甲府(読み)コウフ

デジタル大辞泉 「甲府」の意味・読み・例文・類語

こうふ〔カフフ〕【甲府】

山梨県中央部の市。県庁所在地戦国時代武田信玄の城下町として発達、また甲州街道最大の宿場町として栄え、のち江戸幕府の直轄領となった。昭和初期までは養蚕・製糸で知られた。ワイン・水晶細工などを産する。平成18年(2006)3月、中道町・上九一色かみくいしき村北部を編入。人口19.9万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「甲府」の意味・読み・例文・類語

こうふカフフ【甲府】

  1. ( 古代、甲斐国の国府が置かれたところから ) 山梨県中央部の地名。県庁所在地。甲府盆地に位置し、戦国時代には武田氏三代の居城があり、江戸時代には浅野・柳沢氏の城下町。のち幕府の直轄領。甲州街道最大の宿場町、市場町として繁栄した。現在は中央本線が通じ、身延線が分かれる。伝統的な水晶工芸から発展した貴金属工業、ワイン製造などが行なわれる。明治二二年(一八八九)市制。

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日本歴史地名大系 「甲府」の解説

甲府
こうふ

甲斐武田氏の本拠地としてあい川扇状地の開析部から扇端部に及ぶ緩傾斜面に建設された戦国時代の城下町。東国でも有数の規模を誇り、城下町域は躑躅が崎つつじがさき館の造られた現古府中こふちゆう町周辺から現JR中央本線付近までの東西約一・一キロ、南北約三キロに及ぶ。北・東・西の三方に山を背負い、扇状地の外縁を相川・ふじ川の両河川が比較的深い浸食谷を形成する要害の地で、南端にも一条小いちじようこ(現甲府城跡)が立地するなど、戦国時代にふさわしい天然の要害にあった。「高白斎記」永正一七年(一五二〇)三月一八日条には甲府の地名が早くも登場するが、「勝山記」同一六年条に「甲州府中」、「一蓮寺過去帳」大永三年(一五二三)五月一四日供養の東一房に「府中蔵」、島根県大田おおだみなみ八幡宮所蔵の同七年銘六十六部聖奉納経筒の銘に「甲州府中」と記されるように、当初は府中の呼称が一般的であったものと推定される。甲府の地名の確実な用例は、天文一〇年(一五四一)九月二三日の今川義元書状(堀江家文書)が今まで知られるなかでは最も古く、同状の宛先に「甲府江参」とある。「勝山記」の記載などでわかるように、甲府は甲州(甲斐)の府中を意味する。

武田信虎がそれまでの甲斐国の中心であった石和いさわ周辺の川田かわだ館を引払い、相川扇状地の躑躅が崎に新たに居館を造営し本拠を移したのは永正一六年で、「高白斎記」同年八月条に「同月十五日新府中御鍬立テ初ム。同十六日信虎公御見分。同十二月廿日庚申信虎公府中江御屋移リ」と記録される。「勝山記」同年条には「甲州府中ニ一国大人様ヲ集リ居給候」とみえることから、居館の移転に伴い有力国人層の館周辺への移転が断行され、城下町甲府の建設が並行して進められたことがわかる。本拠地移転の背景については、従来、笛吹川に近い川田の地が水害常襲地帯である点が指摘されてきたが、現在ではより大きな経済圏の掌握、政治的基盤確立のための政治的都市形成といった意図が強調されている。移転直後の永正一七年五月には府中への移転を嫌った栗原氏・大井氏・逸見氏など有力国人層の反抗があり、甲府退去も実行されるが(勝山記)、こうした抗争を克服した信虎により甲斐国の一円支配が確立することになる。館と城下町の防備も着々と整備され、同年六月の積翠寺せきすいじ(現上積翠寺町)丸山まるやまへの要害ようがい城建設を手始めに、大永三年には城下町の西側出入口を眼下ににらむしま山に支城(湯村山城)が設けられるなど(高白斎記)、相川扇状地の起伏に富んだ山々には二〇ヵ所もの城砦が設置された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「甲府」の意味・わかりやすい解説

