コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

東南アジア史 とうなんアジアし

2件 の用語解説(東南アジア史の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

東南アジア史
とうなんアジアし

東南アジアは有史以来数回の民族移動を経験し,その最後のものは 13世紀になされた。国家形成は比較的新しく,1世紀末頃カンボジア付近に建てられた扶南国が最も古い。中国の支配下にあった北ベトナム以外は,インド文化の影響を受けた。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

東南アジア史
とうなんあじあし

東南アジアはインド文明圏と中国文明圏に挟まれた地域で、その両者からさまざまな影響を受けつつ文化を発展させてきた。16世紀以降ヨーロッパ諸国の進出が始まり、タイ以外の地域は植民地化されたが、第二次世界大戦中は日本軍の占領下に置かれた。戦後、植民地宗主国は植民地支配を復活させようとしたが、東南アジア各国は次々と独立を獲得した。
 東南アジアは東西冷戦の主要な舞台の一つとなり、独立した諸国は東西いずれかの陣営に加わることを余儀なくされたが、なかにはそのどちらにもくみしない非同盟路線を模索するものもあった。1975年にベトナム戦争が終結し、インドシナ三国(カンボジア、ベトナム、ラオス)が社会主義化すると、ほかの東南アジア諸国は警戒心を強め、すでに結成されていたASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)が強化された。しかし、1991年に旧ソ連が消滅し、冷戦が終結すると、インドシナ三国は中国に倣って「改革開放」政策をとるようになり、東南アジアに新しい時代が訪れた。東南アジアは欧米、日本の積極的な投資を受け入れ、高度経済成長の時代を迎えたが、1990年代後半、その反動で経済危機に陥った。[生田 滋]

ヨーロッパ人の渡来以前(紀元前2世紀~1500年)


