デジタル大辞泉
「マクドナルド」の意味・読み・例文・類語
マクドナルド(James Ramsay MacDonald)
[1866~1937]英国の政治家。1924年、最初の労働党内閣を組閣。1929年再度首相となったが世界恐慌に直面し、財政政策に党の支持を得られず辞職。1931年、保守党・自由党と連立で挙国一致内閣をつくったため、党から除名された。
マクドナルド(Ross Macdonald)
[1915~1983]米国の推理小説家。本名はケネス=ミラー(Kenneth Millar)。ハメットやチャンドラーのハードボイルドを継承する簡潔で力強い文体で、社会の闇や人間の心理を巧みに描いた。私立探偵リュー=アーチャーを主人公とする一連の作品や「青いジャングル」などで知られる。妻のマーガレット=ミラー(Margaret Millar)も推理小説家。
マクドナルド(Claude Maxwell Macdonald)
[1852~1915]英国の外交官。1896年駐清(中国)公使となり、義和団事件で活躍、日本の出兵を勧めた。のち駐日大使。
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マクドナルド
- [ 一 ] ( Sir Claude Maxwell MacDonald サー=クロード=マクスウェル━ ) イギリスの軍人、外交官。一八九六年北京駐在イギリス公使となり一九〇〇年義和団事件の列国義勇軍総司令官となる。また、最初の駐日大使として日英同盟の締結に尽力した。(一八五二‐一九一五)
- [ 二 ] ( James Ramsay MacDonald ジェームズ=ラムジー━ ) イギリスの政治家。一九一一年労働党党首。二四年、二九~三一年労働党内閣を組織。三一年挙国一致内閣の首班となるが、労働党主流派とは分かれ、三五年首相を辞任。(一八六六‐一九三七)
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マクドナルド(ファストフード・レストランチェーン)
まくどなるど
McDonald's Corp.
アメリカの、世界最大のファストフード・レストランチェーン。1940年にカリフォルニア州サンバーナーディーノにマクドナルド兄弟が開いた小さなドライブ・インが始まりである。1950年代に入り、当時としては画期的な、注文から調理、サービスまで流れるように行う現在のファストフード方式のシステム化を図り大成功を収めた。兄弟は「スピーディー・サービス・システム」と名づけたそのシステムを加盟店方式(フランチャイズ・システム)で広めようとした。当時ミルクシェイク製造器のセールスマンであったレイ・クロックRaymond Albert Kroc(1902―1984)は、マクドナルドに将来性をみいだし、フランチャイズ化に協力。クロックによるフランチャイズ方式は高い加盟料を強いる従来の方式とは異なり、加盟料わずか950ドルというもので、食材納入業者からのリベートも徴収しない方針は店舗数の伸長に大きく貢献した。1961年には兄弟から「マクドナルド」の商標を譲り受け、1965年正式にMcDonald's Corp.を設立。同社は調理方法を含めたチェーン全店の経営を統一する徹底したマニュアルを完成させ、1970年までに2000店舗、1990年代には全世界で2万店舗以上を展開する世界最大の外食産業に急成長した。
1990年代に入り売上げは上昇し、1993年の74億0800万ドルから1998年には124億2100万ドルを記録した。こうした利益の多くは国外事業から生じたものであり、同社の営業利益の半分以上を占め、国内市場ではファストフード市場の飽和状況から競争が激化した。フランチャイズ方式の店舗拡大は、加盟店から不動産所有、賃貸料、サービス料などを受け取り、世界的に店舗数を増加させた。1997年に新規オープンした国外店舗はその50%以上をオーストラリア、ブラジル、カナダ、イギリス、フランス、ドイツ、日本などが占めた。
日本では1971年(昭和46)に日本マクドナルドが設立された。東京・銀座4丁目にできた第1号店を皮切りに1996年(平成8)には2000店舗を超え、売上高は2988億円に達した。藤田商店(創業者、藤田田(でん))との合弁による日本マクドナルドの成長は、外資系企業の日本進出成功例の一つとして有名である。日本マクドナルドは2002年に日本マクドナルドホールディングスとして持株会社となり、ハンバーガー部門を分社化した日本マクドナルドを新設した。
2021年時点で、世界119か国に4万0031店舗を展開しており、そのうち約93%がフランチャイズ店である。2008年に全米のハンバーガー市場で46.8%のシェアを獲得し首位の座を維持(2位はバーガーキングの14.2%)。2021年の総売上高は232億2300万ドル、純利益75億1300万ドル。
[萩原伸次郎]
マクドナルド(Arthur McDonald)
まくどなるど
Arthur McDonald
(1943― )
カナダの物理学者。ノバスコシア州シドニー生まれ。1964年にダルハウジー大学卒業。1965年に物理学修士号を取得し、1969年にカリフォルニア工科大学で博士号を取得。1970年からチョーク・リバー研究所の研究官を経て、アメリカのプリンストン大学教授、カナダのクイーンズ大学教授などを務めた。1989年からサドバリー・ニュートリノ観測研究所長。