甲府(市)
こうふ

山梨県、甲府盆地のほぼ中央部にある県庁所在地。1889年(明治22)市制施行。1937年(昭和12)里垣(さとがき)、相川(あいかわ)、国母(こくぼ)、貢川(くがわ)の4村、1942年千塚(ちづか)、大宮の2村、1949年池田村、1954年山城(やましろ)、住吉、朝井、玉諸(たまもろ)、甲運(こううん)、千代田、能泉(のうせん)、大鎌田(おおかまだ)、二川(ふたがわ)、宮本の10村を編入。そのため西山梨郡が消失し、北境は金峰山(きんぷさん)頂に達して長野県に接することとなった。2000年(平成12)特例市、2019年中核市に移行。2006年に東八代(ひがしやつしろ)郡中道町(なかみちまち)と西八代郡上九一色村(かみくいしきむら)の一部を編入。JR中央本線の甲府駅の南北に市街が展開し、中心部の標高263メートル。1951年富士吉田市の誕生までは県内唯一の市として、行政をはじめあらゆる面で県の中心であり、新市増加の現在でもその役割は変わっていない。JR中央本線が通じ、JR身延線(みのぶせん)を分岐するほか、バス路線が集中している。国道は20号、52号、140号、358号、411号などが走り、中央自動車道の甲府南インターチェンジがある。面積212.47平方キロメートル、人口18万9591(2020)。

横田忠夫

歴史

集落形成の歴史は古く『和名抄(わみょうしょう)』にもみえる巨摩(こま)郡青沼郷、山梨郡表門(うわと)郷、八代郡白井郷に比定されるが、都市としての発生は、1519年(永正16)武田信玄(しんげん)の父武田信虎(のぶとら)が居館を、石和(いさわ)から、水害を避けて相川扇状地の上部、現在の市の北郊古府中(こふちゅう)にあたる躑躅ヶ崎(つつじがさき)に移してからに始まる。以降、信玄、勝頼(かつより)と3代63年間武田氏の拠点として栄えたが、武田氏滅亡後、城は現在の甲府城(舞鶴城(まいづるじょう))跡(甲府駅の南側)の場所に移され、浅野長政(ながまさ)が城主であった1594年(文禄3)に完成する。その後、柳沢吉保(よしやす)が城主のとき(1704~1724)市街地の整備が行われ、五街道の一つである甲州街道筋の城下町としての基礎がつくられ、それ以降江戸時代を通して幕府直轄領としての甲州の中心地として栄えた。江戸時代の町並みは甲府城の南から南東に広がっていたが、町の中心は、東の酒折(さかおり)のほうから西に延びていた甲州街道の終点にあたっていた八日町(のちに柳町に移る)で、その付近には本陣や多くの旅籠(はたご)が集まっており、周辺には魚町、工(たくみ)町、鍛冶(かじ)町などの城下町特有の町場が形成されていた。1871年(明治4)山梨県の県庁所在地になると、県庁をはじめ多くの官公署や学校は城の南側の旧武家屋敷地区に設けられた。現在の官庁街がそれである。1903年(明治36)中央線の八王子―甲府間の開通、1909年に町の北郊旧相川村に歩兵第四九連隊が設けられてから、中央線甲府駅付近と連隊までの北部地区、それに南西部などに人家が増加し、1920年(大正9)の第1回国勢調査での市の人口は5万6207人に達していた。1945年(昭和20)には人口も12万人を超えていたが、その年の7月6日、第二次世界大戦によるアメリカ軍の空襲にあい町の70%を焼失してしまった。戦後の市街地の発展は西郊に著しく、とくに貢川地区や池田地区には、住宅団地の設立や、県立病院の移転などで著しい人口増加がみられており、また市の中心部はいわゆる人口のドーナツ現象によって人口の減少をみせている。2020年(令和2)の人口は約19万人であるが、実際には甲斐(かい)市、笛吹(ふえふき)市など周辺市町村にも甲府への通勤者の住宅が連続的に広がっているので、甲府市街圏は約30万の人口規模をもった都市とみることができる。

[横田忠夫]