インド文明・中国文明と東南アジア
紀元前4世紀にインドにマウリヤ朝(前317ころ~前180ころ)が成立してから、北インドは経済・文化の中心地となった。これに対して南インドは、同地で産出する金を北インドに輸出していたが、やがてそれだけでは足りず、東南アジアから中国にまでも貿易船を派遣し、北インドとの貿易に必要な金や絹織物を入手しようとした。こうして前2世紀の末にはベンガル湾を経て、マレー半島を横断し、インドシナ半島の沿岸を経由して中国に達する海上交通路が成立し、それによって結び付けられた各地の寄港地でそれぞれ国家の形成が始まった。ほぼ同じころ、中国では漢の武帝が前111年に現在の広東(カントン)省および北部ベトナムの地を征服し、中国の直接支配下に置いた。
 こうして形成された国家のうちもっとも有名なのは南部ベトナムにあった扶南(ふなん)国である。やがてインドでグプタ朝(320~6世紀なかば)が成立し、バラモンを担い手とし、サンスクリットを用い、大乗仏教とシバ、ビシュヌの信仰を主たる内容とするグプタ文化が形成された。これが前に述べた海上交通路を通じて東南アジアの各地に伝えられ、東南アジア諸国の文化形成の契機となった。
 450年ごろを境として、中国の国内でそれまで豊富であった金が不足するようになった。その結果、中国から東南アジア、インドへの金の流出もストップし、逆に中国のほうが略奪や貿易で金を入手しようとするようになった。この場合、中国からの輸出品は絹織物で、のちにこれに陶磁器が加わるようになった。この結果、中国と東南アジア諸国との交渉が拡大したが、中国の影響は物質面に限られた。[生田 滋]
シュリービジャヤとヒンドゥー・ジャワ文化
7世紀に入ると、アラビア、ペルシアの商船がマラッカ海峡を経由して中国に来航するようになった。その結果、マレー半島のケダー、スマトラのパレンバンが寄港地として重要となり、この2地点を中心としてシュリービジャヤ王国が成立した。
 シュリービジャヤ王国は、本質的にはマレー人が各地で海に面した河口につくった植民地の連合体であり、その範囲はスマトラ南部からマレー半島、ジャワに及んだ。このころ中部ジャワにはシュリービジャヤ王国に服属するジャワ人の国家であるシャイレーンドラ朝があった。これは中部ジャワの盆地を支配する農業国家であった。この王国の残した記念碑が8世紀末から9世紀初めにつくられたボロブドゥールである。
 中部ジャワの繁栄は、927年ころにおきた火山の噴火で終止符が打たれ、文化の中心は東部ジャワに移動した。シュリービジャヤ王国は海上貿易を支配していたが、ジャワ人の国家は農業を基盤とし、インドからの直接の文化的影響がなくなったために、バリ島の文化の影響を受けながら、独特のヒンドゥー・ジャワ文化を生んだ。11世紀の初めごろから東部ジャワの勢力が強くなり、逆にシュリービジャヤ王国を攻撃するようになった。13世紀の末に成立したマジャパヒト朝は、東部ジャワのほか、各地に成立していたジャワ人植民地をも支配下に置いた。また14世紀の末にマレー人によってマレー半島のマラッカに建設されたマラッカ王国にもヒンドゥー・ジャワ文化の影響がみられる。[生田 滋]
インドシナ半島部の諸国家
インドシナ半島では6世紀の後半に真臘(しんろう)国が興って扶南国を滅ぼした。このころイラワディ川下流にはペグー王国、チャオプラヤー川下流にはドバーラバティー王国があったが、いずれもモン人の建てた国で、真臘国はクメール人、中部ベトナムにあった林邑(りんゆう)国はチャム人の建てた国であった。
 7世紀末からアラビア、ペルシアの商船がパレンバンから中国の広州(こうしゅう/コワンチョウ)に直航するようになったために、インドシナ半島に大きな変動が生じた。まず長い間中国の支配下にあった北部ベトナムがしだいに独立の動きをみせ始め、968年には丁朝が成立して最初の独立国家を形成した。ベトナムは以後しだいに南下し、林邑国、つまり後のチャンパの富や人間や領土を略奪しつつ勢力を拡大していった。真臘国も8世紀に入って姿を消し、小国に分裂した。しかし9世紀に入るとジャヤバルマン2世によってトンレサップ湖周辺の平野を中心として農業国家アンコール帝国が建設された。帝国の最盛期はほぼ1218年ごろまでで、この間に巨大な寺院アンコール・ワット、都城アンコール・トムが建設され、その支配範囲は現在のタイ、ミャンマー(ビルマ)国境の近くにも及んだ。またこれとほぼ同じころビルマではビルマ人のパガン朝が成立し、南方上座部仏教(小乗仏教)を取り入れていた。ペグー王国を征服し、その文化を基礎として現在のビルマ文化の原型をつくりあげた。
 モンゴル帝国は1275年から1293年にかけてベトナム、ビルマに侵入し、ベトナムを一時的に支配したほか、ビルマのパガン朝を滅ぼした。モンゴル帝国はこのほかジャワにも遠征艦隊を派遣した。こうした混乱とアンコール帝国の衰えに乗じてタイ系の諸民族による国家の形成が進んだ。タイ人は1220年ごろスコータイをクメール人の手から奪ってスコータイ朝を建てた。また1292年にはチェンマイ朝が成立した。こののち1351年にはアユタヤ朝が成立し、スコータイ朝をその支配下に置いた。また1353年にはラオスのルアンプラバンを中心としてランチャン王国が成立した。タイ人は南下してマレー半島に進出したが、1450年ころにマラッカ王国により阻止された。
 さてビルマでは12世紀の末にスリランカから上座部仏教が改めて伝えられ、タイ人の間でもこれが信仰された。これはインドからの直接の文化的な影響が衰えた結果である。13世紀の後半になるとスマトラの北部でイスラムの信仰が始まった。イスラムはインド西海岸から貿易商人によって伝えられた。これからのち、イスラムは東南アジア群島部のマレー系民族の間に急速に広がった。15世紀の中ごろにはマラッカ王国でイスラムが国教として採用された。ジャワ北岸の諸都市ではジャワ人の改宗者が現れ、マジャパヒト朝は彼らの力によって滅ぼされた。[生田 滋]