素粒子物理学の分野では、1960年代後半から観測実験などで、素粒子の一種であるニュートリノには質量があるのではないかという指摘がなされていた。マクドナルドは、太陽から放出されるニュートリノが地球上の観測器では理論値より少ない数しか検出できないのは、ニュートリノが振動によって変身したために観測できなくなったからではないかと考えた。振動による変身が事実ならニュートリノに質量があることになる。2001年マクドナルドを中心とした研究チームは、カナダのオンタリオ州サドバリーにあるニッケル鉱山の地下約2000メートルの場所に建設されたサドバリー・ニュートリノ観測所(SNO)で、太陽からの電子ニュートリノがμ(ミュー)ニュートリノとτ(タウ)ニュートリノへと変化し、ニュートリノ振動が起きていることを示す観測データをとらえ、2001年8月に学術誌で発表した。2007年に「ニュートリノが質量をもつことを示した」理由でベンジャミン・フランクリン・メダル物理学部門賞を戸塚洋二とともに受賞。2011年にはカナダ王立協会のヘンリー・マーシャル・トーリー・メダルを受賞、2015年「素粒子ニュートリノが質量をもつことを示すニュートリノ振動の発見」の業績で梶田隆章(かじたたかあき)とノーベル物理学賞を共同受賞した。
[馬場錬成 2016年5月19日]
マクドナルド(James Ramsay MacDonald)
まくどなるど
James Ramsay MacDonald
(1866―1937)
イギリスの政治家。スコットランドのロシマウスで生まれる。若くして社会主義に開眼、社会民主連盟やフェビアン協会に加入した。ロンドンに出てジャーナリストとして活動しつつ、社会主義者のなかでの地歩を固め、1900年から同年創設の労働代表委員会(後の労働党)書記長を務め、1906年には労働党下院議員となった。第一次世界大戦に際して、イギリスの参戦に批判的な態度を貫いた。そのため1918年の選挙では落選したが、1922年下院に復帰、議会労働党議長に就任、1923年12月の選挙の結果、1924年1月首相兼外相となって第一次労働党政府をつくりあげた。この政府は、フランス・ドイツ間の和解を助け、当時のソ連との関係改善に踏み出すなど外交面で成果をあげたが、短命に終わり、同年11月に保守党政府にとってかわられた。1929年再度首相の座につき、ロンドン海軍軍縮会議やインド円卓会議などを主宰した。世界恐慌に直面して、財務相スノーデンとともに伝統的な均衡予算政策に固執、政府支出削減の一環として失業手当削減策を打ち出したことが、労働党との対立を招き、1931年8月労働党政府は倒れた。しかしすぐに保守党に担がれて「挙国一致内閣」の首相となり、労働党からは除名された。その後は勢力も急速に衰え、1935年、首相の座を保守党のボールドウィンに譲った。
[木畑洋一]
マクドナルド(Philip MacDonald)
まくどなるど
Philip MacDonald
(1899/1900―1981)
イギリス生まれの推理作家。ファンタジー作家ジョージ・マクドナルドの孫にあたる。父ロナルドも作家で、オリバー・フレミング名義で父とスリラーを合作したのが、フィリップの作家デビューとなった。単独で発表した推理小説としては『鑢(やすり)』(1924)が第一作。読者に対するフェアプレイを意識し、シリーズ探偵アントニイ・ゲスリン大佐が論理性豊かな謎(なぞ)解きを展開する。裁判記録のみをもとに真犯人を指摘する『迷路』(1931)はこの延長線上にある作品だが、並行して、死刑執行までに真相究明を試みたり、無差別連続殺人を扱ったりと、華やかなサスペンス仕立ての作品も多く、旺盛(おうせい)なサービス精神が創作活動を貫く特徴だった。1931年にハリウッドへ渡って、映画「ミスター・モト」シリーズやヒッチコック監督の『レベッカ』(1940)の脚本執筆に加わったほか、W・J・スチュアート名義でSF映画の古典『禁断の惑星』(1956)の小説化も手がけている。短編集『Something to Hide』(1952)と短編『夢見るなかれ』(1956)でアメリカ探偵作家クラブ最優秀短編賞を二度受賞。マーチン・ポーロック、アントニイ・ローレスなどの別名義がある。
[松浦正人]
『吉田誠一訳『鑢――名探偵ゲスリン登場』(創元推理文庫)』▽『マクドナルド著、好野理恵訳『Xに対する逮捕状』(1994・国書刊行会)』▽『マクドナルド著、真野明裕訳『エイドリアン・メッセンジャーのリスト』(創元推理文庫)』▽『田村義進訳『迷路』(2000・ハヤカワ・ミステリ)』
マクドナルド(Ranald MacDonald)
まくどなるど
Ranald MacDonald
(1824―1894)
1848年(嘉永1)6月末に鎖国令下の北海道利尻(りしり)島に単身上陸したアメリカ人冒険家。毛皮交易商のスコットランド人を父に、アメリカ先住民チヌークの首長の娘を母に、今日のワシントン州アストリアで生まれる。1840年、16歳のとき東部カナダを出奔して船乗りとなり、47年捕鯨船プリマス号でハワイを出帆し、翌48年6月27日、ボートでまず北海道焼尻(やぎしり)島に上陸、ついで利尻島付近でアイヌ人漁夫に助けられたが、捕らえられて宗谷(そうや)、松前を経て長崎に護送され、大悲庵(あん)の座敷牢(ろう)に軟禁された。ここで同年10月から49年4月までの半年間、森山栄之助ら14名のオランダ通詞(つうじ)に英語を教え、日本最初の英語教師となった。森山は後年ペリー来航時に主任通詞を務めている。マクドナルド自らも日本語を学び、英和対照語彙(ごい)集を書き残した。49年4月26日、アメリカ艦プレブル号に引き取られて長崎を去り、53年にカナダに帰国。晩年はワシントン州フォート・コルビルに定住し、幕末の日本を鋭く観察した『日本回想記』を完成した。同州トロダに墓がある。