産業

かつては中部養蚕地帯の一中核として盆地とその周辺の繭(まゆ)を集め、昭和初期まで横浜市場で甲府生糸の声価を高めた製糸が最大のものであったが、今はほとんど消滅した。市の産業構成を見ると、卸・小売業人口がもっとも多く、次いでサービス業、製造業の順となっており、甲府盆地の商業中心地的性格が強い。

 工業は、特徴的な伝統産業である研磨・宝飾業をはじめ、食料品製造業・繊維製品製造業などの内陸型工業中心に、電気・精密・金属加工などが順次増え、国母工業団地や甲府南部工業団地の一部への企業誘致などを経て段階的に成長してきた。しかし、既存の生産型企業の大半は個人経営であり、実質的には小規模企業群で構成されている。これらの企業の多くは家内企業として住宅や商店街と混在している状況で、従業員数300人を超える大工場はまだ少ない。産業構造の変化により、市内の事業所数、従業員数および製造品出荷額は減少傾向にあるが、高速交通体系の整備が計画段階として存在し、交通利便性を向上させ、首都圏における交通の結節点として産業の発展を目ざしている。また、市は「甲府地域高度技術産業集積計画」の母都市として位置づけられており、中小企業人材開発センター、山梨県工業技術センター、産業展示交流館などを含む産業支援施設サイエンスパークが整備された。このほかに、市街周辺の市域では近郊野菜栽培、果樹栽培も盛んで、ワイン製造も行われている。名産品に水晶、甲州印伝(いんでん)、アワビの煮貝、信玄餅(もち)、名菓「月の雫(しずく)」などがある。

[横田忠夫]

観光・文化

武田信玄ゆかりの武田氏館跡(たけだしやかたあと)(躑躅ヶ崎館跡)は国指定史跡で、現在武田神社がある。また信玄ゆかりの善光寺(ぜんこうじ)(甲斐善光寺)には国指定重要文化財(本堂、山門、阿弥陀如来(あみだにょらい)像など)が多く、東光寺仏殿、塩沢寺地蔵堂(えんたくじじぞうどう)も重要文化財である。また、甲府城跡は舞鶴城公園となりサクラの名所。そのほか市街に隣接する湯村温泉や北郊の積翠寺(せきすいじ)温泉があり、北部の甲斐市との境には渓谷美で名高い御嶽昇仙峡(みたけしょうせんきょう)(「御岳昇仙峡」、単に「昇仙峡」とも。特別名勝)、近くの金桜(かなざくら)神社、板敷(いたじき)渓谷も名高い。また、文化施設には、山梨県立美術館、山梨県立文学館などがある。繁華街は駅の南東、官庁街に続く地区で、デパート、大手スーパーマーケットを中心に多くの専門店や飲食店が建ち並んでいる。観光行事としては、4月初旬に行われる信玄公祭りがある。

[横田忠夫]

『『甲府市制六十周年誌』(1949・甲府市)』『横山豊編『甲府の今昔』(1957・山梨出版社)』『『甲府いまむかし』(1963・甲府市)』『『甲府市史――市制施行以後』(1964・甲府市)』『『甲府市の文化財』(1978・甲府市)』


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改訂新版 世界大百科事典 「甲府」の意味・わかりやすい解説

甲府[市] (こうふ)

山梨県中央部の市で県庁所在都市。2006年3月旧甲府市が中道(なかみち)町と,その南の上九一色(かみくいしき)村(北部)を編入して成立した。上九一色村の南部は分村して富士河口湖(ふじかわぐちこ)町へ編入された。人口19万8992(2010)。