ヨーロッパ勢力の進出


ポルトガルの進出
1509年ポルトガルの船隊がマラッカに姿を現したことは新時代の到来を告げるものであった。マラッカ王国は1511年にポルトガル人によって占領され、東アジア、東南アジアにおける彼らの基地となった。ポルトガル人の来航が東南アジアにもたらした最大の変化は、1550年ごろから新大陸産の銀が流入するようになったことと、1570年代以降これに加えて日本産の金銀が流入するようになったことである。これらの金銀は最終的には絹織物、陶器の代金として中国へ、また綿織物の代金としてインドへと流入してゆくのであるが、その過程で一部は東南アジアの諸王国にも蓄えられ、その経済力を強化した。またほぼ同じころから中国人の進出が始まり、全体として都市に住む人口が増えたため、米の供給地であるビルマ、タイ、ジャワなどの重要性が高まった。[生田 滋]
スペイン・オランダ・イギリスの進出
スペインは新大陸から太平洋を越えて東南アジアに来航し、香料の産地モルッカ諸島の覇権をめぐってポルトガルと争ったが、失敗に終わった。スペインは、1571年にマニラを占領し、中国との貿易に乗り出した。
 1596年にはオランダ、1600年にはイギリスの船隊の来航が始まった。オランダ、イギリス、ポルトガル、スペインはモルッカ諸島と日本・中国間の貿易の覇権をめぐって互いに争った。1623年にイギリス東インド会社はモルッカ諸島と日中貿易から撤退し、活動の舞台をベンガル湾周辺の諸国に求めるようになった。スペインは1624年に日本から追放され、マニラを基地としてフィリピン諸島の植民地化、モルッカ諸島への進出、中国・マニラ貿易の支配を試みるようになった。ポルトガルは1639年の鎖国令によって日中貿易から閉め出され、マカオを基地とする中国貿易、チモール島のビャクダンの貿易に従事した。オランダ東インド会社は鎖国令によって日中貿易からポルトガルを閉め出すことには成功したが、マカオ、マニラを占領することはできず、そのかわりに台湾にゼーランディア城を建設した。こののち東南アジアの海上ではオランダとこれに対抗するスペイン、ポルトガル、イギリス、および各地の諸王国との間での抗争が続いたが、1641年にマラッカがオランダの手に落ちるとともに一種の安定した状況が生まれた。この間にビルマでは1531年にタウングー朝が興り、ジャワでは1580年ごろにマタラム王国が成立し、いずれも農業国家として海上の国際貿易と結び付く形で権力を維持した。[生田 滋]
東南アジアにおける開発の時代
17世紀の末になると、東南アジアに大きな変化が生じた。その原因は、鎖国により日本から東南アジアに輸出される銀の量が極端に減少したことと、それとともに新大陸産出の銀を商品とするヨーロッパ諸国の貿易船が、1683年から直接中国の広州(こうしゅう/コワンチョウ)で貿易に従事することが許されるようになったことであった。その結果、東南アジア諸国から銀が姿を消し、中国に輸出される銀の量が減少した。このため東南アジア諸国では銀にかわる輸出品の開発が必要となった。その第一はアワビ、ナマコといった海産物であった。こうした海産物の採集・商品化に従事するのは海上活動に従事する人々であったが、当然のこととして労働力が不足し、それを補うための海賊活動が盛んになった。第二の商品としてはガンビール(万能薬)などの商品作物、金やその他の鉱産物があった。これらの生産にも労働力が必要であった。このようにして食糧生産に従事しない人々の数が増加するにつれて、彼らに食糧である米を供給する必要が高まり、東南アジアの経済における農業の役割が増加した。
 こうした経済構造の変化に伴って各地で支配者の交代が相次いだ。ジャワではオランダの介入もあって1755年にはマタラム王国が二つに分割され、ビルマでは1752年にコンバウン朝(アラウンパヤー朝)が成立した。1767年にはタイのアユタヤ朝がビルマに滅ぼされ、1782年にはバンコクに現在まで続くバンコク朝(ラタナコーシン朝ともチャクリ朝ともいう)が成立した。またベトナムでは1786年にタイソン(西山)党が全土を統一した。このときフランスはベトナムの内乱に介入し、1802年に阮(げん)朝(グエン朝)がタイソン党を滅ぼすのを援助した(タイソン党の乱)。[生田 滋]
東南アジアの植民地化
1652年に始まった第一次イギリス・オランダ戦争(1652~1654)から1815年のナポレオン戦争の終結まで、ヨーロッパ諸国は断続的に戦争を続けていた。戦争は海外の植民地の覇権をめぐっても戦われた。戦争遂行のために必要な軍費を調達するためもあって、各国は植民地からさらに利益をあげる必要があった。
