢の四器形が基本となり、篦(へら)描きの沈線文、二枚貝の腹縁圧痕文、櫛描文などの文様を付し、赤褐色で薄手のものが多い。

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改訂新版 世界大百科事典 「弥生土器」の意味・わかりやすい解説

弥生土器 (やよいどき)

弥生文化に用いられた軟質,赤焼きの土器。縄文土器に後続し,古墳時代土師器(はじき)に先行する。1884年に東京本郷の弥生町向ヶ丘貝塚弥生町遺跡)で採集された土器がもとになって,90年代から〈弥生式土器〉の名称が生まれた。最近では,細別するときに加曾利B式,遠賀(おんが)川式など〈式〉をつけるほうが明快だという考えから,総称としては〈式〉を抜いて〈縄文土器〉〈弥生土器〉の名が使われる。なお近年までは,冒頭に掲げた定義とまったく逆に,〈弥生式土器〉の行われた文化・時代を弥生文化,弥生時代と呼んできた。現在もそう説明する研究者,書物は多い。しかし,土器のほうから文化を規定する定義は,実際の運用上,いまや形骸化している。弥生土器が行われたのは,弥生文化の領域,すなわち南は九州地方から北は東北地方までである。その南と北では沖縄先史時代後期土器と続縄文土器が行われた。ただし最近では,沖縄本島を弥生文化の領域に含める可能性も論じられている。

特定の形,容量,装飾をそなえた器を器種と呼ぶとき,弥生土器を構成するおもな器種に(かめ),高杯(たかつき)があげられる。ただしそのいずれにも,形,大きさ,装飾によってそれぞれ2~10以上の器種が区別できることも多い。ほかに台を独立して作った器台(きだい)がある。壺は胴が丸く,頸(くび)がすぼまり,口が大きく外反する形状を典型とする。弥生土器で甕と呼ぶのは,釣鐘を逆さにしたような形状の,丈が高く広口の器であって,縄文土器の研究では深鉢(ふかばち)と呼ぶものに相当する。高杯はコンポート(脚付きのフルーツ皿)に似た形状。ただし台付鉢との区別は必ずしも厳密なものではない。台付壺,台付甕もあり,壺や甕には別作りの蓋をそなえるものもある。

 壺の主用途は貯蔵にあり,実際に米,モモ(種子),貝などの食物が入って見いだされたり,貝製の腕輪を収納したまま出土した実例もある。貯蔵用の穴ぐら(貯蔵穴)に壺がたくさん入っていることもあり,籾や米を蓄えたことも疑えない。とはいえ気候湿潤な日本では,米に限らず食物を容器のなかに貯蔵すると,変質したり虫がついたりするから,長期にわたる貯蔵には不向きである。日本やフィリピンの民族例をみても,土器・陶器は水,酒,油,漬物等々,水ものの蓄えに用いることに力点がおかれている。弥生土器の壺も水もの貯蔵にも用いたに違いない。なお弥生土器の壺には,籠状に編み包んで水などの運搬に用いたとみられるもの,紐通しの孔をあけた井戸の水汲み用のもの,食事の際に水や酒の容器とした細頸壺(ほそくびつぼ),そして明らかに煮炊き専用のものも含まれている。

 甕は,大きさ,容量によって用途が異なる。容量2~7l程度の小型・中型品が煮炊きに使われた。これらは火熱を受け,煤(すす)に覆われていることによって明らかである。内部に飯がこげついて残っていることも多く,米を直接煮て食べる調理法が一般的であったことを証明している。底部に孔をあけた甕や鉢があり,これをこしき)つまり蒸器と考え,米を蒸して食べたとする説が普及している。しかし,この考えは確実性に乏しい。大型の甕は火にかけた痕跡をとどめておらず,水を蓄えたと考えるのにふさわしい。