甲府市南端部の旧村。旧西八代郡所属。人口1521(2005)。村名は中世の九一色郷にちなむ。南は静岡県に接する。北部は御坂山地が東西に走り,南部は富士山北麓にあたる。村域の大部分は山林で,かつては木炭生産が主体であったが,現在はシイタケ,ナメコの栽培に代わり,森林の開発・利用に力を入れている。第2次世界大戦後開拓された富士ヶ嶺地区では,大規模な牧場経営が行われ,乳用牛,肉用牛が放牧されている。近年は繊維や精密機械などの工場を中心に工業製品の出荷額が増加している。富士五湖の精進湖と本栖湖があり,その周辺に広がる青木ヶ原樹海や富士山の寄生火山である大室山,大規模な溶岩洞穴などの観光資源に恵まれ,1973年には甲府精進湖有料道路(94年無料開放)が開通した。永泰寺(古関)の釈迦如来像は県指定文化財。1989年以来オウム真理教の教団施設が置かれていたが,一連の事件により96年宗教法人としては解散が決まり,11月に村から完全に退去した。跡地には97年7月レジャー施設〈ガリバー王国〉が開園したが2001年閉園。
執筆者:

甲府市中北部の旧市。県庁所在地で甲府盆地のほぼ中央に位置する。1889年市制。人口19万4244(2005)。1519年(永正16)武田信虎が居館を置いたのに始まり,江戸時代は天領もしくは親藩,譜代の城下町として,また甲州道中の宿場町としても栄えた。明治になると追手門前御役所跡に山梨県庁が置かれたのをはじめ,城の南に隣接する旧武家屋敷跡に官公署や学校が設けられた。1903年国鉄(現JR)中央本線甲府駅の開業,09年歩兵49連隊の設置によって市街地は西部から北西部へと発展したが,45年7月6日アメリカ軍の空襲をうけ町の7割が焼失した。戦後は周辺町村を合併,人口増加も著しい。82年中央自動車道が全線開通。甲府盆地全域を商圏とする商業中心地で,市の産業別人口の約3割を卸小売業が占める。工業は水晶加工から発展した貴金属工業や,製糸業から転換したニット・縫製工業,ブドウ酒醸造などがあるが,中小規模の伝統的地場産業が中心であった。しかし,近年は電子,機械などの工場も増加し,郊外には工業団地も多く,電気機器工業が市の製造品出荷額(1995)の37%,機械が11%を占めている。武田氏館(躑躅崎(つつじがさき)館)跡(史),信玄をまつる武田神社,舞鶴城跡昇仙峡などの名所,景勝地がある。信玄の隠し湯として知られる湯村温泉(純食塩泉,42~52℃),積翠寺(せきすいじ)温泉(酸性緑バン泉,15~18℃)のほか,市街地にも数ヵ所温泉がある。甲府駅でJR身延線を分岐する。
執筆者:

甲斐国の城下町。甲府は甲斐府中の略称で,そのおこりは1519年武田信虎が石和(いさわ)から館を旧甲府市の北辺にあたる躑躅ヶ崎に移したことにあり,以後信玄,勝頼まで3代の領国経営の本拠となった。ここは平坦地の石和と異なり,相川扇状地の開口部で北と東西の三面に山を負い,南に甲府盆地が展開する要衝の地形をなしていた。居館を北限に,南方に将士の邸宅や社寺を配置し,商工業者を誘致して城下町を建設した。近世に古府中(上府中)と呼ばれた地域がこれにあたり,将士の宅址が町名となった横田町,穴山町のほか,元三日町,元連雀町のように〈元〉の字のつく町名は城下の町並みのあった所である。