[富田虎男]
『ウィリアム・ルイス、村上直次郎編、富田虎男訳訂『日本回想記――インディアンの見た幕末の日本』補訂版(1981・刀水書房)』▽『吉村昭著『海の祭礼』(1986・文芸春秋)』
マクドナルド(John Alexander MacDonald)
まくどなるど
John Alexander MacDonald
(1815―1891)
カナダの政治家。保守党に所属。5歳のときイギリスのグラスゴーからイギリス領アッパー・カナダ(現オンタリオ州)に移住。1844年連合カナダ植民地立法議会に選出されて政界に入り、カナダ東部(以前のローワー・カナダ、現ケベック州)のフランス系政治家との提携に成功。56年にタシェ‐マクドナルド内閣を組閣した。しかし、このころから連合カナダの政界は行き詰まりをみせ、鉄道敷設問題、イギリスの自由貿易政策、アメリカの南北戦争などが主たる要因となって、彼は全イギリス領北アメリカ植民地の連合と独立、すなわちコンフェデレーションConfederationの実現に尽力した。67年カナダ自治領の成立にあたっては初代首相に就任(~1873)し、プリンス・エドワード島からブリティッシュ・コロンビアに至る版図を確定し、その間に横たわる広大なハドソン湾会社の領有地獲得に成功した。71年、南北戦争中に生じた英米間の懸案解決のためのワシントン会議にイギリス代表団の一員ながらカナダを代表して参加し、外交権獲得への一歩を踏み出している。政治汚職を問われて一時下野するが、第2次マクドナルド内閣(1878~91)下に、カナダは初の保護関税である「ナショナル・ポリシー」を採択し、85年には大陸横断鉄道の完成をみるなど、新国家の基礎が築かれた。
[大原祐子]
マクドナルド(Ross MacDonald)
まくどなるど
Ross MacDonald
(1915―1983)
アメリカの推理作家。本名はケネス・ミラーKenneth Millar。ハードボイルド推理小説が英雄ものや暴力ものへ流れていくなかで、ハメットやチャンドラーを継承して社会、人間を力強く描写する高い文学性を特徴とする。処女長編推理『暗いトンネル』(1944)以来、どこかに自己を投影した作品が多く、『動く標的』(1949)で初めて登場した名探偵リュー・アーチャーLew Archerに自己の投影があることを作者自身認めている。続いて『人の死に行く道』(1951)、『縞(しま)模様の霊柩車(れいきゅうしゃ)』(1962)、『ドルの向う側』(1965)などの佳作を発表した。なお夫人は、『鉄の門』(1945)などで有名な推理作家のマーガレット・ミラーMargaret Miller(1915―94)である。
[梶 龍雄]
『菊池光訳『暗いトンネル』(創元推理文庫)』▽『井上一夫訳『動く標的』(創元推理文庫)』▽『小鷹信光訳『ロス・マクドナルド傑作集』(創元推理文庫)』
マクドナルド(George MacDonald)
まくどなるど
George MacDonald
(1824―1905)
イギリスの詩人、小説家。初め聖職につくが、失敗。著作に転じ、大人向きのフェアリー・テール『ファンタステス』(1858)、自伝的な『デイビド・エルギンブロッド』(1863)で地歩を固める。有名な短編『黄金の鍵(かぎ)』を含む『妖精(ようせい)とのおつきあい』(1867)、『北風の後ろの国』(1871)、『お姫さまとゴブリンの物語』(1872)、『カーディとお姫さまの物語』(1883)などのファンタジーも子供たちに残した。神秘的イメージによる生死の意味の探求は、強い物語性に支えられ、ファンタジー文学に大きな影響を与えた。
[神宮輝夫]
『中村妙子訳『北風の後ろの国』(ハヤカワ文庫)』▽『中村妙子訳『黄金の鍵』(1985・偕成社)』▽『脇和子訳『お姫さまとゴブリンの物語』(1985・岩波書店)』
マクドナルド(John D. MacDonald)
まくどなるど
John D. MacDonald
(1916―1986)
アメリカの娯楽小説作家。冒険、科学、幻想、犯罪、推理と守備範囲が非常に広く、かつ多作で、ペーパーバックの書き下ろしによってアメリカ一般読者の幅広い支持を得ている。一方、ハードカバーの力作も多く、『夜の終り』(1960)のような特異な形式で犯罪に迫る佳作もある。1964年『濃紺のさようなら』で盗賊探偵トラビス・マッギーTravis McGeeを創作し、このシリーズの『桃色の悪夢』(1964)、『とり残された一人』(1967)なども大評判を得ている。
[梶 龍雄]
『吉田誠一訳『夜の終り』(創元推理文庫)』▽『深町真理子訳『濃紺のさよなら』(1967・早川書房)』
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マクドナルド
John Alexander Macdonald
生没年:1815-91
