片山村(読み)かたやまむら

日本歴史地名大系 「片山村」の解説

片山村
かたやまむら

[現在地名]吹田市片山町二―四丁目・はら町一―四丁目・上山手かみやまて町・朝日が丘あさひがおか町・藤が丘ふじがおか町・千里山東せんりやまひがし三―四丁目・山手やまて町一丁目・同三―四丁目・出口でぐち町・竹谷たけだに町・佐井寺南が丘さいでらみなみがおかなど

吹田村の北、千里丘陵南東部に立地。全村ほぼ標高五〇メートル前後の起伏のある地形。村の南端は南に開けた傾斜地で、亀山かめやま街道と一部接する。東は吉志部きしべの諸村、西は豊島てしま垂水たるみ村。

〔中世〕

摂関家領垂水東たるみのひがし牧に属した。延応二年(一二四〇)四月二九日の三船恒道田地寄進状(勝尾寺文書)によれば、垂水御牧片山村内舎人田字俗井の新開田一反の加地子分を三船恒道(片山宗介)勝尾かつお(現箕面市)に寄進している。「俗井」は現在の片山・山手・朝日が丘の各町が接する地域で当時は山間部にあたる。丘陵南部の吹田地区と接する地域には倉殿くらどの庄が散在していたようで、寛正二年(一四六一)一二月二六日の中島崇禅寺領目録(崇禅寺文書)の倉殿名一色方の名田の四至には片山方下地・岳本方下地・片山祐慶庵田がみえ、公事米の一部は片山静優庵へ弁済しており、片山村の土豪・寺庵の所有地があった。また、丘陵南西端は奈良興福寺領吹田庄と接し、玉林ぎよくりん(玉林寺)があった。

片山村
かたやまむら

[現在地名]池田町片山

市橋いちはし村の北西に位置する。年未詳の大般若波羅蜜多経奥書(上諏訪神社蔵)に「枳束庄片山郷八幡宮」とある。枳束きつか庄の比定地は不明だが、保元三年(一一五八)一二月三日の官宣旨(石清水文書)には山城石清水いわしみず八幡宮ならびに宿院の極楽寺(跡地は現京都府八幡市)の庄園の領家・預所・下司・公文などが違乱し掠領を企てることを禁じた宮寺領の一つとして、美濃国枳束庄とみえる。天正一七年(一五八九)豊臣秀吉は蔵入地九千三二八石余の支配を市橋長勝にゆだねているが、同年一一月二一日の美濃国御蔵入目録(内閣文庫蔵)には片山村一千一八八石余とある。天正年間と推定される龍徳寺々領目録控(龍徳寺文書)には片山二〇貫文と記される。

慶長四年(一五九九)の豊臣氏大老連署知行充行状案(毛利家文書)では当村のうち一千石が池田勝吉に与えられ、同一五年の大久保長安替地目録(菅沼文書)では当村一千三四五石余などが「市江嶋」替地として菅沼定芳に与えられている。

片山村
かたやまむら

[現在地名]高月町片山

熊野くまの村の西、琵琶湖塩津しおつ湾口東岸に位置し、湊がある。湊の後背はしずヶ岳から山本やまもと山に連なる山地。片山坂の峠越えで熊野村に通じる。対岸の葛籠尾つづらお崎の段丘山地の一部は当村の飛地。「延喜式」神名帳の浅井あざい郡「片山カタヤマノ神社二座」は当村の片山神社に比定され、平安時代は浅井郡に属していたとみられる。寿永二年(一一八三)木曾義仲を迎え討とうとした平氏の軍勢が片山、飯浦はんのうら(現木之本町)、塩津(現西浅井町)を通っており(「源平盛衰記」巻二八)、古くから湖上交通が開かれていた。建武元年(一三三四)一二月二二日、菅浦すがうら(現西浅井町)供御人平四郎が片山浦へ入津したところ春近伯耆房が国司代官と号し船を押取っている(菅浦文書)

片山村
かたやまむら

[現在地名]新座市さかえ一―五丁目・池田いけだ一―五丁目・栗原くりばら一―六丁目・野寺のでら一―五丁目・片山一―三丁目・道場どうじよう一―二丁目・石神いしがみ一―五丁目・ほりうち一―三丁目・馬場ばば一―四丁目・畑中はたなか一―三丁目・野火止のびどめ八丁目・新塚にいづか

野火止宿の南、北東流する黒目くろめ川が武蔵野台地を開析した沖積低地にある。中世の片山郷が近世初期にそのままの範囲で一村となったとみられる。田園簿では田五七六石余・畑六五五石余。旗本桜井(一〇〇石)・神谷(一〇〇石)・田中(二五〇石)・荒川(五〇石)・木村(二〇〇石)・柘植(一五〇石)・小野(五〇石)・米津(三〇石)の八氏領と幕府領(三〇〇石)

