デジタル大辞泉 「恥」の意味・読み・例文・類語
はじ〔はぢ〕【恥/▽辱/▽羞】
2 それによって名誉や面目が損なわれる行為・事柄。「家の―」「生き―」
[類語](1)
翻訳|shame
人は、恥ずかしいという感情を味わうことによって、そのような思いを二度としないようにふるまおう、という気持ちになるものである。そうした場合の一種の行為規範をいう。つまり、恥をかかないようにしようとする意識によって行為が導かれたとき、その意識内容をさして「恥」というのである。
[濱口恵俊]
人間は恥を知っている唯一の動物だといわれることがある。その場合、恥というのは、人前で恥ずかしい思いをするという、単なる感情体験をさすのではない。むしろその恥じらいの体験をもとにして、その後における自分の行為を方向づけるモラルなのである。
元来恥ずかしいという感情は、目だった行為をしたり皆の前で失敗をしでかしたりしたとき、あるいは自己の欠点や醜いと思っている容姿が指摘されたときにおこる。前者では、その行為によって自分に対する評価が下がるかもしれないことを恐れているのであり、また後者では、他人に対する自己の劣位が知らされることになる。いずれにせよ、自分についての自己評価が、他者との関係のなかで相対的に低下するとき、恥ずかしいという気持ちがおこるのである。いいかえれば、恥ずかしさというものは、当人の自尊心が対人関係のなかで損なわれるような状況で生じる。要するにこのような羞恥(しゅうち)心は、人の笑いものになったり、世評が悪くなることを心配する気持ちと結び付いており、したがってまた、人の目による批評は、社会的な行為を方向づけるうえで大きな規制力をもつことになる。そこで、恥ずかしいという感情は、人のうわさや嘲笑(ちょうしょう)を恐れるという「恥」の意識に転化されるに至る。
この点に関して、アメリカの文化人類学者ベネディクトは、次のように述べている。「恥は、他の人々の批評に対する反応である。他人から公然とあざけ笑われ、値打ちがないといわれるか、あるいは、あざけられたと思い込むか、そのいずれかによって、人は恥辱を被る。どちらの場合でも、恥はよく効く道徳的拘束となる。だが、それには、実際に人前のことであるか、それとも少なくとも人前でのことだと思い込むか、といった条件が必要である」(『菊と刀』)。つまり、周りの他人を想定し、その嘲笑(本人にとっては恥)を回避しようとするわけだが、それは、「自己の行動に対する世評に気を配るということ」であり、したがってまた「他人の判断を基準にして自己の行動の方針を定める」ことだ、とベネディクトはいう。
[濱口恵俊]
「恥」に基づく行動というのは、自己の行為の基準を他者の側に求めるものであり、それは、自己の内部に植え付けられた基準(良心とか宗教的なおきて)に従う「罪」行動とは対照的だとされる。「罪」行動では、自我のなかに確立された内面的基準によって自己の行為の善悪が判断される。それにもとる行為は、自責的な「罪」の意識を生み出すのである。
行為に対する内面的制裁を行う「罪」と外面的な制御を加える「恥」とは対概念になっているが、ベネディクトは、これを活用して文化の類型化を試みた。それによれば、西欧社会は「道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みにする社会」として「罪の文化」guilt cultureをもち、他方、日本の社会は「外面的強制力に基づいて善行を行う」ような「恥の文化」shame cultureに属している。前者では、悪い行いが人に知られない場合にも自ら罪悪感にさいなまれ、後者では、人前で恥をかかないようにすることが道徳の原動力になるという。モラルの根拠が内にあるか外にあるかの違いである。
しかしこのように、制裁の源が内にあるか外にあるかによって「罪」と「恥」とを分けることは、かならずしも適切ではない。なぜなら、社会学者作田啓一(さくたけいいち)(1922―2016)が述べたように、「人間はまず外側から罰を受けることによって、何が罪であるかを知るようになるからである。そしてまた、〈恥を知る人〉は自分自身で自分をコントロールするからである」(『価値の社会学』)。行動の基準が内在しているか外在のものであるかということは、「罪」と「恥」とを分ける決め手にはならないであろう。日本人の「恥の文化」においても、行為基準の外在性にもかかわらず自律的行為は十分にある、とみなしうる。名(名誉)に恥じぬよう行動したり、人知れず羞恥の念に駆られるのは、「恥」による主体的制御の現れである。さらに日本人においても、親鸞(しんらん)の思想にみられるような徹底した罪業(ざいごう)観があったし、また世俗的レベルでも、重病の親に対する悔悟の念(本当にすまなかったという懺悔(ざんげ)心)としての「罪」の意識もみいだせるであろう。ベネディクトの説は再検討される必要がある。