カナダの政治家。〈建国の父祖〉の一人で首相(在職1867-73,1878-91)を務める。保守党に所属。スコットランドに生まれ,5歳のとき両親とともにアッパー・カナダへ移住,キングストンで青少年時代を過ごした。弁護士の資格を得たのち1844年連合カナダ植民地立法議会に選出されて政界へ入り,47年から48年にかけて歳入徴収長官として入閣した。50年代,連合カナダ植民地政界は混沌を極めたが,彼はフランス系カナダの指導者G.E.カルティエという盟友を得て,イギリス領北アメリカ植民地の統合=コンフェデレーションの構想を具体化した。植民地政界の保守穏健派であった彼と急進派のG.ブラウンの提携なくしてはコンフェデレーションの実現はありえなかったが,64年の〈大連立〉内閣組閣後はもっぱらマクドナルドの主導権の下に67年カナダ自治領の成立をみて,彼は初代の首相に選出された。
73年から78年まで鉄道建設にまつわる汚職容疑で下野したが,その期間を除き死去するまで,新国家カナダ建設に挺身した。1869年ハドソン湾会社の領有地を譲り受けてマニトバ州を創設,71年には西端のブリティッシュ・コロンビア州が,73年には東端プリンス・エドワード・アイランド州がカナダ連邦に加入。カナダは建国のモットーどおり〈海から海へ〉またがる国家の版図を実現した。その内容を充実させるため,79年,〈ナショナル・ポリシー〉として保護関税を採用,自由党の批判を浴びたが自由党ものちには自党の政策として採用した。85年には紆余曲折を経て大陸横断鉄道を完成に導き,マクドナルド夫妻は開通したばかりの鉄道の旅客としてカナダの西端へ赴いた。そのほかワシントン条約締結,北西部騎馬警察の設置,イギリスへの高等弁務官(大使)派遣など,彼の指導下にカナダの対外政策,国内開発の諸原則が決定されたといって過言ではない。その反面,2度にわたるL.リエルの反乱や87年のケベック州際会議として具体化した諸州の離反傾向など,急速な国家建設に伴う矛盾の露呈も少なくなかった。91年3月の総選挙はアメリカ合衆国との互恵通商実現を掲げる自由党と〈ナショナル・ポリシー〉維持を訴える保守党が争ったが,76歳の高齢で保守党を率いて戦ったマクドナルドは,勝利の3ヵ月後に死去した。有名な飲酒癖にもかかわらず非常な人望を得た政治家であったという。
執筆者:大原 祐子
マクドナルド
James Ramsay MacDonald
生没年:1866-1937
イギリス最初の労働党政府首相。スコットランドのハイランドの農場の召使アン・ラムゼーと作男ジョン・マクドナルドとの間に生まれた。両親は結婚せず,母親に育てられ,教区学校に学ぶ。職を求めてブリストルに移り,社会民主連合支部に参加。ロンドンで自由党議員秘書,〈新生活フェローシップ〉書記長を務め,独立労働党執行部に加わる。1900年,労働代表委員会書記長となり,ひそかに自由党と選挙協定を締結し,06年の労働党躍進の基礎を固めた。《社会主義と社会》(1905)の中で社会主義はリベラリズムの世襲の後継者だと述べ,社会進化論を労働党政治に適用した。第1次世界大戦勃発に際し労働党委員長の職を辞し,〈民主管理同盟〉の反戦運動に協力した。22年議会に復帰,党首に選ばれ,24年労働党内閣を組織し,外相を兼任,ソ連邦を正式に承認したが,保守勢力の反ソ・キャンペーンに屈した。29年再び内閣を組織し,ロンドン海軍軍縮条約の成立に貢献したが,31年の金融危機に際し,ポンドの信用回復のため失業手当など政府支出削減に同意し,総辞職する。労働党の同僚の多くを捨て,挙国内閣首相となるが,保護貿易政策の勝利と国際情勢険悪化のなかで35年辞任し,同年の総選挙で労働党候補に敗れて議席を失い,失意の晩年を過ごす。彼の〈裏切り〉は,リベラリズムを継承した進化論的労働党政策と衰退するイギリス経済との矛盾を明らかにした。
執筆者:都築 忠七
マクドナルド
Ranald MacDonald
生没年:1824-94
ペリー来航の5年前,1848年(嘉永1)にアメリカ捕鯨船から単身で鎖国下の日本に上陸した冒険家。父はスコットランド出身のハドソン湾会社主任交易人,母はチヌーク族長コムコムリの娘。北海道利尻島に上陸し,捕らえられて宗谷勤番所,松前を経て長崎に護送され西山郷大悲庵の座敷牢に監禁された。翌49年4月アメリカ軍艦プレブル号に引き取られるまでの6ヵ月間,森山多吉郎(栄之助)ら14名の通詞に英語を教え〈日本最初の英語教師〉といわれる。晩年《日本回想記》(1923)を執筆した。
執筆者:富田 虎男
マクドナルド
George MacDonald
生没年:1824-1905
イギリス,スコットランドの詩人,小説家。宗教的・超俗的傾向の詩を特徴とする。処女作《内と外》(1855),宗教詩《老人日記》(1880)があるが,なかでも信仰の悩みをうたう《深淵より》や《この幼き世界》の短詩で名高い。また一連の思想小説《デービッド・エルギンブロッド》(1863),《マルコム》(1875)で,スコットランドの生活を描くとともに反カルバン的神学問題を扱っている。ほかに《北風の背に乗って》(1871)や《王女と鬼》(1872)などのメルヘンもある。
執筆者:松浦 暢
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マクドナルド
Macdonald, John Alexander
[生]1815.1.11. グラスゴー
[没]1891.6.6. オタワ
