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スリランカ スリランカ Sri Lanka

翻訳|Sri Lanka

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

スリランカ
スリランカ
Sri Lanka

正式名称 スリランカ民主社会主義共和国 Sri Lankā Prajathanthrika Samajavadi Janarajaya。面積 6万5610km2。人口 2104万5000(2011推計)。

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デジタル大辞泉の解説

スリ‐ランカ(Sri Lanka)

インド半島南東、インド洋にあるセイロン島を占める民主社会主義共和国。首都スリ‐ジャヤワル‐ダナプラ‐コッテ。茶・ゴム・宝石などを産する。仏教徒が多い。1948年英国から自治領セイロンとして独立、1972年スリランカ共和国に改称し、英連邦加盟国となり、1978年から現国名。人口2151万(2010)。

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百科事典マイペディアの解説

スリランカ

◎正式名称−スリランカ民主社会主義共和国Democratic Socialist Republic of Sri Lanka。◎面積−6万5610km2
→関連項目ポロンナルワ南アジア

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世界大百科事典 第2版の解説

スリランカ【Sri Lanka】

正式名称=スリランカ民主社会主義共和国The Democratic Socialist Republic of Sri Lanka面積=6万5610km2人口(1996)=1831万人首都=スリ・ジャヤワルダナプラ・コーッテSri Jayawardanepura Kotte(日本との時差=-3.5時間)主要言語=シンハラ語タミル語通貨=スリランカ・ルピーSri Lanka Rupeeインド亜大陸の南東端の海上に位置する,セイヨウナシの形をした島国である。

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大辞林 第三版の解説

スリランカ【Sri Lanka】

インド半島の南方、セイロン島を領土とする民主社会主義共和国。1948年イギリスから独立。旧称セイロン。茶・ゴム・宝石を産出。南方仏教の中心地。住民は仏教徒のシンハラ人が4分の3を占め、他にヒンズー教徒のタミル人(同国の北部に居住)がいる。主要言語はシンハラ語・タミル語・英語。首都はスリジャヤワルダナプラコッテ。面積6万6千平方キロメートル。人口2070万( 2005)。正称、スリランカ民主社会主義共和国。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

スリランカ
すりらんか
Sri Lanka

インド半島南東のインド洋にあるセイロン島からなる国。正式名称はスリランカ民主社会主義共和国Sri Lanka Prajatantrika Samajavadi Janarajaya。英語ではDemocratic Socialist Republic of Sri Lanka。旧称はセイロンCeylon。面積6万5610平方キロメートル、人口1879万7000(2001センサス)、1988万6000(2006年央推計)。首都は、1985年コロンボから郊外のスリ・ジャヤワルダナプラ・コッテSri Jayawardanapura Kotteへ遷都した。[吉野正敏]

自然

セイロン島は南北に細長いセイヨウナシの形をなし、中央やや南寄りに山地があり、周辺に向かって低くなり、山麓(さんろく)から海岸低地に至る。山地は最高峰のビドルタラガラ山(2518メートル)やアダムズ・ピーク山(2243メートル)など、2000メートル級もあるが、ほとんどは1500~2000メートルの峰で、唯一の大河川であるマハベリ川(全長330キロメートル)がここを源とする。海岸線は単調で、砂州やラグーンもよく発達している。インド半島とは砂州や浅瀬の続くアダムズ・ブリッジでつながり、北西部とインド半島の間には広い大陸棚上にサンゴ礁が発達する。
 気候は熱帯海洋性で、島の南西部はウェット・ゾーンとよばれ、最多雨域では年降水量は4000~5000ミリメートルに達する。残りの約4分の3はドライ・ゾーンとよばれ比較的乾燥し、年降水量は1000~1200ミリメートルである。ウェット・ゾーンに位置するコロンボの年平均気温は27.5℃で年較差は小さい。年降水量は2312.9ミリメートルである。中央山地の町ヌワラ・エリヤは標高1881メートルで、年平均気温は15.5℃、避暑地であり、冷涼な気候を利用して近年は野菜の栽培が盛んである。5月から9月までは西ないし南西の季節風による雨が、風上側の斜面となるウェット・ゾーンで多い。この期間をヤラ季とよぶ。それに対し12月から2月までを中心とした期間は北東の季節風が卓越し、全島で雨が降る。この期間をマハ季とよぶ。これらの期間の雨は米の生産にはとくに重要であり、また、電力や上水道の水資源として重大な価値をもっている。ドライ・ゾーンでは、タンクとよぶ貯水池、いわゆる「溜池(ためいけ)」を古くからつくってマハ季における不安定な雨量に対処してきた。北部の雨の少ない地域は人口密度も1平方キロメートル当り100人以下で、サバンナ気候を呈する。また、最北部のジャフナ半島や南部のハンバントータ付近は、風が強く雨が少なく、ごく海岸線に近い地域では一部砂漠気候に似た乾燥気候を示す。マハ季とヤラ季の間は両季節風が入れ替わる時期で、局地的な雷雨が多く雨量は不定である。しかし、作物の種播(たねま)き、成長にとって雨は重要であり、この期間に雨がなく、続く季節風の雨がまた不順であると、ひどい干魃(かんばつ)となる。[吉野正敏]