[濱口恵俊]
『作田啓一著『恥の文化再考』(1967・筑摩書房)』▽『作田啓一著『価値の社会学』(1972・岩波書店)』▽『濱口恵俊著『「日本らしさ」の再発見』(1977・日本経済新聞社)』▽『ルース・ベネディクト著、長谷川松治訳『定訳 菊と刀』(社会思想社・現代教養文庫)』
恥とは,なんらかの比較の基準にもとづく劣位の感情であり,またその劣位の観念でもある。比較されるものは人の属性(地位,容姿など),もしくはふるまい(機敏さ,勇気など)である。比較基準が特定の社会集団において一様に支持されている場合,恥の感情あるいは観念はその集団の秩序を維持する機能をもつ。たとえば,特定の状況において従うものとされている作法にかなって行動できない場合,その人の行動はこの作法の見地から劣っているとみなされ,周囲の人びとからの軽視や嘲笑(ちようしよう)を受ける。このような制裁を受けないようにするために,人は作法にかなって行動しようとするだろう。こうして集団の秩序は維持される。しかし,比較基準が多少とも個人に特有な場合もある。その場合には,周囲の人びとから軽視や嘲笑を受けないのに,人がひとりでみずからの劣位を認め,恥ずかしい思いをすることもありうる。それゆえ,恥の感情を周囲の人びとに対する卑下だけに結びつける恥の概念は一面的である。人は自己の内部の理想像に照らし合わせて,劣位を認め,恥じることもある。
比較基準が自己の所属している集団の基準として集団内に一般化しているか,それとも多少とも個人に特有のものであるかの区別により,公的な恥と私的な恥とを区別することができる。しかし,私恥といっても社会的状況からまったく切り離されて経験されるものではない。それは公恥が,反応する小状況(所属集団)を超えた遠くの大状況に対して反応しているのである。人がその前で恥じる理想像は,この大状況の人格化にほかならない。
人はしばしば広がりを異にした二つの状況の中におかれることがある。その場合,即座に異なった反応を行わなければならないので当惑する。家の中で見なれた肉親と街頭で出会う場合はその一例である。その際,何かの比較基準によって劣位の感情が伴うなら,この当惑は恥じらいとなる。画家の前のモデルという大状況において,男としての視線を感じるときのモデルの恥じらいを,M.シェーラーは一例として挙げている。恥は一つの状況に対する反応であるが,恥じらいは同時に二つの状況を意識するときに起こる。
R.ベネディクトは西欧型の〈罪の文化〉に対して,日本文化は〈恥の文化〉であると規定した。この比較は前者の大状況志向と後者の小状況志向との対比にもとづいている。確かに,一神教が支配する西欧文化圏においては,人びとの大状況志向は日本人よりも相対的に強いといえるかもしれない。しかし,大状況に反応する恥を日本人が知らないわけではない。それゆえ,小状況と大状況を同時に意識するところから出てくる日本人の恥じらいにも注目する必要がある。柳田国男によれば,〈にらめっこ〉は日本人が恥じらいを克服するために考案した独特の遊びであるという。この説が正しいとすれば,恥じらいは,日本の民俗社会において古くから広がっていた行動様式であるといわなければならない。
執筆者:作田 啓一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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【文化型と国民性】
社会構造における以上のような日本的特色は,文化とパーソナリティのレベルに,その成立基盤をもっていると考えられる。
[〈恥の文化〉論]
日本の文化の基本的特徴を最初に指摘したのは,アメリカ文化人類学者,R.ベネディクトであった。ベネディクトは,その著《菊と刀》の中で,日本文化の型を,欧米の〈罪の文化guilt culture〉と対比して〈恥の文化shame culture〉だと断定した。…
※「恥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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