 1582年(天正10)武田氏滅亡後,織田信長の支配を経て徳川家康の領地になると,その南方,一条小山の地に甲府城(舞鶴城)の築城工事がはじめられ,家康の関東移封後は豊臣秀吉の勢力下に置かれて羽柴秀勝のあと,加藤光泰が工事を受けつぎ,次いで甲斐国22万5000石のうちに21万5000石の知行高をもって94年(文禄3)入国した浅野長政・幸長父子によって城郭を完成し,新城下の建設も進められた。これが新府中(下府中)で旧城下からの民戸の移転も進んだ。その後,徳川義直,忠長,綱重・綱豊父子(甲府家)と親藩を城主とし,また幕府直轄領の城番時代もあったが,この間寛永年中(1624-44)甲州道中の柳町宿が設立され,農村部からの商工業者の集住によって漸次戸口を増し,町方人口を示す最も古い記録では1670年(寛文10)1万2772人である。その後,1704年(宝永1)山梨,八代,巨摩3郡に15万石を受封した柳沢吉保から吉里の父子2代にわたる領有の時期に甲府は繁栄し,城下の面目を一新したという。人口も元禄・宝永期(1688-1711)に1万4000人台を記録している。町政は江戸初期以来2名の町奉行の下で,検断(2~3人)と各町の長人(としより)がこれにあたったが,甲府家初政の寛文初年に検断の称を改めて町年寄(3~4人)とした。1724年(享保9)甲斐国が一円天領化されて幕領都市となった甲府は甲府勤番支配が設置され,従来の町奉行にかわり町方役所が支配し,町年寄は坂田,山本の2家が世襲することとなって,各町名主を差配し1872年(明治5)に及んだ。町数は前期以来上府中26町,下府中23町に変化はなかったが,戸口は圧倒的に下府中に集中した。商業街は下府中のうちの柳,八日,三日,竪近習(たつきんじゆ),上下連雀,魚(うお)の各町が繁華で,職人町として上府中に新紺屋,細工,大工,畳の各町,下府中に工,鍛冶,桶屋の各町の役引7町があった。江戸中ごろからタバコ,木綿,紙,茶ほか周辺農村の特産物の取引も盛んになるが,幕末開港後は生糸生産の発展が目だった。1875-76年郭内に新市街地が形成されたことによって総町59町となり,山梨県の政治・経済の中心都市となったが,その後市中物産の第一は生糸であった。89年市制施行時の人口は3万1128人である。
執筆者:

甲府市南部の旧町。旧東八代郡所属。人口5505(2005)。町域は笛吹川左岸の低地および南の曾根丘陵,御坂山地からなる。町名はかつて中道(石和と駿河を結ぶ右左口(うばぐち)街道の別称)が通っていたことに由来する。北部の低地は水田に,南部の丘陵地はかつては桑園であったが,近年は桃,ブドウを主とする果樹園に利用されている。町内には銚子塚古墳(史)をはじめ多くの遺跡がある。米倉山(381m)を中心に〈風土記の丘〉が建設されている。中央自動車道甲府南インターチェンジに近く,甲府精進湖有料道路(1994年無料開放)が通じる。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「甲府」の意味・わかりやすい解説

甲府[市]【こうふ】

山梨県中部の市。1889年市制。県庁所在地。中心市街は甲府盆地のほぼ中央にあり,古く甲斐国府が置かれ府中と呼ばれた。1519年武田信虎の館築造後武田氏の拠点となり,江戸期に入り柳沢吉保が城下町を整備,甲州道中の宿場町,商人町としても発展,甲州生糸,印伝を特産した。国道20号線,中央本線が通じ身延線が分岐する。1982年中央自動車道が通じて高速交通の便がよくなったため伝統ある水晶細工から発展した貴金属・ガラス研磨工業のほか電気機器・化学・精密機械工業も進出,製造品出荷額で3160億円(2003)を上げ,県の出荷額の約14%を占めている。農村部では近郊野菜・ブドウ栽培,ブドウ酒醸造が盛ん。武田信玄をまつる武田神社,武田氏館跡(史跡),湯村温泉・甲府温泉・積翠寺温泉があり,長野県境に続く北部山地は秩父多摩甲斐国立公園に属し,昇仙峡(特別名勝)がある。2006年3月東八代郡中道町,西八代郡上九一色村北部を編入。東日本大震災で,市内において被害が発生。212.47km2。19万8992人(2010)。
→関連項目敷島[町]田富[町]躑躅崎館山梨[県]山梨[市]山梨大学谷村

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旺文社日本史事典 三訂版 「甲府」の解説

甲府
こうふ

山梨県,甲府盆地の中央にある県庁所在地。近世以来の城下町
戦国大名武田信虎・信玄の城下町として繁栄。江戸時代,のちの将軍家宣のような徳川家一族・重臣を配し,江戸西口の固め,甲州金山支配の地として重視された。江戸からは甲州道中で結ばれ,1724年には警備・訴訟担当の甲府勤番が設けられた。1889年市制を施行。

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