片山村
かたやまむら

[現在地名]河原町片山

霊石れいせき(三三三・五メートル)の南西麓、北流する千代川東岸に位置する。北は稲常いなつね村、南は八東はつとう川を挟んで今在家いまざいけ村・徳吉とくよし村。支村として坂根さかねがある(因幡志)。拝領高三八七石余、本免六ツ一分。円山氏・藤野氏・秋田氏・本部氏の給地があった(給人所付帳)。家数は宝暦一一年(一七六一)の巡見使案内懐中鑑(西郷小学校蔵)で四一軒、「因幡志」では四八軒。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高三〇四石余、竈数三五(うち神主二)。天保三年(一八三二)の山林は一町九反余、藪役一二匁四分・川役二石二斗余を課されていた(藩史)

片山村
かたやまむら

[現在地名]龍野市龍野町片山

日飼ひがい村の東に位置し、北は沢田さわだ村。揖東いつとう郡に属する。北部にひがし山がそびえ、山頂から家島いえしま諸島が眺望できる。山頂には千畳敷せんじようじきとよばれる所があり、現在山麓にある小宅しようたく寺があった所と伝える。集落は南麓に広がる扇状地に立地し、田畑は集落の南部および東部を南流する林田はやしだ川の両岸に広がる。中世には小宅おやけ庄に含まれた。文和三年(一三五四)三月日の小宅庄三職方絵図(大徳寺文書)に、京都大徳寺領の小宅庄のうち一五条一五坊二五坪の地について「西号片山」とみえる。また一五条一六坊一坪の地に「号片山堂」とみえ、一四世紀後半の小宅庄三職方絵図(同文書)には同所に一軒の建物が描かれている。

片山村
かたやまむら

[現在地名]柏原市片山町・石川いしかわ町・玉手たまて

安宿部あすかべ郡の北西端、北東流する石川と北流する大和川に囲まれた地域。玉手山たまてやま丘陵の北端にあたる。村中を通る長尾街道は、亀瀬かめのせ峠越竜田たつた道で大和から河内国分こくぶへ入ったあと片山を通り、石川を越えて堺方面へ向かう。古代には石川を渡るとすぐ河内国府(現藤井寺市)となる。街道のすぐ南の高台に片山廃寺跡がある。産土神の春日神社と薬師堂の付近になる。いま薬師堂の境内には塔心礎や側柱礎石がある。伝承では慶雲四年(七〇七)の建立で、天喜三年(一〇五五)に焼失したという(「益池家系図」同家文書)

片山村
かたやまむら

[現在地名]小野市片山町

小野町の西に位置し、加古川左岸の標高約三〇メートルの河岸段丘面南西端に立地する。南は大部前おおべまえ村。小野藩陣屋を東に仰望する地に集落を形成する。耕地は段丘面と加古川に接する沖積地を中心として広がる。室町期から大部おおべ庄内の地名としてみえ、庄域推定地域の南西部に位置する。永享六年(一四三四)八月日の大部庄公文恒清・伊王名夏地子納帳(東大寺文書)に、片山の彦大夫・又二郎・庄司大夫・大郎大夫の四人の百姓名がみえる。

片山村
かたやまむら

[現在地名]能勢町片山

栗栖くるす村の南に位置し、南東流する山辺やまべ川が南流する大路次おおろじ川と合流する付近の右岸域にあたる。南にある下田しもだ村は、延宝七年(一六七九)当村から分村したとの説があるが(大阪府全志)、不詳。西のしろ山山頂には片山城跡がある。応仁年中(一四六七―六九)塩山肥前守景信が築いたと伝える(同書)。また御門第みかどやしきと称する所があり、応仁の乱に公家が戦乱を逃れて来た所という(同書)。能勢郡西郷郷士覚書写(東家文書)によれば、当村に南北朝初期と推定される塩山なる地侍の名がみえるほか、計一六名の名があげられる。

片山村
かたやまむら

[現在地名]清水町片山

朝宮あさみや村・田尻たじり村の南、三方みかた丘陵の東麓に位置する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高九五〇石と記される。正保郷帳によれば田方七七八石余・畠方一七一石余。正保二年(一六四五)福井藩領から松岡藩領となり、享保六年(一七二一)再び福井藩領、明和元年(一七六四)には村高のうち四九〇・七六四石が三河国西尾藩領となり、天保郷帳の段階では幕府領と福井藩領との分郷になっている。

片山村
かたやまむら

[現在地名]二丈町片山

深江ふかえ村・深江町の北に位置し、東は松末ますえ村。暦応三年(一三四〇)三月日の重富正高軍忠状(重富文書/南北朝遺文(九州編)二)に「片山村」とみえ、深江種長が焼払っている。一六世紀後半に中国明で編纂された「図書編」(文淵閣四庫全書子部)にみえる「加打野馬」は当地と考えられる。寛文四年(一六六四)の肥前唐津藩主大久保忠職の領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、元禄国絵図では高六六一石余。