歴史

紀元前543年に北インドからビジャヤ王子がシンハラを引き連れて渡来し、先住民ベッダを征服して初めて王朝を築いた。この王朝は前3世紀に仏教に帰依(きえ)して、北部スリランカを中心に栄え、首都アヌラダプーラは仏教の中心地として隆盛を極めた。また、南東部にも別の王朝が建設された。シンハラはドライ・ゾーンをその後も約1000年の間支配し、南インドのタミルと文化的にも人種的にも交流が盛んであった。シンハラの王は、后(きさき)をタミルから求めることが慣習であったほどである。11世紀には南インドのタミルがスリランカに侵攻し、首都アヌラダプーラが占領され、シンハラは南部に追われた。しかし、シンハラは1070年にはタミルを破って首都をポロンナルワに移し、パラクラマバフ1世(在位1153~86)の治政下に「シンハラ文化の黄金時代」を築いた。13世紀にはふたたびタミルに征服され、シンハラは多くの小国に分裂し、15世紀には北部はジャフナ王国、西部はコーッテー王国、東部はウダラタ王国が支配した。
 紀元前から紀元後にかけた古代の集落は、北部の比較的乾燥した地域と低地の谷の中に限られていた。乾燥した地域では、前述のようにタンクとよばれる貯水池および灌漑(かんがい)施設の高度な建設技術が発達していた。全土におびただしい数の小さいタンクが建設され、アヌラダプーラやポロンナルワなどがその好例である。そのあるものは今日でも使用されているほどである。また、「シンハラ文化の黄金時代」がなぜ衰退したかについては諸説がある。すなわち、タミルによるたび重なる侵攻による政体の弱化、国力の衰退によって灌漑施設の新しい建設や保守修理が十分にできなくなったこと、干魃(かんばつ)などによる食糧の不足、マラリアによる人口減などである。また、今日の知識では、南西部のウェット・ゾーンのほうが雨も多く、農業生産には適しているように思われるが、なぜ比較的乾燥しているドライ・ゾーンに古代国家が定着したかの問題もある。その一はおそらく、その当時の農業技術はインドからもたらされたもので、それは乾燥地域の灌漑による農耕の技術であったこと、その二は、南西部の熱帯森林の湿潤地域は居住するのにはあまりにも交通、衛生などの点で不適であったことが理由ではなかろうか。
 西海岸には7世紀以後イスラム教徒が貿易を行っていた。1505年にはポルトガル人が来訪し、1510年にコロンボを建設、イスラム教徒を追放し、カトリック教などヨーロッパ文化をもたらした。その後、17世紀にはオランダ人が来訪して1656年コロンボはその手に落ちた。シンハラは中央山地にキャンディ王国を築いて引きこもった。さらに19世紀初めにはイギリスによる植民地化が始まった。イギリスはキャンディ王国の内紛に乗じて1815年にこれを征服し、約2300年続いたシンハラ王朝が滅亡した。セイロン全島がイギリスの植民地となり、1820年代から山地を開墾してコーヒー園を開いた。南インドからはタミルを労働者として移住させプランテーション農業を開始した。1880年にコーヒーが病害を受けたので茶(紅茶)の栽培に変更した。20世紀になって、ゴムやココヤシのプランテーション農業を開始し成功した。
 19世紀後半以後、インドの独立運動やイギリス帝国内部の自治制の発展などの影響のもとに、民族意識が台頭し始め、1931年の新憲法では、普通選挙による国民議会が設立された。
 さらに第二次世界大戦後、完全自治の声が高まり、1946年の自治憲法施行を経て、1948年2月、イギリス連邦内の自治領セイロンとして独立した。1956年4月にはバンダラナイケ内閣が成立、社会主義的中立政策を進めた。1959年9月バンダラナイケ首相が暗殺され、1960年3月統一国民党のセナナヤケ内閣が成立、同年7月、総選挙で自由党が勝ち、バンダラナイケ夫人が女性では世界最初の首相となった。1972年5月、新憲法を制定、国名をセイロンからスリランカ共和国と改め、イギリス連邦自治領からイギリス連邦加盟の完全独立国となった。1977年5月の総選挙でバンダラナイケ政権は敗退、かわったジャヤワルデネ首相は議院内閣制から大統領制に移行し、1978年2月初代大統領に就任した。同年9月新しく民主社会主義憲法を公布し、現在のスリランカ民主社会主義共和国を国名とした。1982年10月ジャヤワルデネ大統領は任期満了を待たずに大統領選を実施し大勝した。[吉野正敏]

