精選版 日本国語大辞典 「バビロニア」の意味・読み・例文・類語
バビロニア
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古代メソポタミア南部のシュメール・アッカド地方に対する後代の呼称。イラン高原の南西部を縁どるザーグロス山脈とアラビア台地との間に展開する肥沃(ひよく)なメソポタミア平原は、バグダードを境にして上・下の2地域に分かれる。上メソポタミアはアッシリア地方に相当し、大部分が緩やかに波打つ起伏を示す卓状地である。これに対してバビロニア地方に相当する下メソポタミアはティグリス・ユーフラテス両川の堆積(たいせき)作用によって形成されたデルタ地帯で、完全に平坦(へいたん)な平原である。デルタでは両川の水が各所であふれ、湿地や沼沢地ができ、アシは生えるが、木や石、鉱物は産しない。しかし豊かな太陽熱と灌漑(かんがい)によって、農業、牧畜を基礎とする世界最古の文明が開花した。交易、通商を得意とする好戦的なアッシリア人に対して、バビロニア人は農耕的、定住的な民族であった。
[吉川 守]
シュメール人とアッカド人は少なくとも紀元前3000年ごろから平和的な共生関係にあったと考えられるが、シュメール・アッカド地方が文化的にバビロニアとして統一的に把握されるようになるのは、バビロンを首都とするバビロン第1王朝(前1830ころ~前1530ころ)がセム系民族のアムル人(『旧約聖書』のアモリ人)によって樹立されてからである。この王朝に先行する約100年間、バビロニアでは同じアムル人によって樹立されたイシン王朝とラルサ王朝が覇を競ったが、この時期は初期古バビロニア時代とよばれる。古都バビロンの名は、アッカド王朝第5代の王シャルカリシャッリの年号にカ・ディンギルKá-dingir(「神の門」の意)としてみえるが、土地の決定詞をとっていない。ウル第3王朝時代にはこの決定詞をとってKá-dingirkiとして表記されるようになる。この呼称は最後まで使われるが、アッカド語ではBâbilu(「神の門」の意。『旧約聖書』のバベル)とよばれた。バビロン第1王朝になるとこれらの名称と並行して、Tin-tirki(「生命の森」の意)が多用され、前7世紀にはEki(「運河」の都市の意)が用いられた。バビロンを新興の世界都市に変貌(へんぼう)させたのは、バビロン第1王朝第6代の王ハムラビ(在位前1792~前1750または前1728~前1686)である。同王はラルサ王を滅ぼし、エラムの勢力をメソポタミア平原から一掃し、アッシュール国王シャムシ・アダド1世の没後、メソポタミアの統一を完成する。これ以後シュメール・アッカド地方は首都バビロンにちなんでバビロニアと呼称されるようになる。こうして西セム語系のアムル人が北のアッシリア、南のバビロニアと全メソポタミアの支配者となったわけである。アッカド王朝時代から、バビロニアではシュメール語とアッカド語が併用されていたが、ハムラビ時代以後は公用語として西セム語のアッカド語が使用されるようになる。有名なハムラビ法典もアッカド語で記されており異民族同化統一が図られた。王の努力によりバビロンは世界都市としての基礎を得、バビロニア史上の古典時代ともいうべき黄金時代を現出した。
[吉川 守]
ハムラビの次王の時代には、ザーグロス山脈中の現在のルリスタン地方を本拠地とするカッシート人(アッカド語カッシュKaššu人)がバビロニアに侵攻し、その後、約150年にわたって農業労務者として平和的に移住を続けた。しかし、前1530年ごろ、カッシート人は、ヒッタイト王ムルシリシュ1世の率いる軍隊によって首都バビロンを略奪され瀕死(ひんし)の状態にあった王朝を急襲し、これを倒して、カッシート王朝(前1530~前1150ころ)を樹立した。この時代は、バビロン第1王朝に比して文運はおこらず、エジプトのアマルナ時代の国際社会においてもバビロニアの地位は低く、ミタンニ、ヒッタイト、アッシリアの影響下に置かれていた。弱体化した王朝はついに前1150年ごろ、スーサを都とするエラム王国のシュトルク・ナフンテによって倒された。この際、シッパル市にあった玄武岩のハムラビ法典がスーサに奪い去られたのは有名である。その後ネブカドネザル1世(在位前1146ころ~前1123ころ)はエラムを滅ぼしたが、アッシリアには勝てず国力は衰えた。南バビロニアのメロダクバラダン2世は前710年ごろアッシリア王サルゴン2世によって国を追われ、バビロニアはアッシリアによって併合された。前689年、サルゴン2世の子センナケリブはバビロンを完全に破壊した。バビロンは10年後エサルハッドン王が再興するまで廃墟(はいきょ)となっていた。エサルハッドンはその長子をバビロン王とし、その弟のアッシュール・バニパルをアッシリア王としたため兄弟戦争(前652)が起こり、バビロンは兵火に焼かれ、アッシリアの属州となった。
[吉川 守]
前625年ナボポラサルはバビロンでアッシリアから独立し、前612年メディアを援助してアッシリアを滅ぼし、新バビロニア王国(カルデア王朝時代)を開いた。その子ネブカドネザル2世(在位前605~前562)はハムラビ王に倣い、文化の向上と国力の充実に努力し、首都バビロンはもっとも繁栄し、オリエント世界の政治・文化の一大中心地となった。ユダヤ人の「バビロン捕囚」もこの王の時代(前597、前586)に行われた。ナボニドス王の前539年、アケメネス朝ペルシア王キロスは戦勝し、バビロンに入城してカルデア王朝は滅亡した。このあとバビロニアの多くの都市は荒廃したが、バビロンは前1世紀ごろまで存続した。
[吉川 守]
『パロ著、波木居斉二・矢島文夫訳『聖書の考古学』(1976・みすず書房)』▽『パロ著、波木居斉二訳『ニネヴェとバビロン――続・聖書の考古学』(1959・みすず書房)』▽『H・クレンゲル著、江上波夫・五味亨訳『古代バビロニアの歴史』(1980・山川出版社)』
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元来「シュメールとアッカド」と呼ばれていたメソポタミア地域の名称。バビロン第1王朝のハンムラビが再統一を果たしたことから,その市にちなんでバビロニアと称される。前2千年紀の後半にアッシリアが台頭することで,バビロニアは北のアッシリアに対立する。新アッシリア時代になると,バビロニアはアッシリアの政治的支配に服した。しかし,アッシリアは副王的存在である「バビロンの王」を派遣するなど,古い文明を継承した世界の中心都市バビロンという特殊性は意識されていた。新アッシリアのあとカルデア人の新バビロニア王朝が開始されるが,バビロンを支配したアムル人,カッシート人,カルデア人,そのどれもが自己の民族性でなくバビロンの伝統を尊重した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…この地域に人類最古の文明が繁栄した。
[地域と風土]
メソポタミアは,本来的にはバグダード以北の両河流域地方(ほぼアッシリアに対応)を指し,以南を示すバビロニアと対立的に用いられたようである。アラブは狭義のメソポタミアをジャジーラal‐Jazīraと呼んだ。…
※「バビロニア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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