カナダの政治家。初代首相 (在任 1867~73,78~91) 。近代カナダの基礎を確立したことで知られる。スコットランドに生れ,1820年アッパーカナダのキングストンに移住。 36年に弁護士の資格を得た。 44年連合カナダ植民地議会に選出されて政界に入る。保守党員として活躍,特にイギリス領アメリカ同盟を通じてカナダとイギリス本国の絆を強化しようとした。 54年以来,カナダ東部を率いる G.カルティエと結び,改革派を吸収して自由保守党を結成,57年には連合カナダ植民地の政権を担当した。しかしカナダ西部とカナダ東部が「地域代表制」をとる連合カナダ議会であったために政局は窮境に陥り,64年には「人口比代表制」を唱える政敵 G.ブラウンと連立内閣を組閣し,以後イギリス領アメリカにある全植民地の統合,コンフェデレーションに邁進することになった。「イギリス領北アメリカ条例」の枠組みが決定されたケベック会議,ロンドン会議の功を買われ,67年カナダ連邦成立にあたって初代首相に就任。当初はケベック,オンタリオ,ニューブランズウィック,ノバスコシアの4州で発足したカナダ自治領は,マクドナルドの第1期中にマニトバ,ブリティシュコロンビア,プリンスエドワードアイランドの3州を加え,太平洋から大西洋へまたがる版図を完成した。カナダ太平洋鉄道の建設を強力に推進したが,これと引替えに選挙資金を調達したことを疑われて,73年に失脚,自由党に政権を譲って下野した。しかし 78年には景気の低迷にあたり自由貿易を唱える自由党に対し,保護貿易を唱えて総選挙に勝利を得,翌年には国策 (ナショナル・ポリシー) を実施した。 80年代のカナダは H.メルシエや O.モワットらによる州権主義の主張が盛んになり,85年には L.リエルが再度反乱を起すなど分裂の危機に見舞われたが,マクドナルドはすぐれた指導力をもってカナダの統一を守り,同年カナダ太平洋鉄道も完成した。 91年総選挙で勝利を得た直後に死去。
マクドナルド
McDonald's Corporation
ハンバーガーを主力商品に展開する世界最大のファーストフード・レストランチェーン。ハンバーガーの代名詞的な存在。マック (モーリス) ,リック (リチャード) のマクドナルド兄弟が 1940年にアメリカのカリフォルニア州に開いたハンバーガーショップが前身。セルフサービス方式や調理工程のシステム化など工夫を重ね,注文後 30秒で商品を出す「スピーディサービス」,だれでも均一のハンバーガーを調理できる「サービスのマニュアル化」など,ファーストフード型サービスの原型を編み出した。 1954年ミキサーを扱う企業家 R.クロック (1902~1984) がフランチャイズ権を得て,1955年イリノイ州デスプレーンズに1号店を開設。同 1955年に新会社を設立し,1960年に社名を「マクドナルド・コーポレーション」に変更。クロックは 1961年マクドナルド兄弟から全営業権と「マクドナルド」の商標を取得した。「Q (品質) ・S (サービス) ・C (清潔) 」を理念に急速に加盟店を拡大し,1968年には 1000店舗に。 1973年朝食メニューを導入,1975年ドライブ・スルー店を開設,1990年1万店舗体制を達成。日本では 1971年に日本マクドナルドが設立され,7月,銀座4丁目に1号店がオープンした。 2004年現在,加盟店は世界 119ヵ国で3万店以上,1日あたり合計で 4700万人が利用している。同社のハンバーガーは世界中に浸透し相場の比較が容易なことから,イギリスの経済誌『エコノミスト』は国際購買力平価を比較する指標として「ビッグマック指数」を考案した。一方でアメリカ型大量消費社会やグローバル化の象徴として,各国で店舗が襲撃の対象になることもある。
マクドナルド
MacDonald, James Ramsay
[生]1866.10.12. スコットランド,ロッシーマウス
[没]1937.11.9. 大西洋上
イギリスの政治家。最初の労働党内閣の首相。家政婦の私生子として生れ,正規の教育は 12歳で終えた。 1885年イングランドへ移り,事務職についた。この頃より社会主義の団体と関係をもち,自由主義的な立場から社会主義運動に身を投じ,88年急進的政治家 T.ラフの私設秘書となり,J.ハーディとも知合いとなった。 94年フェビアン協会と,新しく結成された独立労働党に加入。加入後も議会を重視する穏健な方針を堅持した。他方,保守,自由の二大政党から独立した労働者のための独自な組織をつくることを唱え,労働者代表委員会 (労働党の前身) の創設に尽力,1900年委員会の発足と同時に第一書記に就任。 06年に委員会は労働党と改称,11年にその党首となった。第1次世界大戦に際しては社会主義の立場からイギリスの参戦に反対,党内で孤立し,党首を辞任,18年の選挙で落選。戦後再び議席を獲得,党首に返り咲いた。 24年自由党の協力を得て初の労働党内閣を組織,外相を兼任したが,いわゆる「ジノビエフ書簡」問題直後の総選挙で敗れ,同年 11月辞職。 29年の総選挙では労働党が勝利を収め,初めて単独の労働党内閣を実現させたが,31年恐慌を乗切れず辞表を出した。しかし国王から組閣を命じられ,少数の労働党閣僚を率いて保守,自由両党との挙国連立内閣 (第1次) を組織,次いで同年 10月第2次挙国内閣をつくった。 35年首相の地位を S.ボールドウィンに譲って辞任。
マクドナルド
McDonald, Arthur B.