 鉢,高杯は,食物を盛りつけるための器である。《魏志倭人伝》によると,3世紀の倭人は高杯(籩豆(へんとう))を用い,手づかみで食べたという。当時の鉢,高杯は量が多く,食事の際にめいめいが器をもった可能性もある(食器)。このほか特殊な土器として,製塩に用いた鉢状の器〈製塩土器〉がある。製塩土器については〈〉の項目の[古代の土器製塩]を参照されたい。

 日常の生活に用いる土器は,しばしば転用され,墓に供えられたり,幼児を葬る棺や再葬の納骨容器(再葬墓)としても使われている。本来,埋葬や祭儀用に作った土器もある。代表的なものは,北部九州の甕棺(かめかん)で,高さ1mに達する特大の甕を棺として用いている。また甕棺墓地でまとまって見いだされる壺,甕,高杯,鉢,そして壺をのせる高い器台は,ていねいな作りで赤く塗ってあり,使用の痕跡をとどめておらず,明らかに墓地で営まれる祭りのため特別に作り,使ったものである。岡山県を中心とする地域においては,弥生時代末の墳丘墓に大型の壺,器台を立て並べてあり,特殊壺,特殊器台と呼ばれている。後者が古墳時代の円筒埴輪の祖形になったことは確実視されている。縄文土器が,深鉢(6~7割),鉢(2~3割)を主要器種とし,土瓶や壺その他さまざまな形の器種は残る1割程度を占めるにすぎないのに対して,弥生土器では壺が全体の5割前後と,きわめて目だつ存在となっている。弥生時代中ごろに高杯が主要な器種となり,それ以来,壺,鉢にも台をつけるものが増え,そして台を独立させた器台が登場する。ただし東日本においては,高杯,器台は弥生土器の主要器種をなさないことが多く,むしろ土師器の器種として普及している。これらは農耕祭祀の発達と階級社会への歩みの反映とみてもよい。

弥生土器の研究では,壺,甕,鉢,高杯の各器種からなる組合せ一式(セット)を〈土器様式〉としてとらえており,年代変遷や地方差を扱う際の単位としている。これは縄文土器の研究で〈土器型式〉と呼ぶものに相当している。なお縄文土器の研究では,大きな共通性をもつ複数の土器型式をひとまとめとして〈様式〉と呼ぶ者もいる。弥生土器の様式の変遷を地方ごとに調べる作業,すなわち編年的研究の大枠はほぼ完成している。どの地方の土器様式も5~7程度で,縄文土器の型式の数が一地方で数十に達するのに比べて少ないのは,当然ながら弥生文化の時代の全期間が短いからである。弥生文化を区分するときには,土器様式を大別して前期,中期,後期の3期に分ける。しかしこの区分法は,地方によりまた研究者によって一致せず,他地方間の土器,文化,社会を比較するにあたっては特に注意が必要である。北部九州の第Ⅰ~Ⅴ様式土器の時期が,畿内の第Ⅰ~Ⅴ様式土器に,それぞれほぼ対応する事実から,時期名としても仮にⅠ~Ⅴ期と呼べば,全国的に時期の対応を等しく扱うことができる。

 Ⅰ期(前期)の弥生土器は,福岡県遠賀川の川床の遺跡(遠賀郡水巻町立屋敷遺跡)から採集された土器に基づいて〈遠賀川式土器〉と総称されている。先がとがった工具で引いた線による文様(篦描(へらがき)文),貝殻の縁を使った単純な線文様や綾杉文,木の葉文などを飾る。現在では遠賀川式土器はさらに細別され,福岡市板付遺跡環濠集落に伴う〈板付式土器〉が最古のものとして扱われている。ただしこれを最古の弥生土器と認めるかどうかは問題であって,従来,晩期縄文土器として扱われてきた板付式に先行する土器を,最古の弥生土器と認める考えが強まってきている。遠賀川式土器は,太平洋岸では名古屋付近,日本海岸では京都府丹後半島まで在地の土器として存在し,これらより東では,青森県に及ぶ各地で運ばれた土器として見いだされている。今後の研究の進展状況によっては,東北地方においても前期から弥生時代が始まることが認められるようになるかもしれない。

