日本古代に朝鮮半島から渡来したもっとも古い中国系の帰化氏族。後漢霊帝の子孫といい,秦始皇帝の裔という秦氏(はたうじ)とならび称せられる。東漢(倭漢)(やまとのあや)と西漢(河内漢)(かわちのあや)の両系に分かれ,その後に渡来した今来漢人(新漢人)(いまきのあやひと)を加え,巨大な氏族として存続した。東漢は,大和国高市郡を中心に勢力をひろげ,7世紀までに,坂上・書(ふみ)・民・池辺・荒田井など多くの直(あたい)姓氏族に分かれ,天武天皇の八色の姓(やくさのかばね)において忌寸(いみき)姓に改められ,8~9世紀には,坂上氏を中心に政界に地歩を占め,宿禰(すくね)・大宿禰を賜る氏もあらわれた。彼らは政界だけでなく,在地でも檜前忌寸(ひのくまのいみき)と総称され,檜前寺を氏寺とし,高市郡の郡司を歴任するなど勢力を保った。西漢は,河内国丹比・古市2郡を中心に,近接して居住し,文・武生・蔵の首(おびと)姓,船・白猪(しらい)・津の史(ふひと)姓などの各氏に分かれたが,東漢ほどの勢力はなく,八色の姓でも,忌寸をあたえられたのは文(書)首など少数にとどまった。しかし,8~9世紀に津氏が菅野朝臣(あそん)を賜り,政界で活躍し,また在地では,西琳寺(さいりんじ),葛井寺(ふじいでら),野中寺(やちゆうじ)などの氏寺を経営した。
→東漢氏
執筆者:平野 邦雄
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渡来系の氏族。東(やまと)漢氏と西(かわち)漢氏の両系があり,両者の間に同族関係はないと考えられる。東(倭)漢氏は阿知使主(あちのおみ)を祖とする有力氏族で,後漢の霊帝の後裔というが,朝鮮半島系とみる説もある。大和国高市郡檜前(ひのくま)を本拠に,新たに渡来した技術者(漢人(あやひと))や部民(漢部(あやべ))などを統率する地位を得て発展。7世紀頃までに書(ふみ)(文)・坂上(さかのうえ)・民などの枝氏に分裂。姓ははじめ直(あたい)。枝氏も一括して682年(天武11)に連(むらじ),ついで685年に忌寸(いみき)に改姓。西(河内)漢氏は中国系という渡来系氏族。大和国を本拠とした東漢氏に対し,河内地方を本拠に同地の漢人・漢部らを統率したか。東漢氏にくらべ氏勢はあまりふるわない。はじめ直,683年に連,685年に忌寸に改姓。
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古代において活躍した渡来人の豪族。応神(おうじん)朝に帰化したと伝える中国、後漢(ごかん)霊帝の曽孫(そうそん)、阿知使主(あちのおみ)の後裔(こうえい)と伝えられる。初め大和(やまと)の檜隈野(ひのくまの)(奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村)に居住し、雄略(ゆうりゃく)天皇16年に漢部(あやべ)を集めて、その伴造(とものみやつこ)になり直(あたい)の姓(かばね)を賜ったという。東漢(やまとのあや)氏と西漢(かわちのあや)氏があるが、東漢氏は多数の氏に分かれて発展し、財力と武力を得て秦(はた)氏と並ぶ帰化系の有力豪族となった。これに対して西漢氏は、あまり振るわなかった。
[志田諄一]
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…また,加羅諸国には異形土器が発達し,鴨形,舟形,車形,家形などの各種の象形土器があり,とくに高床家屋をあらわす家形土器は,この地方の基層文化が南方アジアにつながることを示している。この時期の加羅諸国の新文物・新知識を持って,日本に渡航する人々が多かったが,出身地を安羅とする漢氏(あやうじ)と,金海加羅を出身地とする秦氏(はたうじ)とが,大和朝廷と関係をもったため,その代表的氏族とみなされた。
[6世紀]
5世紀末から武力をともなった百済の勢力が,加羅諸国に侵入してきた。…
※「漢氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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