[生]1943.8.29. シドニー
カナダの物理学者。フルネーム Arthur Bruce McDonald。ダルフージー大学で物理を学び 1964年に学士,1965年に修士の課程を経て 1969年にアメリカ合衆国のカリフォルニア工科大学で博士号を取得。カナダのチョークリバー原子力研究所研究員,アメリカのプリンストン大学教授を経て,1989年からクイーンズ大学教授,2013年から同大学名誉教授。カナダのサドベリーの鉱山地下に重水 1000tを入れたタンクを置いたサドベリー・ニュートリノ天文台 SNOを設置,1989年から台長を務め,7年間にわたって太陽からのすべての種類のニュートリノの観測をした。2001年に発表されたその結果は,太陽からの電子ニュートリノの 3分の2はほかのニュートリノに変身していることを示した。この成果により,2015年,極微の素粒子ニュートリノが質量をもつことをニュートリノ振動を見る実験ではっきり示したとして,梶田隆章とともにノーベル物理学賞(→ノーベル賞)を受賞した。
マクドナルド
MacDonald, Ranald
[生]1824.2.3. オレゴン,フォートジョージ
[没]1894.8.5. ワシントン,フェリーカウンティ
北アメリカ先住民族インディアンの血をひいたアメリカの探検家。日本渡航を企てて 1845年捕鯨船に乗組み,48年日本近海でボートに乗って北海道利尻島付近に上陸したが,捕えられて長崎に移送され,監禁中オランダ通詞 14人に英語を教えた。そのなかにはペリー来航の際の通訳となった森山多吉郎 (栄之助) ,堀達之助らがいた。 49年アメリカ船『プレブル』号で長崎を去った。のち中国,インド,オーストラリア,カナダ,アメリカで放浪生活をおくった。 W.ルイスおよび村上直次郎共編の自叙伝"Ranald MacDonald" (1923) がある。
マクドナルド
McDonald, William Joseph
[生]1904.6.17. アイルランド,キルケニー
[没]1989.1.7. サンフランシスコ
アメリカの哲学者,カトリック聖職者。ワシントン D.C.のアメリカ・カトリック大学で哲学教授 (1940~67) ,副学長 (1954~57) ,学長 (1957~67) を務め,1960~63年には国際カトリック大学連盟総裁に就任した。 1967年以降はサンフランシスコに移り,サンフランシスコ教区の補佐司教などについた。聖トマス・アクィナスによる財産の社会的価値,キリスト教哲学と現代の社会問題,人間と経済などに関する研究がある。
マクドナルド
Macdonald, George
[生]1824.12.10. アバディーン,ハントリー
[没]1905.9.18. サリー,アシュテッド
イギリスの児童文学者,詩人。スコットランドの出身。アバディーン大学で学び会衆派の牧師となり,キリスト教的寓意詩や童話を発表。主著,「軽いお姫さま」 The Light Princess (1867) を含む『北風のうしろの国』 At the Back of the North Wind (70) ,『お姫さまと山の鬼たち』 The Princess and the Goblin (71) ,『お姫さまとカーディ少年』 The Princess and Curdie (82) など。
マクドナルド
Macdonald, Flora
[生]1722. ヘブリディーズ諸島,サウスユースト
[没]1790.3.5. スカイ島
スコットランドのジャコバイトの烈婦。 1745年スコットランドからイングランドに侵入した小王位僭称者 C.E.スチュアート (ジェームズ2世の孫) がカロデンの戦い (1746) で敗れたのち,フランスへの逃亡を助け,彼女自身は一時ロンドン塔に投獄された。のち A.マクドナルドと結婚。 (→四十五年の反乱 )
マクドナルド
MacDonald, Caroline
[生]1874
[没]1931
日本 YMCA初代総幹事。カナダに生れ,世界 YMCAの幹事として 1904年に来日して,日本における YMCA創設に尽力し,その初代総幹事となる (1904) 。津田英学塾で教育にあたり,帰国後 20年に再来日して親隣館の創設と免囚の保護に貢献した。
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知恵蔵
「マクドナルド」の解説
マクドナルド
米McDonald's社のフランチャイズにより、日本国内でハンバーガーショップ「マクドナルド」を運営する企業及び、その傘下のハンバーガーショップの名称。「マック」や「マクド」の愛称で、若者や子どもたちを中心に客層を広げてきた。日本のハンバーガー市場で圧倒的なシェアを占めるとともに、ファストフード業界においても代表的存在となっている。
日本マクドナルドは、輸入雑貨商の藤田田(でん)社長らによって1971年に創業。東京銀座の1号店開店当初から、巧みな経営手腕で事業を拡大し、全国に3265店舗(2013年6月末現在)を数えるに至っている。2000年代初頭には、積極的な安売り戦略で売り上げを伸ばし、デフレ時代の勝ち組と称賛されジャスダック市場に株式を上場した。その後の景気低迷で更なる安売りを推し進めたが、奏功せず創業以来初の赤字に転落。03年には藤田氏が会長を退任し、米McDonald's社の配下で事業立て直しが進められた。以降、牛海綿状脳症(BSE)の影響や残業代不払い「名ばかり店長」などの過酷な労働環境などから顧客の信頼を失い、メニューの見直しや高額商品の投入などで一進一退を繰り返した。価格戦略の迷走もあって、現在は業績が低迷している。13年8月にはカナダ出身の女性サラ・カサノバ氏が新社長に就任し、商品価格を商圏別にきめ細かく設定することなどで売り上げ拡大を目指している。
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「マクドナルド」の意味・わかりやすい解説
