松阪(読み)マツサカ

デジタル大辞泉 「松阪」の意味・読み・例文・類語

まつさか【松阪】

三重県中部、伊勢湾に臨む市。もと紀州藩城代の城下町で、参宮・熊野・和歌山の三街道が集まる宿場町、また伊勢商人根拠地として繁栄。松阪牛の産地。本居宣長旧宅などがある。人口16.8万(2010)。
[補説]古くは「松坂」と書いた。

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精選版 日本国語大辞典 「松阪」の意味・読み・例文・類語

まつさか【松阪・松坂】

  1. ( 「まつざか」とも )
  2. [ 1 ]
    1. [ 一 ] ( 松阪 ) 三重県中央部の地名。伊勢平野の南端にあり、伊勢湾に面する。天正一六年(一五八八)蒲生氏郷が松坂城を築城し、商業を奨励したことから伊勢商人の本拠地となり、熊野・和歌山・参宮の三街道の合する宿場町として発展。江戸時代は紀州藩の代官所が置かれた。松坂木綿の伝統を受け紡織業が盛ん。和牛・万古焼が知られる。鈴屋(本居宣長の旧宅)・瑞巖寺がある。古くは松坂と表記した。昭和八年(一九三三)市制。
    2. [ 二 ] ( 松坂 ) 京都市東部、粟田口(現在の京都市東山区)と山科(現在の京都市山科区)を結ぶ日ノ岡峠西側の坂路の旧称。京の方から峠を上る東海道の急坂。
  3. [ 2 ] 〘 名詞 〙
    1. まつさかじま(松坂縞)」の略。
      1. [初出の実例]「元服の仕着せ松坂こへたなり」(出典:雑俳・柳多留‐二四(1791))
    2. まつさかおんど(松坂音頭)」の略。
      1. [初出の実例]「わしらが国のおけさ松坂(マツザカ)甚九などは」(出典:滑稽本・旧観帖(1805‐09)初)
    3. 越後を中心に東北地方に分布する祝い唄。秋田では荷方(にかた)節、津軽では謙良節ともいう。
    4. 寛文(一六六一‐七三)の頃流行した編笠。〔随筆・むかしむかし物語(1732頃)〕

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改訂新版 世界大百科事典 「松阪」の意味・わかりやすい解説

松阪[市] (まつさか)

三重県中央部の市。2005年1月旧松阪市と飯高(いいたか),飯南(いいなん),嬉野(うれしの),三雲(みくも)の4町が合体して成立した。人口16万8017(2010)。

松阪市南西部の旧町。旧飯南郡所属。人口5555(2000)。台高山脈の連山を境として奈良県に接する。町域の大部分紀伊山地に属する山地で,町の中央を東流する櫛田川とその支流の蓮(はちす)川沿いに集落が形成される。耕地面積が極端に少なく山林が町域の9割をこえるため林業が基幹産業となっている。土壌,気候ともに好条件に恵まれ,吉野杉に匹敵する良質の杉材を産出し,またみがき丸太材の生産も盛ん。良質で知られる香肌(かはだ)茶の栽培も行われる。櫛田川に沿う国道166号線は近世の和歌山街道で,伊勢参りの客でにぎわい,宮前,波瀬,七日市などの集落が宿場町として栄えた。町全体が香肌峡県立公園に,西部の県境一帯が室生赤目青山国定公園に指定されている。

松阪市中部の旧町。旧飯南郡所属。人口6180(2000)。紀伊山地に属する山地にあり,町の中央部を東流する櫛田川に沿って段丘が発達する。櫛田川の谷沿いに国道166号線(和歌山街道),368号線が通じ,耕地と集落が分布する。基幹産業は林業で,伊勢茶栽培の中心地でもあり,シイタケも産する。町の大部分は香肌峡県立公園に含まれ,渓流と緑につつまれた自然美を呈している。来迎寺や医王寺,道専寺などの古寺があり,来迎寺の銅鐘と粥見本郷のかんこ踊は県文化財に指定されている。