 Ⅱ~Ⅳ期(中期)の弥生土器は地方差が明瞭である。九州地方では輪郭の曲線の美しさと磨いた肌の美しさとを追求し,文様をほとんど捨て去った須玖(すぐ)式土器が代表をなす。中国・四国地方から愛知県・石川県に及ぶ範囲では,先端が3本以上に分かれた工具で引いた線(櫛描(くしがき)文)で飾った櫛描文土器が発達し,これ以東の地方および九州地方にも影響を与えた。土器製作と文様を描くのに,一種の回転台が利用されたと考えられている。中期後半には櫛描文は衰退し,回転台上で横方向になでる際の起伏を文様化した凹線文が発達する。東日本では,各種の曲線文様や縄文を用いた土器が発達している。

 後期の弥生土器は全国的に装飾をしだいに失い,また作りが粗略化する方向をとる。この動きは西日本に早く,東日本では遅く,土師器に至って実現している。仕上げもみごとで美しく飾った土器が,粗略な作りとなり文様も失うのは,一見,技術的退化ともみえ,確かに美術史的見地からすると後退しているといえる。しかしこれは,時間と労力とをかけての土器作りが意味をもたない時代の到来を示している。例えば弥生時代終りころの畿内の土器と名古屋地方の土器とを比べると,後者は美しく前者をはるかにしのいでいる。しかし社会の発達は畿内が先に進み,名古屋は後れていたのである。また一般実用の〈使う土器〉が消耗品として粗略に仕上げられた反面,台頭する有力者の祭りや墓にかかわる〈見せる土器〉はていねいに美しく作る傾向があり,弥生土器から土師器への推移に,古墳時代における支配者にかかわる技術と一般庶民の技術との分裂の徴候をかいまみることができる。なお奈良県唐古遺跡を中心とする近畿地方では,Ⅳ期(中期末)に鹿,高床建物,人物などを土器に描くことが始まり,九州,関東に及んだ。Ⅴ期(後期)に入ると絵画よりも記号風の表現が多くなるが,竜を描いたものも数例あり,水を呼ぶ想像上の動物としての竜の知識が伝わっていたこともわかる。

教科書や概説書などでは,縄文土器と弥生土器が明瞭に識別できるかのように記しているものが多い。しかし,そう簡単ではない。弥生土器は,かつて〈ろくろ〉を利用して作ったものと解釈されていた。しかし1950年代以来否定説が強まり,現在はそれが定説となった。弥生土器を焼成した窯(かま)についても報告例があるが,構造の整ったものはない。弥生土器程度の土器が,窯なしで焼成できることは世界の民族例が示している。弥生土器の焼成温度は600~800℃程度で,酸素を十分供給した状況(酸化炎)で焼き上げてある。この項の冒頭,弥生土器を軟質赤焼き土器として定義づけたが,軟質赤焼き土器とは,ろくろ,窯を用いず,1000℃未満の酸化炎で焼成した土器をいい,こうした基本的な窯業技術は,縄文土器,弥生土器,土師器に共通のものである。3者を土器そのもので識別することが必ずしも容易でないのは当然である。弥生文化の定義を優先し,その文化の土器を弥生土器ととらえる論理的根拠はここにある。日本列島における一系の軟質赤焼き土器のうち,古いものが縄文土器,中ごろのものが弥生土器,新しいものが土師器と呼ばれている。

 弥生土器が縄文土器と異なっている技術的特徴は,鉄器時代の土器にふさわしく,鉄斧で割った板の木目を利用して器面をなでて刷毛目(はけめ)と呼ぶ文様を施し,また鉄の刃で刻んだ櫛描文を描き,溝を彫った叩き板で叩き目をつけ,鉄のナイフで彫った文様を押しつける(スタンプ文)など,土器作りにかかわる木の工具に鉄の利用が目だつことがあげられる。世界の民族例に照らすと,ろくろ登場前の土器作りは女の仕事であることが多いが,土器そのものの観察から,作り手が男女いずれであったかを判定することは至難のわざである。しかし,大阪府南部和泉地方の櫛描文土器には,女が作ったといえるものがある。同地方の櫛描文土器は,外面の櫛描文様に対応して,櫛描文が6帯ならば内面に指による細線状の痕跡が6帯残っており,右手で文様を描くとき左手を土器の内側にあてて工具の動きを受けたことがわかる。ところがこの痕跡は,頸が細く女の手ならば入るが,乾燥・焼成による2割の縮みを考慮に入れても,男の手の入らないものにまで認められる。