マクドナルド
英国の政治家。1900年労働代表委員会書記となり,労働党の基盤形成に尽力。1906年下院議員となり労働代表委員会が改称した労働党の党首となり,第1次大戦には終始反対して党首を辞任。1918年の選挙で復帰して党首に再任。1924年自由党の支持を得て最初の労働党内閣の首相となり,内外の戦後処理に当たったが,選挙に敗れ9ヵ月で下野した。1929年労働党単独内閣で再度首相。外交面では国際協調政策をとりロンドン会議で海軍軍縮条約を成立させた。しかし内政面では経済恐慌対策に失敗,挙国一致内閣をもって危機を乗り切ったが党主流と分離し,1935年辞職した。
→関連項目挙国一致内閣|スノードン|独立労働党
マクドナルド[会社]【マクドナルド】
世界最大のファーストフードチェーン。1965年設立。米国イリノイ州を本拠に,世界120ヵ国,3万1000店以上の店舗(直営店,フランチャイズ店,関連会社の合計)を展開するグローバル企業。同社は,アメリカン・ライフスタイルのシンボルとして,しばしば取り上げられる。2011年12月期売上高270億600万ドル。日本法人・日本マクドナルド(現日本マクドナルドホールディングス)は,1971年米マクドナルド社と藤田田(ふじたでん)の折半出資で設立。同1971年,1号店を東京・銀座に開店。徹底した廉価商法で同業他社を圧倒。海外子会社の中で最大規模を有する。本社東京。店舗数3298(2011年)。2011年資本金241億円,2011年12月期売上高3023億円。
→関連項目外食産業
マクドナルド
米国の推理小説作家。《人の死に行く道》《縞模様の霊柩車》など,私立探偵ルー・アーチャー物で有名。社会病理学的洞察の鋭い正統派ハードボイルドの書き手。夫人のマーガレット・ミラーもスリラー作家。
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マクドナルド
没年:1915.9.10(1915.9.10)
生年:1852.6.12
イギリスの軍人,外交官。初代駐日大使。スコットランドの陸軍軍人の家に生まれ,陸軍士官学校に学ぶ。1872年高地連隊入隊。1882年少佐へ昇進しエジプト出兵に従軍。以来カイロ駐在総領事兼エジプト政府顧問付陸軍武官(1883~87),ザンジバル駐在官兼総領事(1887~88),オイルリヴァズ保護領長官兼総領事(1891~95)を歴任し,その間スーダン遠征や西アフリカ分割交渉に参加。1896年陸軍を退役して駐清特命全権公使となり,日清戦争後の中国における列強の利権獲得闘争,勢力圏設定に手腕を振るい,九竜,威海衛租借など幾多の成果を収める。1900年義和団の北京各国公使館包囲に対し選ばれて防衛の指揮を取り,連合軍による救援まで持ち堪える。同年10月駐日特命全権公使に転じ,翌年本省と協議のため一時帰国,日英同盟交渉への地ならしをする。日露戦争後の明治38(1905)年12月在日イギリス公使館の大使館昇格に伴い初代駐日特命全権大使。第3回同盟協約調印(1911)の翌年退官するまで11年余にわたり日英の協調関係を支えた。
マクドナルド
没年:1894.8.5(1894.8.5)
生年:1824.2.3
幕末来日のアメリカ人水夫,日本人オランダ通詞の英語教師。オレゴン州フォート・ジョージ(アストリア)生まれ。父はスコットランド生まれのアーチボルド・マクドナルド,母は先住アメリカ人チヌク族の女性。母の死後ドイツ系スイス人である父の後妻に養育された。アメリカの捕鯨船に乗り組み,嘉永1(1848)年,満24歳のとき,難船を装って当時鎖国中の日本の利尻島に上陸した。囚われの身のまま長崎に7カ月滞在後,アメリカ船に引き渡されたが,その間14名のオランダ通詞たちにはじめて生きた英語を教えた。嘉永6年ペリー来航時に通訳を勤めた森山多吉郎はそのひとり。晩年は米国北西部に住み,ワシントン州トロドで没した。<参考文献>E.E.ダイ『英学の祖―オレゴンのマクドナルドの生涯』
マクドナルド
没年:1905.1.3(1905.1.3)
生年:1836
明治期に来日した宣教医。カナダ・オンタリオ州生まれ。1864年ウェスレアン・メソジスト教会で按手礼を受ける。カナダで伝道・牧会の傍らトロント大学で医学を学ぶ。明治6(1873)年宣教医師としてG.コクランと共に来日。翌年静岡の賤機舎に教師として赴任。静岡バンドの基礎を築く。同9年県立静岡病院の医師に招かれる。同11年に一時帰国するまでに129人に洗礼を授けた。同12年再来日し東京・築地明石町に住み,築地教会(銀座教会)担当の傍ら診療所を開設。伝道と医療に大きな足跡を残した。同32年引退後も日本にとどまって医療に従事した。同37年帰国。<参考文献>太田愛人『明治キリスト教の流域』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
マクドナルド
James Ramsay MacDonald
1866〜1937
イギリスの政治家
スコットランドの農業労働者の子。1906年労働党の下院議員,11年労働党党首となったが,第一次世界大戦の参戦に反対して辞任した。1922年再び党首となり,24年最初の労働党内閣を組織し,29年第2次労働党内閣を組織したが,恐慌対策で党の方針に反して脱党し,1931〜35年は労働党を除く挙国一致内閣の首相をつとめた。挙国一致内閣は,1931年に金本位制を停止し,通貨管理制をとるなど,財政の改善をはかり,同年ウェストミンスター憲章を制定してイギリス連邦を発足させた。また,国内産業保護のために,非常関税法(1931),保護関税法(1932)を制定して自由貿易から保護貿易に転換した。この間,ソ連の承認,フランス軍のルール撤退,ロンドン海軍軍縮条約の締結,1932年オタワ連邦会議の開催などを進めた。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
