アメリカのロックン・ロール・ミュージックをつくり上げた黒人シンガー、ギタリスト。セントルイスに生まれる。本名はチャールズ・E・A・ベリーCharles Edward Anderson Berry。
10代のころからバンドを組み、地元のクラブで歌っていた。このクラブ巡りで彼はその後の音楽生活において重要なことを知る。それは、クラブに集まってくる観客(黒人)の好みはけっして一様ではないということだった。彼らは、当時全盛だったブルースはもちろん、ソフトで都会的なナット・キング・コールのような音楽を好むと同時に、白人のひなびたヒルビリー・ミュージックにも関心があった。これらを上手にブレンドすると、客席から大きな拍手が起こったのである。子供のころから周囲の気運を読むことに長(た)けていたベリーは、クラブでの経験をもとに、ヒルビリーやカントリーなどの白人音楽のセンスを、彼の音楽の土台であるブルースやリズム・アンド・ブルースに加えていった。ここにできあがったのが、エネルギッシュなブルース・リズムを軽妙なビートに変化させ、洒落(しゃれ)のきいた歌詞をさらりとした歌唱で料理するという、チャック・ベリー式の新しいミュージックだったのである。同時に、印象的なリフレインを使った切れ味さえる彼のギターも、曲全体の強いアクセントとなった。
このようなエレクトリック・ギターを中心にすえた小編成のバンド・スタイルは、その後のロック・ミュージックの原型となった。彼は、ピアニストのジョニー・ジョンソンJohnnie Johnson(1924―2005)らとトリオを組み、このサウンドをもとに当時破竹の勢いだったアイク・ターナーIke Turner(1931―2007)と地元セントルイスのクラブで人気を競うまでになった。ちなみにロックン・ロール不朽の名作として知られるベリーの「ジョニー・B・グッド」の「ジョニー」とは、長年の相棒であるジョンソンの名前から取ったものである(ただしジョンソンは、2000年になってベリーからこれまで曲の著作権に関して正当な扱いを受けてこなかったとして訴訟を起こしている)。
1955年、ブルースの牙城(がじょう)であったシカゴのチェス・レコードから「メイベリーン」を発売。このデビュー曲はリズム・アンド・ブルース・チャートで1位、ポップ・チャートで5位というみごとな成績を収め、彼は一夜にしてスターの仲間入りを果たした。実は「メイベリーン」は原型がカントリー・ソング「アイダ・レッド」で、これをベリーが黒人音楽的にアレンジしたものだった。題名もそれまでの地味なものから有名な化粧品会社の名前にかえている。ベリーのマーケットを読み取る才能は抜群で、それは「メイベリーン」だけでなく、自分の音楽がおもに10代の、それも白人を主体とする人々によって好まれていると知るや、彼は性の謳歌(おうか)など黒人音楽的な表現を抑え、表向きは人種に関係なく、青少年が聴き快活に踊れる内容に変えていった。30代にさしかかった大人の黒人歌手がつくった10代の青少年ための音楽、それがベリーのロックン・ロールだった。
「ロール・オーバー・ベートーベン」「ロックン・ロール・ミュージック」「スウィート・リトル・シックスティーン」「キャロル」「ジョニー・B・グッド」ほか、数多くの名作、ヒット曲を生んだ1950年代後半はベリーにとって輝かしい時代だった。ボ・ディドリーBo Diddley(1928―2008)、リトル・リチャードLittle Richard(1932―2020)、ファッツ・ドミノほか、多くの黒人シンガーが白人のマーケットに紹介されたとき、彼らはリズム・アンド・ブルースではなくロックン・ロールの歌手として扱われたが、なかでもベリーは筆頭の位置にあった。
1950年代後半、大金持ちとなったベリーは、人種差別が色濃く残っている地元セントルイスで肌の色を問わない音楽クラブを開店し、加えて広大なテーマ・パークまで建設しようとした。しかしこの大げさな態度が当局の反感を買い、クラブに1人の少女を雇ったことが、不道徳な行為を目的として他州から女性を移動させることを禁止する「マン法」に触れたとして逮捕され、彼は1962年から1963年のあいだ服役する。この差別的な事件が、ベリーを他人をおいそれとは信じない性格に変えていったとされる。1979年に彼は脱税でふたたび投獄されるが、これも「奇人」のイメージをさらに強める原因となった。