現在,最古の弥生土器のとらえ方には,二つの考えが対立している。第1は弥生文化の土器が弥生土器とみる立場から,現段階で最古とみられる水田が営まれた時期の土器(佐賀県唐津市菜畑(なばたけ),福岡県糸島市の旧二丈町曲り田,福岡市板付下層)を最古の弥生土器とみる考えである。これらの土器では壺の占める割合が大きく,その点でも弥生土器の名にふさわしい。第2の考えは,これを縄文土器として扱い,板付遺跡の環濠を伴う集落遺跡の時期の土器を最古の弥生土器とする。いずれにせよ弥生土器の技術,器種,装飾の多くは,縄文土器からの伝統を受け継ぐものといえる。特に,米を調理するというまったく新しい食生活が始まったにもかかわらず,その煮炊きには新しい形の器種を採らず,縄文土器の深鉢の系譜を引く甕を用いているのはおもしろい。一方,縄文土器から受け継がなかったものもある。縄文土器を特色づける波状の突起をもつ口は,弥生土器にはほとんどみられない。それは縄文土器の呪術とかかわる煮炊きが終りを告げたことを意味する。また弥生土器の成立にあたって,朝鮮半島の無文土器からの影響を認める人もある。朝鮮の土器が,北部九州など西日本で盛んに見いだされはじめており,近い将来この点についても明らかにされることが期待できる。

弥生土器は稲作農民の土器であるから,世界各地の新石器時代農耕民の土器と比較して共通するところも多い。数多くの器種からなり,農耕祭祀とかかわる高杯,器台をそなえるなどである。しかしユーラシアの新石器時代農民の土器が,器種によって粘土の精粗を区別したのに対して,弥生土器ではその使い分けは明らかでなく,また,西アジア,中国の新石器時代農民の土器を特色づけた彩文土器は,弥生土器には登場しなかった。ただし,中国華北で焼成前に彩文を描いた硬質赤焼き土器が,中国東北地方では焼成後に彩文を描いた硬質黒陶に変じている。西日本の古い弥生文化では,軟質赤焼き土器を焼成後にいったん黒く塗って下地とし,この上に赤色で文様を描いている。これは大陸の彩文土器の系統に属するといえるかもしれない。
土器 →弥生文化
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百科事典マイペディア 「弥生土器」の意味・わかりやすい解説

弥生土器【やよいどき】

縄文(じょうもん)土器に続いて出現した日本古代の土器。1884年東京本郷の弥生町貝塚で発見されたのを機に,出土地にちなんで命名。縄文土器に比べ,淡褐色の明るい色のものが多く,形や文様は簡素で優美である。首の細い壺,広口の甕(かめ),鉢,高坏(たかつき)などが特徴的器形で,成形には,輪状にした粘土帯を積み上げる輪積法がおもに用いられ,轆轤(ろくろ)の使用はみられない。文様の種類には,へら描きの沈線文,櫛(くし)の歯状の器具を用いた櫛目文,貝殻文,縄目文などがあり,縄目文は縄文文化の伝統が濃く残る東日本に特に多い。
→関連項目綾羅木郷遺跡安国寺集落遺跡瓜郷遺跡森本六爾弥生時代