政治

政体はイギリス連邦加盟の共和国。元首は大統領で任期は6年、3選は禁止。国会は一院制で議席数225、比例代表制の直接選挙で選ばれ任期は6年である。主要政党は統一国民党(UNP)、スリランカ自由党(SLFP)、人民解放戦線(JVP)、タミル国民連合(TNA)、国民遺産党(JHU)などがある。
 1983年以降、シンハラとタミルの対立が激化している。1983年7月、ジャフナで政府軍兵士をタミル過激派が攻撃し13人が死亡したのをきっかけに、人種対立で約400人が死亡した。また、1984~1985年にも数回にわたって人種暴動が起こっている。ジャヤワルデネ大統領はタミル統一解放戦線(タミル国民連合の前身)の代表も加えて全政党円卓会議その他の政治的解決を図った。
 1987年7月、インドのガンジー首相の調停により、民族抗争はいちおう終結した。しかし、多数派のシンハラの左翼過激派JVPが、タミル少数派へ譲歩しすぎであるとして反発し、政情は騒然となり、1988年12月統一国民党のプレマダーサ大統領が生まれた。1989年の選挙では統一国民党が過半数の議席をとり、同年5月政府側の呼びかけで、タミル武装組織「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」も交渉のテーブルについた。
 インド軍の撤退は1990年1月には完了せず、同年6月からふたたびタミル過激派とスリランカ軍やインド軍との争いが激化した。1993年5月1日、プレマダーサ大統領が爆弾テロにより暗殺され、ウィジェトンガ大統領が生まれた。1995年8月の総選挙の結果、左派連合政党の野党人民連合(PA)が統一国民党を破り、17年ぶりに左翼政権が成立した。11月の大統領選挙でクマラトゥンガ首相が大統領になり、その母親で、スリランカ独立の立役者バンダラナイケ元首相夫人でもあるバンダラナイケ女史が三度目の首相のポストについた。1996年1月31日、コロンボ市の中心部で爆破事件が起きたが、スリランカ社会一般の表だった反応はあまりなかった。
 1999年の大統領選挙でクマラトゥンガ大統領が再選され、2000年の総選挙でスリランカ自由党を中心とする人民連合が勝利した。しかし、2001年の総選挙では統一国民党が第一党となり、同党のウィクラマシンハが首相となり組閣した。ウィクラマシンハ内閣は「タミル・イーラム解放の虎」との停戦合意を成立させ和平交渉を始めたが、2003年に交渉は中断した。2004年の総選挙では、スリランカ自由党と人民解放戦線を中心とする統一人民自由連合(UPFA)が勝ち、スリランカ自由党のラジャパクサが首相となり新政府が発足した。その後、人民解放戦線が内閣から離脱したが野党議員を取り込み、過半数を維持している。2005年の大統領選挙ではラジャパクサが統一国民党党首のウィクラマシンハを破り大統領に就任した。2008年、ラジャパクサ政権は2001年の「タミル・イーラム解放の虎」との停戦合意を脱退、停戦合意は失効した。
 政策的には欧米諸国との関係の強化を図り、またASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)、中東諸国、日本との関係も親密化している。
 軍隊は志願兵制で、総兵力は15万0900、うち陸軍が11万7900、海軍が1万5000、空軍が1万8000(2008)。第二次世界大戦中、日本海軍が東海岸のトリンコマリーの軍港を砲撃したことがあるだけで、日本との間に大きな戦争を経験したことはない。[吉野正敏]