その反面、1960年代以降は「チャック・ベリー・チルドレン」ともいうべきロック・ミュージシャンが続々と登場し、彼は生きる伝説のような存在となった。その一人であるジョン・レノンは、「ロックン・ロールを別のことばでいおうとするなら、それはチャック・ベリーだ」という有名な賛辞をおくっている。
1972年に発売されたライブ盤『ザ・ロンドン・セッションズ』からカットされたシングル「マイ・ディンガリン」が、彼にとっては初めてのゴールド・ディスクになった。1986年、ロックン・ロールゆかりの地であるオハイオ州クリーブランドのロックン・ロール殿堂博物館から、第1回目の殿堂入りメンバーに認定された。
[藤田 正]
アメリカ人宣教医。宣教と医療を目的に監獄改良や看護教育の面でも先駆的な役割をなした。メーン州に生まれる。1871年ジェファーソン医科大学卒業。1872年(明治5)アメリカン・ボードよりの派遣で、妻とともに神戸に着く。同地で医療に従事するとともに県下各地で伝道を行い、1876年、監獄改良についての提言を内務卿(きょう)大久保利通(としみち)に行った。その後岡山県に移り、ここでも県下各地で医療伝道に努めたが、医学校設立を企てた新島襄(じょう)の依頼を受け、一時帰国して準備にあたった。しかし、医学校の計画は流れ、1886年同志社病院院長、京都看病婦学校教師として赴任、日本における系統的な看護教育の初期の推進者となった。彼の呼びかけで来日したL・リチャーズはアメリカ最初の有資格看護師として有名である。同志社側の事情で1893年職を離れ帰国するが、日本の医学、看護学、病院の近代化に及ぼした影響は大きい。1895年ころより母国で開業。1918年(大正7)に再来日した。
[長門谷洋治]
フランスの推理小説家。少年時代から冒険心が強く、一方、ランボー、ベルレーヌ、マラルメらの詩を耽読(たんどく)する文学好きでもあった。22歳のころ、親友とインドでぶどう酒を売る計画をたてたが、結局1人で貨物船の炊事夫となって北アフリカ、スペイン方面に旅する青春を送った。こうした冒険と夢と友情が作品に深く影響し、それらは代表作の一つ『サンタクロース殺人事件』(1934)では、修道院廃墟(はいきょ)の地下や地下道の迷路の中に宝物を捜す人物や、物語の舞台であるおとぎの国めいた町などによって示され、事件の謎(なぞ)を、日常の現実を突き抜けた場所に求めるところにも現れている。主要作品は、プロスペル・ルピック探偵を主人公とする約30編の長編探偵小説群(『サンタクロースの反抗』1959。『バジール・クルックスの遺言』Le testament de Basil Crooks1930、冒険小説大賞受賞など)であるが、そのほかにクリスチャン・ジャック監督の映画『パルムの僧院』(1947)のシナリオなど、映画関係の仕事も多く残した。
[榊原晃三]
『村上光彦訳『サンタクロース殺人事件』(1975・晶文社)』▽『村上光彦訳『サンタクロースの反乱』(1979・晶文社)』
フランス中部にある歴史的地域で、旧州名。パリ盆地の南、マッシフ・サントラル(中央群山)の北麓(ほくろく)、ロアール川とクルーズ川の間を占め、アンドル県とシェル県にまたがる。中心都市はブールジュ。中心部はベリーのシャンパーニュとよばれる石灰質の平坦(へいたん)地で、樹木が少ない。北東部はサンセロア地方の白亜質の丘陵。南東部はボカージュ(林地)である。ヒツジの牧畜は後退し、小麦栽培が卓越する。ほかに大麦、トウモロコシ、菜種、ヒマワリが栽培される。農村部は人口希薄で、伝統的な精錬業をはじめとする工業就業者は、アンドル川やシェル川およびその支流のテオルス川、イエーブル川の谷に集中している。古代にはガリアの一部族ビチュリゲス・キュビの居住地で、カロリング朝時代は伯爵領、14世紀中ごろ公爵領となり、1601年フランス王領となった。
[大嶽幸彦]