マクドナルド(ラムゼイ)
James Ramsay MacDonald
1866~1937
イギリスの政治家,首相(在任1924,29~31,31~35)。1894年独立労働党に加入,1900年労働代表委員会が設置されるとその書記に選ばれ,労働党の基礎を築いた。06年下院議員に当選,第一次世界大戦中は反戦を主張し続けた。24年第1次,29年第2次労働党内閣の首相となり,外交面では国際協調政策をとったが,内政面で世界恐慌対策に失敗した。31年社会政策費の削減などによる予算の均衡化を立案して党内の反対を浴び,いったん辞職,挙国一致内閣をつくって難局を乗り切ったが,労働党からは除名された。
マクドナルド(ジョン・A)
John Alexander Macdonald
1815~91
カナダの政治家,保守党員。1867年にカナダ連邦結成を指導し,初代首相となる(在任1867~73,78~91)。「ナショナル・ポリシー」を掲げて保護関税(1879年)の導入や大陸横断鉄道の完成(1885年)を実現し,初期カナダの国家的発展に尽力した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
マクドナルド Macdonald, A.Caroline
1874-1931 カナダの教育家。
1874年10月15日生まれ。明治37年(1904)YWCA(キリスト教女子青年会)ロンドン本部から派遣され来日。38年日本YWCAを創設して初代総幹事となる。女子英学塾(現津田塾大)教授をつとめた。大正4年総幹事をやめ,免囚保護事業に専念,のち社会福祉施設の親隣館を創立。病気で帰国し,1931年7月18日死去。56歳。オンタリオ州出身。トロント大卒。
マクドナルド MacDonald, Ranald
1824-1894 アメリカの冒険家,英語教師。
1824年2月3日生まれ。嘉永(かえい)元年(1848)遭難をよそおい蝦夷地の利尻(りしり)島に上陸したが,捕らえられて長崎におくられる。アメリカ軍艦にひきわたされるまでの約半年間,森山多吉郎らオランダ通詞に英語をおしえた(日本最初の英語教師)。1894年8月5日死去。70歳。オレゴン州出身。著作に「日本回想記」。
マクドナルド Macdonald, Davidson
1836-1905 カナダの宣教師,医師。
トロント大で医学をまなび,カナダ-メソジスト派教会から派遣され,明治6年(1873)来日。7年静岡県の私塾賤機(しずはた)舎の英語教師,9年静岡病院顧問となる。一時帰国ののち,東京築地(つきじ)で医療と伝道にあたった。37年帰国。1905年1月3日死去。69歳。オンタリオ州出身。
マクドナルド Macdonald, Sir Claude Maxwell
1852-1915 イギリスの外交官。
1852年6月12日生まれ。軍人から外交官に転じ,1896年駐清(しん)公使となる。明治33年(1900)駐日イギリス公使として来日。38年公使館の大使館への昇格にともない初代駐日イギリス大使となる。大正元年引退して帰国。1915年9月10日死去。63歳。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
マクドナルド
日本マクドナルド株式会社が展開するハンバーガーショップのチェーン。アメリカ発祥。1971年、日本の1号店が東京・銀座にオープン。
出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報
マクドナルド
生年月日:1824年2月3日
インディアンの血をひいたアメリカの探検家
1894年没
マクドナルド
生年月日:1852年6月12日
イギリスの外交官
1915年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のマクドナルドの言及
【児童文学】より
…少年小説もまたT.ヒューズの《トム・ブラウンの学校生活》(1857),R.バランタインの《サンゴ島》(1857),ウィーダOuidaの《[フランダースの犬]》(1872),シューエルA.Sewellの《黒馬物語》(1877)のあとをうけて,R.L.スティーブンソンの《[宝島]》(1883)で完成した。架空世界を取り扱った物語は,J.インジェローの《妖精モプサ》(1869),G.マクドナルドの《北風のうしろの国》(1871),R.キップリングの《[ジャングル・ブック]》(1894),E.ネズビットの《砂の妖精》(1902),K.グレアムの《たのしい川べ》(1908),J.M.バリーの《ピーター・パンとウェンディ([ピーター・パン])》(1911),W.デ・ラ・メアの《3びきのサル王子たち》(1910)にうけつがれ,ファージョンE.Farjeon《リンゴ畑のマーティン・ピピン》(1921)は空想と現実の美しい織物を織り上げた。さらにA.A.ミルンの《クマのプーさん》(1926)が新領域をひらき,J.R.R.トールキンの《ホビットの冒険》(1937),《[指輪物語]》(1954‐55)は妖精物語を大成する。…
【労働党】より
…これは,自由主義から社会主義へ組合を改宗させるため[独立労働党]を中心に推進された運動の直接の成果だが,他方,不熟練労働者の〈新組合運動〉に挑戦する雇主側の攻勢および法的制裁に対し組合のとった自衛措置でもあり,階級闘争の産物だった。書記長[J.R.マクドナルド]と自由党指導部との間で締結された秘密選挙協定が効を奏し,06年の総選挙では,自由貿易圧勝の波にのり29人の議員を当選させ,〈労働党〉と改称した。しばらくは〈リベラリズムの侍女〉の地位に甘んじ,自由党の社会改良政策に追従した。…
※「マクドナルド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」