経済・産業

独立以後、経済停滞からの脱皮をねらっていたが、植民地型の経済構造からの変革は容易ではなかった。耕地の3分の2が茶と天然ゴムとココヤシのプランテーション作物にあてられ、これらが三大輸出産品で農業依存型経済であったが近年は工業化が進み、衣類製品が最大の輸出品目に育っている。
 茶は南インドから移住したタミル労働者によって開拓された大規模農園で生産が行われ、典型的なプランテーション作物である。独立後も茶園の47%、ゴム園の34%、銀行の68%、流通の90%をイギリス人が所有していたが、1971年と1975年にそのほとんどが国有化された。茶は標高600~1200メートルの山地の茶園で栽培されるが、ハイランド・ティーとよばれる高地産の茶は市場で高価をよぶ。茶の生産量は31万1000トン(2006)で世界の約9%を占め、中国、インドに次いで第3位である。その大半が輸出されるため、世界市場では約5分の1のシェアを占める。これはスリランカの輸出総額の約1割にあたる。
 天然ゴムは標高500メートル以下の台地に集中しており、生産量は10万9000トン(2006)で世界第8位である。ココヤシの実のココナッツは、かつて年産200万トンを超えたが近年は減少している。米の生産は独立当時にはわずかに38万トンであったが、1970年代末には約180万トンで約5倍になった。これでも全人口の食糧をまかなうには不足していたが、豊作年には輸入しなくてもよいほどにまでなった。これらは、栽培技術の向上や、よりよい品種の導入ばかりでなく、栽培面積の拡大に大きく依存してきた。1950年ごろに比較して、1980年ごろには、栽培面積はほぼ2倍になり、約200万エーカー(約8000平方キロメートル)に達した。米の生産に及ぼす雨の影響は大きく、とくにマハ季の米作には決定的な条件となる。雨量が異常に少ない場合には、そのマハ季が凶作となるばかりでなく、それに続くヤラ季作まで低収量となる。そこで北東部のマハベリ川流域の総合灌漑(かんがい)計画を世界各国の援助のもとに進めた。これは流域の約14万ヘクタールに灌漑施設の整備、未利用地の農地開発、入植地のインフラ(経済基盤)整備などを行うものである。完成すれば食糧の自給、エネルギーの安定供給、失業の解消などの見通しが明るくなる。2006年には、米の生産量は334万2000トンに達している。
 水産資源は豊富で、1975年に漁業公社を設立し、ネゴンボに漁業訓練センターを建設した。漁獲高は年々増加しており、冷凍エビは重要な輸出品である。2003年の漁獲量は27万9110トンで、そのうち91%が海面漁業による。
 黒鉛(石墨)、ペンキ顔料のイルミナイト(チタン鉄鉱)や各種の宝石を産生する。ルビー、サファイア、トパーズ、ガーネットは古くから世界に知られ、南西部の山中のラトナプラが採掘の中心である。
 2004年12月に発生したスマトラ島沖地震による津波(インド洋大津波)では死者3万人を超え、およそ84万人が避難生活を余儀なくされるなどの自然災害をはじめ近年の治安悪化や原油価格高騰等、経済に悪影響を与える要因もあったが5%を超える経済成長率を示し、2006年には7.4%、2007年には6.8%の成長率を記録している。2007年の国内総生産(GDP)は323億5000万ドル、1人当り国内総生産は1617ドルとなっている。
 貿易額は輸出77億4000万ドル、輸入113億ドル(2005)。輸出品目は繊維・衣類製品、紅茶・ゴムなどの農業産品、宝石類など、輸入品目は繊維、機械、石油、食料品などである。おもな輸出相手国・地域はアメリカ、イギリス、インド、ベルギー、輸入相手国はインド、シンガポール、香港、中国、イランなどとなっている。
 鉄道はすべて国営で総延長1449キロメートル(2003)である。国内の交通は国営のバスが各地を結び、よく整備されている。海運はヨーロッパとアジアを結ぶ中継基地として古代から発達しており、コロンボは最近でも重要な港である。国際航空路はスリランカ航空がヨーロッパ、日本を結び、観光客を誘致するのに一役買っている。[吉野正敏]