果実の一種で植物学的には液果と呼ばれる。果皮のうち中果皮,内果皮が水分の多い肉質の柔らかい組織となり,熟しても裂けず,やや堅い種子をもつものをいい,ブドウ,カキ,トマトなどがその例とされる。園芸学ではさらに広い意味でミカン類やナシ,リンゴを含めていう場合もあるが,一般には果物のうち欧米で小果類small fruitsと呼ばれる一群をさすことが多い。ブドウ,イチゴ,キイチゴ類,スグリ類,コケモモ類その他がこれに当たるが,日本では果樹としてこのうちブドウ,イチゴを除いたものを低木性果樹,または小果樹類といっている。ベリーと呼ばれる果実のなかには,キイチゴ類やイチゴのように植物学的には液果でないものも含まれる。前者は集合果であるし,後者は花托が肥大した部分を食用にしている偽果である。ベリーを生じる小果樹類にはいろいろな科の植物が含まれるが,多くは温帯北部に原生し,栽培の歴史は比較的新しい。野生の果実を利用しているのもあるし,改良の著しく進んだものもある。
一般に低木で比較的手がかからず,早く結果し,果実は小型で愛らしく,色調や風味に変化があり,生食のほか,料理,菓子の材料とされ,ジャム,ゼリー,果実酒などに用いられる。また花や紅葉がきれいで観賞用になるなど,営利栽培,家庭栽培,つみとり園用,盆栽用にも注目されてきている。ただ果実の収穫に労力がかかることや,日もちの悪いことなどに問題がある。以下におもなものをあげる。
(1)キイチゴ類 バラ科キイチゴ属Rubusの植物で,ラズベリーとブラックベリーに大別される。ラズベリーは冷涼地に適し,風味のよい赤実種が好まれ,北ヨーロッパ,北アメリカで多く栽培され,黒・紫実種は北アメリカのやや暖地寄りに栽培される。ブラックベリーは暖地に適し,主としてアメリカ西海岸で栽培され,実は黒色。暖地産の果実はまろやかで甘みがある。近年つる性大果種,赤褐色で風味あるものが発見・育成され,ラズベリーとの雑種,その他の交雑種,とげなし種も発表されている。イチゴとは違った独特な風味はその果実の構造の相違からもきている。日本には本来ラズベリーの野生種は多く存在するが,ブラックベリーの群はない。
(2)スグリ類 ユキノシタ科スグリ属Ribesの低木で,スグリ(グーズベリー)とフサスグリ(カラント)とに大別される。耐寒性が強く北ヨーロッパが主産地。さわやかな酸味をいかしたゼリーやジュースがつくられる。レッドカラントは果実が美しいので盆栽用にもなる。ブラックカラントはビタミンCの多いジュースがとれるので将来性のある小果樹類とされるが,日本では多湿気候のために栽培が難しい。日本原生のスグリは果実が小粒で栽培価値は低い。
(3)コケモモ類 ツツジ科スノキ属Vacciniumの低木類で,ブルーベリー,クランベリー,コケモモに大別される。ブルーベリーとクランベリーは北アメリカで開発され,とくにブルーベリーは今世紀最も発展の目だつ果樹である。美しいブルーの果色とほのかな芳香を漂わせて生食にも加工にも適し,世界に進出しつつある。クランベリーも新大陸最初の感謝祭に使われて以来,ソースその他の加工用として利用され,水田のような湿地に栽培されて今日大きく発展している。澄明な赤と爽快な酸味が特徴である。コケモモはドイツを中心に開発されている。日本でも野生種の利用と栽培化の気運がでてきている。
(4)その他 スイカズラ科のエルダーベリー(ワイン用)など。日本では従来グミ,ユスラウメなどが小果樹類とされている。
液果を結実させ,鳥によって種子を分散させる方向に分化した植物の種は多い。それらは有毒あるいは不快な味やにおいがないかぎり,ベリーの予備種である。これからも多様なベリーが野生種から栽培化される可能性が残されている。
執筆者:松井 仁
フランス中部の地方名,旧州名。東はロアール川,西はクルーズ川,南はマシフ・サントラル(中央山地)の北麓,北はパリ盆地南部に至る地域の呼称で,おおむね現在の中部地方の南部を占めるシェール県とアンドル県の県域に対応し,これにロアレ,アンドル・エ・ロアールとクルーズ県の一部が含まれる。狭義ではシャンパーニュ・ベリションヌChampagne berrichonne地方を指すが,ときには,南と南東のボアショーBoishaut地方,南西のブレンヌ地方,北東のサンセロア地方などが,加えられることもある。シャンパーニュ・ベリションヌ地方は,ジュラ紀の石灰岩から成る平坦な地域で,小麦を中心に,大麦,トウモロコシ,ナタネ,ヒマワリなどの栽培が活発であるほか,羊の飼育などで知られる。しかし近年過疎化の現象が強まり,羊の飼育にも衰退の傾向がみられるようになった。東部ベリー地方のロアール川流域は泥土と砂の多い沖積土質で,林業や牧畜,農耕に利用され,南西部のブレンヌ地方は粘土と砂の地質で湖沼の多い荒地である。南東のボアショー地方は粘土質と石灰岩質の地質で牧畜に向いており,北東のサンセロア地方は石灰岩質の丘陵地帯でブドウの栽培が盛んである。