 東南アジアで活動していたオランダ東インド会社、イギリス東インド会社、スペインにも大きな転機が訪れた。オランダ東インド会社はそれまで本国向けの重要な商品であったインド産のコショウの価格が暴落したため、それにかわる商品としてコーヒーに目をつけ、これをジャワで栽培させるようになった。さらに藍(あい)、サトウキビ、紅茶などの商品作物の栽培が始められた。このためオランダ東インド会社はジャワでしだいに領土を拡張していったが、結局それが負担となり、財政困難に陥って1799年に解散し、植民地は本国政府の直轄となった。イギリス東インド会社は中国貿易向けの商品を入手するために、東南アジア群島部への進出を試みるようになった。1819年にラッフルズがシンガポールに植民地を建設したのは、その第一歩であった。またスペインは1782年からフィリピンでタバコの強制栽培を開始した。フランスもベトナムに進出しようとしたが、イギリスが制海権を確保しているために、積極的な活動はできなかった。
 1815年のウィーン会議によって、ヨーロッパにおける戦争の時代はひとまず終了し、海上におけるイギリスの優位が明確なものとなった。東南アジア群島部では1824年の英蘭条約によってイギリス、オランダの勢力範囲が確定し、それが現在のインドネシア、マレーシア、シンガポール、ブルネイの領土として継承されている。
 オランダは1830年にベルギーが同国から分離独立したことによって経済的に大打撃を受けたので、その痛手から回復するためにジャワで植民地支配を強化し、コーヒーなどの強制栽培制度を施行して、農業開発を強行した。スペイン支配下のフィリピンではプランテーション方式によるタバコ、サトウキビの生産が行われ、大土地所有者が出現した。イギリスはインドの植民地を防衛するためにビルマを支配下に置こうとして、3回にわたるビルマ戦争を起こし(1824~1826、1852~1853、1885~1886)、これを併合した。しかしマレー半島で獲得したペナン、マラッカ、シンガポール(これをまとめて海峡植民地という)を自由港として、中国貿易に必要な商品を集荷するだけであった。またフランスはベトナムに進出するために宣教師の布教活動を援助していたが、1858年に宣教師の迫害を口実としてベトナムに武力で介入し、1862年のサイゴン条約により南部ベトナムを支配下に置いた。こうして19世紀後半には東南アジア大陸部でイギリス、フランスが争って植民地を獲得しようとした。その結果、イギリスはビルマ、マラヤを植民地とし、ブルネイ、サバ、サラワクを保護領とした。フランスはベトナム、ラオス、カンボジアをフランス領インドシナとした。シャム(タイ)は英仏両国の植民地支配の緩衝地帯として独立を維持することを認められた。一方オランダはスマトラ、バリなど、ジャワ以外の各地を、スペインはミンダナオを武力で支配下に置いた。[生田 滋]
植民地下の民族運動
19世紀後半以後の産業革命の過程で、東南アジアの植民地は宗主国に対する原料供給地として性格づけられ、その限りにおいて開発が積極的に進められた。そしてそれに必要な都市住民、農園労働者を確保するために、中国、インドから多数の労働者が導入された。日本からも明治維新後、多くの移民が東南アジア各地に進出した。彼らの多くは娼婦(しょうふ)、単純労働者、小売商人、写真屋、洗濯屋などであった。一方こうした動きに対して、まず旧支配者および支配階級からの反抗が起こったが、それらはまもなく鎮圧され、ほぼ20世紀初頭以降は積極的に欧米の文化を吸収しようという改良主義的な民族運動が始まった。そのなかで、1898年アメリカ・スペイン戦争に乗じて起こったフィリピン革命は、東南アジアにおける民族革命の第一歩を記したものとして重要であるが、これは新来の支配者アメリカによって弾圧されてしまった。
 明治維新と日露戦争が東南アジア諸国の民族主義者に与えた影響は大きい。ほぼ時を同じくしてタイではチュラロンコーン大王によるチャクリ改革が進められ、中央集権的な近代国家の建設が進められた。また東南アジア各地に住む華僑(かきょう)にも大きな影響を与えた。孫文(そんぶん/スンウェン)は彼らの支援のもとに革命運動を進めた。第一次世界大戦とその後に続いたベルサイユ会議、ロシア革命は、さらに大きな影響を与えた。戦争によって経済は発展し、またアメリカ大統領ウィルソンの唱えた民族自決の原則は人々の心をとらえた。しかしそうした希望はベルサイユ会議でまったく無視されてしまった。一方ロシア革命とそれに続くコミンテルンの活動は、各地で共産主義活動を生んだ。1926年にはインドネシア共産党の指導による蜂起(ほうき)があった。1930年にはベトナム共産党の指導のもとにゲティン・ソビエトの蜂起が起こった。同年からは世界大恐慌の波が東南アジアを襲い、経済は停滞し、生活苦からの労働者・農民の蜂起が各地で相次いだ。タイでは1932年に人民党による立憲革命が起こり、絶対王政にかわる立憲君主制が樹立された。こののち、共産主義者に対する激しい弾圧もあって、各国では政治参加の道を求める合法運動が進められ、宗主国の側もある段階までそれを認める政策をとった。1939年第二次世界大戦が始まった。1941年日本はフランス領インドシナに進駐し、東南アジアにも戦争が近づいてきた。[生田 滋]