社会・文化

スリランカの全人口の約73%はアーリア系のシンハラで、南西部や高地に多く住み、シンハラ語を使い仏教を信仰している。シンハラより遅れて南インドから移住したドラビダ系のタミルは全人口の約18%で、北部を中心にして東海岸などのドライ・ゾーンに住み、ヒンドゥー教を信仰している。シンハラの人々は高地シンハラと低地シンハラとに区別され、ともに仏教徒であるが、インドとは異なる独自のカースト制をもつ。タミルも、早くから来島したセイロン・タミルと、イギリス人のプランテーション労働者として移住してきたインド・タミルとに区別され、後者は最下層のカーストに属するものがほとんどである。
 インドなどに比較して国民の教育程度が高く、識字率は91.5%(2007)と高い。教育制度は五・六・二制で、初等教育(小学校)5年、中等教育(下級中学校4年、上級中学校2年、高等学校2年)となっている。義務教育は5歳~14歳までで、公立、私立、仏教学校がある。大学は各地にあるが、キャンディ郊外にあるペラデニヤ大学は図書館も整い、文化形成の中心的存在をなしている。
 公用語はシンハラ語とタミル語であるが、両者は言語系統が異なるため、共通語として英語が広く通用する。町ではインド英語に似た訛(なま)りのセイロン英語が聞かれる。
 おもな新聞は『セイロン・デーリー・ニューズ』『アイランド』『デーリー・ミラー』『ディナミナ』『ダワサ』などがある。通信社はPTC通信、ランカプバト通信がある。ラジオは国営スリランカ放送協会(SLBC)ほか民間放送局がある。テレビは政府系テレビ(ITN)が1982年から放映を開始した。2001年にはテレビ保有台数は全国で220万台に達し、2007年にはテレビは14チャンネル、ラジオは32局となっている。
 国内には、インド文化の影響を受けた仏教美術の遺跡が多い。とくに古い首都であったアヌラダプーラと、その南東80キロメートルにある中世に栄えたポロンナルワに多い。出土した美術品の多くがコロンボの国立博物館に所蔵されている。代表的なものはストゥーパ(塔婆)と、それに付属した彫刻である。キャンディの中心には釈迦(しゃか)の歯を安置する仏歯寺があり、人々の崇敬を集め観光客が多い。仏歯を祭る大祭がペラヘラ祭りで、普通は8月に10日間続き、国内の遠くの地方からも人が集まる。また、ペラデニヤには世界的に有名な熱帯植物園がある。[吉野正敏]

日本との関係

国民の生活感情は温和で、同じ仏教を信仰するためと思われるが日本人と共通するところが多く、対日感情もすこぶるよい。
 日本との貿易では、日本への輸出額197億8000万円、日本からの輸入額391億9000万円(2005)となっており、おもな輸出品目はエビ、繊維製品、紅茶、マグロなど、輸入品目は自動車、一般機械類、繊維品、電気機械、建設機械などで、日本は輸入、輸出とも第6位の貿易相手国である。
 日本のスリランカへの政府開発援助(ODA)額は、有償資金協力(2008年度まで)7562億5100万円、2007年度までの無償資金協力、技術協力実績は1831億2900万円、609億8900万円となっている。日本はスリランカに対する最大の援助国である。[吉野正敏]
『杉本良男編『暮らしがわかるアジア読本 スリランカ』(1998・河出書房新社) ▽辛島昇他監修『南アジアを知る事典 新訂増補』(2002・平凡社) ▽渋谷利雄・高桑史子編著『スリランカ――人びとの暮らしを訪ねて』(2003・段々社) ▽川島耕司著『スリランカと民族』(2006・明石書店)』

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