ベリー地方の主都はブールジュで,ガリア時代から中央山地一帯の主都として重きを成し,ベリー地方は12世紀までブールジュ大司教の支配下に置かれた。1137年,ルイ7世が大司教によってブールジュにおいてアキテーヌ公に任じられ,70年にはプランタジネット家のアンリ2世の攻撃の手からブールジュを守り,ベリー地方をカペー王朝の支配下にとどめた。1360年,善良王ジャン2世が公国を樹立し,第3子のジャンをベリー公に任命した。シャンティイ城にあるミニアチュールの傑作《ベリー公の時禱書》を作らせたことで名高い人物である。1418年,ベリー公国はのちのフランス王シャルル7世の手に移り,百年戦争の間,バロア家の拠点となった。その後フランス王家の王子の多くがベリー公を名のった。ルイ11世の兄弟や,シャルル10世の第2子などがその代表例である。
主要都市は,ブールジュのほか,アンドル河畔のシャトールー,シェール河畔のサンタマン・モンロンとビエルゾン,テオル河畔のイスーダンなどである。観光の名所には上記の諸都市のほか,バランセーやメイヤンの城館,ジョルジュ・サンドゆかりのノアンやラ・シャートル,アラン・フルニエの故郷ラ・シャペル・ダンジヨン,ノアルラックとフォンゴンボーの修道院がある。おもな名産にはサンセールの辛口の白ワインやシャビニョルのヤギのチーズなどがある。
執筆者:稲生 永
アメリカの宣教医。メーン州出身。1871年フィラデルフィアの医学校を卒業,翌年アメリカン・ボード宣教医として来日,神戸,明石,姫路などで医学の教授,診療活動,監獄改良事業に従事し,日本におけるこの分野の先駆者となった。78年より岡山,備中高梁で宣教医として活動し,86年より同志社病院,看護婦学校の経営と教育に尽くしたが,95年同志社の事情でこれを辞め,マサチューセッツ州で死去。
執筆者:土肥 昭夫
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(篠崎恭久)
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…ハイドは大動物(ウシ,ウマなど)の皮で,アメリカ,カナダ規格では皮重量25ポンド(約11kg)以上のもの,スキンはそれ以下のもので,幼動物または小動物(子ウシ,ヒツジ,ブタなど)の皮をさす。ハイドはその使用目的によって原料皮,または革になったとき,サイドside(背線での半裁),ショルダーshoulder(肩部),バットbutt(背部),ベリーbelly(腹部)などに裁断されることがある(図)。 動物からはいだままの生皮は腐敗しやすいので,ただちに乾燥(乾皮),塩づけ(塩蔵皮),塩づけののち乾燥(塩乾皮),防腐剤で処理後,乾燥(薬乾皮)などの方法で保存される(仕立て,キュアリング)。…
…古くケルト人の一部族ビトゥリゲスがこの地を本拠としていたが,前52年のカエサルによる攻囲にはよく抵抗した。12世紀初頭ブールジュ子爵領の売却により王領地に編入されたが,その後,同市を中心とする旧ベリー州は公領とされ,親族封として何人かの親王に与えられた。なかでも,ジャン2世の子,ベリー公ジャンJean de France,duc de Berry(1340‐1416)は美術の守護者としても知られ,ランブール兄弟の手になる《ベリー公のいとも豪華なる時禱書》は同公の注文による。…
…アケビのように裂開するものもあるが,ふつうは裂開しない。内果皮が堅くならないものと堅くなるものがあり,前者を漿果(しようか)berry,後者を核果(石果)drupeとして分ける。漿果にはブドウ,レモン,メロン,バナナが,核果にはクワ,モモ,オリーブ,ココヤシがある。…
※「ベリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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