東南アジア諸国の独立


日本軍の占領と抗日運動
1941年12月8日に始まった太平洋戦争によって東南アジアはことごとく日本軍に占領された。タイは日本の同盟国で、日本軍はここを基地として利用した。タイはさらに米英両国に宣戦を布告した。シンガポールの占領と、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、レパルスの撃沈はイギリス帝国主義といえども不敗ではないという具体的事実を人々の前に示した。一般的にいって中国系の住民は日本軍に対して激しく抵抗し、これが原因となってシンガポールなど各地で数多くの住民虐殺事件が起こった。またインド系住民は反英活動を目的として日本軍に協力する者が多かった。日本軍は軍政を効果的に行うために民族主義者などさまざまな人々の協力を求める一方で、住民の組織化、日本語による教育、軍隊もしくは補助的軍隊の編成を行った。他方、ベトナム、マラヤ、フィリピンなどでは、共産主義者を中心として抗日ゲリラ運動が組織された。さらに日本の同盟国であったタイにおいても、自由タイ運動が組織された。これらの対日協力、抗日の両面でのさまざまな活動は戦後の独立運動に直結している。
 一方日本は、フィリピンには傀儡(かいらい)政府を樹立し(1943)、ビルマには独立を与え(1943)、インドネシアにも独立を認めた(1945)。また1945年3月日本軍はフランス領インドシナを接収し、越南帝国のバオ・ダイ(保大)帝に統治権を認めた。しかしフィリピンは武力でアメリカに奪還され、ビルマでは国軍が日本軍に対して反乱を起こし、ベトナムでは1945年8月16日にホー・チ・ミン(胡志明)を代表とするベトナム民主共和国臨時政府が結成され、それらが各国のその後の政治の流れをつくっていった。インドネシアでは、日本軍からの独立の許与に基づいて1945年8月17日にスカルノ、ハッタらによって独立宣言が行われ、以後4年間にわたりオランダに抗戦することになった。[生田 滋]
アジア・アフリカ会議
日本の敗北によって太平洋戦争が終結すると、タイは対イギリス・アメリカ宣戦布告を取り消し、新しい世界情勢への適応を試みた。植民地宗主国は植民地支配を復活させようと試みたが、すでに時代は変化していた。フィリピン(1946)、ビルマ(1948)、インドネシア(1949)が独立を達成し、マラヤでも1948年にマラヤ連邦が成立した。しかしこれらの諸国では、共産主義者の指導による反政府闘争が根強く行われた。それはある場合には農民運動の形をとり(フィリピン、インドネシア)、あるいは人種対立の形をとった(マラヤ、ビルマ)。一方インドシナ半島では、フランスとホー・チ・ミンの率いるベトナム民主共和国との間にインドシナ戦争が起こった。1954年のディエン・ビエン・フー陥落でフランスは敗れ、ジュネーブ協定以降、南北ベトナムの分割が固定した。この翌年、1955年に開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)は、東南アジア諸国にとっては、長年の植民地支配を脱し、独立を達成したことを記念する集会であった。[生田 滋]