片山村
かたやまむら

[現在地名]吉井町片山

小棚こたな村の東、北はかぶら川を隔てて甘楽かんら岩崎いわざき村と対し、南東は本郷ほんごう村に接する。西端で田口たぐち川と白倉しらくら川が合流して鏑川に注ぐ。武蔵七党の有道姓(児玉・秩父系)に片山直行がみえ(武蔵七党系図)、この地に台頭した武士とみられる。弘安八年(一二八五)一一月の霜月騒動で安達泰盛方に参加した者に片山五郎左衛門尉基重がいる(同系図)。永和五年(一三七九)七月、春近領であった「片山ノ西ノ村」は関東管領上杉憲方によって鎌倉鶴岡八幡宮に寄進されている(頼印大僧正行状絵詞)。寛文郷帳は幕府領で、田方一五五石二斗余・畑方四五一石四斗余。江戸後期の御改革組合村高帳では同領・吉井藩領などの五給。

片山村
かたやまむら

[現在地名]今治市片山・常盤ときわ町八丁目

今治平野の西部、蒼社そうじや川の北岸に位置し、村の大半は平坦地である。東は馬越うまごえ村・日吉ひよし村、西は小泉こいずみ村に挟まれて南北に細長く、北は低い丘陵で山路やまじ村、南は蒼社川で八町はつちよう村に対している。丘陵先端には弥生前期の片山貝塚があり、背後には古墳群が続いている。村の大半は条里の遺構が明瞭であるが、南部は蒼社川の氾濫もあって条里は明瞭でない。

片山村
かたやまむら

[現在地名]南国市片山

香長かちよう平野の南部、物部ものべ川の新期扇状地上にある農村。北はおおそね村、東は上田かみた村、南は蚊居田かいだ村、西は下田しもだ村。「土佐州郡志」は「東西二十町南北十七町」「其地砂土」と記す。「和名抄」記載の古代の片山郷の地に比定される。南北朝時代には九条家の荘園となっている。天正一六年(一五八八)の片山郷地検帳によれば検地面積八四町七反三五代五歩、うち畠一町三〇代、そのほかは田・屋敷である。屋敷数一一二、うち居屋敷六六。片山氏をはじめ二一名の在地給人がおり、ほかは多数の非在地給人に分与されている。

元禄地払帳によると総地高九一一石余、うち本田高八四七石余・新田高六四石余。

片山村
かたやまむら

[現在地名]鯖江市片山町

高雄たかお山の西北麓にあり、村内を河和田かわだ川が西南に流れる。北は西袋にしぶくろ村、西は小坂こさか村・莇生田あぞだ村に接する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では川田かわだ庄に含まれる。正保郷帳に村名がみえ、田方四一石余・畠方三五石余。初め福井藩領、貞享三年(一六八六)幕府領。元禄五年(一六九二)土岐頼殷領、正徳二年(一七一二)幕府領、享保五年(一七二〇)から鯖江藩領。同六年の庄境組三三ケ村明細帳(市橋家蔵)によれば、上田二反余・中田八反・下田一町二反余、上畑六反余・中畑三反余・下畑一町二反余。

片山村
かたやまむら

[現在地名]山南町山本やまもと

仲間なかま村の西にある。正保郷帳に村名がみえ田高一〇九石余・畠高五二石余、林あり、日損・水損少しあり。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)までの領主の変遷は南嶋みなみじま村に同じ。天和二年(一六八二)まで幕府領で、同年旗本大久保領に代わり、享保一一年(一七二六)には再び幕府領に復する。同二〇年安房北条藩水野家(文政一〇年上総鶴牧藩)領となり、鶴牧藩領として幕末を迎える(鶴牧藩大概帳など)

片山村
かたやまむら

[現在地名]山崎町片山

揖保いぽ川の支流伊沢いさわ川の中流左岸に位置し、南東は上町かみまち村。下村氏手控帳(下村家文書)に「下牧谷ノ内片山村」とみえ、下牧谷しもまきだに本村の項には「寛文八戊申ヨリ村二ツ成」とあり、寛文八年(一六六八)下牧谷村から分村したことが記される。元禄郷帳には「古ハ下牧谷村」と注記があり、高九九石余。寛文八年以降山崎藩領として幕末に至る(旧高旧領取調帳など)。前掲手控帳によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には四ツ成高一六六石余、田七町九反余・畑四町二反余、小物成銀一一七匁余(茶役五八匁余・山畑役二四匁余・楮役一五匁余・紙舟役一六匁余・鉄砲役二匁・栗役三分余)・桑役(真綿)一四二匁余、家数一七・人数九七、馬一・牛一〇。