松阪市北部の旧町。旧一志郡所属。人口1万7884(2000)。北東部は伊勢平野に属する沖積低地で,南西部は高見山地の北東端に当たる山地である。集落は北東の平野部と町の中央を流れる雲出川の支流中村川沿いに形成されている。町名は倭姫命(やまとひめのみこと)が阿坂山の悪神を平定したという伝説に由来。古代の一志郡の中心地で,町域に古墳時代前期の古墳や7世紀の廃寺跡が多く,一志は豪族壱志氏の発祥の地といわれ,同氏一族の墳墓と思われる向山古墳(史),筒野古墳がある。基幹産業は農業で,米作を中心に蔬菜・花卉栽培が行われている。ほかに畜産も盛んで,肉牛は松阪肉として出荷される。JR名松線,近鉄大阪線・名古屋線が通じる。また伊勢自動車道一志嬉野インターがある。
執筆者:

松阪市北東部の旧市。古くは松坂と記し,〈阪〉の字も混用されたが,明治期以降〈松阪〉となる。1933年市制。人口12万3727(2000)。市域は西の紀伊山地から東の伊勢湾に注ぐ櫛田川,阪内(さかない)川の河口にまで広がる。1588年(天正16)蒲生氏郷が阪内川下流右岸に城を築き,城下町を建設したのが市街発展の基礎となる。江戸時代には市域の大部分は紀州藩領となり,松坂は紀州藩勢州領の一拠点であった。その間,周辺農村で生産された木綿を商う松坂商人の活躍は目ざましく,江戸に進出した伊勢商人の中核をなしたが,その代表は呉服商越後屋を営んだ三井家である。また参宮街道,和歌山街道,初瀬街道,熊野街道の合流点に当たったため宿場町としても栄え,現在JR紀勢本線・名松線,近鉄山田線,国道23号線,42号線,166号線,伊勢自動車道などが通り,商圏は中・南勢から熊野方面に大きく広がっている。

 工業はかつて紡織業や木材業を主としたが,1960年代に松阪港後方に造成された工業団地にガラスや機械,内陸には電器,漁網などの工場が立地した。特産の松阪肉は高級肉の代名詞とされている。松坂城跡には魚町から移築した本居宣長の旧宅(鈴屋(すずのや)。特史)や宣長記念館,殿町には護城番屋敷,本町には三井家の旧宅跡がある。宣長の奥墓(史)は山室町の妙楽寺に,宣長とその子春庭の墓(史)は新町の樹敬(じゆきよう)寺にある。
執筆者:

市域の大部分はかつての伊勢国飯高郡の東部と飯野郡を中心とする(ほかに多気・一志両郡の一部を含む)。飯野郡は,平安時代〈神三郡〉と称された伊勢神宮領3郡の一つで,飯高郡ものちに神領とされた。京と伊勢神宮を結ぶ要路にあって,飯高郡には飯高駅が設置されていたが,同駅の所在地は駅部田(まえのへた)など当市内に比定される。中世まで最も栄えたのは保曾汲(ほそくみ)(細汲,細頸(ほそくび)とも),のちに松ヶ島と呼ばれた市域北部の三渡(みわたり)川河口右岸の地である。1105年(長治2)勅使源雅実が伊勢参宮の途次〈保曹久美〉を通過しており(《雅実公記》),また九条道家の日記《玉蘂(ぎよくずい)》建暦1年(1211)6月の記事によれば,細汲には斎宮寮供御人(くごにん)が居住し,隣接する平生御厨(ひらおのみくりや)と境界を争っている。南北朝期以降,北畠氏の支配が一帯に及ぶが,戦国時代になると,1560年(永禄3)大湊(現,伊勢市)からの使船が細汲に派遣されているなど,宿場・港町として発展しつつあった。

