浄円寺(読み)じようえんじ

日本歴史地名大系 「浄円寺」の解説

浄円寺
じようえんじ

[現在地名]美浜町南市

浄土真宗本願寺派。恵光山と号する。「三方郡誌」によれば、もと浄円道場と称していたが、延宝二年(一六七四)寺号を免許された。荒血山御霊像と称され、親鸞三五歳の作といわれる阿弥陀如来像がある。伝えによると、承元元年(一二〇七)の春、親鸞が北国巡錫のとき、荒血あらち(現福井県敦賀市)で足に傷を負っているところを救った山中やまなか(現同市)の炭焼弥五郎に与えられたもので、以後弥五郎から敦賀の水口氏に伝わり、のち美浜町宮代みやしろ園林おんりん寺に安置していたが、寛政九年(一七九七)一月九日浄円寺六世智究と園林寺住僧ともに同一の霊夢を感じて浄円寺に移したという。


浄円寺
じようえんじ

[現在地名]武雄市武雄町富岡字川良

川良かわらの中央部にある。曹洞宗。山号は月湖山。本尊薬師如来像は、開基塚崎つかざき城主一八代後藤純明の彫ったものといわれる。

かしわ岳の東南中腹に大楠があり、毎夜霊光を放っていると聞いた純明は、その楠を主材に、了然禅師を開山として、大永二年(一五二二)照叡しようえい寺を建立した。純明の実父渋江公勢は次男公政の乳母が運んできた葛湯を飲んで毒死した。


浄円寺
じようえんじ

[現在地名]豊前市松江

中津街道に面して位置する浄土真宗本願寺派の寺。山号は湯越山。本尊は阿弥陀如来。もと禅僧であった泉涌がのちに浄土真宗帰依し、四郎丸しろうまる湯越ゆごえに住したことに始まり、天正年間(一五七三―九二)に現在地に移転したという。寺庵略誌によれば、慶長一〇年(一六〇五)八月二日京都本願寺より寺号を免許され、この時には長久ちようきゆう(現大分県中津市)末寺であったという(以上「築上郡史」)


浄円寺
じようえんじ

[現在地名]作木村大山 寺谷

香淀こうよど川の支流がつくる平地の奥にあり、浄土真宗本願寺派。用池山と号し本尊阿弥陀如来。「芸藩通志」には「初め真言宗にて、大永年中山伏安部知看守せしが、後に僧となり善西と称し、宗旨改む」とある。境内老松は樹齢三六〇年と伝え、目通り周囲四・八メートル、高さ約一二メートルあり、明休の松とよばれる。

大山おおやま村には、承久の乱で隠岐島(現島根県)へ配流になった後鳥羽帝崩御の地という伝説があり、「国郡志下調書出帳」にも「此地ニ崩御ならせ給ふ由、御廟所と往古ヨリ申伝へ四ツ堂壱宇之内、高サ三尺六寸横壱尺七寸之石塔立居申候」と記し、大山村の名も王の山に由来するとしているが、用池山の山号について「芸藩通志」は、「寺の傍に小池あり俗伝に後鳥羽帝西狩の時駕を駐め給ふ、此水を供御にそなへしより、山号ともなりしといふ」と記す。


浄円寺
じようえんじ

[現在地名]楠町大字西吉部 藤ヶ瀬

ふじ寺前田てらまえだにある。浄土真宗本願寺派で竜岩山と号し、本尊は阿弥陀如来。

「注進案」によれば、開基は利円、俗名を今村新五左衛門といい、真宗に帰依。現在地にあった、中山備前守の菩提所で徹深の開基という禅宗光林こうりん坊の古跡を再建し、浄土真宗に改めたという。


浄円寺
じようえんじ

[現在地名]柏村桑野木田 福井

桑野木田くわのきだ北端、俗称した町にある。広大山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。寺社領分限帳(国立史料館蔵)によれば、元和元年(一六一五)創立で開山は良乗。なお鶴伝が承応元年(一六五二)建立したとの説もある(西津軽郡史)


浄円寺
じようえんじ

[現在地名]十和田湖町奥瀬 中通

中通なかどおり高台に位置する。実道山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「浄円寺 実道山聖寿寺末寺」とあり、藩政期には盛岡もりおか(現岩手県盛岡市)聖寿しようじゆ寺末であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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