冷戦に伴う東南アジアの動き


冷戦下の東南アジア
非同盟、大国の干渉排除をうたったバンドン十原則は世界規模の冷戦という現実の前に挫折(ざせつ)を余儀なくされた。タイ、フィリピンは西側諸国の結成した東南アジア条約機構(SEATO(シアトー))に加盟して、集団安全保障体制のもとで共産主義勢力の進出に対抗しようとした。これに対してインドネシア、ビルマ、カンボジアは非同盟政策を堅持した。
 イギリスはマラヤ連邦で中国人住民を主体とするマラヤ共産党の反政府運動をほぼ鎮圧し、段階的に自治を与え、1957年に完全独立を与えた。マラヤの首相ラーマンは旧イギリス植民地全体を継承するマレーシア連邦構想をたてた。イギリスはシンガポールには自治国の地位を与えただけであったが、シンガポールはマレーシア連邦に加盟することによって完全独立を達成する道を選んだ。マレーシア連邦は1963年に成立したが、ブルネイが参加しなかったことによって最初の構想は実現せず、1965年に連邦の財政問題に反発したシンガポールが分離独立したことによってさらに後退したが、その反面現実に妥協したことによって安定度が増したことは否定できない。
 1958年にラオスで内戦が起こった。これがベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)の引き金となった。アメリカが後押ししていた右派軍が押されぎみになり、アメリカ政府は危機感をもった。さらに1960年に南ベトナム解放民族戦線が結成された。翌年アメリカはラオスから手を引き、ベトナムを冷戦の最前線と想定して、軍事顧問団の派遣に踏み切った。これが事実上のベトナム戦争の始まりとなった。やがて南ベトナムにおける武力衝突が本格化し、1965年には米軍が介入して、本格的な戦争となった。
 非同盟諸国でも大きな変化がおこりつつあった。インドネシアではスカルノが国民統合の目標として西イリアン解放、打倒マレーシア運動などを掲げた。しかし、経済建設の失敗からスカルノ政権は苦境にたつようになった。スカルノと、政権を支える柱の一つであったインドネシア共産党が企てたとされるクーデター(九月三〇日事件)の失敗により、共産党はきびしい弾圧を受け、スカルノは大統領の席をスハルトに譲ることを余儀なくされた。ビルマでは民族間の紛争が激化し、国内の経済建設は停滞した。さらに1970年にはカンボジアでロン・ノルのクーデターでシアヌーク国王が一時追放され、非同盟諸国は一時的に姿を消した。
 ベトナム戦争はアメリカの軍事介入でしだいに拡大したが、制限戦争を強制されたアメリカに決定的な勝利を得る可能性はなかった。逆にアメリカ自体にとって戦争遂行が政治的、経済的に不可能となり、1973年のベトナム和平協定によって完全撤退への道をとることになった。北ベトナムはここで南ベトナムに攻勢をかけ、1975年にベトナム全土を支配下においた。同年ラオス人民共和国が、翌年民主カンボジアが成立し、インドシナ三国が社会主義国家となった。
 これより先1967年にインドネシア、マレーシア、シンガポール、フィリピン、タイの5か国によってASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)が結成された。ASEANは地域内協力を目的とする機構であったが、インドシナ三国が社会主義国家となると、これに対抗することがその目的の一つとなった。各国とも共産主義に対抗するためには軍事的な支配だけでは十分でないことを認識し、「上からの近代化」を通じて積極的な工業化を推進することによって、国民の不満を解消しようとした。