片山村
かたやまむら

[現在地名]大館市片山

米代川と長木ながき川の合流点に近く、大館舌状台地北部に位置する。慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)の御知行方之事に「片山彦四郎 五十四石六斗 片山村」とある。片山彦四郎はもと浅利氏の家臣であったが、浅利氏滅亡後秋田氏に服属したものと思われる。村内のふたッ山東側に中世後期の館跡が現存、「郷村史略」によれば浅利氏の家臣片山弥伝治が居住したという。

享保一五年(一七三〇)の戸数二七軒(六郡郡邑記)、以下寛政五年(一七九三)五一戸、一七一人、安政四年(一八五七)五五戸、一八〇人、同七年六二戸、三六三人(大館市史)

片山村
かたやまむら

[現在地名]沼南町片山

手賀てが沼南岸に位置し、村の東西を同沼から入り込む谷津が画する。それぞれの谷津を挟み東は手賀村、西は下柳戸しもやなど村。慶安(一六四八―五二)頃の成立とされる高城胤忠旧知行高付帳に「片山村高七拾五石」とある。元禄一〇年(一六九七)旗本松前領となり(湯浅家文書)、以後同領のまま幕末に至った。元禄郷帳では高一七九石余。天保一四年(一八四三)の村明細帳(深山家文書)によれば高一七五石余、反別は田方一五町一反余。

片山村
かたやまむら

[現在地名]静岡市片山

有度山うどさん丘陵西麓に位置し、南は宮川みやがわ村。西縁は大谷おおや川上流部にあたる。大谷村から分村したとの説があり(「駿河記」など)、同村・宮川村とともに大谷三ヶ村と称された。元和六年(一六二〇)久能山東照宮領となる経緯は大谷村と同じ。元禄郷帳では高四一五石余。国立史料館本元禄郷帳では東照宮領。以後変化なく幕末に至る。延享二年(一七四五)からの開発の経緯は宮川村と同じ。村内に東照宮の御林があり、寛政一〇年(一七九八)駿府城代の東照宮参拝の際に宮川村とともに護摩木用の杉苗の植付が命じられて以来、手当金一両二分が年々下付された(増田家文書)

片山村
かたやまむら

[現在地名]北条市片山

河野こうの川と高山こうやま川の間の下流部に位置し、丘陵の裾に集落がひらけている。別府べつぷ常保免じようほうめん中須加なかすかの村々に囲まれる農村。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「片山村」とみえ、村高は一四四石五升、うち田方一二八石五斗七升、畑方一五石四斗八升とある。天保郷帳では一四六石三斗六升六合となっている。

片山村
かたやまむら

[現在地名]新城市片山

新城町の北約一・二キロ、雁峯かんぼう山麓の台地上にあり、新城より作手つくで(現南設楽郡作手村)に至るいわゆる新城道に沿う。慶長九年(一六〇四)の検地帳(慶長九年検地帳集成)では田九町余・一〇一石余、畑・屋敷(一八筆)で一〇町一反余・一〇五石余の計二〇七石余である。村の南部は新城町の北部、いわゆる新城村裏野に接し、この方面からの入作が多く、新田開発も盛んであった。すでに寛文一〇年(一六七〇)までに五一石余の開発記録(新城市誌)があり、幕末の高は三一九石余に達している。

片山村
かたやまむら

[現在地名]中野区松が丘まつがおか一―二丁目・江古田えごた一―二丁目・上高田かみたかだ五丁目など

上高田かみたかだ村の北に位置し、東は豊島郡葛ヶ谷くずがや(現新宿区)。民家は村の北から東側に集中しており、村のほぼ北境を用水が流れ、水田に利用していた(風土記稿)。田園簿によると田方一九石・畑方一八石余、旗本細田領(幕末に至ったとみられる)

片山村
かたやまむら

[現在地名]勝本町 片山触かたやまふれ

新城しんじよう村の南に位置する。正平二四年(一三六九)の壱岐神領図(壱岐史拾遺)では惣山方本宮そうやまかたほんぐう八幡大神の神領九四町のうちとして片山村とみえる。正保国絵図に村名がみえ、高二〇〇石余。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書に新城村のうちとして片山免と記される。

片山村
かたやまむら

[現在地名]邑智町片山

西流する沢谷さわだに川南岸に位置し、西は熊見くまみ村。正保国絵図に村名がみえ、高一三〇石余。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によれば田方一一〇石余・畑方二〇石余、年貢高は米六三石余・銀一六二匁余、小物成は山手役七匁など、家数は本家二六・門屋六、人数一三六、真宗西福さいふく(現浄土真宗本願寺派)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報