 他方,永禄年間に北畠具教(とものり)が細汲に築城し,69年織田信長の伊勢侵攻のとき,城将日置大膳亮が同城で抵抗後,自焼したと伝え,北畠勢は阪内川上流の大河内(おかわち)城に籠城し,やがて和議を結ぶ。71年(元亀2)には北畠具教は,細汲に釜をすえた他国の鋳物師(いもじ)の営業を禁止し,蛸路(たこじ)や阿波曾(あわそ)に居住する当国の鋳物師に保護を与えている。80年(天正8)織田信雄(のぶかつ)は新たに築城するとともに細汲を松ヶ島と改名したと伝えるが,《御湯殿上日記》同年9月16日条にはすでに〈松かしま〉とみえている。のち蒲生氏郷の松坂築城まで,松ヶ島は南伊勢の政治・経済・軍事の拠点であった。しかし松坂城下建設とともに町人は松坂に移住させられ,参宮街道も松坂経由に付け替えられ,松ヶ島は一農村となった。なお市域南東部,櫛田川左岸の射和(いざわ)は,古くより多気郡丹生(現,多気町)産の水銀を原料に白粉(伊勢白粉)を製し,近世には射和商人は松坂商人と並んで多方面に活動した。
執筆者: 1584年織田信雄に代わって松ヶ島城に入った蒲生氏郷は,88年阪内川下流右岸の孤立丘陵に新たに城を築いて城下町を開き,松坂と名付けた。近江商人を呼び,近辺からも農民以外を移住させて商人町,職人町を整備し,楽市による繁栄を図った。以後,領主の交代が続いたが,1619年(元和5)古田重治が石見国浜田へ移封されて松坂藩は廃藩,以後紀州藩領になり,城代-奉行の機構によって支配された。城下町にふさわしい町の配置,外敵を防ぐ工夫を施した街路や家並みは長く残ったが,政治都市としては停滞した。やがて伊勢参宮が盛んになると参宮街道の宿場町として発展した。日野町に本陣以下の上級宿屋,平生町,愛宕(あたご)町などに平旅籠(ひらはたご),愛宕町,川井町には道者相手の遊女屋が生まれた。街道沿いに新たに形成された町もある。

 周辺農村で木綿生産が盛んになると,単なる宿場町ではなく,旧来の町々が商業地域となり,しだいに諸物資の集散と供給の機能をもつ商業都市として発達した。松坂木綿を扱う問屋町が生まれ,その活況のなかから伊勢商人が輩出,なかには江戸へ進出する者もあった。また,紀州藩の年貢米を扱う問屋もおこった。町の規模は,18世紀中ごろで戸数2300余,人口約8400,幕末で戸数3300余,人口1万1000弱であった。町奉行の下に町人身分の大年寄が置かれ,各町の町年寄,肝煎を管轄した。
執筆者:

松阪市北東端の旧町。旧一志郡所属。人口1万1158(2000)。伊勢平野のほぼ中央,三渡(みわたり)川と雲出(くもず)川の沖積低地にあり,東は伊勢湾に面する。久米などには古代条里制の遺構がみられ,中世には蘇原御厨(そはらみくりや),甚目(はだめ)御厨(御薗)など伊勢神宮領や,醍醐寺領曾禰(そね)荘があった。伊勢参宮路に沿っていた星合(ほしあい)は,中世の紀行文や和歌に名がみえる。江戸時代は津藩領と紀州藩領が入り組んでいた。海岸部には新田が開かれ,新井や笠松井などの用水路が開削された。現在も一志米の主産地として知られ,花卉・野菜栽培,養豚も盛ん。沿岸部ではノリなどの養殖も行われる。JR紀勢本線,国道23号線が通じ,都市化が著しい。1981年三重県中央卸売市場が開設された。なお,蝦夷地探検で知られる松浦武四郎は当地の出身で,小野江にその生家跡がある。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松阪」の意味・わかりやすい解説