 米軍のベトナム撤退の決定は隣国のタイに強烈な衝撃を与えた。1973年は学生デモに端を発した革命が起こり、10年間続いたタノム政権が倒れ、一連の民主化が始まった。1976年の「血の水曜日」事件で民主化の流れはいったんストップしたが、以後しだいに民主主義が定着していった。
 インドシナ三国では勝利の栄光を帳消しにするような混乱が続き、社会主義政権の限界を示した。民主カンボジアではポル・ポト政権が人民の犠牲のもとに社会主義化を強行し、かえってベトナムの軍事介入を招くことになった。ベトナムは中国とも対立し、社会主義国家どうしが戦争するという、ありうべからざる事態が生じた。国内で強行された社会主義化は多数の難民を発生させ、国際的非難を受けるようになった。ASEANはさまざまな形でこうした混乱に対処し、その存在価値を示した。[生田 滋]
冷戦の終結と東南アジア
1987年にベトナムは中国の「改革開放」政策に倣ってドイモイ(刷新)を採用し、市場経済を導入した。1988年のクーデターにより政権を掌握したビルマの軍事政権は、1989年国名をミャンマーに改称した。1985年旧ソ連でゴルバチョフが書記長に就任すると、米ソの接近が決定的となり、半世紀にわたった東西の冷戦に終止符が打たれた。それとともに東南アジアではASEANを舞台とする地域協力が促進されるようになった。
 冷戦が終結した結果、東南アジア諸国の経済がいわば軍需主導型から民需主導型に転換した。日本を含む先進国の対東南アジア投資が増加し、華やかな経済発展の時代が訪れた。それに伴って各国とも経済の中心が第一次産業から第二次産業へと移行するようになり、社会的には都市に住む中間層が増加した。それまで「上からの近代化」を推進してきた強力な指導者による政治に対する反発が生まれ、各国でより広い民意を反映する政治への模索が始まった。こうしたところに1995年ごろから急成長への反発としての金融危機が起こり、経済発展も一時停滞する状況になった。しかし、1990年代後半にはもち直し、1999年に開かれたASEAN蔵相会議では加盟国全体の景気回復が宣言された。[生田 滋]
『石井米雄著『世界の歴史14 インドシナ文明の世界』(1977・講談社) ▽永積昭著『世界の歴史13 アジアの多島海』(1977・講談社) ▽和田久徳・生田滋他著『東南アジア現代史』(1977~1983・山川出版社) ▽大林太良編『東南アジアの民族と歴史』(1984・山川出版社) ▽石井米雄他監修『東南アジアを知る事典』(1986・平凡社) ▽桃木至朗著『歴史世界としての東南アジア』(1996・山川出版社) ▽石沢良昭・生田滋著『世界の歴史13 東南アジアの伝統と発展』(1998・中央公論社) ▽池端雪浦編『東南アジア史2 島嶼部』新版(『世界各国史6』1999・山川出版社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

東南アジア史の関連キーワード東南アジア東南アジア条約機構松本信広東洋音楽アジア風邪アジアダラーアジアハイウエーアジアンポップス東南アジア学会東南アジア考古学会

今日のキーワード

大寒

二十四節気の一つ。元来,太陰太陽暦の 12月中 (12月後半) のことで,太陽の黄経が 300°に達した日 (太陽暦の1月 20日か 21日) から立春 (2月4日か5日) の前日までの約 15日間で...

続きを読む

コトバンク for iPhone

東南アジア史の関連情報