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「弥生土器」の解説

弥生土器
やよいどき

弥生時代に用いられた土器の総称。東北地方から九州南部に至る範囲に分布。1884年(明治17)有坂鉊蔵によって,それまで知られていた縄文土器とは異なる1個の壺が東京都弥生町遺跡から発見され,その後,各地でも発見されるようになり,発見地の名称をとって弥生式土器と命名。土器の種類は貯蔵用の壺形土器と煮沸用の甕形(かめがた)土器,供献用の高坏(たかつき)形土器が主である。他に時期・地域によっては器台形土器・水差形土器・手焙形土器など特殊なものもある。九州北部では大型の甕が作られ甕棺として用いられる。製作は粘土紐を積み上げて成形し,篦(へら)や刷毛(はけ)状器具で器面を整え,文様をつけ,乾燥させてから800℃前後の酸化焔で焼成。基本的には縄文土器の製法と同じ。各地で地域色豊かな型式があり,細かく分類・編年されている。一般に前期・中期・後期の3時期にわける。近畿では弥生時代を通して第Ⅰ~第Ⅴ様式に編年され,それを基軸に全国的な土器編年の整合が図られている。前期は九州北部に成立した遠賀川(おんががわ)式土器が近畿・伊勢湾地方にまで分布し,一部は東北地方を含む東日本でも発見される。この時期から中期にかけて東日本ではまだ縄文土器の伝統を残す土器群が普及。中期には各地で地域性が顕著になり,九州では甕棺の全盛期を迎える。後期には全国的に無文化が進行し,古墳時代の土師器(はじき)にひきつがれていく。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「弥生土器」の意味・わかりやすい解説

弥生土器
やよいどき

縄文土器のあとに続き,古墳時代土師器 (はじき) や須恵器より古い土器。弥生時代を通じて製作,使用された。現在の東京都文京区弥生から発見された壺形土器にちなんで名づけられた。当初は「弥生式土器」と呼ばれたが,総括的名称である縄文土器にならって弥生土器と呼ばれるようになった。一般的に,壺形,甕形,高坏など,用途によって異なる器形をもち,胎土は精選されていない。前期,中期,後期に3大別され,さらに細別されている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「弥生土器」の意味・わかりやすい解説

弥生土器
やよいどき

弥生文化の土器。東京都文京区弥生町の向ヶ丘貝塚から採集された土器が機縁となって命名された。

[編集部]

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旺文社日本史事典 三訂版 「弥生土器」の解説

弥生土器
やよいどき

弥生時代に使用された素焼きの土器
1884年東京の本郷弥生町ではじめて発見されたのでこう命名された。貯蔵用の壺や煮炊き用の甕 (かめ) ,食物を盛る高坏と鉢などが多い。縄文土器よりはやや高温で焼かれ,うす手で紅褐色に酸化したものが多い。文様は幾何学文様か無文様。

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防府市歴史用語集 「弥生土器」の解説

弥生土器

 縄文土器と同じ素焼きの土器で、東京の弥生町[やよいちょう]遺跡から見つかったことにちなんで、この名前になりました。貯蔵用の壺[つぼ]・煮るための甕[かめ]・盛りつけ用の高杯[たかつき]が主な器種です。北部九州では大きな甕をお墓として使っています。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

世界大百科事典(旧版)内の弥生土器の言及

【陶磁器】より

…なお東南アジアの陶磁については,〈タイ陶磁器〉〈ベトナム陶磁器〉の項を参照されたい。
【日本】

[縄文土器と弥生土器]
 日本最古のやきものは縄文土器であり,その発生はいまから1万2000年前にさかのぼる。その後,前3世紀の弥生時代に移るまで1万年近い歴史をもっている。…

【弥生文化】より


[弥生文化の定義をめぐって]
 冒頭に掲げた定義は,今日の学界に共通のものではない。学史を振り返ると,19世紀末に〈弥生式土器〉が認識されて縄文土器と識別されるようになり,しだいに両者の前後関係,弥生土器と金属器・米との関係が判明して,縄文土器を用いた文化・時代を縄文文化・縄文時代,弥生土器を用いた文化・時代を弥生文化・弥生時代と呼ぶことになった。しかし,土器の研究が詳細に行われるに従って,土器のうえで縄文土器・弥生土器を識別することが必ずしも容易でないことになった。…

※「弥生土器」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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