松阪(市)
まつさか

三重県中南部にある市。伊勢(いせ)湾に面し、櫛田川(くしだがわ)左岸の河口近くに位置する。1933年(昭和8)市制施行。1948年松江、朝見(あさみ)の2村、1951年伊勢寺(いせでら)村、1952年機殿(はたどの)村、1954年花岡町と西黒部(にしくろべ)、港、松尾、東黒部、阿坂(あざか)、松ヶ崎の6村、1955年宇気郷(うきさと)村の一部と大石(おいし)、射和(いざわ)、茅広江(ちひろえ)、漕代(こいしろ)の4村、1957年大河内(おかわち)、櫛田の2村を編入。2005年(平成17)嬉野(うれしの)、三雲(みくも)、飯南(いいなん)、飯高(いいたか)の4町を合併した。新市域は東北東‐西南西方向に細長く、伊勢湾に臨む東部には沖積平野(伊勢平野)が広がるが、中央部には丘陵地が展開、西部は奈良県境から続く台高山脈(だいこうさんみゃく)や高見山地(たかみさんち)の山並みが続く山地で、市域の7割近くは山林である。中村川は市域北東部を流れて雲出(くもず)川に合流し、雲出川は津市との境を西流して伊勢湾に注ぐ。西部から南部は主に櫛田川の流域である。西部山地は室生赤目青山国定公園(むろうあかめあおやまこくていこうえん)、赤目一志峡(いちしきょう)県立自然公園に、櫛田川の中・上流域は香肌峡(かはだきょう)県立自然公園にそれぞれ指定される。

 近畿日本鉄道大阪線、名古屋線、山田線とJR紀勢本線、名松線(めいしょうせん)、国道23号、42号、166号、368号、422号、伊勢自動車道が通じ、一志嬉野、松阪インターチェンジが設置されている。

 中心市街地は伊勢平野の南部、阪内(さかない)川と金剛(こんごう)川の間にあって東に開け、西は高見山地の東麓(とうろく)で、奈良県と接する。また中部地域は、布引(ぬのびき)山地と三峰(みつみね)山地が迫り、山麓(さんろく)は丘陵地、沖積地となり水田が開ける。海岸には櫛田川、三渡(みわたり)川などが注ぎ、大口(おおぐち)港は古くから水運が発達した。現在は隣接の津港とともに重要港湾津松阪港となっている。

 1584年(天正12)近江(おうみ)(滋賀県)から蒲生氏郷(がもううじさと)が松ヶ島城に12万石で移封、1588年に南へ約3キロメートルの阪内川右岸の四五百森(よいほのもり)とよばれる小高い丘に城を移して松坂城と命名、城下町を造営した。参宮街道、熊野街道、和歌山街道を付け替えて城下に引き込み、松ヶ島の町人と神社仏閣、旧領日野の町人を移住させ、楽市・楽座制を採用して商業発展を図った。城下町は侍屋敷や町人町を区別し、鍵(かぎ)型に屈曲する狭い街路や古い家並みをいまもみることができる。大口港は物資積出し港で、阪内川は城下と結ぶ水路としてにぎわった。1619年(元和5)松坂藩は廃藩、以後紀州藩領となった。江戸時代を通じて桑名と並んで繁栄し、松坂木綿、伊勢白粉(おしろい)を扱う松坂商人(伊勢商人)は全国に名声をはせ、そのなかから豪商三井が生まれた。国学者本居宣長(もとおりのりなが)も商家の生まれで、松坂城跡の松阪公園に生家が移築され、記念館も設置されている。

 第二次世界大戦前は松坂木綿の伝統を継いで紡績業が盛況、これに紀州材・尾鷲(おわせ)材の集散・製材が加わった。戦後は港湾地区にセントラル硝子(ガラス)、東京ニッケル(現、ヴァーレ・ジャパン)、内陸に松下電器産業(現、パナソニック。松阪工場は2015年閉鎖)などの工場が誘致された。1990年(平成2)松阪中核工業団地が造成され、その後も拡張されている。海岸はノリ、アサリの産地。特産品には肉牛の理想肥育で知られる松阪肉があり、和田金牧場は観光の対象にもなっている。シメジ、モロヘイヤ、茶などの栽培が行われている。西部の飯高町地区と飯南町地区ではスギ、ヒノキなどの育成と製材が盛んである。最近手織りの松坂木綿が復活した。特別史跡に本居宣長旧宅・同宅跡、国指定史跡に宝塚古墳、本居宣長墓(山室山、樹敬寺)、向山古墳、南北朝時代の阿坂城跡、国指定天然記念物に不動院ムカデラン群落がある。また国指定重要文化財に嬉野釜生田町(かもたちょう)辻垣内(つじがいと)瓦窯(がよう)跡出土の鴟尾(しび)、白粉町来迎寺(らいごうじ)の本堂、朝田寺(ちょうでんじ)の木造地蔵菩薩(ぼさつ)立像、薬師寺の木造薬師如来立像、永善寺の木造阿弥陀如来(あみだにょらい)坐像などがある。面積623.58平方キロメートル、人口15万9145(2020)。

[伊藤達雄]

『『松阪市史』全18巻(1977~1985・松阪市)』


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百科事典マイペディア 「松阪」の意味・わかりやすい解説

松阪[市]【まつさか】

三重県中部の市。1933年市制。東部は櫛田川などが流れる伊勢平野部で,伊勢湾に面する。中心市街は1588年蒲生氏郷の松阪城築城以来城下町として発達,江戸時代には紀州和歌山藩領となり,参宮街道の宿場町,松阪木綿を扱う松阪商人の商業町でもあった。明治中期に興った繊維工業のほか製材・木工業も行われ,1960年代に臨海部や内陸部に化学,機械などの工業団地が立地,1994年松阪中核工業団地も操業を開始した。紀勢本線,名松線,近鉄山田線・大阪線・名古屋線,伊勢自動車道が通じる。周辺では米作,野菜・茶栽培,松阪牛飼育が盛ん。城跡は松阪公園。園内に本居宣長旧宅(特別史跡),本居宣長の墓(史跡),宝塚古墳(史跡)がある。古い町並みの景観が保存されており,歴史民俗資料館もある。櫛田川上流の香肌(かはだ)峡一帯は室生赤目青山国定公園に属する。2005年1月一志郡嬉野町,三雲町,飯南郡飯南町,飯高町を編入。623.66km2。16万8017人(2010)。
→関連項目大河内曾禰荘三井家

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世界大百科事典(旧版)内の松阪の言及

【伊勢商人】より

…中世,とくに近世,近江商人とならんで江戸・大坂などで活躍した伊勢松坂等出身の商人。江戸時代〈江戸に多きものは伊勢屋,稲荷に犬の糞〉といわれるほど伊勢出身の商人が多く,その商業活動が目覚ましかったが,それは中世における伊勢商人の台頭や活躍と無関係ではなかった。中世の伊勢には東国に多数分布する伊勢大神宮領から送進される年貢物の集散や陸揚げを行う大湊など港津が発達し,また畿内と東国を結節する地理的条件に恵まれたため桑名のような自治都市の成立もみられ,多くの廻船業者,問屋が輩出した。…

【十楽】より

…本来は仏語で,極楽浄土で味わえる十種の喜びをいう。鎌倉時代,越前国坪江下郷十楽名,紀伊国阿氐河(あてがわ)荘十楽房,十楽名のように,しばしば仮名(けみよう)・法名として使われた。同様の例として〈一楽名〉も見られるが,このように広く庶民の間で用いられるにつれて,十楽は楽に力点を置いて理解されるようになる。戦国時代,諸国の商人の自由な取引の場となった伊勢の桑名,松坂を〈十楽の津〉〈十楽〉の町といい,関,渡しにおける交通税を免除された商人の集まる市(いち)で,不入権を持ち,地子を免除され,債務や主従の縁の切れるアジールでもあった市を〈楽市〉〈楽市場〉といったように,〈十楽〉〈楽〉は中世における自由を,十分ではないにせよ表現する語となった。…

【三重[県]】より

…近世から続く伊勢いもや伊勢たくあん用のダイコン栽培,戦後の伊勢茶,三重サツキ,洋ラン,ニュー南紀ミカンが県を代表する特産物として知られる。ほかに北勢・中勢地方は鶏卵,豚の特産地指定を受けており,松阪牛,伊賀牛の肥育も盛んである。農畜産物の出荷先は京阪神市場が多く,名古屋市場,東京市場がこれに次いでいる。…

※「松阪」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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